死向会 - エルミッテルの死をきっかけに起こった、エルミッテル教衆の会議 -
架空世界の百科事典記事をイメージした、世界内文献です。
7/15 「◇エルミッテル学会の成立◇」を追加、それに伴う文章の整合性の調整
◇概要◇
死向会(しこうかい、譚:Olpeusu Navāla Cestīla, 黎暦119年 - 黎暦121年)は、エルミッテルの死後に、エルミッテル教衆の方針を決めるために、ルヴォワールで開かれた評議会。
主に、エルミッテル教衆の中で有力であったフィクサー・ミネルヴァ、ジャンロック・プリソフィスト、フェネクス・ロザベルの3名が主催となって、進められた。
◇転換点◇
当初の死向会において、主な思想の対立は起こっておらず、エルミッテルの死を受け入れる会のような体裁だった。
しかし、そこでフェネクスが「エルミッテルは生きている」と主張したことで、会議は半ば混乱に陥ったため、死向会は次回は持ち越される運びとなる。
その後の会においても、フェネクスは主張を曲げず、史料や幻術の観点からエルミッテルの死が不確かなものである、と説明した。
彼の主張を否定する者が大半であったが、主張に賛同する者たちも少なくなかった。
しかし、その主張は当時のエルミッテル教衆にとっては受け入れ難いものであり、最終的にフェネクスらは死向会の名簿から除名される。
しばらくして、フェネクスは20数名の同志を連れて、アヴァール森林に失踪。
数日後、森の痕跡が途絶えたことと、魔物の活性化という観点から、フェネクス一同は死んだものとされた。
その後、フェネクスの死を受けて、フィクサーとジャンロックの対立が激化することとなる。
◇ 即知派と理知派 ◇
フィクサーは「無知は権利である」と主張した。
「知らぬこともまた権利である。」
「知らないことを見過ごすこと、それもまた選択の一つであり、強制されるべきものではない。」
───『死向会の赴き』
ジャンロックは「無知は罪である」と主張した。
「知らぬことは罪である、知らないことを自覚しているのなら、それを見逃すこと自体に責任が生じる。」
「“責任があるから、それを取るべきだ”とは言わないが、その無知に居座る態度はあまりに偉大すぎやしないのか。」
───『死向会の赴き』
繰り返される話し合いを経て、ジャンロックが一方的に憤起する形となり、50数名を連れて死向会を後にした。
この時、感極まったジャンロックは憤慨してフィクサーに掴み掛かったとも言われる。
ジャンロック一同の旅路や彼の生き様は、のちのジャンロック学派の基となった。
その知に対する態度から、即知派とも呼ばれている。
残りの死向会の参加者、もといエルミッテル教衆は、フィクサーにつき、死向会として本格的に活動していくこととなった。
この頃から、理知派という名称が定着していった。
◇ 知華派 ◇
しばらくして、フィクサーの思想に対して異を唱えるものが死向会の中で現れた。
セザリオ・カルニである。
彼は、知らぬことを軸にするのではなく、“知ること”そのものを正しく評価すべきだと主張した。
フィクサー含めて、彼の主張に理解を示すものも居たが、完全な分派になることや、理念の解体が行われることはしばらく無かった。
その後、セザリオは一人で各地を旅し、知とはなんたるかを広めていった。
最後には、50人ほどの一つの教衆を築き、その後のセザリオ学派の礎となる。
◇ 孟浪派 ◇
現在、フェネクスの思想(あるいはその断片)は残っており、各地に点在しているが特定の集団に属することは少ない。
他学派には「一番の変わり者」と揶揄されており、学者を小馬鹿にするようなジョークではフェネクスの名前が用いられることもある。
彼らは、不自然な失踪を遂げる傾向にあり、最後に目撃された場所には、大抵「フェネクスを探せ」と言ったフレーズが残されている。
そのことから、孟浪派とも言われる。
◇ 著者の見解:フェネクスの正当性 ◇
エルミッテルの死に関する文献は多くない。
殆どの文献が彼女が死んだ前提で始まっており、彼女の墓も存在しないからである。
例えば、ルヴォワール教会の葬儀記録に、エルミッテルの名前は記されていないのにも関わらず、その街の住人と近辺の村々の殆どが、エルミッテルの死を知っていたと言う。
これらはエルミッテルの死を確定付けるものにはなり得ない、とフェネクス学派は主張している。
後世においても、フェネクスを完全には否定できない要因として、フェネクスがエルミッテルの教衆にて三番目の追導者であり、エルミッテルから直々に幻術を学んでいた専門家である点も大きい。
もちろん、これはフェネクスの正当性を保証するわけではない。
それでも、フェネクスという男の主張のブレなさや、その不自然な失踪には、確かに否定のしきれない気持ち悪さが存在する。
◇死向会の結末◇
会議の最終的な意向は、教衆の解散となった。
それに至るまで2年かかり、120回以上の会議が行われたとされる。(諸説あり)
最後の死向会は創立総会とも言われ、それを機に現在のエルミッテル学会が正式に発足した。
厳密には、この最後の会は死向会とは言えず、主催者がいずれもフィクサーで、議題が地続きであることから、便宜上「最後の死向会」と呼ばれている。
◇エルミッテル学会の成立◇
フィクサー、ジャンロック、セザリオらの主張には相容れない部分が多かった。
しかし「エルミッテルの思想を継ぐこと」そして「知を求めること」という点では一致していた。
彼らの死後、それぞれの流れを汲む魔術師や哲学家らは、フィクサーの教衆を中心として「エルミッテル学会」を設立した。
現在でも学派間の思想的対立は残るものの、学会という枠組み自体は維持されており、冒険者協会に次ぐ規模となっている。
◇参考文献◇
アヴァリス・ドグマストレイ『魔女会』出版元不明、540年
アゼランス『知の魔女』ターザ書房、531年
フェンダルク・シッサ『フォルテンバース』エルミッテル学会、531年
エルミッテル学会『新版 エルミッテル教衆』エルミッテル学会、526年
エルミッテル学会『エルミッテル教衆』エルミッテル学会、471年
ノーマン・エルフ・シャーレス『磔のノルド』ミネルヴァ書房、401年
カクマトリコ・アザール著『魔術革命の終わりをめぐって』ミネルヴァ書房、423年
ソクラ・テッサ『不知の知見』ミゼレーレの行列、203年
テルミサエル著『アヴァールの女』バルカロール堂、125年
フィクサー・ミネルヴァ著『偉大なる魔導士』エルミッテル学会、147年
フィクサー・ミネルヴァ著『知の責任』エルミッテル学会、145年
フィクサー・ミネルヴァ著『エルミッテル学会』エルミッテル学会、126年
ルイ・アルツ著『死向会の赴き』ドウェルフ工房、127年
ルイ・アルツ著『知らなかったこと、知るべきこと』出版元不明
セザリオ・カルニ『己の道を行け』セザリオ研究会、153年
セザリオ・カルニ『神なる知恵』セザリオ研究会、156年
デヴィタリオ・カルニ『災禍の花』セザリオ研究会、191年
Wikiのような形式でまとめた為、情報量で殴る形になってしまいました。
なんだかこれを「作品」と言い張るのも烏滸がましいと思いますが、私の構築している世界観が少しでも伝われば良いなと思っています。
疑問等も等も、コメントにて質問していただければ「脚注のひとつ」という体裁で回答しようと思っています。
その他、不備の指摘から私に向けた誹謗中傷までお待ちしております。
それでは。




