第4話
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早いもので、ジョセフとの婚約を破棄したあの日から、三年が経過した。
私は一年ほど前に結婚し、今は実家を出て、夫のお屋敷で暮らしている。
夫の名はリカルド。地方領主の長男で、現在は王宮で働いているが、いずれは父親の跡を継ぎ、この辺り一帯の領主となる立場だ。
……王宮に勤めるということは、傍から見ていると華麗に見えるが、実際は気苦労が多い上に、王様や国の重鎮たちから急な呼び出しを受けることも多々あって、大変な仕事である。
しかしリカルドは、私に対し、一度だって弱音や愚痴を漏らすことはなく、どんなに忙しい時でも、私を第一に考え、なんとかして二人の時間を作ってくれる。その誠実すぎる態度は、逆にこちらが申し訳ないと思ってしまうほどだ。
頼もしく、利発で、愛情深いリカルド。
あのジョセフとは、まるで正反対だ。リカルドのような素晴らしい男性の妻になることができた幸運を、私は神に感謝した。……そして、その『幸運』を呼び込んだのは、三年前の『婚約破棄の決断』である。
実は、リカルドと私は、遠い遠い親戚関係にあり、子供時代に何度か会ったことがあった。……私は知らなかったのだが、リカルドはその当時から、私に好意を持っていてくれたらしい。だが、私がジョセフと婚約したことで、誠実な彼は私の幸せを願い、潔く身を引いていたのだそうだ。
しかし、私とジョセフの婚約関係が解消されたのを知って、リカルドは積極的に、私に会いに来るようになった。……正直言って、ジョセフとの一件で、少しだけ男性不信気味になっていた私は、当初、やたらとうちに来るリカルドのことを、『いったい何が目的なのかしら』と訝しんでいた。
だけど、四度、五度、六度と、会う回数が増えるたびに、私はリカルドの、裏表のない誠実な性格に惹かれ、かたくなだった心も、少しずつ解きほぐれていった。一年ほどの付き合いを経て、私たちは婚約し、それからさらに一年たった頃、正式に結婚したのである。
そして今。
私のお腹には、彼との子供が宿っている。
夕暮れ時。
窓から、お屋敷の広大な庭園を眺めながら、少しずつ大きくなり始めたお腹を、そっと撫でる。そろそろ、リカルドが帰ってくる時刻だ。
お腹の中の子と共に、愛する夫の帰宅を待つ、静かな時間。
なんて穏やかで、幸福な時間だろう。
……もしも三年前に、ジョセフとの婚約を破棄していなかったとしたら、私は今のように、平穏で幸せな時間を持つことができただろうか?
わからない。
しかし今のように、リカルドと結婚することは、なかったと思う。
何故なら三年前の時点で、地方領主の息子であるリカルドには、あちこちから縁談がきていたからだ。あのタイミングでジョセフとの婚約を破棄していなければ、リカルドは他の誰かと婚約を結び、今頃、私ではない誰かが、この椅子に座って、大きなおなかを撫でていたかもしれない。
そう思うと、恐ろしさに背筋が震え、今の幸福が、信じられないような奇跡の産物に思えてくる。……返す返すも、あの時、ジョセフとの婚約破棄を決断してよかった。
ジョセフに対し、中途半端な情けをかけ、『あと一ヶ月経てば、ジョセフは変わるかもしれない』『いやいや、さらにもう二ヶ月待てば、ジョセフは変わるかもしれない』と悩んでいたら、その間に、リカルドは他の女性を選び、私とリカルドの運命は、生涯交錯することはなかった可能性が高い。……人と人との縁は、いつだって紙一重だから。
あっ。
聞こえる。
遠くから、馬車の音が。
これは、リカルドの乗った馬車だ。
彼が、帰って来たのね。
私は、立ち上がった。
玄関で、彼を迎えてあげたいからだ。
誰よりも私を気遣ってくれる彼のことだ。『身重の体で、無理をしなくていいんだよ』と言ってくれることは、分かりきっている。それでも彼の妻として、帰宅と同時に、『おかえりなさい、リカルド。今日も一日、お疲れ様』と言ってあげたい。
だって、リカルドが私を何よりも優先してくれるように、私もまた、彼を誰よりも愛しているのだから。お互いに、お互いを想い合う――これが、愛し合うということなのだろう。それは、ジョセフとの間には、一度もなかったことだった。
玄関を目指して廊下を歩きながら、私は一人、思う。
人と人との縁には、二種類ある。
幸福を招く『良縁』と、ひたすらに思い悩むだけの『悪縁』だ。
恐らく、悪縁に縛られている限り、良縁を手にすることはできない。だから人生の中で、時には冷徹な決断をして、悪縁は捨て去らなければならないのだ。
三年前、ジョセフとの悪縁を断ち切る決断ができたのは、ある意味では、彼の幼馴染――パメラのおかげだと言ってもいいかもしれない。彼女がいたことで、ジョセフの不誠実さが良く分かったから、私は彼とはもうやっていけないと判断したんだものね。
あの二人、随分と仲良しだったけど、今でも楽しくやってるのかしら?
