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夜間切替

作者: 夢与温
掲載日:2025/08/17

入社して最初のオリエンテーションで言われたルールを、いまだに理解できずにいる。


 「深夜〇時を過ぎてから鳴る電話は、取らなくていい。

  保留にして、そのまま放っておけ」

講師役の先輩は、それ以上説明しなかった。

業務マニュアルにも書かれていない。

ただ皆が当然のように従っているのが、かえって気味が悪かった。


深夜残業になることはしょっちゅうだ。

電話が鳴っても自動で夜間切替に移行するので、カチ、カチ、と保留ランプが光るだけ。

 「なんだよ、この会社……」

と心の中で毒づきながらも、いつしかその光景にも慣れていった。

だが、それが「慣れてしまってはいけないもの」だったと気づくのは、ずっと後のことだ。


――昼間のオフィスは、電話のベルやキーボードの音でざわついている。

そのざわめきの中で、俺はいつも叱られてばかりだ。

 「ここ、数字の桁が違うだろ。確認しろって言ったよな?」

 「書類のファイル名、統一ルール知らないの?」

先輩たちは淡々と指摘してくるだけだが、口調ににじむ苛立ちは隠せない。

同じミスを繰り返しているつもりはないのに、なぜか俺だけ要領が悪いらしい。

――だったら、誰よりも遅くまで残って取り返してやる。

そう思うようになってから、終電間際まで机に向かうのが当たり前になった。


誰もいないオフィスは、昼間より落ち着いて作業できる。

昼間浴びせられる冷たい視線も、深夜の蛍光灯の下では感じずに済むからだ。

ただ、夜が深くなるにつれて決まって現れるものがある。


電話の保留ランプだ。

カチ、カチ、と一定のリズムで光り続ける赤。

誰も取らず、誰も気に留めない。

俺だけが、その異様さを知りながら無視していた。


そんなある夜のことだ。

椅子を少し引いた拍子に、コロコロが何かにひっかかった。

覗き込むと、車輪にゴム手袋が片手だけ絡みついていた。

 「……なんだよ、こんなとこに」

吐き捨てるように言いながら拾い上げ、ゴミ箱に投げ込む。


そのとき、指先にわずかな違和感が残った。

むず痒いような感覚。

手を見下ろすと、人差し指の腹が少し赤くなっていた。


――その夜を境に、妙な感覚が時おり身体を走るようになった。

最初は、肩のあたりにピリリと走るような痛み。

次の日は、椅子に座っている尻に、唐突にチクリと刺すような違和感。

太ももを撫でられたように、皮膚がぞわりと逆立つこともあった。


どれも一瞬で消えるのに、後にはうっすら赤い線が残る。

みみず腫れのような、不快な跡。

爪で掻いたのか、何かが弾けたのか――そう見える。


 「疲れてるだけか?」

独り言のように呟きながら、夜のオフィスを見回す。

当然、誰もいない。

ただ保留ランプがカチ、カチ、と静かに明滅しているだけだった。


――数日後。

残業帰りのエレベーターで、先輩に思い切って尋ねてみた。

 「あの……夜中の電話の件なんですけど」

 「ん?」

 「深夜に鳴ってても、保留にして放っとけっていう……あれ、何なんですか?」


先輩は、押しボタンを見つめたまましばらく黙っていた。

降り際に、ようやく口を開く。

 「……いいから、ルールは守っておけ」

それだけ言い残して、先に帰っていった。

エレベーターの扉が閉まる直前、振り返ったその顔には、いつもの冷たさよりもわずかな怯えが混じっているように見えた。


残ったのは俺ひとり。

夜更けのオフィスで、机の上の書類のから必要な契約書1枚を探している。

ペーパーレス、電子署名、そんな言葉が現れても、いまだ紙の資料は多い。

そして、わざわざ用意した紙資料は、後で見ようとしても出てこないのだ。


ん? 探す手が止った。

ページの間に何か半透明のしおりのような物が挟まっている。


取り出してみると――未使用のコンドームだった。

 「……え、なんだこれ……」

眉をひそめ、吐き出すように呟き、しばらく手に握ったまま動けなかった。

誰が置いたのか、なぜこんなところに……


――翌日。

昼間のオフィスでは、また俺の席だけが小さなため息に包まれていた。

 「ここ、誤字。確認したのか?」

 「フォーマット崩れてるじゃん。いつまでも新人気分じゃ困るから、そろそろ覚えて」

先輩の声は淡々としているのに、抑えきれない苛立ちがにじんでいる。

俺の机の上に新しい修正指示の付箋が何枚も重なっていく。

