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父の親知らず

作者: 千羽稲穂

 いたたたた、と時期遅れの親知らずに痛がる父の傍で、私の乳歯がぽんっと抜けた。綺麗に抜けたそれを、すっきりした顔で私は父に見せた。普段無口だった母が、そのさまを見て大笑いしていた。その頃はまだ母がいて、何もかもが満たされていた。母の大きな笑い声だけが私の耳には残っている。からっからに晴れた空のようなその笑いを、今はもう聞けない。

 父が親知らずを歯医者で抜いた後、私たちは家の庭に立った。母は後ろから私たちの背中を見ていた。じっとりとした夏のことだ。夕焼けが一面を染め上げて、黄金色の世界を作っていた。刈り上げた稲穂のような金色が世界を覆い尽くす。まっきっきの、世界。母がその光景を見て「凄い」と一言。大人しい母がそんなことをいうなんて、相当綺麗な景色だったのだろう。写真を撮っておけば良かった。

 庭には、草が鬱蒼と生えていた。赤土だから、畑にも花を植えるにも、使えず放ったらかしだった。

「下の歯だから上に投げるんやで」

「お父さんの歯も下なん」

「同じ下や」

 私たちは持っていた歯を見せあった。掌の上でころころと私たちの白い欠片が転がった。思ったよりもこじんまりとしている。こんなものがいつも、硬いせんべいをすり潰しているなんて思えなかった。ばりっと食べた瞬間欠けそうだ。父の親知らずなんかは、やにで私の白より黄色く染っているのだから、一層そう感じられた。

「いくで」

 さん、に、いち、で私たちは上に大きく振りかぶって庭に歯を投げた。白い二つの欠片は、放物線を描き、すれ違い、私の欠片が先に落ちて、その次に父の欠片が落ちていった。庭の草むらの中に紛れて、私たちの欠片たちは見えなくなった。

「健康な体に育ちますように」

 父が、信心深く両手を合わせてお祈りをする。全くと言っていいほど神様を信じない父が、この時ばかりは何かにお祈りをしていた。変や、お父さんおかしくなった、と内心思っていたが、なぜかその姿に冗談を投げかけようとは思えなかった。背後にいる母を見ると、母も父と同じように、庭の方をじっと見つめて、何かに思いを馳せていた。


 父は信心深くはなかった。神社に行って願いを告げたり、お寺に行って新年のお祝いのために手を合わせるようなこともしない。無宗教。無関心。悪くいえば頑固者。何事もお祈りでなく、自分の心を信じていた。何かに縋ることすら、父には煩わしかったのだろう。そんな頑強な父のこと、母の気持ちなど露ほども分からなかったに違いない。

 母は打って変わって、打たれよわかった。私が覚えている母の記憶はたいてい沈黙している姿だった。何も主張せずそこに佇んでいるのだ。自身のことを口にせず、内にためていく人だった。父はそんな母を引っ張っていくことが多かった。どこかに出かける時は父が発案したし、父や私の言うことに何一つ逆らわなかった。母は、私たちの言葉に、一切自分の感情をのせなかった。それは母が、何をするにも怖さを感じていたから。だから母は父を、頼もしくも思っていたのかもしれない。そして、そんな父に惚れて私を産んでくれたんだろう。

 だが、母にも限界がある。無口だからと言って何も感じてないことなどないし、感情がないこともない。

 ある日、母はふっと家から姿を消した。本当に、突然のことで、今はもう母の顔や声はおぼろげになっている。


 家はうんと広くなった。だだっぴろいだけの家になってから、父は、荒れた。一日一箱半だった煙草は、一日二箱少しになり、家の中は一気に煙草の匂いで充満した。

「あーちゃん、煙草吸うから、あっちいっとき」

 なんて、母がいた時は罪悪感からか、私を遠ざけていたのに、父は私の前で煙草吸うのを躊躇わなくなった。そして、時折めそめそと泣くのだ。傍らには銀色の缶がいくつも並べてあり、テトリスみたく積み上がっていった。今にもテトリスして根元から崩れ落ち、雪崩が起きそうだった。幼い頃の私はそのさまを見て、大きな影が立ちはだかったように思え、一缶積み上がる度に、恐怖が一段と大きくなっていった。

