第72話 猫かぶりヨーゼフ
「どうぞ」
水の入ったグラスをベルンハルトから受け取り、一気に飲み干す。カロリーネの前では動揺を見せないようにしていたけれど、正直、すごく緊張した。
誰かに言い返したり、挑発的なことを言うことには慣れていないんだもの……!
「ドロシー。本当に大丈夫か?」
「……はい、なんとか」
自然な動作で、ベルンハルトが空になったグラスを受け取る。広間にはどんどん人が集まってきているが、カロリーネの周りには人がいない。
けれど視線を集めているのは相変わらずだ。
「ドロシー様。あの人は嫌われてるんですか?」
小声で直接的なことを聞いてきたのはデトルフだ。
視線を集めているという点では彼も同じで、先程から多くの女性の目を奪っている。
「……わたくしはあまり、よくは知らないの」
女学校に通っていた頃も、カロリーネと親しくしていたわけではない。
「でも前は、取り巻きみたいな子はいたと思うんだけど。それに舞踏会の時は、よく何人もの人にダンスを申し込まれるって噂で……あっ」
分かったわ。カロリーネが孤立しているのは、エドウィンの婚約者になったからよ。
エドウィンの婚約者を他の男がダンスに誘うわけにはいかないし、親しくするわけにもいかないもの。
取り巻きの女子は増えてもよさそうなものだけれど……。
ドロシーが考え込んでいると、不意にベルンハルトから肩を叩かれた。
「ベルガー侯爵たちがいらっしゃいましたよ」
「あっ!」
入り口へ視線を向けると、父と弟が入ってくるところだった。父はともかく、ヨーゼフは表情や歩き方すら普段と雰囲気が大きく異なる。
猫をかぶっているわね、あの子……!
貴族として大事なことだとは分かっているものの、いつものヨーゼフを知っているだけに、少しおかしくなってしまう。
「ベルンハルト様。一度ヨーゼフたちのところへ……って、ちょっと、待ってください」
「どうかしたんです?」
「……なんでヨーゼフが、あんなに人に囲まれていますの!?」
広間へ入ってきた瞬間に、ヨーゼフは大勢に囲まれた。そのほとんど全員が男性であり、ヨーゼフと同年代の少年たちが中心だ。
おそらく同じ学校の生徒たちだろうが、ヨーゼフは性格の問題で、あまり友達が多いタイプではなかったはずである。
それが今は、近づくのもはばかられるほど、多くの者に囲まれているのだ。
せっかく人が集まっているのだから、わたくしは離れていた方がいいのかしら?
そう思ったドロシーが歩くのをやめようとした瞬間、お姉さま! とヨーゼフの声が広間に響いた。
やたらと快活な声はいつものそれとはまるで違うし、なにより、お姉さま、なんて呼び方には違和感しかない。
その上ヨーゼフは満面の笑みを浮かべたまま、ドロシーを手招きする。
「どういうことなの……?」
「とりあえず行きましょう、ドロシー様」
「……ええ」
状況は理解できていないけれど、ヨーゼフに呼ばれているのだから、行くしかない。
それになにより、大勢の友達らしき人たちに囲まれている弟を見るのは、姉として幸せなことだ。
◆
「紹介するね。僕の姉と、その夫のシュルツ子爵だよ」
えーっ!? この爽やかな笑顔を浮かべた人当たりのいい子が、本当にヨーゼフなの!?
目を丸くしてヨーゼフを見ると、一瞬だけ強く睨まれた。よかったヨーゼフだわ……と安心しつつ、それ以上に動揺してしまう。
ヨーゼフは、家と外の態度が全く変わらなかったわけじゃない。しかし、これほど猫をかぶるタイプでもなかったはずだ。
「いつも弟がお世話になっていますわ。わたくし、ドロシーと申します」
戸惑いながらも、とりあえず丁寧に挨拶しておく。するとベルンハルトもドロシーに習って、丁寧に頭を下げた。
「で、こっちがデトルフさん。ベルンハルト殿の親友で、騎士団の副団長を務めてる人でもあるんだ」
急に紹介されたデトルフは説明を求めるような顔でドロシーを見つめた。
そんな顔をされても、わたくしだって今の状況は全然分からないわ……!
護衛役として傍に控えているとはいえ、デトルフは舞踏会の参列者ではない。そもそもただの平民であり、ヨーゼフが友人へ紹介するような立場の人間ではないのだ。
それなのに紹介された友人たちは、きらきらと輝く眼差しをデトルフへ向けている。
「急に呼んでごめんね。でもみんなが、二人の話を聞きたいって言うから」
ヨーゼフがそう言うと、ヨーゼフを取り囲んでいた集団のうちの一人……ヨーゼフより少し幼く見える少年が、ベルンハルトの前に飛び出してきた。
「あの! 騎士団の人たちって、恐ろしい魔物と戦うんですよね!? 僕、そういう話にすごく興味があって、その、聞かせてもらえませんか!?」
少年が言い終えると、俺も! という声があちこちから上がった。どうやら彼らは、魔物との戦いについて聞きたかったらしい。
でも、どうしてなの? ヨーゼフがなにかしたの?
ようやくドロシーの疑問に答える気になったのか、ヨーゼフが一歩前に進み出た。
「最近、学校では魔法騎士を主役にした冒険小説が流行っているんだよ。だからみんな、ベルンハルト殿たちの話が聞きたいんだ。それに剣術の先生も、よくベルンハルト殿の話をするしね」
「まあ……!」
この子たちはみんな、ベルンハルト様の素晴らしさに気づいているってことなの!?
よく分かってるじゃない……!
「だから、よかったら話を聞かせてくれないかな。実戦経験のない僕たちとしては、ベルンハルト殿の話を聞きたいんだ」
「……俺の話でよければ」
ベルンハルトがそう口にした瞬間、わあっ! とはしゃいだ歓声が上がった。だがそれと同時に、広間に一人の男が入場してきた。
エドウィン・フォン・ケルステン。
ドロシーの、元婚約者である。




