第2話
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私はその日のうちに書類を整え、役所に行って、婚約破棄の手続きをしてもらうことにした。お父様も、お母様も、私の意思をすぐに認めてくれた。
特にお父様は、最近のジョセフの、パメラを常に優先し、私をないがしろにし続ける姿を、ずっと不愉快に思っていたそうで、ジョセフを見限った私を咎めるどころか、逆に『よく決断してくれた』と褒めてくれるくらいだった。
初老の御者に頼み、役所への馬車を出してもらうと、私は中に乗り込んだ。
ゆっくりと馬車の車輪は回転を始め、景色が流れていく。
今日は、とても良い天気だ。
最近は、ジョセフとパメラのことでイライラしてばかりで、こうやって馬車に揺られ、のんびりとした景色を楽しむ余裕もなかったわね。でも、不愉快な日々は今日でおしまい。明日からはまた、素敵な一日が始まるはずだわ。
そんなことを思っていると、急に馬車のスピードが落ちた。
やがて馬車は、完全に動きを止めてしまう。
私は、御者に尋ねた。
「どうしたの?」
御者は、困惑した様子で答える。
「フェリシティアお嬢様、それが、向こうから、ジョセフ様の馬車が、もの凄い速さでやって来るのです。こちらも馬車を走らせていると危険ですので、とりあえず停止いたしました」
はぁー、そっかぁ……
流石のジョセフも、魔法の通信で、一方的に婚約破棄を告げられるのは、納得いかないってことかしら。だから、わざわざ馬車を飛ばして、文句を言いに来たのね。
そりゃ、そうでしょうね。
ジョセフは私を舐め切ってるけど、私との婚約がなくなると、困ってしまう『事情』があるものね。……まっ、そんなの、知ったこっちゃないけど。
一人そう思う私に、御者が再び、困ったように言う。
「フェリシティアお嬢様。ジョセフ様の馬車が、正面に停車しました。いかがいたしましょうか? お嬢様に、もうジョセフ様とお話しする意思がまったくないようでしたら、わたくしが行って、その旨をキッパリと伝えてまいりますが……」
御者はジョセフに対し、少し……いや、かなり怒っているようだった。口調こそ丁寧そのものだが、いつもよりやや低い声に、隠しきれない憤りが含まれている。
彼は、私が子供の頃からうちで働いてくれている古株の使用人だ。ジョセフとのデートの際も、何度も彼に馬車を用意してもらい、そしてドタキャンされるたびに、馬車を車庫に戻させて、申し訳ない気持ちになったものだ。
御者は、怒りをこらえきれない調子で、言葉を続ける。
「あれだけフェリシティアお嬢様にいい加減な態度を取っておいて、婚約が破棄される段階になってから慌てて飛んでくるなど、無礼にもほどがあります。正直言ってわたくし、大変憤慨しております。この手で、ジョセフ様の顔を張り倒してやりたいくらいですよ」
私のために怒ってくれるその気持ちはありがたいが、そんなことをしたら傷害罪になってしまう。私は彼をなだめるように、静かに言葉を紡いだ。
「ありがとう、その気持ちだけで充分よ。それに、あんな男、殴るほどの価値はないわ。私が話をつけてくるから、あなたは、いつでも馬車を走らせることができるようにしておいてちょうだい」
「かしこまりました。しかし、もしもジョセフ様が激昂し、暴力的な手段に出てきた場合は、すぐにこのわたくしが、フェリシティア様をお救いに参りますぞ」
そう言って、ふんすと息を荒げる御者の思いやりに感謝しつつも、私は苦笑した。ジョセフは、そこまで気の強い男ではない。どんなに不愉快な結末になったとしても、暴力に訴えてくることはないだろう。
そして私は、馬車の外に出た。
外には、すでに馬車から降りていたジョセフが、これまで見たこともないような狼狽した顔で、不安そうに立っている。……驚いたことに、その横には、あのパメラがいた。
