警察午前2時
「すみません、里井刑事。本来なら交通だけでやるような案件なんですが」
制服を着た警官が、申し訳なさそうにスーツの男に言う。
「いえいえ、手の足りない時はお互い様ですよ、三田さん」
里井刑事と呼ばれた男は、嫌みなく笑って答える。
制服警官は40がらみ、スーツの男は30代前半といったところだろうか。
彼らは、宿直中に事故発生の報告を受け、もう1人の20代の若狭巡査と共に、夜の事故現場に来ていた。
里井刑事は刑事課員で、本来交通事故に関わることはないのだが、今夜は既に別件で交通課所属の宿直員が出払っていたため、応援としてついてきたのだった。
目の前には、ガードレールにめり込んで止まっている乗用車がある。
「で、こいつの運転手が逃走中ってわけですか。
通報者は、どこでしょう?」
里井刑事が、独り言のように呟いた。
三田達は、ガードレールに突っ込んだ車から酔っ払いらしき男が降りてどこかへ逃げていったという110番通報を受けて来たのだが、現場に通報者はいなかった。
「そうですね。
まあ、通報の後いなくなるのは、よくあることですから」
三田が言うとおり、交通事故を通報する目撃者は、後続車の運転手のような通りすがりであることが多い。
彼らは善意から通報はするものの、その後の事情聴取や現場検証に付き合わされて時間を取られることを嫌い、通報した後その場を立ち去ることも多いのだ。
それはそうだろう、誰だって暇ではない。
よほどの大事故や轢き逃げならともかく、自損事故を通報したくらいで、その後1時間以上も足止めされてはたまらない。ましてや今は夜中の2時だ、さっさと帰りたくもなるだろう。
三田は、そういうところはやはり刑事だなあと思った。
刑事課が扱う窃盗や傷害なら、目撃者は協力的なことが多い。
ことの重大さが違うからだ。
普段そんな事件を扱っている里井にとって、目撃者がいなくなるというのは意外なのだろう。
三田は、車の後方を確認した。
ブレーキ痕はついていない。
ガードレールの曲がり具合などから、経験上、時速40~50キロくらいで擦るように突っ込んだらしいとアタリをつける。
エアバッグは付いていないようで、かなりの衝撃のようなのに作動した様子がない。
「こりゃあ、飲酒運転で事故を起こして、怖くなって逃げたクチかな」
三田が車に戻ると、里井は運転席のドアを開けて中をのぞき込んでいた。
その手には、白い手袋をしている。
さすが刑事だなあと変な感心をしながら、声を掛けた。
「里井刑事、どうしました?」
里井は向き直ると、肩越しに親指で運転席を指し示しながら答えた。
「いやあ、なんというか、ちょっとチグハグでして…」
「チグハグ?」
「ちょっと見てください。あ、どこにも触らないようにしてくださいね」
どこにも触るなって、自損事故くらいで……ああ、習慣になっているのかもしれないな、と思いながら、里井の示す先を見る。
「これ、エンジン掛けっぱなしですよね」
それが何か? と思いながら見ていると、里井がシートの足下を指差した。
「見てください。シートはいっぱいまで下げてます。
事故を起こしてエンジンも切らずに逃げたような奴が、シートだけ下げるでしょうか?」
言われてみれば、確かにシートは下がっているようだが、三田には里井が何を言わんとしているのかわからなかった。
「太っていれば、下げないと降りにくいってこともあるんじゃないですか?」
「ええ、まあ、そういうこともあるんでしょうけど。
それで、ここにチューハイがあるんですよ」
見てみると、ドリンクホルダーに350mlの缶チューハイが入っている。
「ああ、やはり飲酒検知が怖くて逃げたんですね」
三田は納得したが、里井は納得できないらしい。
「それが、この缶なんですが、結構中身残ってるし、こぼれたらしくて缶も濡れてるんですけどね? ドリンクホルダーはほとんど濡れてないんですよ」
「? どういうことです?」
「ええと、飲みかけの缶があって、これだけの勢いでぶつかったら、それなりにこぼれると思うんですよ。
なのに、缶は濡れてるのに周りは濡れてないんです。
おかしいですよね?」
おかしいですよねと言われても、三田は何がどうおかしいのかわからない。
「何かおかしいですか?」
かなり訝しげに言ってしまった自覚はあるが、里井は気にしていないように
「おかしくありませんか?
