第79話(ベルンハルト視点)宝物
「ベルンハルト様! 今日こそ、今日こそできますわ!」
訓練を終えて屋敷へ戻ると、湯浴みを済ませた妻が出迎えてくれる。ここ最近……王都から戻ってきて以来、毎日の恒例行事だ。
かれこれもう、2週間ほどになるだろうか。
「ドロシー。今日はゆっくりしてもいいんじゃないか? ドロシーも疲れているだろう」
「疲れてなどいません! わたくし、大丈夫ですわ!」
「……だが」
「旦那様は、わたくしとするのが嫌になっちゃいましたの!?」
大きな瞳に涙をいっぱい溜めて、上目遣いで見つめてくるドロシーは愛らしい。
そんな彼女が嫌になる、なんてことはあり得ないのだ。未来永劫、そんなことはないと断言できる。
「違う。ただ、ドロシーも疲れているだろうから……」
「ぜんっぜん、疲れてませんから!」
頬を膨らませ、ドロシーはベルンハルトの手をぎゅっと掴む。
これほど意固地になった妻にどう対応すればいいのか、ベルンハルトにはよく分からないのだ。
「わたくしは寝室で待っていますから、ベルンハルト様も、食事を終えたら早くきてくださいね!」
そう言い残し、ドロシーが大股で……と言ってもベルンハルトから見ればかなり小さい歩幅で、寝室へ去っていく。
遠ざかる背中を見ながら、ベルンハルトはそっと溜息を吐いた。
最近、夕食を一緒に食べてないな。
毎日の訓練を終えたベルンハルトにとって、ドロシーと夕食を食べるのは癒しの時間だった。
ドロシーは美味しそうに食べるし、食事の際、今日一日のできごとをあれこれと楽しそうに語ってくれる。
とりとめのないドロシーの話を聞くことも、笑顔のドロシーを見ることも好きだ。
それなのに。
『だ、大丈夫です、こ、これくらい……死ぬわけではないでしょうし……!』
目を閉じれば頭に浮かぶのは、苦しそうに呻く、煽情的な妻の姿。
小さな手でぎゅっとシーツを握り締め、泣きながらも必死に笑顔を作ろうとする健気なドロシー。
彼女を大事にしたいのに、つい、乱暴にしてしまいたくなる自分が恐ろしい。
◆
食事を済ませてから寝室へ向かうと、夜着に身を包んだドロシーが待っている。
既に肌が火照っているのは、アデルから勧められたという怪しげなオイルのせいだろう。
身体をリラックスさせる効果があるらしいが、本当かどうかは怪しい品だ。
「ベルンハルト様! お待ちしていましたわ。夕飯、ちゃんと食べました?」
「食べたが……」
精のつく食材ばかりで構成された夕飯を思い出し、内心で溜息を吐く。
そんなものは必要ないのだと何度か伝えたが、なかなかドロシーは納得してくれないようだ。
「さあ、ベルンハルト様、こちらへ! さあさあ!」
ベッドを何度も叩き、ドロシーがベルンハルトを手招きする。その手が震えていることに気づかないでいられるほど、ベルンハルトは鈍くない。
これがドロシーじゃなければ、こんなことは気にならないのに。
娼婦の身体が多少震えていたところで、きっと何も気にしない。興が覚めて他の者を指名することはあるかもしれないが、心配する、なんてことはないだろう。
隣に腰を下ろすと、びくっ、とドロシーの身体が震えた。怯えられているようで少し切ない。
それでも頬に手を伸ばせば、まるで猫のようにすり寄ってくる。
「……今日こそ、今日こそいけますわ」
「俺は、焦る必要はないと思っている」
「わたくしは一秒でも早く、ベルンハルト様とちゃんとした夫婦になりたいんですわ!」
真ん丸な瞳は、小さい時からなにも変わっていない。体重だって、初めて抱きかかえた日から、それほど変わってはいないだろう。
ドロシーと初めて出会ったのは、彼女が幼い時だった。きっとドロシーは覚えていないだろうし、別に、思い出してもらいたいわけでもない。
それでもつい小さい時のドロシーを思い出してしまうから、なにか悪いことをしているような気分になる。
「分かった。痛かったらすぐに言ってくれ」
「……わたくしが泣き叫んでも、やめる必要はありませんわ」
「ドロシー」
強い口調で名前を呼べば、ドロシーは拗ねたように口をとがらせる。幼い子供のような表情は、閨には馴染まない。
「俺はドロシーの旦那だ。暴漢になりたいわけじゃない。分かるだろう?」
「……分かっていますわ」
不貞腐れたように言い、ドロシーはベルンハルトにキスをした。薄い唇の間に舌をねじこんでやると、それだけでおとなしくなる。
細い腰は、力を入れれば簡単に折れるだろう。小さい口だって、手で塞いでしまえば、外には悲鳴一つ聞こえない。
彼女を強引に物にすることは、ドロシーが思っているよりもずっと容易いことなのだ。
「貴女が俺と結ばれたいと思ってくれる以上に、俺は貴女を大切にしたい。分かってくれ、ドロシー」
初めて愛おしいと感じた日から、もうずいぶんと長い年月が経った。今さらあと少し追加されたところで、気持ちは何も変わらない。
「ベルンハルト様……」
「愛している、ドロシー」
人生の大半を戦場で過ごしてきたようなベルンハルトにとって、ドロシーとの日々がどれほど貴重で尊く、愛おしいものなのか。
宝物のようなドロシーのことを、どれほど大切に扱いたいのか。
きっとドロシーは分かっていない。
けれどそんなところも愛おしいのだから、伝わらなくたっていいのかもしれない。
◆
「ごめんなさい、旦那様……」
「謝らなくていい。前よりは上手くいっただろう?」
「……でも」
結局今回も、最後まではできなかった。それでも少しずつ進歩はあるのだから、落ち込むことはない。
男の身として辛いところはあるが、ベルンハルトが我慢すればいいだけの話だ。
「……呆れていませんか? その、妻としての務めもろくに果たせないなんて」
「そんなわけないだろう」
「……他の方のところに行ったりも、しないわよね?」
上目遣いで見つめてくるドロシーはやはり子供みたいだ。愛らしすぎて、本当は今すぐ抱きつぶしてしまいたい。
「当たり前だ」
貴族の男の大半は愛人がいるし、妓楼通いが好きな者も多い。だが、正妻とは全く別物だ。
特に妓楼の女など、欲を満たすだけの存在である。
ドロシーはそれがよく分からないんだろうな。純粋で可愛らしい方だ。
「それより、朝食にしよう。身体がきついだろう? 部屋へ運ぶよう頼んでくるから、休んでおくといい」
軽く頭を撫で、ベッドを下りて服を着る。夜の間は、寝室に近づかないよう使用人たちへ伝えてあるのだ。
ドロシーの声は小さいが、それでも閨で聞く彼女の声を、他人に聞かれるのは絶対に嫌だから。
「おい。朝食だが、部屋に……」
目についたメイドに声をかけようとした瞬間、顔を真っ青にしたアデルが屋敷へ飛び込んできた。
「大変です! 王都から早馬が……!」
「王都から? なにがあったんだ?」
「南方の国境付近で隣国との小競り合いが発生したそうです! 我が騎士団にも援軍を派遣するよう指示があり、その指揮官はベルンハルト子爵本人が務めるように、と……!」