 父は何もしなくなった。母がいた時は父も家事を手伝いはしていたのだが、それも、やる気を失ってしまったようだった。あれほどしていた、食器洗いに、ごみだし、掃除に、洗濯物は見る影もなく、父はしなくなっていった。母と父が助け合いながら家事をしていたのを覚えている。家事の合間で交わされる、母の珍しい声や小さな笑顔を、私はにやにやしながら見ていた。父だって好きだったはずだ。笑っていたであろう母に、父は照れていたのだから。

 荒れ狂いながらも、父はたった一つ、ご飯だけは作ってくれた。自分のご飯は作らずに、洗濯物も食器の洗い物も庭の草を放っぽって、それだけは欠かさずに、作り続けた。食卓の脇に積み上がる缶のタワーの横で、ほかほかのご飯が一人分並べられる。白いご飯に、お味噌汁、お魚、漬物、ほうれん草のおひたし。堅実な和食。ただちょっと、母がいなくなった後のご飯は醤油の味が濃くなり、からくなっていたが。

 私がご飯を細々と食べている横で、父は缶のプルトップを開けた。傍らには灰皿を配備して、ほそっこい煙を立て続ける。まるでお線香みたいだ。母は死んでいないのに、お通夜みたいにまっくらな食事だった。

「あいつ、いつも何も言わんし、よう分からんやつやった。あの昼行灯め」

 私が食べているのを眺めつつ、そういった母の悪口を言うことが増えていった。それなのに、私を嬉しそうに眺めていた。居心地は最悪だった。食事は楽しいものだ。誰かが喋っているのを見て、にまにまとし、父のひとりよがりの言葉でさえ、母や私が受け止めれば、そこから賑わいの会話が生まれる。それなのに、その時の父の言葉を私は受け止められなかった。

「なんで出ていったんやろう」

 そんなことを言いつつ、父は私のことをこれまた愛おしそうに眺めるのだ。私はたまらなかった。


 母がいなくなってから、父は慌ただしく、出かけることが多くなった。くたくたのランドセルを背負い、帰ってきた私は、誰もいないまっくらな家の中で「ご飯、ご飯」と、独り言を言うほどお腹を空かせることが多々あった。父が作り置きを忘れた日は、頭の中でお菓子の妄想を描いた。ケーキ、クレープ、パフェ、パンケーキ。頭の中で象るほど、その妄想は、はっきりとするし、苛立ちが余計につのった。ようやく父が帰ってきた時、余りの遅さに腹を立て、父と数日口を聞かなかった。とりわけ腹立たしくなった時は一ヶ月もの間、母の真似をして、口を開かなかった。沈黙を貫き、父が私のご飯を見守る横で仏頂面を続けた。私がそんなことを続けていることすらも、父は知らなかった。気づいてくれずに、ついに呆れて、諦めた私からいつも口火をきることになる。勝手に沈黙して、勝手に私は終止符をつける。そんなことすら劇的に変化した生活の中では、些細なことだった。少なくとも父には、当時の私や母の気持ちなど忙しすぎて疲れて悟ることすら出来なかったんだと思う。


「今度、裁判することになった。もしかしたら、朝子にも出てもらうかもしれん」

 父から、何気ない日常会話の一つとして、そう告白されたのは、ランドセルを物置にしまい込んで、新品の制服を着込み、英語をがっつりと習い始めた頃。母がいなくなって、かなりの年月が経っていた。随分と長い間父は、裁判のことを言わなかった。いや、あの頑固な父のことだ。自分一人でどうにかしようとして、言えなかったのかもしれない。

