こんなにも不出来な私でも、生きていく他ないので。
陽キャじゃないから他人と話せないだとか、コミュ力が無いから上手く関係性が築けないだとか、人づき合いの成否を性格や能力のせいにする人間は多い。
だけど、私は知っている。
他人と上手くつき合えるかどうかは、結局のところ、自分に“ゆとり”があるかどうかだ。
気楽に他人と話ができる心の余裕、他人の心情や事情を酌める精神の余裕――それがあるかどうか、だ。
どんな人格者でも、コミュニケーションの達人でも、自分のことしか考えられない切羽詰まった状況では、他人を思いやっているゆとりなんて持てない。
まして、気づけば自分のことでいっぱいいっぱいの私なんて、尚更そんなゆとりがあるわけがない。
私は元から、自分に自信の無い人間だ。
元から、自分が他の人間と“違う”ことを自覚している。――それも、悪い方向で。
いつも、何かとタイミングが悪くて、周りをイライラさせる。
いつも、言動が他の人と少しズレて「何言ってんの、この子」みたいな目で見られる。
博愛主義の大人なら「自分のペースで良い」「他人と意見が違うのも君の個性」なんてフォローしてくれるのだろう。
だけど、私が今居るのは、そんな“建前”もロクに無く、“周囲と違う人間”は普通に差別されがちな、残酷な子ども社会だ。
皆から「鈍臭い子」「変わった子」という目で見られ続けて、自己肯定感なんて育つはずもない。
自分に自信が無い人間は、いつも心がいっぱいいっぱいで、ゆとりなんて持っていられない。
いつでも周りの目が怖くて、何に怯えているのかも分からないまま、ビクビクオドオドしてしまう。
きっと他の人にとっては何でもない挨拶ひとつにも、緊張して心が震える。
心に余裕の無いこの苦しさは、きっと“普通の人”には分からない。
何か行動を起こそうとするたび、何かを間違えていないかとドキドキする。
“他の人が当たり前に知っていること”を知らずに、変な勘違いをしているんじゃないか……。
“私なりのベストなやり方”が、実はとてつもなく非効率で的外れで、皆はもっと簡単で最適なやり方で物事を進めているんじゃないか……。
いつも他人の優秀さを異常に畏れ、いつも自分を悪い方に疑う。
“他人より劣った私”が見つかってしまうのを恐れて、無意識に人目を避ける。
現代人は承認欲求が強いなんて言うけど、私は「目立ちたい」「注目されたい」と思ったことなんて一度も無い。
こんな私が多くの人の目に晒されるなんて、とんでもない。
こんなにも心にゆとりが無いのは、私が人間として不出来なせいなのだと、ずっと思ってきた。
だけど、気づいた。
私より能力が低くても、余裕で他人と付き合える人間はいる。
私よりずっと能力が高いのに、私と同じくらい余裕が無くてオドオドしている人間もいる。
“人生は心の持ちようひとつ”って、きっと結構真実なんだ。
だけど、それが分かったところで、そう簡単に性格は変えられない。
実際問題、私が何かと他人より劣っているのは事実なのだ。
結局何かと弱肉強食なこの世の中で、人より劣った人間は、人より厳しいサバイバルを強いられる。
公平だの、平等だの、いじめや差別の無い世の中だの、多様性だの、SDGsだの……立派でお綺麗な“理想”が、今までどれだけこの世で叫ばれて来たか知れない。
だけど私が今居るこの現実は、ちっともそんな優しい世界になっていない。
きっと皆、偉い大人から押しつけられた理想より、身近な弱者や敗者をつついて叩いて嘲笑う方が愉しいんだ。
大人たちはよく、いじめや差別が“悪意”から生まれると思っている。
いじめや差別をするのは、性格からして“悪い”人間なのだと。
だけど、私は知っている。
少なくともあの子たちは、それを“悪い”と思ってやっていない。
心の奥底には“悪意”があるのかも知れないけど、それはたぶん、本人さえ無自覚の、無意識レベルの“意識”なんだ。
あの子たちには“悪いこと”をしているつもりが無い。
