第3話(ジョセフ視点)
ああああああ。
なんてことだ。
なんてことだ。
なんてことだ。
まさかフェリシティアが、僕との婚約を破棄するなんて。
本当にショックを受けると、人間の両足というものは、自分の体重を支えることすらできなくなるらしい。僕は路上であることも忘れ、頭を抱えながら、その場にへたり込んだ。
どうしよう。
どうしよう。
これからどうしよう。
想像もしていなかった状況に、口から魂が抜け出るかのようなため息が漏れた。
「はぁ……あぁ……ああああぁぁぁ……どうしよう……どうしよう……」
パメラが僕のそばにしゃがみ、そっと肩を抱きながら、言う。
「いいじゃない、あんなの。私、あの子のこと、ずっと嫌いだったのよね。図々しく私のお見舞いに来て、『体調が悪いなら、ちょっと私が診てあげる』とか言ってさ、失礼じゃないの。ちょっと医学をかじってるからって、生意気なのよ」
僕は、驚いた。
パメラが、嬉しそうに笑っていたからだ。
この野郎。
何をニヤニヤ笑っていやがるんだ。
大変なことになってしまったんだぞ? わかってるのか?
……フェリシティアの、今まで見たことのないような、あの冷徹な瞳。
もう何をしたところで、彼女は僕を許してはくれないだろう。
僕は、パメラを睨んだ。
ああああ。
ちくしょう。
こいつのせいだ。
こいつが、いつもいつも、やれ『頭が痛い』だの、やれ『咳が出る』だの、クソどうでもいいことで僕に頼るから、僕はフェリシティアを放っておくしかなかったんだ。
「どうしてくれるんだ……お前のせいだぞ……!」
僕は、憎々しげに呪詛を吐きながら、パメラの両肩を掴んだ。
彼女の肩には、病弱な女とは思えないほど、しっかり肉がついている。そりゃそうだろう。パメラの体が弱いだなんて、嘘っぱちだからな。僕の知る限り、パメラほど体力があり余っている、健康な女はいない。それが『病弱な少女』を気取ってるんだから、出来の悪い冗談にもほどがある。
……そうさ、知ってたさ。
パメラの病気が、全部仮病だってことをね。
でも僕は、パメラのワガママを、すべて受け入れた。
馬鹿馬鹿しい嘘を、少しも気づいてないふりをして、可愛がってやった。
よく言うだろう?
馬鹿な子ほど可愛いって。
あれ、本当だよ。
それに、健康くらいしか取り柄のない、馬鹿なパメラの相手をしてると、煩わしいこともあるけど、歪んだ優越感を満たすことができて、気分がいいんだ。反対に、賢いフェリシティアと話していると、自分が愚鈍であることを思い知らされて、情けなくて、情けなくて、たまらなくなる。
だから僕は、パメラの世話をすることを言い訳にして、フェリシティアと会うのを避けた。フェリシティアより、パメラの方が好きだったからじゃない。僕のパメラに対する感情は、頭の悪いペットを可愛がる飼い主の心情に近い。女性として、真剣に愛しているのは、フェリシティアだけだ。
そうさ、僕はフェリシティアを愛していた。
本当に、心の底から愛していたんだよ……
いずれは、フェリシティアに対する劣等感も克服し、僕たちは最高の夫婦になれると、そう信じていた。
そして、僕の愛情は、ハッキリと口にしなくても、フェリシティアに伝わっていると思っていた。少しくらいそっけない態度をとっても、優しいフェリシティアは、僕のことを愛し続けてくれると思い込んでいた。
だが、それは大間違いだった。
僕は、フェリシティアを舐めすぎた。
本来なら、誰よりも大切に扱うべきだった彼女を、あまりにも軽んじすぎた。
僕は思い知った。
愛にも、優しさにも、限度というものがあるということを。
僕はパメラの両肩に、さらに力をこめ、恨みごとを言う。
「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょうっ! 全部お前のせいだ! どうしてくれるんだよ、僕はもう、フェリシティアの愛を、永久に失ってしまった! それに、フェリシティアの家に見放されたら、僕の家は、おしまいなんだぞ……!」