「朝子は出ても大丈夫?」

 何の答えも浮かばない。その頃になれば、父が頻繁に出かけていた理由も分かっていた。裏で弁護士と会い、私のことを育てる権利を取得する、算段でもしていたんだろう。

 無性に心を無にしたくなった。母のことを思い出した。無の中に、母が笑っていた、という過去の事実を詰め込んだ。次いで父が缶ビールを飲んだ後、ご飯も食べずに、私の食事の横でめそめそ泣いているのも、思い出された。

 やっぱり、私は答えを出せなかった。

「勝手にしたら」

 渦中の私は、結局置いてけぼりだった。


 裁判の話を聞いてから、私は何事にもぼんやりとするようになった。過去を掘り、今を捨てた。父と母の仲睦まじいさまを、目の前にあったであろうものを、頭の中で撫で回した。

 気づけば、ぐんぐんと家の中は広くなっていった。積み上がっていった缶はコレクションのごとく、種類を増やし、煙草は灰皿という灰皿を埋めつくした。父と歯を投げた庭は、地面の赤土すらも見えないくらいに草が生え、家は化け物がひしめく幽霊屋敷のように寂れていた。ごみくらいは、私が捨てたから、ごみ屋敷にはならなかったけれど、それでもまっくら闇の中に食卓やたまった洗い物が、こつんと存在し続けているさまに物悲しくなったものだ。

「人は言うようになれば、なんだって言うんやなぁ。あいつ、あんなに言うやつやと思わんかった」

 暗闇の食卓で、父はそれとなく母のことを愚痴る。

 私の中のお淑やかな母の像がそのたびにぶれてしまう。

「突然消えたのはあっちなのに、今度はよこせなんて言うなんて。そんなん言うなら、その口で、ちゃんと言えば良かったのに。やっぱりよう分からんやつや」

 母のことを、もう名前でも何でもない呼称で呼ぶようになったのだな、と。私はぐっと押し留まって、母になった。


 母は、どういった人だっただろうか。口を開いて乳歯を磨いてもらった母の顔を見上げた幼少期。母の顔を覗いていた。いつも同じ顔だった。その顔のパーツを思い出せなかった。小粒くらいの私の歯をブラシで磨いてくれた。仕上げみがきだ。奥歯から一つ一つ。表面が滑らかになるまで。ここぐらぐらしてるね、と丁寧に診てもいた。小さな歯も、大きな歯も、等しく優しく歯ブラシでこしこしと器用に磨きあげる。天井の電灯が、母の顔を逆光で見えなくする。暗がりの中で母の口元が微笑みを浮かべていた。


 部活帰りでくたくたになった体を、床に放り投げ、そこで寝そべった。部屋着にも着替えずに、ご飯も食べず、冷たい床に体をひっつけた。長くなった爪を横目に、瞬きをした。瞳は乾ききっていた。

「ご飯、できたで」

 父のその一言で、意識が戻った。それまで、私は寝ていたことすら気が付かず、安寧と床に沈んでいた。今度の夕食もどうせ一人分だと、分かっていたので、起きる気力もなかった。

「そんなとこで寝てたら風邪ひくから、起き」

 父が私を無理やり起こして、立たせようとしたが、私はどうしても体に力を入れたくなかった。ふっと、母のように消え去りたくなってしまった。心を無にして、黒くなった瞳を動かす。母は凄いな、と関心ばかりしていた。こんな気持ちをずっと抱えて父の横で息を潜めていたのかもしれない。無口を貫き、沈黙を宿して、そして、さっと気持ちが爆発する前に消えた。それは母にとって、最良の選択だったからなのか。

 私は母のようにはいかない。父に抱き起こされて、気だるい気分のまま一膳しかない食卓に座った。また父は煙草をつまみにアルコール度数高めの酒缶を開けている。積み上がった缶の壁は見慣れたものになってしまっていた。一層、私の心にバリアが張られる。ここからは立ち入り禁止とテープを心に貼って、私を眺めている父をじろりと睨んでしまった。

