第33話 混乱
5日目の披露宴。
美澪とイリオスは、いつもと同じようにファーストダンスを踊り終えて、会場の上段に用意された豪奢な椅子に座って会場を見下ろしていた。
しかし、これまでとは変わったことが一つだけあった。それは、イリオスが隣の席に座ったままだということだ。
(今日はずっとここに居るつもりなのかな?)
今までは、社交や外交のために会場内を忙しなく移動していたというのに、今日はダンスを踊り終えてから1度も席を外していなかった。
昨夜のこともあって、非常に居心地が悪い。
(……花園の1件でも気まずい思いをしてるのに)
喧々囂々とした会場内で、此処だけ切り離されたように静寂な空間に浸っていて、美澪は腿の上で組んだ指をそわそわと動かしてしまう。
(どうしよう……。何か話しかけた方がいいのかな……?)
つまらなさそうに椅子に腰掛けるイリオスを一瞥し、何か言葉を発しようと口を開けてみるけれど、結局一言も音にならなかった。
美澪はハァと息を吐いて、イリオスが視界に入らないように首を傾けた。
(もういいや。気にするのはやめよう。……それより、今朝はなんの収穫もなかったなぁ)
廊下で王妃と別れたあと、美澪は予定通りに図書館へ行った。エフィーリア関連の書籍を探し、何冊かそれらしいものを見つけたが、どれも空振りに終わった。
(まだ全部の棚を調べたわけじゃないし、また図書室に行ってみよう)
そう決意した美澪の脳裏に、今朝の王妃とのやり取りがちらついた。ズキンと傷んだこめかみを、人差し指でグッと指圧する。
(あたしを敵視しても意味ないのに。完全に逆恨みだよ……)
ハァ、とため息を吐いた美澪に、
「どうした? ため息が多いようだが」
とイリオスが話しかけてきた。
美澪は咄嗟に返事をすることができず、「えっと、」と言ったきり、口ごもってしまう。
何も言えないでいると、ハッとして表情を固くしたイリオスが、
「もしかして、また体調が悪いのか?」
と言って、美澪に手を伸ばしてきた。その瞬間――
『残念ね。イリオスはあなたのことなど少しも愛していないわ』
王妃の声が脳裏をよぎって、思わずバシッとその手を拒んだ。
「……っ」
「あ……」
――やってしまった。
サアッと青ざめた美澪は、イリオスの顔を見るのが恐ろしくなり、勢いよく椅子から立ち上がった。
「あ、あたしっ。ちょっと外の空気を吸ってきます!」
そう言って、テラスに向かおうとした美澪の手首を、ヴァルが掴んだ。
「美澪。一人じゃ危ない。ボクもついて行く」
ヴァルに左腕を差し出され、今回ばかりは、ためらうことなく右手を伸ばした。しかし、
「私が共に行こう」
そう言って、颯爽と立ち上がったイリオスに、会場中の視線が集まる。
「夫を差し置いて、護衛の手を取るわけにはいかないだろう?」
「あ……はい……」
美澪は苦笑いを浮かべて右手を引っ込めようとした。
しかしその手を、ヴァルがパシッと掴んだ。
「エクリオの若き朱鳥たる王太子殿下のお手を煩わせるまでもありません。エフィーリアであらせられる王太子妃殿下の護衛は、聖騎士である私の役目ですので、殿下はそのままパーティーをお楽しみ下さい」
にっこり笑って腰を折ったヴァルに、イリオスは不快感をあらわにする。
「ミレイはエフィーリアであり私の妻だ。私が付き添う。貴様はここにいろ」
大衆監視のもと、公然と待機を命じられたヴァルは、「……御意」と言って引き下がるしかなかった。
「ヴァル……ッ」
美澪はヴァルに助けを求めようとしたが、イリオスが強引に肩を抱いて引き寄せたせいで出来なかった。
波が引くように招待客たちが道を開けていく中、イリオスと美澪はまっすぐにテラスへ向かう。
「王太子殿下、王太子妃殿下」
テラスの出入り口に着くと、警備中の騎士たちが一斉に敬礼をした。
イリオスが黙って頷くと騎士たちは姿勢を正し、そのうちの一人がテラス席の扉を開けた。
扉が開いた瞬間に入り込んできた冷気に、美澪はぶるりと震え、丸出しになっている二の腕を擦った。
「寒いのか?」
イリオスに聞かれ、
「はい、少しだけ。でも大丈夫です」
