この吐き気は錯覚に違いありません(フィオナ視点)
……これほど気分の悪い目覚めはいつ振りでしょうか。
目が覚めた瞬間から体が重く、頭の中に粘っこい酸性の靄がかかっているかのような感覚がして、ベッドから身を起こす気力すら湧きません。
風邪にでもかかってしまったのでしょうか? ただでさえ、クレアや狂犬男のせいでここ数日は気分がすぐれないのです。それに重ねて体調まで悪化するだなんて、何て不快な。
「…………パトリシア……私のこの様子を見て、なぜまだ水の1杯も用意していないのですか?」
「も、申し訳ございません!」
専属のメイドが持って来た水を飲み、頭の靄はほんの僅かばかりマシになった気がします。
着替えて部屋の外に出ると、メイドたちが何やら会話をしているのが聞こえてきました。
「クレアお嬢様はお出かけになったの?」
「そう、アシュクロフト家のロイ様とご一緒に」
「あら~! それって……!」
「早起きしてルンルンで身支度なさってたわよ」
「いいじゃない! あの許嫁より絶対ロイ様の方がお似合いだって思ってたのよ~!」
「でもねぇ……あの方は怒りっぽいことで有名じゃない。すぐ手が出るとか……クレア様が心配だわ」
「心配いらないわよ、子供の頃からロイ様はクレアお嬢様が大好きだったから。荒れちゃったのも元はと言えばセシル様にお嬢様を取られちゃったのがショックだったのと、当時受けてたイジメから身を守るためって話だしねぇ……。ともかく元はいい子なのよ。お嬢様が隣にいれば、あの子も遠くないうちに狂犬なんて呼ばれなくなるわ」
「そんなもんかしらねぇ……」
不愉快です。誰も彼も口を開けばクレアクレアクレアと。
名前そのものが有害な女なのです。すなわちこのメイドたちの会話は騒音公害に他なりません。馬鹿者たちをそれとなく叱ってやっても良いのですが、生憎今日はその気力がない。業腹ですが耐えてやることにしましょう。
さっさと彼女らの横を通り抜け、下の階へ降りようと思ったその時でした。
「う……っ!?」
唐突に強烈な吐き気がこみ上げて来て、私は口元を押さえた。
「あれは……フィオナ様!?」
「大丈夫でございますかっ、フィオナお嬢様?」
私の様子に気付いたメイドたちが駆け寄って来る。
……吐き気のきっかけは何でもない、下の階から香って来た朝食の匂いでした。普段は何とも思わないその匂いが、なぜか気持ち悪くて気持ち悪くて仕方がありません。
集まって来たメイドたちが、猫背になって口元を押さえる私の背中をさすって来る。間近から香ってくる彼女らの石鹸の匂いが、私の吐き気を増長させる。
「うッ……ぐ…………ッ!! ……な……さい……」
「だ、大丈夫ですか!? 今なんと……」
「離れろと言っているでしょうッ!! おぇッ……!」
「申し訳ございませんっ!」
「はぁ……! はぁ……!」
おかしい……。ただのお腹の病気で、ここまで周囲の匂いをきっかけに吐き気を感じることなどいまだかつてありませんでした。
何が起きているかなど考える余裕もなく、私はトイレに駆け込み胃の中身を全てぶちまけた。
「ウッグ……! オ……ゲェェッ! エッ……グォ……ッ! ……はぁ……うぇ…………ぺっ……何が……」
全てを吐き出したのに、胃袋の中に重い泥団子が詰まっているかのような感覚が消えません。まだ気持ち悪い。パトリシアにまた水を用意させて口をゆすぎましたが、朝食の匂いが消えるまでは1階に降りられなくなりました。
「パトリシア……下の使用人に私の朝食は下げるように伝えなさい。体調が悪いので休みます」
「かしこまりました、お嬢様」
自室に戻る私の耳に、先ほどクレアに関する騒音公害をまき散らしていたメイドたちの会話が再び入って来る。
「フィオナ様、大丈夫かしらねぇ」
「うーん、あの方も……ほら、あちこちで遊んでらっしゃるからね……」
「あっ……。いやでも、お風邪かもしれないし……」
「つわりだと思うけどね? 私は」
「いやー本当にそうだったら大問題じゃないの…………」
つわりですって? あのババアは何を馬鹿なことを口走っているのですか……? 無礼千万どころの話ではありません。お父様に話を通して明日にでも首を……。首を……………………
「…………今月…………まだ来てない…………」
無意識にお腹を押さえ、そう呟いていました。
本来ならばとっくに来ているはずの生理がまだ来ていない。その事実を認識した瞬間、全身から嫌な汗が噴き出すのが分かった。
「ッ!」
自室に駆け込んでドアを閉める。そのドアに背を預け、私は髪を掻きむしってへたり込んだ。
「…………誰のが当たった……!? 逆算して……あの頃した相手は……! 誰……!? アドキンズ……レミントン……キングストン……マッキノン……どれ……!?」
分かりません。容疑者が多すぎる。私は妊娠しない前提で中に出して良いと言ったのに、その意味も分からず生殖能力がある精液を出してくるなんて、なんて使えない男たちなの? 今すぐ無精子症になって世の女性に詫びなさい……!
「まずい……! 侯爵様には何て説明すればいいの……!? セシル様の前で吐き気が来たら……!?」
クレアにかまけている暇はない。この際あの女の不貞が無実だと証明されても良いのです。どうでもいい。私が“そうでしたか、良かったですね”と言えば終わる話です。終わらせます。
でもこっちはどうしましょう。もしも本当に妊娠などしていたらどうしましょう。
嫌です、そんなの嫌です。そんなことが露見しては私は不幸な目に遭ってしまいます。なぜ神はまだ私を虐めるの? それはこの世の存在するどの罪よりも悪辣な罪です。ええそう、私は幸せでなければならない。恵まれていなければならない。私に不都合なつわりなど在ってはならないものなのです。だから、再び体の底から湧き出してくる吐き気など虚構の物なのです。在ってはならない物だから。私がそう命じているのだから。だからこの吐き気は錯覚に違いありません。
そう思ってもなお、私はしばらくの間、息を荒げて髪を掻きむしることしかできませんでした。
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