「裁判どう?」と、尋ねたら、父が酒を煽りながら、

「まあまあ」

 ふーん、まあまあ、か。どのまあまあなのかも分からない。裁判にはほどほどがあるのかもしれない。そもそもそんなものの基準はどこにあるのかすら、疑問だった。

 お母さんのとこ行こっかな、と今にも口に出してしまいそうになった。父の泣き声が、それを思いとどまらせる。まだいける、大丈夫。私は母になる。

「なぁ」父の弱気な声に、また泣くのかと身構えてしまった。

「あーちゃんが、良ければ、あいつのとこ行ってもええで」

 一気に体が弛緩した。父は缶を続けて煽り、その勢いで食卓の沈黙をしのいでいた。私の言葉を待ってるでもなさそうだった。その選択を示したことに、父にとって大きな意味があったのだろう。

 缶が一段とまた積み上がる。煙草の匂いに慣れてしまい、父の本当の香りを忘れてしまっていた。父が、以前に何を食べていたのかも、何が好きだったのかも思い出せなくなっていた。母の残り香は煙草の匂いで埋め尽くされてしまい、入る隙間がなくなっていた。家は広いのに、どこにも母が入る隙がない。小さな隙間に私だけが無理やり差し込まれている。

 それでも、母の名前だけは私の中にまだ残っていた。

 まだ、ここにあったのだ。

「あいつ、ちゃう。そんな、悪いように言わんといてよ。私のお母さんやのに」

 私は今でも、お母さんを想っているのに。

「それに、今はお父さんと、ここにいるのに。なんで今更そんなこと言うん」

 私はご飯に一粒たりとも触らず、音をたてて箸を置いた。広すぎる家では、箸の音さえ大きく響き渡る。母の小さな声の響きすらもこの家に置ける隙間が残っていないのを、ひしひしと感じていた。もうこの家に以前の活気は戻ってこないのだろうか。

 明かりをつけずに自室に飛び込み、閉じこもって、布団にくるまる。すると、一間置いて、私の部屋へと近づく足音がした。扉の下から明かりが零れている。その下からそっと、紙が差し出された。その紙を手繰り寄せる。一文字一文字、確認する。数字の番号の羅列と、お母さんの名前が記されていた。


 「おいで」

 父が幼い私を抱きあげ、胡座の上に座らせた。幼い頃、いつも同じ青いワンピースを着ていた。その格好で、家をあちこち走り回ったりしていた。胡座の上に乗せられ、スカートが翻り、パンツが見える。そんなもの気にせずに、父は私の手を持ち上げた。伸びきった爪を大事そうに何度も何度も指の腹で撫でていた。そして、親指から、爪切りを慎重に通して、白い部分だけぱちん、と切り落としていく。深爪にならないように適度に切り落としたら、また爪を撫でる。きちんと丸まっているか、指先の感覚を研ぎ澄ませていた。ぱちん、ぱちん、そして、滑らかになっているか撫でていく。背中越しに父の厚みや温かみが伝わってくる。丸見えのパンツの存在なんか知らないで、不器用ながらも、適切に私の爪を整えていった。全部の指の爪が切りそろえられたら、私を立たせる。

「おっと、パンツ見えてる」

 そこでようやく、父は私のワンピースを整えた。

「お父さん、ぜんぜんやん」

「全く気づかんかった」

 お父さんは、ごめんなぁ、とぽんぽんと私の背中を叩いた。私は背中を押され、一、二歩前に進み出す。そこで、お母さんの方へ行こうとしたが、後ろに振り返り、父のことを呼んだ。背中の厚みが恋しかった。

「お父さん、はよ行こう」


 父から貰った母の電話番号を何回もなぞった。見つめて、書いて、うって、電話をかけようと試みた。でも、出来なかった。電話をしてどうなると言うのだろうか。何を話せば良いのだろうか。そもそも私の親である権利は、一体どちらに行き渡ったのだろうか。私が関わって良いのだろうか。私のことなのに、蚊帳の外の人が私の居場所を決めている。そんなことがあっていいのだろうか。権利の取り合いに、母が一端を担っている。あの母が。想像がつかない。その母と会って、今更何の話をしたら良いのだろうか。いろいろな言い訳を起こし、結局母に電話はしなかった。