まさか、一方的な婚約破棄に対して文句を言うのに、幼馴染同伴でやって来るとは、どこまでふざけた男だろう。ハッキリ言って、もう一秒だって、こんな男のために人生の貴重な時間を使いたくはなかったが、私はなんとか気持ちを静め、「何か用?」と尋ねた。
ジョセフは、まるで物乞いのように手を広げ、言う。
「な、なあ、フェリシティア。さっき、魔法の通信機で言ったこと、本気じゃないよな? パメラと僕がいつも一緒にいるから、その、ちょっと嫉妬して、脅かしてやろうと思っただけなんだよな? わ、悪かったよ、謝る。これからは、パメラだけじゃなくて、きみのことも大事にするから、機嫌を直してくれ」
なんて馬鹿なことをほざいているのだろう。
確かに、ずっと前は、パメラばかりを優先するジョセフに怒り、異様に親密な二人に、嫉妬めいた感情を抱いたこともあった。……しかし、そんな時期は、とっくの昔に過ぎ去ってしまっているのだ。『脅かしてやろうと思っただけなんだよな?』ですって? 愚かにもほどがある。今のあなたには、脅かすほどの価値なんてないのよ。
だいたい、『これからは、パメラだけじゃなくて、きみのことも大事にするから』って、何よそれ。そこは、たとえ演技でも、その場かぎりの口約束だとしても、『きみのことだけを大事にする』って言うところでしょ?
はぁ……まったく、かつての私は、こんな無神経で愚鈍な男の、いったいどこを愛していたのだろう。今となっては思い出すことも難しい。結婚まで至らず、婚約の段階で、彼との関係を帳消しにすることができて、本当に良かった。
さっきも思ったが、こんな男のために、一秒だって時間を使うのは惜しい。
私は一切の感情を込めず、他人行儀……いえ、見知らぬ他人に接するよりも、冷たく言う。
「ジョセフさん、先程、魔法の通信機で述べたことがすべてです。あなたとお話しすることは、もう何もありません。これ以上私につきまとうようでしたら、法的措置も検討いたしますので、そのおつもりで」
「えっ、ちょっ、そんな、待ってくれ、僕にはまだ、きみと話したいことが……」
「もう一度だけ言います。私には、あなたとお話しすることは、もう何もありません。では、さようなら」
「ぅ……あ……うぅ……」
ジョセフは、かすかな呻き声を漏らした。
面と向かって冷徹な態度を取られ、おめでたいジョセフも、さすがに私の気持ちを理解したのだろう。彼は愕然とした顔で、もう何も言わず、立ち尽くすだけだった。
基本的に、面倒なことは好まない男だ。これほど私に嫌われていると悟った以上、必死になって関係を戻そうとしてくることは、もうないだろう。私は最後にジョセフを一瞥し、馬車に乗り込む。パメラの顔は、見もしなかった。ジョセフが殴る価値もない男なら、パメラは、見る価値すらない女だからだ。
私は席に着き、小さく息を吐いてから、御者に言う。
「お待たせしたわね。出してもらえるかしら」
御者は微笑みながら、溌溂と返事をする。
「かしこまりました。……フェリシティアお嬢様の、ジョセフ様に対する毅然たる物言い、ふふっ、わたくし、大変胸がスカッとしました」
改めてそう言われると照れくさいが、彼の溜飲が少しでも下がったなら、喜ばしいことだ。
そして、馬車は再び、走り出した。
ところどころに小さな石が転がっている、舗装の甘い道なので、いつもなら、しばしば突き上げるような衝撃がくるのだが、どうしたことか、今日はまったくそれがない。
体に感じるのは、心地の良い微弱な振動だけ。
まるで、道の上を滑っているかのようだ。
馬車は、ますますスピードを上げる。
天へ向かって、羽ばたくように。
その軽やかな加速に、私は今後の自分の人生を重ね、希望の未来を夢見るのだった。
次回は、冷たく突き放されて、ショックを受けるジョセフの視点で物語が進行します。




