婚約破棄
許婚のセシル・アシュクロフトが浮気をしていた。
あれは驚きだった。あの日私は他ならぬセシルに呼び出されてアシュクロフト家まで足を運んでいたのだから。
ここのところ他の貴族との会談が頻発していてストレスが溜まっているらしく、久々にお茶でも飲みながら愚痴を聞いてもらえないかという話だった。
約束よりも少し早く到着した私はアシュクロフト邸内に通されはしたのだが、時間になってもセシルが降りてこない。まあよくあることだ、彼はプライベートでは時間にルーズだったから。
けれどその日はあまりにも遅すぎた。アシュクロフト家の使用人に尋ねてみたが、一度様子を見に行った彼らは口を揃えてこう言うのだ。
「セシル様は只今お取込み中でして。もう少しだけこちらでお待ちいただけないでしょうか」
そう言ってなぜか何度も何度も謝罪してきた。
セシルとは子供の頃からの付き合いだけれど、仕事嫌いの彼がここまでお取込むことは滅多にないことだった。もう約束の時間から1時間経とうとしている。もしや息子にベタ甘のあのお義父様からきつめのお説教を食らっているのだろうか、それはそれで珍しい。
野次馬根性と一抹の嫌な予感を覚えて、適当な理由を付けて客間を出た私は彼の私室に行った。何度も通されているので迷うことはない。たどり着いたセシルの部屋からはちょっぴり期待していた怒号やいびきなどは聞こえてこなかった。代わりに聞こえてきたのは、どこかで聞いた覚えのある女性の余裕のない喘ぎ声と甘ったるい睦言だった。
……とりあえず、後学のために相手の顔は拝んでおくか。私は絶賛稼働中の愛の巣に土足で踏み入ることを躊躇するようなお淑やかな性格はしていない。
「ごきげんよう、アシュクロフト様。帰宅のご許可を頂きたく、無礼を承知で開けさせていただきました」
そう声をかけた時のセシルの驚き様と言ったら滑稽で仕方なかった。彼は今まで見たことがないほど俊敏な動きでシーツを手繰り寄せて体を隠すと、真っ青な顔をしてガタガタと震え出した。
「クククククククレアッ!? ちょっと待ってくれ! 違うんだ!」
「ッ……!? お姉様ッ!?」
仲睦まじい様子でセシルと組んずほぐれつしていたのは、私の2歳下の妹のフィオナだった。これは驚いた、朝一で出かけて行ったと思ったのに。
まあ、フィオナらしい行動だ。私が持っているものは全て欲しがってしまう子なのだ。そういえば自身の婚約者の顔が気に食わないとメイド相手に愚痴をこぼしている姿を見たことがある。
お楽しみ中の婚約者の部屋に突撃したのは初めてだが、思ったよりも心は乱れないものだった。
「き、聞いてくれッ、僕は……!」
「そう慌てないでください。私が怒っているように見えますか、アシュクロフト様? 別に以前から気付いていたことですわ」
「待ってくれクレア! 僕は今までは断じて──」
「例えば先々月、お食事に招待して下さった時にはシャツの襟に小さな赤い汚れを付けていらっしゃいましたね。今月の頭……舞踏会の帰りの馬車の中では、様々な香水の香りをまとっていらっしゃいましたっけ」
「ち、違うんだ! それは向こうの方から……!」
「別に怒っている訳ではありません。お相手のご令嬢方の度胸に感心していただけでございますわ」
セシルが好んで釣り上げてくるのは来るのはなぜか歳の近い貴族のご令嬢ばかり。
彼は確かに甘いマスクを持っていて、そっち方面の盛り上げ方も上手であろうということは想像がつく。褒め言葉の引き出しは大変多い人だ。
だがそれが嬉しかろうと、応じたご令嬢たちの中には既に嫁ぎ先がある方もいただろうに。不自然に早い妊娠をしたり夫とは似ても似つかない子が産まれたらどうするつもりなのだろうと。私には怖くてできない。
「クレア! 君の怒りはもっともだ、謝るよ! でも僕の話も聞いてほしい!」
「再三申し上げますが、私は怒ってなどおりません。あなたの種がお相手の家庭や将来のアシュクロフト家に不幸をもたらさないかが気がかりなだけでございます」