 朝になると父が作った作り置きが食卓にあって、それを味わって食べた。誰もいない朝の食卓に朝日が差し込んでいた。目玉焼きは塩っぽいし、ほうれん草のおひたしは醤油の味が濃くてからかったけれど、もうこの生活にも慣れてしまいすぎていて、なんとも感じない。

 ふと、私がこの食卓からいなくなると、父はどうなってしまうのだろうかと、考えてしまった。また父は一人で私や母のことをめそめそ泣きながら、愚痴るのだろうか。会社帰りの疲れた体に鞭を打ち、必死に私にご飯を作るのはなぜなのだろうか。私と一緒にいたい理由が知りたくなった。母が私に会わない理由も、同じように知りたくなった。そして、もうここに戻らない理由も。どの理由も、きっとそれぞれお墓にまで持っていくんだろう。

 そっと、電話番号をメモした。何度も書き直して、書けなくて、メモはぼろぼろに崩れていた。なんとか目をこらすと見えるぐらいの力ない濃さで、番号を記した。代わりに、自分の電話番号を、大学ノートを切って、その端に書いた。勢いよく書きなぐった後、父の部屋のドアの隙間に差し込んだ。

 母の名前も、誕生日も、私は忘れてはいなかった。電話番号の傍に、私ははっきりと母へ贈る言葉を添えた。

 そう、母はもうすぐ誕生日なのだ。今年で何歳になったのか、もう忘れてしまっていたし、顔や声すら出てこなかったけれど、それでも、私の中にまだ忘れられないものがあった。


 それから数日して、食卓の横に並べてあった、缶の壁を父が撤去していた。缶を一つ一つ、ゴミ袋に放り投げる。壁は静かに壊されていった。缶の裏の壁紙が明らかになっていくごとに、父の背中が大きくなっていた。厚く、太く、大きく、凛々しい。少しだけ私が幼い頃よりも太り、お腹が気になるけれど、変わらない温かみが背中の楕円に表れている。父の背中だった。その背中の影が私に何かを告げている。、柔らかく響き渡るような声で、私に告白する。囁きのような、声を聞いて、

「お父さん、何を祈ってるん?」

 と、口にしそうになって、私は言葉をうちに留めた。

 父は信心深くない方だ。誰にも何も祈らず、願わず。ただ自分のことを一心に信じていた。天井を見上げる時には、神よりも高い地位にいるみたいに誇らしげであったし、青空の下なら世界の中心に立っているような人だった。

 父は、その時、何かに祈っていた。

 壁を崩して、必死に願っていた。温かい背中を向け父の信念を砕くことも憚らずに。ただただ、じっと待っている。誰かに何かを願う時、人間は待つ。その一瞬は凪がきたような静けさが広がる。

 缶の壁が半分ほどなくなった時、父は煙草を取り出し、先端に火をつけた。私の視線は父から逸れる。煙草の匂いも、それを咥える父も、目に毒で視界がしぱしぱと霞む。父の姿が私には乾いたものだった。

「あーちゃんには苦労かけたな」

 父がめいっぱい煙を吸って、吐いていた。

「ごめんなぁ」

 懺悔の言葉なんて、ほしくなかった。そんな言葉も聞きたくなかった。

「お父さんは、よくやってたよ」

 男一人で、子どもを一人養うことがどんなに大変かは定かではなかったけど、父の涙声や荒れ具合に、思ってもみないことを言ってしまう。物語が終わる時のような、ゆるやかな空気が漂っていた。余韻を味わうみたいに、父の吐息が聞こえてくる。父の中で終わりを決めていたのかもしれない。ここで、終わりにしようと。

「ごめんなぁ」

 そんな父の泣き言がらしくない気がした。耳をそばだてる。

「ごめんなぁ」

 母がいなくなって、父はそればかりだ。母がいないから、全部父の仕事になり、それら全てを完璧にこなせていないことに、申し訳なさを感じているようだった。それにあやかるように、私の心は憤りの炎を徐々に滾らせていた。ごみ屋敷直前の幽霊屋敷。何もない真っ暗な空間。見慣れてしまった父の母への愚痴。私の血の半分が叫びそうになった。この血は誰の血か。

