第39話 美澪の口付け
「結論から言うと……トゥルーナは、あたしとの共生は望んでいませんでした」
「と、いうと?」
「『ゼスフォティーウを愛していないなら、魂と肉体を渡せ』と言われましたから」
美澪は苦笑しながら左隣に座るヴァルの表情を窺い見る。――しかしヴァルは、ティーカップを満たす紅茶を眺めたまま、微動だにしない。
(……死ぬかもしれないって思ったとき、あたしのことを助けてくれたあの声は、ヴァルのものだと思っていたんだけど)
……違ったのだろうか?
そう思い、美澪がデイドレスの布地を握りしめたとき、今までひと言も喋らなかったヴァルが口を開いた。
「回りくどい言い方は好きじゃない。だからはっきり言わせてもらうけど……ボクは美澪を本気で愛している」
「へっ?」
「は?」
「ええっ!」
脈絡なく言い放ったヴァルの突然の告白に、美澪とイリオスとメアリーは、三者三様の反応を見せた。美澪はヴァルの言葉を飲み込めず、イリオスは腰に佩いた剣に手を掛け殺気立ち、メアリーは顔を真赤にしておろおろしている。
当の本人は周りの様子を気にした風もなく、優雅な仕草で紅茶を飲んだあと、上座に座るイリオスを睨みつけた。
「だからもう、美澪を抱かないで」
とヴァルが言い終えた瞬間、抜身の刃がヴァルの首筋にくい込んだ。そして、少しの間を置いてから、ドロリとした鮮血が流れ出す。
「きゃあ! ヴァル……!」
美澪は叫び声を上げたあと、室内に充満していく鉄臭い血の匂いにめまいを覚えながら、咄嗟に自分のドレスの裾を引きちぎった。
「ミレイ? なにを――」
そしてイリオスが美澪の行動に気を取られているうちに、躊躇うこと無く刀身を握って押し返し、布切れをヴァルの首筋に強く押し当てる。
「ヴァル……血がこんなにたくさん……!」
「美澪……キミ、血が苦手なのに……」
焦った表情を浮かべるヴァルに、美澪は眉を吊り上げた。
「そんなことを言ってる場合じゃないでしょう!」
「美澪、ボクは大丈夫だから。心配しなくても、こんな傷じゃ死なないよ」
そう言ってヴァルは、にっこり微笑んだ。
血に対する恐怖とイリオスへの怒りで、美澪の涙腺は緩み、傷口を押さえる手がガタガタと震える。
(凄い血の量……もし、ヴァルが人間だったら……)
――命が危なかったかもしれない。
最悪な状況を想像してしまった美澪が、青白かった顔色をさらに白くさせたとき、
「そいつの言う通りだ。この程度の刀傷で死ぬような可愛げのあるやつじゃない」
淡々としたイリオスの声が耳朶を打ち、美澪の頭にカッと血が上った。
「なにを……!」
「それよりも美澪。そなたの手を見せてく――」
パシーン!
室内に、乾いた音が響きわたる。それは美澪が、イリオスの手を拒んだ音だった。
「……あたしに、触らないで」
イリオスの手を叩き払った右手から、ボタボタと鮮血が流れ落ちてく。そうして美澪は、手のひらの血を口に含むと、躊躇うこと無くヴァルに口付けた。
何が起こったのか状況を読み込めていない様子のヴァルの瞳が、数秒ののち、大きく見開かれていく。
「っ、みれ……ん、んぅ」
唇を離そうとしたヴァルの顔を両手で包み込み、美澪は口付けを一層深くする。するとヴァルの喉仏が上下し、互いの唾液と血液が混ざりあったものを嚥下する音が美澪の鼓膜を震わせた。その瞬間、言葉で言い表すことのできない多幸感が胸中を満たし、美澪の身体がふるりと震えた。
(あたし、もしかして……ヴァルのことを……?)
ヴァルからゆっくりと唇を離すと、情欲に潤んだ瞳と目が合った。ドキッとした美澪は、途端に羞恥心に駆られ、急いでヴァルから距離をとる。それから、汚れてしまった口元を手の甲で乱暴に拭うと、美澪は改めてイリオスに向き直った。
呆然としていたイリオスは、美澪の視線を受けて意識を取り戻し、キッとヴァルを睨みつける。傷を治すためとはいえ、先に口付けたのは美澪の方だというのに。イリオスは、それが見えていなかったかのようにヴァルへと殺気を向けた。
「パラディン……貴様……!」
「待ってください! どうしてそうなるんですか!?」
どう見ても美澪からヴァルに口付けたのに、イリオスの怒りの矛先はヴァルに向いている。
(なんでこうなるの!?)
美澪はイリオスの前に立ちふさがり、ハァとため息をついたあと、イリオスの瞳を見据えた。
「イリオス殿下。とりあえず、その刀を納めてもらえませんか。刀身が抜き身のままでは、怖くて近づくことも出来ません」
そう言われて、やっと我に返ったイリオスは、軍服の裾で刀身の血を拭き取り鞘に納めた。
「……ミレイ、その、手の傷は――」
「綺麗に治りましたよ。ほら。ご覧になります?」
そう言って、荒っぽい仕草で手のひらを確認させると、「もういいでしょうか?」とイリオスの言葉を待たずにヴァルの下へ戻った。
ちょうどそこに傷の手当道具一式を持ったメアリーが現れた。美澪とヴァルは血で汚れた衣服の交換と、身体を清めるためにパスルームへと向かう。
その様子をただ黙って見ていたイリオスは、美澪の背中に向かって「すまない」と言った。美澪は数秒後、おっくうな気持ちでパーテーション越しに後ろを振り返ると、
「殿下が乱暴したせいでなにも話し合えてません。今度はそちらへお邪魔しますので、お待ちいただけると幸いです」
と言って、血に染まったドレスを床に脱ぎ落とした。




