第8話 再会
早朝、朝の身支度を終えた美澪は、窓辺に座って風にあたっていた。
昨日、何度も泣いたせいで腫れた目蓋を、メアリーが用意してくれた濡れタオルで冷やしていた。
換気のために開けた窓から、森林の間を通ってきた清涼な風が吹き込んでくる。
シダーウッドに似た香りを堪能し――はっと目を見開いた。
「ロータスの香り……?」
バッと後ろを振り向いたが誰の姿もない。
(でもこの香りは間違いなくヴァルのもの)
美澪は椅子を倒す勢いでと立ち上がると、香りをたどって居室を後にした。
広い神殿内を小走りで駆けていく。行き交う神官たちは驚いた様子だったが、美澪はただひたすらに香りを追いかけた。
そうして、たどり着いたのは、神殿内部の奥深くに位置する森の中だった。
「すごい」
導かれるままここまで来たが、まさか神殿の中に森があるとは思いもしなかった。
しばらくの間、深緑のみずみずしさに瞳を奪われていると、足を止めていた美澪の背を押し出すような風が吹き、メアリーから借りた頭巾が飛んでしまいそうになった。美澪はウィンプルを両手で抑え、風が過ぎ去るのをじっと待った。
強風が止み静寂が戻った頃、森の奥から吹いてくる柔らかな風にのって、ロータスの香りが運ばれてきた。まるで「こっちだよ」と誘われているように思えて、促されるまま森の奥へと足を踏み入れた。
青々と生い茂る草木や、美しく咲き誇る花々を素通りして、奥へ奥へと進んでいく。
ふと頭上を通り過ぎた青い鳥を仰ぎ見ると、木の葉の隙間から差し込む光が眩しくて目を細めた。そうして、光に眩んだ視線を向けた先にあったのは、澄んだ水が青く輝く神秘的な泉だった。
「わぁ……!」
泉に陽光が降り注ぎ、緩やかに揺れる水面がキラキラと輝いて、神々しく厳かな雰囲気を漂わせていた。
「綺麗ね」
泉に魅入り、吸い寄せられるように畔に立った時、
「落ちたら危ないですよ」
と声を掛けられた。
「えっ」
低音でしっとりとした声に、すぐに振り返ろうとしたが、タイミングが悪く風がざあっと吹き抜けていった。借り物のウィンプルが強風にさらわれて、ついに上空へと舞い上がった。
「あっ!」
ウィンプルを瞳で追い、届かないと理解しつつも手を伸ばしたその先に、おとぎ話に出てくる王子様のような風貌の男性が立っていた。透明感のある黃褐色の瞳と視線が交わった。
「「あ……」」
美澪と男性は、お互いの瞳に釘付けになったまま、ひと言も発せないでいた。そうして数十秒間見つめ合い、話の口火をきったのは美澪だった。
「――見つけた」
自然と口からこぼれ落ちた言葉に驚いた美澪は、とっさに口を手で覆った。それからおそるおそる男性の方を見ると、男性も驚いたように目を見開いていた。
(初対面のひとに向かって、何を言っているのよ、あたし!)
