第74話 俺は貴方に
バルコニーに到着すると、ようやくエドウィンはドロシーの手を放した。ガラス張りのドア越しに、広間にいる人々がこちらを見ているのが分かる。
中でもベルンハルトは、人を殺しそうなほど鋭い視線をこちらへ向けていた。
「……それで、わたくしに何か用ですの? カロリーネもきっと、いい気持ちにはなりませんわ」
他人から姿が見える場所とはいえ、こうしてそれぞれパートナーのいる男女が二人きりになるのは褒められた行動ではない。
そんなこと、エドウィンだって分かっているはずだ。
「カロリーネのことを気にする必要はない」
はっきりと断言し、エドウィンは深い溜息を吐いた。常に自信満々な彼のこんな表情を見たのは初めてかもしれない。
「あの男とは上手くいっているのか?」
「それはもう、順調の極みですわ」
見せつけるように満面の笑みを浮かべる。挑発するようなドロシーの態度にも乗ってこず、エドウィンはそうか、と呟いただけだった。
本当に、今さら何がしたいのかしら?
それに、カロリーネのことを気にしなくていいって、どういうことなの?
「時間もないから、単刀直入に言う。ドロシー、俺とやり直さないか」
「……はい?」
「あいつと離縁して、俺と結婚しよう。そう言っているんだ」
「……は!?」
思わず淑女らしからぬ声を上げてしまうほど、理解できない言葉だった。
あのエドウィンがわたくしに求婚? どういうことですの?
「……カロリーネとの婚約は破棄しようと思っている」
「……え?」
「お前と婚約破棄した後、カロリーネと正式な婚約を結ぶ前に、父さんが彼女の身辺調査を行った」
一瞬、エドウィンが泣きそうな顔をしたように見えて、ドロシーは戸惑ってしまう。
「カロリーネは気に入らない相手を、お前にやったのと同じやり方で苦しめていたんだ。要するに相手の婚約者に悪口を吹き込み、二人の仲を悪化させていた」
「……そうだったんですのね」
「それだけならまだ許せた。だが……それだけじゃなかったんだ」
バルコニーの柵を掴み、エドウィンがうなだれる。話を聞く義理なんてないのだが、つい聞いてしまう。
「あいつは俺以外の上位貴族にも、同じやり口で近づいていた。その中で最も権力があった俺が最終的に選ばれた。それだけだったんだ」
「エドウィン様……」
「つまりあいつは、他の男にも抱かれていた」
情けないだろう? と笑うエドウィンの顔があまりにも痛々しく、なんと言っていいのか分からなくなる。
エドウィンは最低な奴だけど、きっと、カロリーネのことは本当に好きだったんだわ。
好きな人に裏切られることを想像するだけで胸が苦しい。もしベルンハルトが他の女を抱いていたら、きっと正気ではいられないだろう。
「それに俺は、あいつと遊んでいた連中から陰で笑われるようになった。あんな売女と本気で結婚する奴がいたとは、ってな」
「もう、カロリーネのことは好きじゃありませんの?」
「……分からないな。ただ、貴族として、間違った選択をしてしまったことは理解している」
そう言うとエドウィンはひざまずき、いきなりドロシーの手の甲に口づけた。
「俺と結婚してくれ、ドロシー」
「……カロリーネが他の男と関係を持っていたからって、今さらわたくしに求婚なんておかしな話ですわ。わたくしは既婚者ですのよ?」
「あいつとは離婚すればいい」
立ち上がり、エドウィンがドロシーの腹部にそっと触れた。
「まだ子供はいないんだろう」
あまりに下品な言葉に、慌てて手を払いのける。既婚女性に向けていい言葉ではないし、態度でもない。
「あり得ませんわ! 先程も言いましたけど、わたくしとベルンハルト様の関係は極めて良好ですの。今さら、他の方と結婚するはずがないでしょう」
「あいつが仕事と地位を失うことになってもか?」
ちら、とエドウィンは広間にいるベルンハルトへ視線を向けた。
「あいつは平民から必死に成り上がって今の地位を手に入れたんだろう。お前の返答次第では、あいつは全てを失うぞ」
なあ、とエドウィンが馴れ馴れしく腰に腕を回してくる。咳き込みたくなるほど強烈な香水の匂いがした。
「そうなれば、いつまでもあの男の妻ではいられないだろう。ベルガー侯爵が、夫と共に落ちぶれていくお前を放っておくはずがない」
離れようとしても、力ではエドウィンに敵わない。せめてもの抵抗で睨みつけても鼻で笑われて終わった。
「あの男が本当に愛しいのなら、離婚して俺と結婚しろ。そうすれば、あいつに手を出すことはないと誓おう」
エドウィンがドロシーの頬に手を伸ばしてきた、その瞬間。
バルコニーの扉が開いて、ベルンハルトが入ってきた。
「ベルンハルト様!」
ベルンハルトはたくましい腕でドロシーをエドウィンから奪い、背中にドロシーを庇うようにしてエドウィンと向き合った。
「……何のつもりだ?」
「それを言うのは俺の方です。俺の妻に、いったいどういうおつもりですか」
「もう一度言うぞ。平民風情が、いったいどういうつもりなんだ」
エドウィンに睨みつけられても、ベルンハルトは頭を下げない。それどころか、より鋭い眼差しでエドウィンを睨みつける。
どうしたらいいの、この状況……!?
ベルンハルトがきてくれたことは、素直に嬉しい。だが、状況を考えるとただただ浮かれてはいられない。
もうすぐ陛下がやってくるこの大事な場面で、ベルンハルトが大貴族相手に揉め事を起こしかけているのだから。
妻として上手くおさめなきゃ……でも、どうやって?
エドウィンの言ったことをそのままみんなに伝えて、エドウィンの下劣さをアピールすればいいのかしら? でも……。
ドロシーが悩んでいる間に、ベルンハルトが口を開いた。
そして、ドロシーが予想もしていなかった言葉を口にする。
「エドウィン殿。俺は貴方に、決闘を申し込みます」




