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トイレットペーパー・レクイエム

作者: 星賀勇一郎





昨日はよく飲んだ……。


目覚めてベッドに起き上がると、一番にそう思った。

やたらと喉が渇くのもそのせいで、この時期しか食べる事が出来ない焼き牡蠣のお店に始まり、二軒目、三軒目……。

タクシーで帰宅したのが午前三時。

滅茶苦茶寒くて、服を着替えてそのまま寝てしまった。

三軒目のシャンパンバーが悪かった。

シャンパンってお洒落な飲み物なんだけど、匂いが残るのよね……。

完全に酔ってしまった気がする。


とりあえずシャワーでも浴びようかと起き上がる。

とにかくシャンパンが体内に残っている気がする。

何だか部屋もシャンパン臭いし……。

シャンパン飲んだ後のゲロとか最悪だし……。


って朝からゲロの話はやめておこう。


私はお風呂に入ってシャワーを出す。

この時期はお湯が出るまで少し時間が掛かるので、先にお湯を出す事にしている。


服を脱ぐ。

脱いだ服を洗濯機に放り込んで、下着の類はネットに入れて……。

歯ブラシを咥えるといつもの様にシャカシャカと歯を磨く。

あまり奥まで入れるとシャンパンが出そうになるので、少し控えめに。


口を濯ぐと既にお湯が出ているお風呂に。

本当はお湯を張ってゆっくりと浸かりたかったけど、それは夜の楽しみに取っておく。

今は少しでも早く、昨日のアルコールを抜きたい気分。

熱めのシャワーを頭から浴びて、目を覚ますのと同時に昨日の酒を抜く。

週末、いつもこんな生活をしている私に彼氏もいない。


「そろそろ結婚しないと、ビンテージな女に価値は無いわよ」


と同期で寿退社した亜佳里にそう言われたのが先週の日曜。

わざわざ結婚式にご祝儀まで包んで出てあげたのに、そんな言われようってあるかしら……。

まあ、そんな小さな……、小さくないか……。

とにかくその怒りのせいで、昨日は飲み過ぎたって感じ。


シャワーをいつもより長めに浴びて、とりあえず三軒目のシャンパンは抜けたかもしれない。

お酒ってのは三軒はしごすると、抜けるのは三軒目からって感じがするのは私だけかな。

とにかく私は浅い方から抜けていく気がする。

だからまだ、二軒目と一軒目のお酒は私の体内にある。


バスタオルを身体に巻いて、冷蔵庫を開ける。

そして身体が水分を欲している感があるんだけど、変なモノを飲むと……って、どうしてもそっちに話が行ってしまう。


ネットで買った安いミネラルウォーターのボトルを開けて口にした。

多分、水が一番受け入れやすい気がする。

ボトルをテーブルに置いて、下着を身に着ける。

今日は休みだし、ブラはしない。

ラフな格好で一日過ごすつもり。


Tシャツにパーカー、楽なジャージ。

そんなモンでしょ。

休みなんだから。

しかも二日酔いの……。


今日はもう一歩も外に出ないって決めてるし。


テーブルのミネラルウォーターのボトルを手に取って口に運ぶが、何故かそこで大きな溜息が出る。


昨日、散々飲んですっきりした筈なのに……。


私は苦笑して水を口にした。


ソファの上に投げ出したバッグがあった。

帰宅して、投げ出した記憶が薄っすらとあった。


亜佳里の言葉に対する怒りを鎮めるのに、いくら使ったんだろう……。


ふと、そう思い、財布を出す。

財布の中身は三千円と小銭。

確か、五万円くらい入ってた様な……。


亜佳里は高く付く女だという事を再認識した。


お腹が空いている気がするけど、何も受け付けない気分。


こんな状態を親に見られると、この土日はずっと怒られているだろう。

それだけは絶対に避けなければいけない。

今週は実家に顔を出す予定にしていたけど、延期しよう。


胸焼け……。

どれだけ飲んでも胸焼けなんてしなかったのに、この数年、それがある。

これも老いなのだろうか……。


また「ビンテージ女」って言葉を思い出した。

あームカつく。


一気にミネラルウォーターを飲み干して、テレビをつけた。

土曜のお昼の番組なんてどうでも良い内容のモノしかやっていない。

それでもこの静寂が破れるのであれば価値はある。


バッグの横に投げ出されていたスマホを手に取って見る。


「昨日はご馳走様でした」


