第6話(ジョセフ視点)
嵐?
僕は、うなだれていた首を持ち上げ、空を見る。
本当だ。
少し前までは晴れていたのに、真っ暗な曇天になっている。
ずっと俯いていたので、全然気がつかなかった。
遠くから、雷の音も響いてくる。
確かに、このまま歩いていたら、酷い嵐に巻き込まれてしまうだろう。
……しかし、それがどうした。
僕の心は、すでにズタズタのずぶ濡れだ。
雨に打たれるくらい、大したことじゃない。
僕は、何も答えずに歩き出した。
青年は、虚ろな瞳で一言も発しない僕を心配したのか、さらに声をかけてくる。
「あの、大丈夫ですか? もしよろしければ、あなたの目的地まで、馬車でお送りしますが。……フェリシティア、少し遠回りになってしまうかもしれないが、許してくれるかい?」
なんだって?
フェリシティア?
僕は張り付いたように足を止め、背を伸ばし、馬車の小窓の奥を覗き込んだ。
なんと青年の横には、あのフェリシティアが座っている。別れから一年がたち、その美貌はますます磨かれ、輝くばかりだ。光の加減で、フェリシティアからは僕の顔が見えないのだろう。彼女は優しく青年に微笑み、言う。
「もちろんよ、リカルド。濡れてしまったら大変だわ。すぐに、馬車に入れて差し上げて」
……なるほど。この青年が、今のフェリシティアの婚約者、リカルドか。とても凛々しく、そして、美しい顔をしている。彼の青い瞳からは、利発さと共に、清らかな心根と、誠実さを感じる。
地方領主の息子という素晴らしい家柄であり、彼自身も、王宮に勤める有能な若者だ。……僕なんかとは、男としての格が違うな。
ふふっ。
ふふふっ。
僕は、小さく笑った。
自嘲気味で、寂しい笑いだった。
しかし、なんだかスッキリした気分でもあった。
これほどの男が相手なら、すっぱりとフェリシティアを諦めることができる。
僕はリカルドに微笑し、軽く手を振った。
「ご親切にどうも、ですが、おかまいなく。目的地は、すぐ近くですから」
そして、最後に「お幸せに」と言い、駆けだした。これ以上、リカルドとフェリシティアが仲睦まじく座っているのを見ていると、また、泣いてしまいそうだったからだ。
走っているうちに、やがて、雨が降ってきた。
雨はあっという間に勢いを増し、凄まじい嵐となる。
風が僕の体を押し、雨粒は弾丸のように顔を叩く。
嵐の轟音の中、僕は叫んだ。
意味のある言葉は、一つもない。
ただひたすらに、心の中に溜まっていたフェリシティアへの想いを吐き出し続けた。吐き出して吐き出して吐き出して、明日から、すべてを忘れて、新しい人生を生きて行こうと、そう思ったのだ。
……その嵐の日から二年がたち、今では僕も、すっかり炭鉱夫が板についた。
さあ、うちに帰ろう。
鉱山労働は、毎日が戦争だ。
明日も忙しくなる。しっかり食事をして、よく眠らないとな。
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「うわ、今日もまた、酷い顔ね。せめて、汚れくらい洗い落として帰って来なさいよ、みっともない」
家に帰った僕を見て、パメラは眉を顰め、そう言った。
……パメラは今、僕、そして、僕の母上と一緒に、この家に住んでいる。断っておくが、僕は彼女と結婚しているわけではない。分かりやすい言い方をするなら、パメラは居候である。
パメラの家には借金があり、二年前にとうとう、どんなに頑張ってもお金のやりくりができなくなり、財産のすべてを差し押さえられてしまったのだ。パメラの父と母は、パメラを置いて失踪した。……それで、頼る相手が誰もいなくなったパメラは、うちに転がり込んだというわけである。
僕は、パメラの言葉に、何も言葉を返さなかった。
前から図々しい女ではあったが、それでも今よりは、ずっと可愛げがあった。だが、最近のパメラの増長ぶりは、とどまるところを知らず、言うことも、やることも、毒々しいまでの傲慢さと悪意で満ち溢れている。……労働で疲れきった今の僕には、こんな奴の相手をする気力は残っていなかった。
母上が、ゆっくりとこちらにやって来て、濡れタオルを手渡してくれる。
これで、顔を拭けと言うことだろう。
「ありがとう、母上」
僕はタオルを受け取り、汚れた顔をゴシゴシと拭う。
ひんやりとした感触が、とても心地よい。
そんな僕の耳に、母上の呪いの言葉が響いてくる。
「ジョセフや……あの寄生虫……いつまでここに住まわせておくつもりだい……」
まるで、地獄の底から溢れ出たかのような、低い声だった。
……『あの寄生虫』とは、パメラのことだ。
まだ僕たちが貴族だった時代から、母上は、パメラのことがあまり好きではなかった。
それでも、昔は母上の心にも余裕があったし、我が家には、パメラを無下にはできない『ある事情』があったので、ずっとパメラのことを許してきた。しかし今の母上には、以前のようなおおらかさはない。その瞳には、パメラに対する強烈な憎しみを感じる。このままでは近いうちに、ひと悶着起きてしまうだろう。
……ここで、パメラを無下にはできない『ある事情』について、語っておこう。
パメラの家は、元々はうちと同じ、最下級の貴族だった。
この国の貴族で最も多いのは、中級の貴族。次に多いのが、上級の貴族。……平民すれすれの最下級貴族は数が少ないので、自然とパメラの家と僕の家は親密になり、家族ぐるみの付き合いをしていた。僕とパメラの関係は、その頃から始まったのだ。




