第44話 自分の居場所
なんてことのないように言ったヴァルの顔を、美澪は複雑な気持ちで眺める。
(あたしの身体をトゥルーナに捧げることでエクリオを救うことができる。呪いが解ければ、今後、新たなエフィーリアが現れることもなく、望まぬ使命を背負わされることもなくなる。それは、あたしが願っていたことが全部叶うということ。だけど……)
――それじゃあ、今までのことは全て無駄なことだったのだろうか。
完全に沈黙してしまった美澪に気づいたヴァルは、「美澪、どうしたの?」と言って、美澪の肩に手を置いた。
「……美澪。震えてる。もしかして寒いの?」
心配するヴァルに、美澪はふるふると首を左右に振って、下唇を咬んだ。それから無理矢理笑顔を作ると、泣きそうになるのを我慢しながらヴァルを見る。
「いいえ、大丈夫です。急な展開に、頭がついていかなくて……。あはは、飲み込みが遅くてすみません。せっかく使命から開放されたのに、あたし、」
しゃくりあげそうになった美澪は、ぐっと奥歯を咬んでそれに耐えた。
しかし、涙腺をコントロールすることはできず、瞳の表面に溜まった涙がぽろりと一筋流れ落ちた。
「あ、あれ……? おかしいな……あたし、泣くつもりなんて全然なかったのに……っ」
一度溢れ出した涙をせき止めることはできず、ぽろぽろと頬を滑り落ちていく。
「美澪……」
ヴァルは、喉の奥から絞り出すように美澪の名を呼んで、肩を震わせて声もなく泣き続ける美澪の姿を見守り続けた。そして、美澪が何度も何度も手の甲で涙を拭き取るのを見て、白く華奢なその手を優しく掴んだ。
「美澪。そんなに擦ったら、目元が荒れて痛くなってしまうよ。……泣くなとは言わない。君はずっと振り回されてきたのに、突然役目をおろされて、今は宙ぶらりんの状態だ。残念ながら、やっぱり元の世界には帰れないし、トゥルーナから身体を奪い返したとしても、結局のところ今までの状況が好転することはない」
ヴァルは静かな声で、まるで幼子に言い聞かせるように、一言一言を丁寧につむいだ。
そして、おもむろに美澪を抱きしめると、形の良い頭に口付けを落として言った。
「美澪。キミを帰すことはできないけれど、トゥルーナの身体で神として生きて行くなら、時々……本当に時々だけど、キミのお父さんとお母さんの様子を確かめることはできる」
その言葉に、美澪は勢いよく顔を上げ、ヴァルの軍服の胸元を握りしめた。
「それ……ほんと……!?」
涙を流しながら、瑠璃色の瞳に希望の色を滲ませた美澪に見つめられ、ヴァルはこくりと頷いた。
「うん。本当だよ。ボクは美澪にだけは嘘はつかない。知ってるでしょ?」
そう言って白い歯を覗かせたヴァルの首に、美澪は勢い良く抱きついた。
「凄い、凄いわ、ヴァル! 時々でもいい! お父さんとお母さんの顔が見られるなら……元の世界をほんの僅かでも見ることができるなら、あたし、なんだってやる!」
ぎゅうぎゅうと抱きしめてくる美澪の背中を、「美澪、苦しいよ……」と優しく叩いたヴァルは、言葉とは裏腹に優しい表情を浮かべて笑っていた。
「美澪が納得してくれるなら、キミは今から女神ミレイだ。トゥルーナの見た目が気になるのなら、美澪の姿に戻してあげることもできる。……ただし、もうここには居られない。メアリーともお別れしなきゃならないし、早々に城から立ち去るべきだ。――美澪。これが最後のチャンスだよ。美澪はこれからどうしたい?」
ヴァルは美澪の身体を離して、喜色溢れる瑠璃色の瞳を覗き込む。いつになく真剣なヴァル表情に、美澪は緊張して向き合った。そして――
「なります」