後輩の凛ちゃんだった。

ごめんね、最後まで付き合わせて……。


そう返そうとしたが止めた。

凛ちゃんは今日はデートだと言っていた。

私より若いし、私より飲んで無かったし、私より……。


ダメだ卑屈な自分が嫌になって来た……。


トイレに行く。


いつからトイレに行っていないのだろう。

とりあえず水を飲んだので、突然やって来た。

もちろん小さい方……。


会社のトイレに、何だっけ……「オトヒメ」だっけ、アレが付いた。

だけどアレってよくよく考えると、あの音がしてる時って、「今出してますよ」って公言してるようなモノ。

アレ使ってても聞こえる時は聞こえてるしね。


まあ、今は誰も居ない自宅なので、思いっ切り……。


トイレットペーパーに手を伸ばしカラカラと引っ張り出す。

そのつもりが、カラ……くらいでトイレットペーパーが無くなった。


「嘘……」


思わず声を出してしまう。

仕方なく、その少ない資源で何とか拭く。


トイレを出て、買い置きのトイレットペーパーを取ろうと棚の扉を開けた。

しかし、そこにトイレットペーパーは無かった。


「嘘……」


本日二回目の「嘘」。

しかも今日はそれしか声に出してない。


仕方ない……。

トイレットペーパーを買いに行くか……。


私は大きな溜息を吐いた。


壁に掛けたダウンジャケットを取り、厚めの靴下を履く。

そしてバッグの中から財布を取り、スマホをポケットに入れた。


スマホだけでも買い物は出来る時代になった。

それだけでも良いんだけど、現金は少しでも持っていないと不安になる。

これも……。

あ、また「ビンテージ女」って言葉を思い出した。

きっと亜佳里の呪いなんだわ……。






マンションを出ると向かいにコンビニがあるが、コンビニでトイレットペーパーを買う程、経済観念の無い女でもない。

この歳になるまで一人で生きて来たんだから……。


と、いう事で少し歩くが、ドラッグストアまで行く事にした。


風が強い。


私は髪を掻き上げて曇った空を見上げる。

ちらほらと雪が舞い落ちて来るのに気付く。


どおりで寒い筈だわ……。


私はダウンジャケットのファスナーを首元まで引き上げた。


「先輩、寒くないですか」


凛ちゃんも昨夜私に何度も言っていた。

しかし、女はお洒落の為には暑さ寒さは我慢するモノなのよ……。

アラサー女は、強情なのかもしれない。

でも、本当は安物でも温かいダウンジャケットと分厚い靴下、それに、ボアの付いた靴なんかで居たいのよね。

何なら毛糸のパンツも穿きたいくらいだし……。


そろそろそんな寒さには勝てなくなってくるのかもしれない……。

やっぱりそれも……。


また「ビンテージ女」って言葉が蘇る。

その内、亜佳梨には不幸の手紙でも送る事にしよう。


強い風が容赦なく吹き抜ける。

私は身震いして、肩を窄めた。


「寒っ……」


無意識にそんな声が出てしまった。

それと同時にお腹がギューっとなった。


あれ……。


急にお腹が痛くなる。


これは……。


私は傍に有った冷たく氷の様な電柱に手を突いてその痛みが通り過ぎるまで耐える事にした。


なんか違う……。


私はその腹痛に違和感があった。


もしかして牡蠣のせい……。


強烈な痛みが一気に押し寄せて来た。


「嘘でしょ……」


また思わず声が出る。


私は振り返りコンビニを見た。

しかし、コンビニへ戻るのとドラッグストアまで行く距離はどう見ても先に進む方が近い気がした。


顔から血の気が引くのがわかる。

そして体温が下がっていく。

昨日の酒の手伝って変な汗が噴き出す。


これはマズい……。

此処で漏らす訳にも行かない。

それこそ大惨事だ。

ご近所を歩けなくなってしまう……。

そうなるともう引っ越すしかない。


私はダウンジャケットの上からお腹を摩った。

少しでも温めた方が良い様な気がして。


冷えた電柱から手を離し、少し歩いてみる。


傍から見ると刺されてフラフラと歩いている女にしか見えないかもしれない。

刺される様な情夫が居る訳でもないのに……。


もうドラッグストアの看板は目の前に見えている。

確かドラッグストアの外にトイレはあった筈だ……。

そこまで行けば何とか……。