と答える。するとイリオスは、両肩の留め具を外してマントを脱ぐと、それを美澪の肩に掛けた。ベルベットのマントが、美澪の小さな身体を包み込む。
美澪が礼を言う前に、マントの上から肩を抱いたイリオスが、背後に顔を半分だけ向けた。
「では、見張りを頼むぞ」
「はっ! お任せください!」
騎士たちは膝をついて頭をさげる。それを見たイリオスは無言のまま頷き、美澪と共にテラスへと足を踏み出した。
テラスへ出た瞬間、城正面にある大きな湖の水面を通った冷涼な夜風が、会場の熱気で火照った美澪の頬を優しく撫でていった。
その心地良い涼しさに笑みがこぼれ、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む。
そうしてふと見上げた夜空には、満天の星が宝石箱をひっくり返したかのように、輝く光の道をつくっていた。
キラキラときらめく星々が、鏡のような湖面に映り込む幻想的な光景に、ほぅ、と感嘆のため息が出た。
「気に入ったか?」
「はいっ!」
イリオスに問われて笑顔で振り仰ぐと、星の輝きを閉じ込めたような琥珀色の瞳が、柔らかく細められていて、美澪の心臓が大きく跳ねた。
ドクン、ドクン、と強く拍動する心臓を、ドレスの上から押さえ込む。
(これはあたしの気持ちじゃない。あたしの中のトゥルーナが反応してるだけ!)
そう言い聞かせるが、美澪の考えを否定するように、心臓の鼓動は速まっていく。
『身体から始まる関係だってあるでしょ』
(あたしは違う!)
『2人並ぶとまるで兄妹に見えませんこと?』
『そなたを愛せなくても、伴侶として尊重し、大切にするつもりだ』
(2人の言葉に傷ついてなんかない!)
『あなたはゼスフォティーウ様を愛していないのでしょう?』
(うるさい! 黙って! 好き勝手言わないで!)
耳を押さえながら、胸を、ドン! ドン! と叩く。
しかし自立して動く心臓を自分の意思でコントロールすることなど出来るはずもなく。
美澪の行動を不審に思ったイリオスによって、手の動きを封じられてしまった。
「ミレイ、どうした? 何をしている。胸が痛むのか!?」
そう言って、必死の形相で訊ねてくるイリオスの手を勢いよく振り払って、温かい腕の中から逃れる。
「やめてください!」
美澪は泣き叫ぶように言って、イリオスに掴まれた手首をぎゅっと握った。そこは熱をもったように熱く、『イリオスに触れられた』と意識すればするほど、手首と胸がジンジンと疼き出す。
美澪は、頭の中で繰り返される言葉たちを追い出すようにかぶりを振った。
「ミレイ! ミレイ、落ち着くんだ。ゆっくり深呼吸するんだ。ミレイ、俺の声が聞こえるか?」
宥めるように言いながら、一歩、二歩、と近付いてくるイリオスに、
「来ないで!!」
喉が破裂したのではないかと思えるほどの大声で叫んだ。そしてイリオスの背後を見てハッとする。
テラスの異変に気付いたのだろう。招待客たちがざわざわと騒がしくなり、ガラスの扉から美澪たちの様子を覗おうとしているのが見えた。
美澪の視線に気付いたイリオスは、後ろを振り返って騎士のひとりに目配せし、それに頷いた騎士が他の騎士たちを伴って会場に入って行った。
やがて会場の窓には分厚いカーテンがかかり、招待客たちの喧騒も収まって、テラスだけが別世界のように静まり返った。
美澪はよろよろと後退し、アイアンの手すりに行き当たると、ぼうっと足元を見つめた。そうして呆然と開いた瞳から、つぅ、と涙がこぼれ落ち、石畳にシミを作っていく。
「……イリオス殿下。殿下は、王妃殿下のことを愛してらっしゃるんですよね?」
俯いたままイリオスに問いかける。
「……そうだ」
少し躊躇ったのち、美澪の言葉は肯定された。
「っ、」
そう、それでいい。それが正しい。正しくないのは、ズキズキと痛み出した美澪の心臓だ。
「……っ、なんでぇ……?」
しゃくり上げながら痛む心臓を鷲掴み、なんで、どうして、と独り言を繰り返す。
美澪に拒絶され、動けないでいるイリオスが身じろぎをした。その気配を感じ取り、美澪は顔を上げてイリオスを見上げて表情を崩した。
王妃を愛していると認めた筈のイリオスの顔に、美澪の言葉に傷付いたような表情が浮かんでいたからだ。