 それでも、父が缶の壁を壊す、その背中に何も言えない。きっと母も、壁を壊す父と同じことを祈っている。だから、私にこだわるんだろう。でも、この祈りは何のための祈りだろうか。

 私はその場で立ち尽くし、父の缶の壁を全て破壊するまで見守っていた。

「あーちゃんのために、あと少しの間頑張っていいかな」

 こんなお父さんでも、と。

 言わなくても、分かった。私の血は半分は、目の前の父のものなのだから。

「好きにすれば」

 それから父は煙草も、アルコールも、私の前ではその一切を見せなくなった。


 それは突然の出来事だった。家に帰ったら、見知らぬほそっこい犬が、風のように家に舞い込んでいた。思わぬ乱入者に、普段動かない、母のような私の鉄面皮がぴくっと動いた。犬は狛犬のようなまろ眉を八の字にして困ったような顔をして私を見つめ返していた。白い長毛が皮に張り付いている。足も、胴も細く、触っただけで、折れてしまいそうなほど痩せていた。顔はシェパード、胴は柴犬、尻尾はコーギーで、一目で雑種だと悟った。

「朝子、おかえり」

 父が玄関まで迎えにきて、身震いした。今までとのギャップに脳の機能が追いついていない。犬と父がそこにいる。何度か犬から父、父から犬へと視線を泳がせた。

「酷いことされた犬がいて見てられんくなって」父は照れているのか、目をそらす。「今日からここに住まわせやうと思うねん」

 犬が私の元にすりより、撫でてと強要する。私の手の下に頭を乗せる。体を足にあてる。生暖かい体温が感覚を刺激する。撫でて、撫でて、と聞かない。一種の愛情欠乏症だったと思う。がりがりに痩せ細り、ようやく辿り着いたここ。まだまっ暗な家だけど、受けいれずにはいられなかった。まっくらな中に、ぽつんと立つ、母を見ているようだった。その母の像がぶれる。像が剥がれ落ちると、そこには私が立っていた。誰の目にも映らず、まっくらで広々とした部屋で、一人、ご飯を食べるのだ。荒れすさぶ、この場所で、私は待っていたのかもしれない。

「えらかったなぁ」

 私はその犬の頭を優しく撫でた。優しく抱きしめて、持ち上げた。幼い頃の私の体重くらいだろうか。重くて、持ち上げにくく、犬から漂う腐ったご飯の臭気が鼻を刺す。

「お風呂に入れてくる」

「お父さんがやるわ」

「いい」

 私はぴしゃりと言い放ち、お風呂に向かって、犬を耳の裏から足の肉球の間まで綺麗に洗ってあげた。犬は何も言わなかった。わん、ともすんとも。水も嫌いではないようで、シャワーをかけてやっても、ただありのままを受け入れていた。それだけで、私の乾いた目にうっすらと膜がはる。次第に熱くなる膜がはちきれて、目の下に熱いものがのしかかった。そして、爆発したように、ぼろぼろと大きな雫が頬に滴っていった。

「えらかったなぁ」

 腕で頬を拭う。嗚咽を堪えられず、犬に鼻をくっつけた。水に流されていない獣の匂いがした。ありのままの犬の匂いだ。この家の中に、新しい匂いが舞い込んだのだ。

 その時、犬が、きゅうぅんっと、甘えた声をあげた。

 

 この犬は、「シロ」とありきたりな名をつけられ、父が大変可愛がった。シロが、細すぎるので、たくさんご飯をあげようと、父が何回もご飯をあげた。平日は仕事があるので、ご飯は朝と夜のみだけだったが、休みになれば、洗い物をやった後にご飯、洗濯物をした後にご飯、掃除をした後にご飯と言うように何かにつけてご飯をあげた。シロもノリノリになって、そのたびにご飯を貪った。もともと大食漢だったのかもしれない。シロはどんどんと肉をつけていった。