こんなにドラッグストアを遠く感じた事は無い。

実際に歩いても五分と掛からない距離だし。


再びお腹がギュルギュルと音を立てる。

私は顔が引き攣っている筈。


これでトイレに誰か入っていたらどうしよう……。

そんな誰かを待つ余裕なんて無い。


その道沿いに設置されているガードレールに手を突いて、一歩一歩踏みしめる様に歩く。


私の横を自転車が通り過ぎる。

追い越し様に私の顔を覗き込む青年の目。


別に刺された訳じゃないんで……。


もうそんな事を言う余裕も無い。


舞う雪も強くなってきた。

強い風で乱された髪が口に入るが、それを指で出す余裕も無い。


ふと顔を上げると、さっき自転車で私を抜いて行った青年が戻って来るのが見えた。


もう、行って……。

こっちに来なくて良いから……。


勿論、そんな言葉も声には出ない。


青年は私の傍まで来て、


「あの、大丈夫ですか……」


と言う。


私は息を止める様にして何度か頷く。

そして自然にお尻に力が入る。


人前で漏らす訳にはいかない……。

本当にこの町で生きていけなくなる。


私は多分涙目だったと思う。

さっきより顔に当たる風が冷たい気がした。


「救急車呼びましょうか」


止めて……。

救急車の中で大惨事が起きてしまう……。

救急車が来るまで多分持たないし……。


私は、力を振り絞って。


「大丈夫です……。ありが……とう……ござい……ます」


とその青年に微笑んだ。

いや、微笑んではいない。

青白く引き攣った表情だったに違いない。


私はガードレールに座る。

少しでもお尻を圧迫している方が耐えれらるかと思ったから。

そして息を吐くと、


「ありがとうございます。多分、クスリを飲めば大丈夫なので……」


とその青年に言った。


青年は振り返り、目の前にあるドラッグストアの看板を見て私に微笑む。


「買って来ましょうか」


しつこい。

もう私を解放してくれ……。


私は首を横に振った。


「大丈夫です。自分で行きますので……」


私はそう言うとまた立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。


こんな事なら、コンビニへ行けば良かった。

そしたら今頃は自宅のトイレで、安息の時間を過ごして居た筈……。


私は額に汗が浮いていた。

それも吹き荒ぶ風が教えてくれた。


自転車の青年は何度も振り返りながら去って行った。


これも亜佳里の呪いなの……。


私は変な呼吸でドラッグストアまで歩く。

そんな事はどうでも良い。

周囲に変な目で見られても漏らしてしまう事を考えれば何て事は無い。


ポケットの中でスマホが振動してる事に気付く。

しかし、今はスマホを出して確認する事も無理な状況。

ましてや電話なら、相手と会話する必要も出て来る。

それは絶対に無理だ。


私はゆっくりとドラッグストアへと歩く。


何故か、国語の教科書に載っていた太宰治の『走れメロス』を思い出した。

メロスは親友のセリヌンティウスを救うために途轍もない距離を走った。

彼は親友のために走ったのだけど、私は今、自分の尊厳の為……、自分を救うために歩いている。

自宅から五分の距離のドラッグストアとメロスが走った途轍もない距離の価値は絶対に私の方が上だ。


お尻に力を入れたまま、私は一歩一歩前に出る。


どうしてこんな事になってしまったのか……。

勿論、トイレットペーパーの買い置きを見ておけばこんな事にはならなかった。

コンビニでトイレットペーパーを買ってしまえばこんな事にならなかった。

ううん、違う。

昨日、牡蠣を食べなければ、あんなに飲まなけれな、飲みに行かずに真っ直ぐ帰り、ドラマでも見ながらお弁当を食べていれば……。


どうして昨日飲みに出たんだろう。


私は立ち止まった。

そしてふぅと息を吐く。


「亜佳梨のせいだわ……」


私は流れる汗を手の甲で拭い、周囲を睨む様に見た。


本降りになり始めた雪の中を歩く人はいなかった。

私の横を何台もの車が通り過ぎる。


私はまた歩き出す。

ドラッグストアへの入口まで来た。

駐車場の入口には白く塗られたポールに大きな看板があった。

私はそのポールに手を突いて、ドラッグストアの駐車場に入る。

此処までくればトイレまであと少し……。