こぼれたはずのチューハイはどこに消えたんでしょう?」
「大してこぼれなかっただけでは?」
素直に疑問を呈すると、里井は缶の縁を親指と人差し指で掴んで持ち上げ、見せてきた。
「このとおり、飲み口から脇に、それなりのチューハイが垂れてます。まだ乾いてない。
本当なら、ドリンクホルダーの中で、缶の周りが水溜まりになってるはずなんです。
まるで、車が止まってから中身を少し捨てた缶を置いたみたいです。
これ、本当に運転者が飲んだものでしょうか?」
三田は、里井が何を言っているのかさっぱりわからなかったが、事故を疑っていることだけはわかった。
「それはつまり、飲酒運転による自損事故ではないと?」
里井は、我が意を得たりとばかりに顔を輝かせた。
「そうなんです、怪しいんですよ!
これ、ちょっと指紋採ってもらいましょう。
私、手配します」
里井は、どこかに電話をかけた。おそらく刑事課の上司にでもかけているのだろう。
三田は、「そんな大げさな話かねえ」と思いながらも、好きにさせておくことにした。
どのみち、三田は三田で、運転手がいなくなっているという報告を署にしなければならない。
逃げた運転手が後で現場に戻ってくることもある。
それに、二重事故防止のため、事故車の後ろにコーンを置いたりもしなければならない。
若狭が事故処理車から降ろしておいたコーンを、2人で置いていく。
そうこうしているうちに、鑑識がやってきて、ドア周りやハンドルなどの指紋採取を始めた。
ハンドルなんて表面がざらついているから、指掌紋など取れるわけもないだろうに。
「ああ、やっぱりハンドルの指紋が不自然に途切れてますね。
これ、手袋はめた人が最後に運転したっぽいですね」
「缶に指紋はありませんか、やっぱり」
漏れ聞こえてくる里井の言葉から、どうやら里井が思い描いていることを裏付ける何かが出ているらしいことがわかる。
その間に、三田はナンバーから車の使用者を捜し当てていた。
「里井刑事、車の使用者がわかりましたが、どうします?」
「住所と氏名を教えてください。
うちの課員に当たらせます」
三田が答えると、里井はまた電話をかけた。
結局、1時間半ほどで現場検証を終えると、車をレッカーで運び出し、三田達も撤収した。
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3日後、三田は里井から、驚くべき事実を告げられた。
「あの車の持ち主を殺した犯人を逮捕しました。
遺体の投棄場所も吐きましたから、今ダイバーを手配してるところです。
いやあ、連れて行ってもらってよかったですよ。
初動が早かったから、近所の防犯カメラ当たって、あの辺走ってた車、すぐ見付けられました」
里井がにこやかに語ったところによると、あの車は、持ち主が殺された後、飲酒運転を起こして逃走し、自殺したように見せるためにぶつけたものらしい。
缶は、里井の予想どおり偽装のために置かれたもので、事故現場付近から、捨てられたチューハイの成分が検出されたとのことだった。
110番通報も犯人自身によるものであることが確認されたそうだ。
「よく気が付きましたね、そんなこと。
私らだけで行っていたら、見逃してましたよ」
三田が苦笑しながら言うと、里井は
「まあ、知識と経験に基づく高度な推論ってやつですよ」
と笑った。
「はあ、推論…」
「ええ、世間一般では『勘』って言いますね」
「え…?」
三田は思わず里井の顔を二度見したが、里井は冗談を言っている風でもなく、にこやかだが真面目な顔をしていた。
「俗に言う『刑事の勘』ってやつですよ。
通常あるべき状況と違っていることに気付く注意力、観察力、そういったものの集大成が『刑事の勘』なんです。
決して第六感とかそういう曖昧なものじゃないんですよ」