 私が一回目の受験を終えた頃には、

「でぶ犬だ」

 シロはとてもとてもでぶっていた。おまけにシロは、散歩嫌いで、あまり外に出ず、いつも家の中で日向ぼっこをしている。眠っているか、私や父に甘えてくるかで、シロの日常は構成されていたものだから、シロの贅肉は豪華になっていった。寝そべっているところを見ると、思わず、じゅるりと唾がほとばしる、とてもとても美味しそうなでぶ犬になってしまっていた。


 綺麗なフローリングにシロが寝そべっていた。窓が空いていて、白いカーテンが風に煽られる。昼の匂いが家に入ってくる。シロの匂いが家の中に充満している。父のかすかな男の匂いがする。そして、お酒と煙草の残り香があちこちに点在している。様々な匂いが私の感覚を刺激する。まっくらな部屋はお昼の暖光が差して、思わず眠気を誘う。広いと思っていた家は、シロが走り回り、しゅくしゅくと狭くなっていっていた。シロの首輪はたるんだ肉で見えない。父のお腹のような不摂生なお肉。本当、焼いたら美味しそうだ。白い毛を撫でてやる。ぐっすりと眠っていて起きない。横へと目を移した。シロの隣に父が珍しく雑魚寝をしていた。口をへの字にまげて、怒っているような寝顔で、まぬけに見える。私はシロの横に一緒に寝そべった。

 シロを挟んで、お父さんと昼の午後を堪能する。家に寝息がたちこめる。すーすーと、疲れた体を癒す。フローリングにシロと同じように私も頰を当ててみる。ひんやりとした温度に心地よくなる。だんだんと眠くなっていく。父とシロの寝息が規則正しく時を刻む。私は床に沈んでいく。


 いたたたた、と再び父が時期外れの親知らずに苦しんだ時、私も隣で同じようにいたたたた、と親知らずに悩んでいた。父は右の奥歯で、私は左の奥歯。父の親知らずはどうにも、歳を重ねないと出てこないらしい。大昔に私の乳歯が抜けた時に、父の親知らずは左の奥歯が、今回はやっと右の奥歯の親知らずが生えてきた。何年も待ち望んで出現したそれは、父を再び苦しめる。幼い頃の思い出を忘れないようにしているのかもしれない。そのおかげかは知らないが、父が痛がる様子を見て、一気に母のことを思い出したのだ。声も、あの笑顔も。おぼろげだったものが、一気に。

 あれから母からの連絡は一切なく、私も母へと電話することもなかった。二回目の受験を終えて、ようやくお酒が飲める年齢になった頃、父が何を祈っていたのかも、私の幼少期の家の様子も、何に対して私が怒っていたのかも、理解できるようになった。しかし、今更、私が父へ失望や怒りを向けることはなかった。

 私たちは、お互いの奥歯を確認し合い、親知らずだと知ると、一緒に歯医者に赴いた。同じように治療されて、すっぽんと抜けた歯は、やはりこじんまりとしていて、情けない見た目をしていた。父の歯は生えたばかりだというのに、私より一回り小さくとんがった見た目をしていた。これが成長すると間違いなく歯肉を突き刺していたであろう。おまけに父の体は度重なる煙草やアルコールのせいでぼろぼろのぼろきれ同然になっていたから、私の心配は募っていくばかりであった。私の歯は立派な親知らずであり、そのまま生えるのを待っても良いとさえ思えるほど、整っていた。ただ歯肉との相性が悪く、仕方なしに抜くことになった。

 手のひらに転がした、白い欠片。父と私の白い欠片の差は明白だった。

「お父さん、親知らず持って、はよこっちに来て」

 私たちは庭に立つ。草むしりされ、綺麗に地面の赤土が見える。あの頃投げた白い欠片はどこにもない。夕日が沈みかけ、橙色で世界が埋め尽くされる。赤紫の雲が流れてゆくのを視界の端で追いかけた。まっかっかの世界。もう既に見慣れたその風景を、私は凄いとは思えなかった。