フラフラと歩く私の後ろから無情にもクラクションが鳴らされる。

私はゆっくりとその車を避け、小さく頭を下げた。

しかし、その下げた頭とは裏腹に、


「うるせーよ。殺すぞ」


と呟いた。


こっちは尊厳が掛かってるんだよ。


私はそのままドラッグストアの壁に手を突いて、ゆっくりとトイレまで歩く。


角を曲がればトイレだ……。


私はセリヌンティウスの顔を見たメロスの様な安堵感を覚えていた。







「え……」


私はトイレのドアの前で硬直していた。


トイレのドアには鍵が掛けてあり、「トイレ破損の為、ご利用を中止させて頂いております」と貼り紙がしてあった。


「嘘……」


もう、これ以上耐える事は不可能に近かった。

しかし、此処ですべてを諦める訳にはいかない。

私は今一度、お尻に力を入れた。


腹痛には波が存在する。

その波は弱まると、また耐える事が出来る。

幼い頃に一度漏らした時、それを学んだ気がした。


少し波が治まった私は、ドラッグストアに入り、いつも買う十六ロール入りのお徳用トイレットペーパーを引っ提げ、レジへと立った。


そして、念のためにレジを打つ店員に訊いた。


「と、トイレ……使えないんですね……」


その店員は、私の青白い顔を見て、


「そうなんですよ……。先日、壊されまして、便器が割れてるんです。来週には交換できると思うのですが……」


この店のトイレの来週の予定は、今の私には関係の無い話。

とにかく、この波が引いている間に私は一刻も早く自宅に帰る。

それしか残された道は無かった。


私はお釣りを受け取ると、さっさとトイレットペーパーを掴んで、店を出ようとした。


「お客様」


その時、レジの店員が声を掛ける。

私は酷い顔で振り返ったに違いない。


「何ですか……」


私はレジの前に戻った。


「シールを貼らせて頂いてよろしいでしょうか」


シール……。

そんなモノのために私は……。


私は引き攣った顔でトイレットペーパーを台の上に載せる。

するとその店員は頭を下げて、


「ありがとうございました」


と言った。


十秒程のロス。

これが命取りになる事を、この店員はわかっているのだろうか……。


私はまた、本降りの雪の中を自宅に向かい歩き始める。


トイレットペーパーを提げた手が悴む。

雪は容赦なく私を白く染めていく。

ダウンジャケットに雪がへばり付き、どんどんその体温を奪っている様な気がする。


今の内に距離を稼いでおかないと……。


腹痛の波はまた戻って来る事を私は知っている。

とにかく、自宅まで、自宅のトイレまでその波を抑える事が出来れば……。


私はそんな希望を胸に……、いや、お腹に抱いて、雪の中を歩いた。


何とか、何とか尊厳を守れる距離まで……。


私は額の汗を拭いながら自宅へと歩く。


昨日、飲みに出させた亜佳里のせいだ……。


私は帰ったら早速、亜佳梨に不幸の手紙でも送ってやろうと思った。


距離だ……。

距離を稼ぐんだ……。


変わらずお尻に力を入れたまま、私は歩いた。


行ける……。

このまま、自宅まで……。

行ける……。


私は少しずつ歩く速度を速めて行く。


しかし、その希望が無残にも打ち砕かれた。


また波が戻って来た。


私はお腹を押さえて、お尻とお腹、そして眉間にも力を入れる。

再び汗が噴き出す。


もう少しなのに……。


私は眉を寄せたまま自宅へと歩く。

自宅の向かいにあるコンビニ……。

其処でトイレを借りるか……。

いや、ドラッグストアで買ったトイレットペーパーを持ってコンビニに入る訳にはいかない。

ん……。

そのためにドラッグストアの店員はシールを貼ってくれたんじゃないのか……。

しかし、この道を渡るには横断歩道まで行かなければいけない。

そんな余裕は到底無い。

無理矢理道を横切る手もある。

しかし、雪の中、結構な車が行き来している。

それを渡るのは一苦労だ。

どっちにしても、天は私の味方では無さそうだ。


私はマンションのエントランスの階段をゆっくりと上がる事にした脇にある花壇の縁に手を突いて、ゆっくりと上って行く。


待っていろ、暴君ディオニス……。

セリヌンティウスは必ず助ける……。


私は階段を上り終え、オートロックのカードキーを翳した。