周りから“悪いこと”だと言われても、本人たちはそれが“悪いこと”だと認識していない。
あの子たちは、ただ“愉しいこと”をしているんだ。
相手が傷つき、心を病むような行為を“おもしろがって”やっている。
さらには仲間内でその“愉しさ”を共有して、行為をますますエスカレートさせる。
誰かが止めさせようとすると「愉しいことに水を差すな」と不機嫌になる。
だから、厄介なんだ。だから、残酷なんだ。
だから、理屈で止めさせるのが難しいんだ。
本能的な“愉しさ”の前では、善悪やモラルなんてあまりに弱々しい。
まして“快楽に弱い子”に、そんなものが響くわけがない。
「いじめをしてはいけません」なんて、当たり前の説教で解決できるようなものじゃないんだ。
結局大人は、標的にされる子どもを守る術なんて持てていない。
子どもは必死に、自分がターゲットにならないよう、立ち回り続けるしかないんだ。
誰にも助けてもらえないなら、自分で自分を守るしかないんだ。
不出来な人間は、何かと言っては“存在の消滅”を願われる。
ただ“ありのまま”でいるだけなのに「生きる価値が無い」と断罪される。
好きで足を引っ張っているわけじゃないのに、わざと気に障ることを言っているわけじゃないのに、自分で選んで“能力の低い人間”に生まれたわけじゃないのに……一方的に、生の価値を決めつけられる。
あまりに重い存在否定を、あまりに軽く、簡単に投げつけられる。
だけど、生きる意味を否定されたところで、死を願われたところで、そう簡単にこの命を手放すことはできない。
自分で生を終わらせるには、大概の場合、壮絶な苦痛が伴う。死に対する、本能的な恐怖もある。
何より私自身、まだこの人生を棄ててしまいたいわけじゃない。
望まれなくても、疎まれていても、生きていくしかないんだ。
望むような自分じゃなくても、他人より劣っていても、生きていくしかないんだ。
だから、生きていく他ない私は、自分が生きていける方法を考える。
こんなにも不出来な私でも、何とか毎日を生きていけるよう、必死に知恵を巡らす。
私の“出来なさ”に怒る人達は、「どうしたら出来るようになるのか」を教えてはくれない。
“出来ない私”に苛立つなら、私が“出来る”ようになれば、全て解決して皆幸せになれるはずなのに、その方面に頭を使ってはくれない。
そもそもあの人達にも「分からない」のかも知れないけど……能力の差を埋める知恵と努力は、いつでも“出来ない側”が負わされる。
そもそも方法も何も分からないから“出来ない”のに「出来るようになれ」なんて、明らかな無理難題だ。
せいぜい私に出来るのは“出来る人”の真似をすること。
そして“出来ない”ことがバレないよう誤魔化すことだけだ。
“出来ない私”を偽って、“普通の人”の仮面を被る。
いつか見破られるんじゃないかとヒヤヒヤして、心はいつも綱渡りの緊張感だ。
とてもじゃないけど、余裕なんて持っていられない。
心にゆとりがあれば、人づき合いを楽しむことも出来るんだろうな――なんて思う。
もっと積極的に他人に話しかけて、交友関係を広げることも出来るのかも知れない。
今の私には何より、そこの余裕が足りていない。
コミュニケーションを楽しむ余裕、人生を楽しむ余裕、何気ない毎日を楽しむ余裕が……。
“出来ない自分”を必死に誤魔化す日々でも、慣れればいつかゆとりが持てる日も来るのかな――なんて、希望を抱いてみることもある。
嘘を貫き通して真にする例があるように、私のこの偽りも、いつか本当にならないかな、なんて考える。
こんなにも不出来な私でも、死にたくはないから、生きていくより他ない。
だから、せめて希望を夢見る。
心の持ちようひとつで変わる人生が、絶望に転んでしまわないよう、必死に頭を巡らす。
必死に頭と精神を使って――今日も、何とか生きていく。
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