肩に食い込んだ僕の指が痛かったのだろう、パメラは顔を顰め、弱々しい悲鳴を上げる。
「きゃぁっ……ちょっ、いたっ、痛いわ、ジョセフ、やめて、肩の骨が、折れちゃう……やめ、やめてよっ、本当に痛いの…………やめてってば!!」
そこでパメラは、やっと『病弱少女』の演技をするのをやめたらしい。力強い動きで、僕の腕を振り払う。まったく、大した腕力だ。華奢な男より、よっぽど筋力があるんじゃないのか、こいつ。
パメラは肩を擦りながら僕に尋ねる。
「……ジョセフ、あなたの家がおしまいって、どういう意味? あなたの家も、立派な貴族じゃない。フェリシティアが、なんだって言うのよ。あんな子、関係ないでしょ?」
何もわかっていない馬鹿女め。
僕も馬鹿だが、こいつよりはほんの少しだけマシだ。
こいつの家も、昔は貴族だったのに、長い平民暮らしに慣れてしまい、貴族の『格付け』を忘れてしまったらしい。
僕は、心の底から見下した笑みを浮かべ、パメラに言う。
「ふん、忘れたのか? 『貴族』って一口に言っても、格付けがあるんだよ。フェリシティアの家は、名門中の名門である、裕福な上級貴族。対する僕の家は、没落寸前、平民に毛が生えた程度の、最下級貴族なのさ。正直言って僕の家は、使用人を雇うこともできないくらい、困窮してるんだよ」
パメラは口をとがらせて抗議する。
「嘘よ。そんなの、とても信じられないわ。だってあなたの家族、いつも、華やかな暮らしをしてるじゃない。没落寸前だったら、あんな贅沢な生活、できるはずないでしょ」
「そうさ、普通ならね。……すべては、上級貴族である、裕福なフェリシティアの家のおかげさ。フェリシティアのお父上は、娘の愛した貧しい婚約者を憐れんで、色々と援助をしてくれていたんだ。だから僕の家は、上級貴族並みの素晴らしい生活ができていたんだよ」
そこで僕は一度言葉を切り、天を仰ぎながら話を続ける。
「だが、それももう終わりだ。僕とフェリシティアは、赤の他人になったのだから、当然援助は打ち切られる。いや、それどころか法的には、今まで援助された金銭の返却義務が発生するはずだ。もちろん、全額返せるはずもないが、まあ、屋敷や、数少ない私財は、没収されてしまうだろうな……」
パメラは、叫んだ。
「あ、あんた、ばっかじゃないの!? そんな大切な相手なら、なんでフェリシティアのこと、もっと大事にしなかったのよ!?」
僕も、叫んだ。
「お前が、いつもいつも仮病を使って、僕がフェリシティアと会うのを邪魔したからだろうが!」
「人のせいにしてんじゃないわよ! 私は別に、こっちを優先するように、強制なんてしてないんだからね! 何もかも、あんたの無神経さと、馬鹿さ加減のせいじゃない! この馬鹿、馬鹿、馬鹿っ!」
「なんだと! こいつっ!」
僕とパメラは、見苦しくも、道のど真ん中で取っ組み合いを始めた。
パメラは、男の僕がビックリするほど強かった。
「変なところ掴むんじゃないわよっ! このっ!」
「ぐわっ!?」
硬く握られたパメラの拳が僕の顎を直撃し、口の中に血の味が広がるのと同時に、目の前がチカチカと点滅する。なんてパンチだ。ずっと昔、同い年の男の子と喧嘩した時だって、こんな強烈な力で殴られたことはなかったぞ。
ふふ。
ふふふ。
なんだか、笑えてきた。
この、とんでもない腕力の女が『病弱』とは、さっきも思ったが、本当に出来の悪い冗談だ。僕たちは、たっぷり三十分以上は取っ組み合いを続け、やがて疲れ切り、そのまま地面に寝そべった。
ぽつり。
ぽつり。
雨が、降ってくる。
空には、いつの間にか重たい暗雲が立ち込めている。
まだ明るい時間のはずなのに、なんて暗いのだろう。
光の差し込む隙間が、ほんの少しもない。
それはまるで、僕の今後の人生を暗示しているかのようだった。
次回は再び、フェリシティアの視点に戻ります。
婚約破棄から数年の時が流れ、ジョセフとの『悪縁』を断ち切ったことで、フェリシティアは『良縁』を手に入れ、幸せな生活をしているのでした。