自動ドアが開く。

その速度がいつもよりゆっくり開いている様な気がして、更にお尻に力を入れた。


エントランスホールの中を雪で濡れた靴でペタペタと歩き、エレベーターの前まで来た。


二基あるエレベーターはどちらもそこには居なかった。

一基は上の階に向かって昇って行き、もう一基は最上階から降りて来る所だった。


こんな時に限って……。


私は、眉が繋がる程に眉間に力を入れた。

眉間とお尻はもしかすると繋がっているのかもしれない。


エレベーターが降りて来る表示をじっと見つめる。


早く、早く……。


こめかみに汗が浮いているのがわかる。

その汗はゆっくりと頬に向かって垂れている。

汗なのか雪なのかはもう重要ではない。


エレベーターの表示はどんどん近付いて来るが、私にはその時間が永遠の様に感じた。

もしかしたら一生このホールには着かないのかもしれないとも感じられた。


私の前でエレベーターのドアはゆっくりと開いた。

其処は正にパラディッソ……。

天国へ続くエレベーターの様に思えた。


誰も乗って痛いエレベーターに私は乗り込み、自分の部屋の階のボタンを押すと、閉まるのボタンを連打した。

私を追いかけて来る何かから逃げる様に……。


エレベーターの中でも私はお尻に力を入れて足踏みをしていた。


早く、早く……。


私は、少し上の階に住んでいる事を後悔した。


次は二階に住む。


その時私はそう誓った。






部屋のドアを開けると、トイレットペーパーの袋を引き摺ったまま、私はトイレに入った。

そしてすべてを解放した。


亜佳里の呪いから解放された瞬間だった。


今までの自分の中での戦乱が嘘の様に、その静けさの中で、私は息を吐いた。


頑張った自分を褒めてあげたい。

そんな事を考えると頬が緩んだ。


きっとメロスもこんな気持ちでセリヌンティウスと熱い抱擁を交わしたのだろう。


少しずつ自分に体温と顔色が戻って来ている気がした。


尊厳を守った私の括約筋が少し誇らしかった。


いつもの倍以上お尻を洗い、買って来たばかりのトイレットペーパーを出した。

ホルダーにそれを付けると、その先を三角に折る。


普段はそんな事はしない。

だけど今日はどうしてもそうしたい気分になった。


トイレを出て、リビングのソファに座る。


少しお尻が筋肉痛になるかもしれない。

それ程に普段使わない筋肉を使った。

そしてその分疲労感があった。


ふと、思い出し、ダウンジャケットのポケットからスマホを取り出した。


緊急事態の最中に何度も連絡してきたのは一体誰……。


私はスマホの着信を確認した。


私がトイレットペーパーを買いに行って帰るまでに六回の着信。

それはすべて亜佳里からだった。


やっぱり……。

あの疫病神……。


私は何故か亜佳梨からの着信だと思っていた。

しかし六回の着信って……。


亜佳里は私のマンションから見えるタワーマンションに新居を構えている。

苦しみながら歩く私を見たのだろうか……。

それならやっぱり質の悪い女だ。


私はスマホをテーブルの上に放り投げた。


どうせ碌でもない電話でしょ……。


そう思い、立ち上がって窓の外を見た。


雪は街を覆い隠す様に降り積もり、辺りを真っ白な世界に染めていた。


スマホが振動する。


テーブルの上のスマホを見るとやっぱり亜佳里からで、今度はメッセージが入っていた。


私はそのメッセージを開いた。


「先週は結婚式に出席してくれてありがとう」


続けてメッセージが来る。


「式で主人の友達があなたの事見て、どうしても会いたいって言ってるみたいなのよ」


え……。


またメッセージが来る。


「それで、急なんだけど、明日家でパーティやるから来ない」


そのメッセージの後に一枚の顔写真が送られて来た。


あら、良い男……。


私はその写真をじっと見つめた。


またメッセージが来る。


「トイレットペーパーなんかを作ってる会社の御曹司よ」


トイレットペーパー……。


「行く」


私はそう返信した。


もうトイレットペーパーが無くて困るのはうんざりだもの……。








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