昔は、ジョセフとパメラのことなんて考えたくもなかったけど、今現在、最高の幸せに包まれているせいもあり、心に余裕のある私は、なんとなく二人のことを思い出す。
私との婚約関係がなくなったことで、それまでお父様が援助していたお金も返還しなければならなくなり、最下級貴族であったジョセフの家は、国庫に貴族として最低限納めなければならない税金を納められなくなってしまい、現在は平民になっているはずだ。
それはきっと、大変なことだったに違いないが、ジョセフは若いし体力もあるので、一生懸命働けば、まあ、貴族並みとまではいかなくても、ちゃんとした暮らしをすることはできると思う。少なくとも、衣食住に困ることはない。
案外今頃、平民であるパメラと結婚して、幸せに暮らしているのかもしれない。だって二人は、あんなに仲が良かったんだもの。今となっては、あの二人には何の恨みもないわ。……さすがに、もう一度会いたいとは思わないけど。
そして私は、玄関に到着した。
いや、玄関――と言うより、エントランスホールと述べた方が適切だろう。私の実家の玄関も立派だったが、さすがは地方領主のお屋敷、スケールが少々違う。調度品の銅像を磨いていたメイドが、小走りにやってきた私を見て、慌てた声を上げる。
「まあまあ、フェリシティア様。お腹に赤ちゃんがいるのですから、走っては危ないですよ」
いたずらっ子をたしなめるように言われ、急に恥ずかしくなった私は、頬を染めて笑う。
「ごめんなさい。リカルドを一番に出迎えてあげたくて」
メイドも、私につられたように笑った。
「ふふ、それでは、玄関のドアを開けるのはわたくしにお任せください。よいしょ……っ!」
玄関のドアと言うより、『巨大な門』と形容した方がピッタリの立派なドアを、メイドは丸太のような腕で押し開いた。私は彼女にお礼を言い、外に出る。
そこでは今まさに、リカルドが馬車から降りるところだった。
ちなみに馬車の御者は、うちの実家でずっと働いていた、あの初老の御者だ。最近、うちの実家では馬車を出す機会がめっきり減ったので、現在はこちらに移り住み、仕事をしているのである。
彼の御者としての技術は確かなものであり、リカルドも、リカルドのお父様も、全面的に彼を信頼している。御者は私を見て、ニッコリと微笑んだ。いつも私を見守ってくれる、お爺ちゃんみたいな彼に、私もニッコリと笑顔を返す。
そして、馬車から降りたリカルドが、私に気がついた。
彼は端正な眉を心配そうに歪め、困ったような、それでいて嬉しそうな顔で、私に言う。
「ただいま、フェリシティア。私を迎えてくれるのはとても嬉しいけど、身重の体で、無理をしなくていいんだよ」
先程想像した通りのことを言われ、私は軽く吹き出してしまう。それから、私もまた、先程想像した通りの挨拶を、満面の笑みでリカルドに言うのだった。
「おかえりなさい、リカルド。今日も一日、お疲れ様」
リカルドも、私も、御者も、メイドも、皆が笑顔だった。
素晴らしく幸福で、楽しい毎日。
これからもずっと、こんな日々が続くに違いない。
次回からは、ジョセフの視点で物語が進行します。
もう貴族ではなくなった彼は、過酷な鉱山労働で身も心もボロボロになりながら、精神的に不安定な母親と、無駄飯食らいの居候――パメラを養っているのでした。