美澪は熱を帯びていく顔を隠すように、勢いよく頭を下げた。
「すみませんでした! あたし、変なこと口走っちゃって……!」
穴があったら入りたい気持ちでいると、「実は私も」と男性が口を開いた。その言葉を聞いて、美澪は「えっ?」と顔を上げる。すると男性は、
「あなたの瑠璃色も瞳を見ていると、なぜか懐かしい気持ちが湧いてきて……」
「そ、そうですか」
そう言ったきり、再び沈黙が落ちた。そして、
「――お取り込み中失礼」
そんな気まずい空気を切ったのは、透明感のあるテノールの声だった。
美澪は男性の後ろに視線を向けて目を丸くした。
「あなた……!」
美澪が驚いた声を上げると、男性は「知り合いかい?」と聞いてきた。それに対して美澪は曖昧に頷く。すると男性はくるりと踵を返した。
「私はお邪魔なようだから失礼するよ」
「えっ」
美澪が男性を引き留めようとすると、美澪の視線を遮るように闖入者が立ちふさがった。
「あなた……ヴァル、なの?」
まさか、と信じられない気持ちで口元を抑えながら、青年から距離をとる。
ヴァルの顎のラインで切りそろえた神は天色に染まっていて、ふた重目蓋の眼窩には支子色の瞳がはまっていた。纏う色は異なるのに、顔の造作と声は、間違いなくヴァルのままだった。
美澪は驚愕に目を見張り、その場で固まってしまう。その姿を見たヴァルは、プッと吹き出し肩を震わせて「あはは」と笑った。
「み、美澪……っ、その顔は反則だよ……っく、あはは」
ついには腹を抱えて笑い出したヴァルに、美澪は問うた。
「……なにが面白いのか分かりませんけど、どうしてここにいるんですか。神域は?」
ようやく笑いが収まったらしいヴァルは、後ろで手を組み、にこりとほほ笑んだ。
「言ったでしょ、迎えに行くって。だから迎えに来たんだ。――あとこの姿は地上での仮の姿ってやつ。どう? ボク、かっこいい?」
言って、くるりと回転してポーズをとったヴァルを見て、
「髪と目の色しか変わってませんよね?」
と率直な感想を言う。
美澪のそっけない態度に、ヴァルは不満そうな顔をした。その様子を一瞥して、美澪は眉をひそめる。
「さっき、あたしを迎えにきたって言いましたよね?」
「うん、そうだよ」
素直にうなずいたヴァルに、美澪は眉根を寄せた。
「あたし、自分の使命がなんなのか聞きました。それを放りだすような無責任なことはできません」
「別に、いますぐどうこうする気はないよ。美澪はこれから火の国に輿入れするでしょう? だから護衛として、ボクも付いて行こうと思って」
想像もしていなかった発言に、美澪は目を大きく見開いた。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「うん?」と首を傾けたヴァルに、美澪も首を傾けた。
「あたしはあなたのことを信用してないんですよ? それなのに護衛? 恐怖でしかないんですけど……」
言いながら、美澪はズキンと痛む頭を押さえた。その様子を、キョトンと見たヴァルは、
「……まさか、ボクが美澪を害すると思ってるの?」
と聞いてきた。美澪は正直に、「はい。そうです」と答える。すると衝撃を受けた様子のヴァルは、両手で顔を覆い、長いため息を吐いた。
「……あのねぇ。ボクは美澪のことが大好きなんだよ? キミが幸せになれるように守りに来たのに。……ボクってそんなに信用ないの?」
「よく知りもしない相手に、『大好きだから守るよ』って言われて、喜ぶひとがいると思いますか?」
「う~~ん。結構いたけどなぁ?」
顎に手を当てて首を傾けたヴァルに呆れて、
「そのひと達とあたしを一緒にしないでください」
と踵を返すと、さくりと草を踏む音がした。
「誰?」
音がした方向に振り向くと、見たことのない神女が立っていた。
「エフィーリア様、お話し中に申し訳ございません。神官長がエフィーリア様を探しております。至急、礼拝堂までお越しいただけますでしょうか」
「あ、はい。それは構わないんですけど……」
言って、隣に立つヴァルを一瞥する。すると神女は心得たように、
「猊下より、エフィーリア様の護衛に抜擢されたという聖騎士伯様ですね?」
「ぱらでぃん……?」
思わず口の中でつぶやいた美澪に、ヴァルは「神殿に仕える騎士のことだよ」と小声で耳打ちし、慇懃な態度を取った。
「いかにも。私は大神殿より参りました、パラディン伯のヴァルと申します。……私もエフィーリア様にご同行しても構いませんか?」
そう言ったヴァルに、神女は「もちろんにございます」と首肯し、こちらへどうぞ、と二人を礼拝堂へと案内した。
道中、美澪は声を潜めて、
「あたしに許可を取る前に、勝手に行動してるじゃないですか。それにあなた――」
「ヴァル、だよ。美澪」
「……ヴァルは神様じゃなかったんですか? それにパラディンって?」
と尋ねた。それにヴァルは苦笑する。
「……神殿に仕える騎士のことをパラディンって言うんだよ。こうみえて地位は高くて伯爵位を賜ってる。怪しまれないように美澪の近くにいるには、もっとも都合がいい立場だったんだよ」
美澪はふーんと言って、皮肉げに笑った。
「でも、本当に任命されたわけじゃないんですよね? どうやって潜り込んだんですか?」
鋭いところをつかれたらしいヴァルは、バツが悪そうに視線をそらした。
「……ノーコメントで」