 でぶったシロを伴って、父が庭にやってくる。のっそりと気だるげだ。心なしか白髪が増えた気がする。ほうれい線が濃く顔に刻まれていた。母は、既にこんな父を想って祈りはしないだろう。

 だが私は違う。

「下の歯だから、上に投げるんやっけ」

 あの日から、何年も経っていた。何年も何年も変わらず私は待っていた。母の連絡は、やはり来ず、この日を迎えてしまっていた。父の失望や怒りと引き換えに得たのは、母への諦念だった。

 母の電話番号が書かれた紙で、私の親知らずを包んだ。小さなメモだ。見た目はそんなに変わらない。

「そうそう、上や、上」

 私の隣に父が立つ。後ろには誰もいないが、私の右隣にはシロがいる。父が左、シロが右。両脇をかためて、庭に向かう。私はその様を見て、投げようとした。

「待って、お父さんが、カウントダウンするから」

「遅い、はよして」

 と、言いつつも口角が上がってしまう。

 こんなにもたもたしていただろうか。もしかしたら、当時の私の記憶にはないが、こんな会話もあったのかもしれない。

 唾を飲み込み、父が言う。

 さん、に、いち。

 と、私たちは、同時に自分自身の欠片を投げた。歪みのある欠片と、私のメモで包まれた欠片が、赤い世界の中で放物線を描き落下していく。同じ方向へ、同じ距離で、ずっと遠くへ投げられる。遥か彼方へ消えた時、わんっとシロが珍しく鳴いた。父と私は同時にシロへ顔がむく。

 シロは赤い世界の中、目印のごとくそこにいた。私たちはここに戻ってきた。昔とは違うけれど。中身の風景は様変わりしたし、私は大人になってしまっていっているし、父は老けていっている。

 決定的に違うのは母がいないこと。

 シロがいること。

 今度は私が祈っていること。

 私は歯に祈りをのせたのだ。もう引き返せないものをふんだんに込めて。私の祈りはそういうものであり、父や母がした祈りと同じくらい大きなもの。もう、私は立派に育った。もう、父や母の祈りはいいのだ。もう充分だ。

 私はその場に座り、シロを抱えて、膝にのせた。随分とお太りになっていて、ぶよぶよの肉が柔らかく私の肌を圧迫する。白い毛並みを手でとかして、頬を擦り寄せる。

「ね、お父さん」

「なんなん」

 父を呼び止めて、私は母でない、私として、笑みを含ませお願いする。

「なあ、煙草も、お酒もやめてほしい。正直、お父さんのことは好きでも、嫌いでもない。むしろ嫌い。大嫌いやけど」

 それで、この気持ちはなんと言えばいいか分からないけれど。父はお父さんとして、ちゃんとやってくれたのだ。ちゃんとここまで連れて来てくれたのだ。

 私はそんな、そんなお父さんを愛しているのだ。

「それでも、私は、お父さんとまたここに来たいって思う」

 だから、私は母でなく、父の横にいることに決めた。

 もう変えない。

「お父さん、私、まだ一緒にいていい? まだ一緒にいたいねん」

 父は、間髪いれず大きな手を私の頭にのせて、がしがしと大雑把に撫でた。

「そんなん、当たり前や。なら、少しでも長生きしななぁ。煙草も、お酒もやめる」

「嘘ついたら本気で針千本のますわ」

「それは、またえらいことを」

 もうすぐ夜になる静かな世界で、父のからっからに晴れた笑い声が響き渡った。

 この笑い声を、私は一生忘れない。

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[一言]  子供にとって、親はいつだって突然に姿を消す。  実際には一切の兆候なしに家族が消えるケースは少ないのだろうけれど、家庭内で起こっている事象の極一部しか観測できない子供にとっては、そう感じ…
[一言] 読んでいて、気持ちがきしきしと軋むようなお噺でした。 家族は難しいですね。距離が近すぎて見えない部分もいっぱいありますし、赤の他人みたいにシビアになりきれない部分もありますし。 完璧にできず…
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