第七話 国鉄神戸線 西明石駅
列車は定刻通り、西明石駅へ到着した。最後尾の車両からホームに降り立つと、二十三時過ぎだというのに、利用客の姿が目に入る。
電光掲示型の発車標や各種案内板、それに煌々と輝く照明器具。様々な色の光に彩られた駅構内が、異界の暗い世界に慣れた目に眩しい。
小さな地方都市であるとはいえ、駅の周りにはビルや商店が建ち並び、こちらも光で溢れている。そしてホームの下を潜る国道からは、自動車の行き交う音が、途切れることなく響いていた。
この駅には、異界移行用のエレベーターが設置されているはずで、今後、業務に係る移行に列車は使用されなくなる。そう考えると、たった今降りた移行列車が、なんだか特別なものに思えてきた。そして、様々な思いが胸の中を交錯する。
初めて異界に赴任した時の恐怖感。再び戻ってきた時の開放感。しかしいつしか、異界駅のホームを踏むと、いるべき場所へ帰ってきたと安らぎを感じるようになっていた。
鉄子が来た夜以来、新たな移行者を受け入れることもないまま、後任駅長への引き継ぎを終え、残務整理も完了し、私は無事に任期を終えた。
近隣神社の社務所で開かれた送別会には、地域から多くの関係者が集まり、私を激励してくれ、これまで多くの人々に助けられていた事実を、あらためて認識したのだ。
感慨に浸り、もう乗ることもないであろう移行列車に目をやりながら、連絡通路へ続く階段に向かって、私はホームを進む。
ふと、妙なものが目に入った。これから車庫に入るはずの移行列車の開いたドアから、黒い靄のようなものが、次々と湧き出している。そして、それは車両から流れ出てくるなり、すぐに霧散し消えていくのだ。だが、ものの数秒もしないうちに、最初からそんな現象などなかったかのように、何も見えなくなった。
ホームにいる人々の様子から見ても、誰もそれに気づかないようで、どうやら私の気のせいらしい。異動前の過密な業務に、相当疲れが溜まっているのかもしれない。
ホーム中央から階段を上って連絡通路を渡りきると、駅舎の上から大きな振動音が響いてきたが、数秒後には消えていた。時刻からすると、最終の姫路行きのぞみ号が通過する音だったのだろう。
新幹線も停まる、比較的規模の大きな都市型駅。この近代的な駅が、異界に新たに設置された特殊駅へ通ずる“門”であることを、一体誰が想像しようか。
そう考えながら駅事務所を訪ね、職員に用件を伝えると、すぐに駅長室に通された。部屋に入ると、駅長の制服を着た男が立ち上がり、応接ソファへ座るよう勧めてくる。
「久しぶりやな、如月はん。三石での五年間、お疲れさんやったな」
「浦波さん、ご無沙汰しております。お元気でしたか?」
「まあ、こっちもいろいろあるわ。最近は、国鉄、私鉄ともに飛び込み自殺が頻繁やねん。ダイヤは乱れるわ、後始末は大変やわ、おまけにお客はんから文句は言われるわで、ほんま嫌になってくんで」
「それはまた、お疲れ様です。気苦労が多くて大変ですね。そう言えば、娘さんは?」
「おかげさんで昨年、嫁いで行きよってん。一人娘がいのなってまうと、家ン中が寂しゅうなって、どないしようもあらへんわ。嫁はんとは、そないに喋ることがあらへんからなあ」
以前会った時に比べて大きく後退した額をなでながら、私が新人時代に世話になった浦波は、自嘲気味にそう言った。
「いやあ、それにしてもあっちの西明石が特殊駅になるやなんて、思いもせんかったわ。ましてや如月はんが、そこの駅長にならはるなんてなあ。いや、ほんま。頼りにしてまっせ」
「浦波さんでしたら、あちらの駅長兼務でもよかったんじゃないですか」
「勘弁してえや。これでも近隣四駅の駅長も兼務してんねんで。ただでさえフウフウ言うて仕事してんのに、特殊駅長もやなんて、ワシに勤まるかいな」
浦波の朗らかな声と好々爺然とした表情を見ていると、この人があちらに行けば、闇に支配された世界の雰囲気も変わるのではないかと、真剣に思えてくる。
「そう言えば、三石の特殊駅、あんたの後任に、別の世界のお人が来はるそうやてな。なんや、国鉄が分割民営化された世界やと耳にしてんけど、ほんまかいな」
「赴任前研修で三石へ来られた際に、その方に伺ったのですが、国鉄どころか電電公社や専売公社までもが民営化されて、おまけに今年度からは郵政事業が公社化されたそうですよ」
「なんやそりゃ! 無茶苦茶やがな!! その流れやったら、その公社もいずれ民営化やろな。しかしまあ、そんなえらい世界が、ほんまにあるんかいな。ワシ、そないなとこに住んでのうて、ホンマよかったわ!」
浦波が国鉄の民営化に敏感なのは、管理職になる前は組合の執行部だったという経歴によるものなのだろう。彼は大きくため息をつきながら、心底安心したかのようにソファの背に深くもたれた。
「その方の世界は、他にも少し違うところがあるみたいでしたよ。携帯電話は未だに折りたたみ式のものを使っているらしく、私のスマートフォンを物珍しそうに見ていました」
「なんや、それ。もしかして、昔テレビでやっとった『タイムトンネル』みたいに、少し昔の時代に繋がったっていうやつちゃうか」
「いえ、別にそういうわけではなさそうでしたよ。私も一瞬そう思ったのですが、スケジュールの調整をしたときに確認すると、私達の世界と同じ二〇〇三年とのことでした」
「そうかいな。結構細かいとこが、いろいろ違うもんなんやな、“パラレルワールド”っちゅうのは。まあ、国鉄が民営化したんに比べたら、他のことはどうでもええけどな」
「それと、あちらの三石駅は今後、その世界専属の特殊駅になるそうです。それも、民営化した国鉄だけではなく、規格上、物理的に入構が可能な私鉄の各線も含めた、その世界に対する唯一の受入駅として。どうもその世界は、深洞簀様のお話は受け入れたものの、今のところ積極的に移行事業を進めるつもりがないようで、いずれあの駅も無人駅化する計画だそうです」
「そうなんかいな。あっちの三石、無人駅になってまうんか。それやったらこっちと変わらんようになってまうな。なんや寂しい話やな、行ったことあらへんけど」
この話を後任から聞かされた時、私だけでなく、仲間の皆が残念がっていた。
特に、民営化した国鉄へ、嘱託の身分のまま移籍することになっているヤヨイは、無人駅化後に自分がどうなるのかを、私の後任に尋ねていたが、今はまだ決まっていない、との答えが冷たく返ってくるだけで、相当落ち込んでいる様子だった。
もし本当に、彼女が解雇されることになるのなら、西明石に来てもらえるよう、上に掛け合ってみることにしよう。
それにしても、浦波の口からあちらの三石の名が出るたびに、私は面映ゆい気分に襲われる。浦波にも、あの件を報告しておくべきかもしれない。
「実は、あちらの三石駅なんですが……。その、ちょっと気恥ずかしいのですが……」
「なんやねん、奥歯になんや挟まっとんのかいな。はっきり言うてみいや」
浦波に促され、それを口に出そうとすると、三石の駅を発つ際に目にした光景が、頭の中に鮮明に蘇ってきた。