……言葉が足りなかったかな。要は選り好みして良い所のお嬢様を抱くのをやめて妾でも連れて来てくれれば安心できるのだが、という話だ。
その私の言葉足らずが、セシルの自尊心に傷をつけてしまったようだった。
「…………ッ! 何だその言いぐさは……ッ!?」
「種をばらまくなら家庭内でお願いします、ということです。妾の子が何人産まれても虐げるつもりはないのでご心配なく。私自身がそうですから」
そうフォローを入れたが、セシルの怒りはその程度では収まらないようだった。
というか、婚約者の妹と素っ裸でシーツにくるまっている状態の中、よく言いぐさ一つでここまで腹を立てられたな。そう考えていると、彼は唐突にこんなことを言った。
「クレア……! 君は本当に僕の許嫁なのか……!」
「勿論です。そうでなければ妾の話などしておりません」
「だったら君は、なぜそんなに冷たいんだ?」
「はい……?」
「自覚がないのか、なら言わせてもらうぞクレア。君とは10年以上許嫁として過ごしてきた。でも君からは一度だって愛していると言われたことがない」
「実は私も言われたことがございません」
「しようと言っても口までしか許してくれなかったじゃないか」
「婚前ですから」
「他の女の気配を悟っていたのに、なぜ一言も僕を責めない……!?」
「そちらの方がよろしいですか? では次があればそのように」
度重なる浮気で私の愛情を試していたとでもいうのだろうか。衝動に従っただけだと思うのだけど。
それとも罪悪感自体は覚えていて、怒られないことが逆に辛いとでも言うつもりか。
「クレア…………僕は、僕を愛してくれる妻が欲しいんだ。だが君はアシュクロフト家のことは考えていても僕のことは眼中にないんだな……!」
「妻としての務めは果たしますわ。私も善処は致しますが、燃えるような恋愛を楽しみたければ私に気をお使いにならずに妾を囲ってくださいませ」
私がセシルの婚約者になったのは、幼いころに父に命令されたからだ。
セシルの将来の妻として長い間彼の近くにいたが、彼が望んでいるような燃え滾る恋心を抱いたことは一度もない。ただ彼の世継ぎを産むことだけが自分の役割だと思っていた。
「セシル様? 妾などと……下賤の血をこのアシュクロフト侯爵家に入れる必要はございませんわ」
満を持して、といった様子でフィオナが口を開いた。豊かな胸元へセシルの右腕を抱き寄せると、上目遣いに彼の目を見上げ、甘ったるい声で言った。
「あなたに恋い焦がれる女ならばここにおります。私ならばあなた様の愛に姉の10倍、いえ……100倍の愛で応えます。私をお選びになっても姉をお選びになっても、両家の繋がりは変わりませんわ」
……なるほど、欲しがるどころか掌握しにきたか。この子は面食いだが、別にセシルという人間にも大した執着はなさそうなものだが。
フィオナはセシルの胸板に頬をすり寄せて続けた。
「これはむしろ好機なのです。どうか私をお側に置いてくださいませ。あなたが望まれることは何でも致します。いつでも、どこまでもお供いたします。どうか…………」
そう言って胸元に抱き寄せていた彼の手をシーツの中へ導き、何かを触らせたようだった。
「……可愛がるなら、こちらを」
「そ……そう…………だな……」
セシルはあっさりと落ちた。まあ、そういう人であることは分かっていた。
「ク、クレア……。君だって僕の隣にいてもつまらなかったんだろう? だったらこうしよう、君との婚約関係は今を以って解消し、フィオナを許嫁にする……!」
「フィオナにも既に許嫁がおりますが」
「そんなものはどうとでもしてやる……! 相手は侯爵か? 伯爵か? どうとだってしてやるさ……!」
「……裁量権は私にはございません。父に話を通してくださいませ」
そうして、私とセシルの婚約関係はあっさりと崩壊した。
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