たった一言、はっきりと告げると、ヴァルの相好が崩れた。
「やっと……やっと、ボクだけの美澪になってくれるんだね」
美澪の瞳と同じようで同じではない、清水のように澄んだ輝きを放つ瑠璃色が、ヴァルの感情に合わせてほんの少し濃さを増した。
今すぐにでも口づけたくてたまらないのか、ヴァルの視線が美澪の唇に集中する。そうしてゆっくりと近づいてきたヴァルの顔を、美澪は手のひらで押し返した。
ヴァルは、美澪に顔面を押されたまま、「……今のはそういう雰囲気だったでしょ」と口を尖らせた。
ヴァルが喋るたびに、唇に触れている手のひらがくすぐったくて、美澪は笑いながら手を離す。
「もう、ヴァルったら。あたしの姿を見て、なんとも思わないんですか?」
美澪が眉尻を下げて問いかけると、美澪の姿をじっと眺めたあと、ヴァルは「ねぇさんの姿だね」とあっけらかんと答えた。
それがどうかしたのかとでも言いたげに首を傾けたヴァルの姿に、美澪はハァとため息をつきながら額を押さえて首を振った。
「まったく。手慣れているようで、意外とノンデリなんですから……。というか、ヴァルにはもともと倫理観が無いんでしたっけ?」
頬に手を添えて首を傾けた美澪に、「ちょっと、ちょっと! 聞き捨てならないんだけど!」とヴァルが食ってかかってきた。その必死な姿に笑みを深くした美澪は、震えのおさまった両手で、ヴァルの両頬を包みこんだ。
「ヴァルはあたしの外見じゃなくて、性格や人格……泉美澪の中身を好いてくれているってことは分かってます。……でもさすがに、トゥルーナの……ヴァルのお姉さんの姿でキスするのはちょっと……いや、かなり嫌だなって思って」
「そーいうもの?」
「はい。少なくともあたしは嫌ですね」
自分の意見をはっきりと口にした美澪に、ヴァルはこくりと頷いて、いつものように指を鳴らした。すると――
「わぁ……本当にあたしの見た目になってる!」
美澪は感嘆の声を上げながら、鎖骨の辺りまでになった紺青の髪や、小さくなった手のひらを懐かしく思いながらひらひらと動かしてみる。
「ありがとうございます、ヴァル」
心からの感謝を込めて頭を下げると、言われ慣れない感謝の言葉に照れたのか、ヴァルは顔を真っ赤にした。
「……なんだか今日は、美澪にお礼を言われてばかりで、無性に胸がくすぐったいよ」
「もう……なんですか、それ」
美澪はクスクスと笑いながら目元を優しく和らげると、ベッドから身を乗り出して、ほんのり赤く染まるヴァルの頬に掠めるようなキスをした。
美澪から口づけられたという事実を飲み込めないのか、暫くの間、ヴァルは彫像のように固まってしまった。そんなヴァルを見て、美澪は照れと高揚感が混じり合った、不思議な心の温かさを感じながらクスクスと笑う。
(……この穏やかな胸の高鳴りと、嬉しいような恥ずかしような今まで感じたことのない気持ち。……これが『好き』ってことなのね)
美澪は、例えようのない幸福感が胸を温かくしていくのを感じつつ、ベッドから身を乗り出した。
「ねぇ、ヴァル」
「な、なんだい、美澪?」
「キスはまだですか?」
「――っ! じ、自分からするのと、おねだりされるのじゃあ、心の持ちようが……その、なんというか……」
「ふふっ。ヴァルでもそうやって照れたりするんですね?」
いつもの余裕そうな調子を崩したヴァルの姿を愛おしく想いながら、美澪は不意打ちでヴァルの唇にキスをした。
「ん、……み、みれい!」
ほんの少し触れるだけの、子どものようなキスだったが、ヴァルを陥落させるのには十分だったようだ。
美澪は異世界に来て、初めて心から安らげる自分の居場所を見つけた気がしたのだった。