同じ班の同期は苦笑いを浮かべて見ているだけ。


もう誰も、庇おうとはしない。

わかってる。

俺の頭がわるいのは、自分が一番わかってるんだ。

けど、このままじゃ「邪魔者」のまま終わってしまう。

せめて成果を一つ残せば、少しは見返せるはずだ。


そう信じて、今夜もまた、ひとりオフィスに残った。

終電の時間を過ぎると、空調の音さえも遠のき、ただキーボードの打鍵音だけが響く。

蛍光灯に照らされる自分の影が、机の上で妙に長く揺れていた。


やがて、瞼が重くなっていく。

身体全体がじわりと熱を帯び、またチリ、と手の甲が疼いた。

思わず掻くと、指先にみみず腫れのざらつきが残る。


 プルルルルル……。

唐突に、電話が鳴りだした。


〇時を回っている。

――おかしい、夜間切替にしてあるはずなのに。

半分夢の中のような頭で、反射的に受話器を取ってしまった。


 「……○○株式会社です」

言ってから、ぞっとする。

こんな時間に、鳴るはずがない。

耳に当てた受話器から、押し殺したような息遣いが聞こえた。


 ゼー……ヒュー……ゼー……。


血の気が引く。

慌てて受話器を切り、机に投げ出した。

オフィスは静まり返っている。

自分の島だけが明るく、奥の通路はすでに闇の中だった。


こんなの、よくある変態の仕業だろう。

冷静に考えると笑いが込み上げてきて、俺は深呼吸をして、椅子に座り直す。

額を冷たい汗がつたう。


今日中にやっておかないと、明日の進捗会議でまた怒鳴られる。

これ以上、失敗はできない。

震える指でキーボードを叩き始めたそのとき――


 プルルルルル……。

また、電話が鳴った。


受話器を握りしめたまま、俺は震える声でつぶやいた。

 「ルール通りだろ……保留にすればいいんだ……」

自分に言い聞かせるように、保留ボタンを押し、受話器を机に伏せた。

赤いランプが点滅を繰り返し、カチ、カチ、と乾いた音を立てる。


 「……よし」

気を取り直してモニターに向き直る。

だが、次の瞬間――


 わさ……わさ……

背中に、虫の群れが這うような感覚が走った。

ぞっとして跳ね上がると、夢中でシャツの裾を引き出し虫を探した。

途端、服の内側から何かがざらざらと落ちてくる。


 バサバサッ

床に散らばったのは、数えきれないほどの輪ゴムだった。


黄ばんだもの、新しいもの、色も太さもばらばらの輪ゴムが、山のように積もっていく。

 「な……んだよ、これ……!」

息が詰まる。

周囲を見回すが、当然、誰もいない。

自分の荒い呼吸だけが響く。

そのとき――


 ピピピピピッ!

机の電話が、突然、大音量の警告音を鳴らした。

保留が長すぎると鳴り出す、あの不快な電子音だ。

あっと思い受話器を持ち上げた瞬間。


耳元で、誰かが囁いた。

 「やっと、繋がった」


保留ランプが、オフィス中の全回線で一斉に点滅し始めた。

赤と緑の光が、暗がりで生き物の目のように瞬く。

次の瞬間、照明がすべて落ち、真っ暗な闇がオフィスを呑み込んだ。


――差し込む朝日と蛍光灯で、白くなるほど照らされたオフィス。

男が一人、机に突っ伏していた。


――昼食時、社員食堂のテレビには昨夜の出来事を伝えるニュース映像が流れる。

 「昨夜、都内の企業オフィスで二十代の男性社員が心肺停止の状態で発見されました。

  過労による急性心不全の可能性もあるとみられており――」

箸を止めたまま、数人の社員が画面を見上げる。

 「……まただな。前にもあっただろ、夜中にここで倒れたやつ」

 「そうそう。輪ゴム飛ばされてさ、いつも腕が真っ赤だった」

 「辞めてからも電話してきてたんだよ。深夜に。アレルギー体質らしくて、ゼーゼー言いながら……」

 「それで、『夜中の電話は取るな』ってルールになったんだろ?」

 「そう。けど、今回のは受話器が上がってたらしいぜ……」

誰も、それ以上言葉を続けられなかった。

食堂にはテレビの音だけが、やけに大きく響く。


うっ と一人が焼きそばを吐き出した。

ニンジン・タマネギ・キャベツといった色鮮やかな具に紛れ、

絡み合った大量の輪ゴムが口からこぼれ落ちた。


(完)

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回創作のため、体験してみました。

輪ゴムで私を撃ってみて、とお願いした時の、

家族の顔が忘れられません。

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