第49話 大変です!
「奥方様、大変です!」
慌ただしく部屋に入ってきたアデルが叫ぶ。
「既に屋敷の前に、多くの領民がきてます!」
「えっ!?」
慌てて時計を確認する。大丈夫だ。まだ、庭を開放する時間にはなっていない。
今日だけは絶対に寝坊できないから、昨日はちゃんと早く寝たのだ。
「開始はまだよね?」
「はい。ですが、時間に間に合わなくなっては困ると、外で並んでいるんです」
「……まあ」
あくまでも今日は『領民たちの要望を聞く』だけの日だ。なにかをあげたり、願いを聞いてあげると確約したわけじゃない。
それなのに、そんなにたくさんの人がきてくれたなんて。
それだけ、伝えたいことがあるってことよね?
「分かったわ。早めに庭を開けましょう。マンフレートさんも準備はできているかしら?」
「はい。いつでも大丈夫だと言っていました」
「ありがとう」
深呼吸をし、頭の中を整理する。
マンフレートに言われている注意事項は二つだ。
一つ目は、領民に対して横柄な態度をとらないこと。
二つ目は、要望を聞きつつも、安易に解決を約束しないこと。
大丈夫。マンフレートさんやアデルさんだけじゃなく、今日はヨーゼフだっているんだもの!
◆
中庭に行くと、今日のために用意した椅子とテーブルの前に長蛇の列ができていた。
ドロシーの姿が見えると、領民たちから歓声が上がる。
わたくしはまだ、何もしていないのに。
それでもこの機会を設けたってだけで、こんな風に感謝してもらえるのね。
領主がベルンハルトに変わったことで、以前より安全に暮らせるようになったとは聞いている。
だが、それ以外の部分に関しては、それほど積極的な改革を行っているわけではないらしい。
ベルンハルト様は魔法騎士だもの。他の領主に比べて領地を留守にすることが多いわ。
それに、領地経営についてなんて学んでいないでしょうし。
だからこそ、わたくしがやるのよ!
「皆さん。今日は、いろんな話を聞けたらと思っていますわ」
にっこりと微笑んでから椅子に座る。隣に立つマンフレートが、領民たちの要望を紙に書き記しておいてくれることになっている。
「遠慮なく、思っていることを言ってくださいね」
◆
「台車の他にもなにか便利な農具が欲しい!」
「大きな街や村に行ってみたい!」
「農業以外の仕事という選択肢も欲しい!」
「領民全員が使える施設のようなものが欲しい!」
「大きな病院が欲しい!」
「どうにかして収入を増やしたい!」
「若者や子供の数を増やしたい!」
他にも、領民たちからはおそろしいほどの数の要望が出た。とりあえず全員の要望を笑顔で聞いたものの、それだけでかなり疲れてしまった。
元々は午前中だけを予定していたにも関わらず、既に空は茜色に染まっている。最後の領民が出ていった瞬間、ドロシーは地面にしゃがみ込んでしまった。
疲れたわ……!
傍から見れば、ただ座って人の話を聞いていたようにしか見えないかもしれない。
しかし、本当に疲れた。今すぐベッドに寝転んだら、おそらく一秒も経たずに睡魔と友達になれるだろう。
「おつかれさまです、奥方様」
マンフレートがドロシーにそっと手を差し伸べる。その手をとろうとした瞬間、奥方様! と明るい声が聞こえた。
コリーナだ。
帰ったと思っていたのだが、走って戻ってきたらしい。
「コリーナ、どうかしたの?」
無理に笑顔を作り、ゆっくりと立ち上がる。コリーナとはまだ空が青いうちに話をした。
ちなみにコリーナからの要望は『病院が近くに欲しい』である。
現在村には医者がいるが、大きな病院はない。風邪程度なら診療してくれるそうだが、大きな怪我や病に対応する術はないようだ。
「これ、お家から持ってきたんです!」
コリーナが見せてくれたのは、形のいい葡萄だった。一つ一つの実が大きくて美味しそうだ。
「その、とれたばかりで美味しくて、しかも綺麗にできた物なので、奥方様に食べていただけたらと……!」
コリーナの愛らしい笑顔が、疲れた身体に沁みる。おまけに、コリーナが作ったという葡萄は本当に美味しそうだ。
「ありがとう。ちゃんと料金は支払うわね」
「そんな……大丈夫です、そんなの!」
コリーナは慌てて首を横に振ったが、さすがにそういうわけにはいかない。
彼女の暮らしぶりを見れば余裕がないことは明らかだ。この葡萄だって、売ればかなりの額になるだろう。
……あれ? でも、こんなに立派な葡萄ができても、あまり儲けは少ないのかしら?
コリーナが見せてくれた葡萄は本当に立派で、ベルガー家の食卓に並んでも違和感はない。
これほどの物が作れるのなら、もっといい生活ができてもよさそうなのに。
「ねえ。それ、僕も食べていい?」
そう言って葡萄を一粒ちぎったのはヨーゼフだ。ヨーゼフの姿を見つけ、コリーナがきらきらと瞳を輝かせる。
「もちろんです、ヨーゼフ様!」
相変わらず真っ直ぐなコリーナの眼差しを向けられているのに、ヨーゼフはやはり愛想がない。
照れ隠しだと分かっているドロシーからすれば、可愛くて仕方がない。
「……これ、確かに美味しい」
葡萄を一粒食べ、ヨーゼフが呟いた。その言葉を聞いて、コリーナが目を輝かせる。
「君、コリーナだっけ?」
「はい!」
「葡萄のお礼に、夕飯に招待してあげる。両親も連れてきていいよ」
「え!?」
いいんですか!? と驚いたのはコリーナだけではない。
ドロシーも、まさか弟がこんな提案をするとは思っていなかった。
素直じゃないけど、コリーナのことが気に入ったのかしら?
「いいでしょ、姉さん」
「ええ」
「ちょっといろいろ、話を聞いてみたいなと思ってね」
そう言って笑うヨーゼフは本当に楽しそうで、意図は分からないものの、ドロシーもなんだか幸せな気持ちになったのだった。




