第二話 闇山のプラットホーム
足下に置いていた愛用の革鞄と洋菓子の紙袋を両手に持ち、板張りのホームに降り立つと、黒い木板がギィと侘しげに軋む。そのまま、駅事務所へ向かおうとするが、女性が続いて来ないことに気がついた。振り返ると、何故か彼女は車内に残ったまま、一層怯えた目でこちらを見ている。
「どうしました? 降りないんですか?」
「え……。ここ、西明石じゃないですよね……。どこなんです、ここ? こんなところで降りたら――」
そこまで言ったかと思うと、彼女は小さな悲鳴をあげて車両から飛び出てきた。突然、車内照明が全て落とされたのだ。どうやら暗闇が苦手らしい。
『ご乗車ありがとうございました。この電車はこれより回送となりますので、ご乗車になれません。当駅でお降りくださいますよう、お願いいたします』
いつもと変わらない丁寧なアナウンスが、暗い車内に響き渡った。そして、その言葉を裏付けるかのように、車両のロール式方向幕が動き出し、「回送」で止まる。LEDの行き先表示は既に消えており、号車を示す「1」だけが、煌々と輝いていた。
「一体何なのよ! もう!!」
女性はそう小さく叫ぶと、降りてきた扉のすぐ脇にある運転席ドアに駆け寄り、平手で窓ガラスを叩き始めた。
「ちょっと! 運転士さんっ、ここはどこなんですかっ!! 西明石じゃないじゃないのっ! 一体どうなってるのよっ!!」
窓から中を覗きながら問いかけ続ける女性を尻目に、列車は全ての扉を閉じた。
『発車します! 危険ですので列車から離れてください!!』
強い口調の注意放送が車外スピーカーから流れても、女性は車体を叩きながら、運転室に向かって声を張り上げ続ける。
「ちょっと、あんた! 危ないぞっ、離れなさい!!」
ここで事故を起こされてはたまらない。私は女性に駆け寄り、列車から引き離そうと抱きかかえた。そして彼女をホーム縁から安全な位置へ引き寄せると、列車は進行方向を変えることなく動き出した。
暗いプラットホームに立つ私達の前を、次第に速度を上げて通り過ぎていく、全ての車内照明を落とした列車。十二両目の最後尾車両が通り過ぎると、頼りなく灯る赤い尾灯が闇夜に溶けていき、すぐに見えなくなった。
まばらに立つ外灯の白熱球が頼りなく照らすだけの、上屋もなく、暗く狭いホームの先端に、私達は取り残されていた。明かりが届く狭い範囲以外は暗くて何も見えない。まるで、空気の粒子が全て墨に染まったかのように、ただ重い闇だけが、そこにあった。
「あの、すいません」
「いや、いいんだ。事故にならずに済んでよかったよ」
「いえ、そうじゃなくて。そろそろ離してもらえませんか」
自分の腕の中に、見ず知らずのうら若い女性を抱きかかえ続けていることに今更ながら気がつき、すぐに彼女を解放する。仄かに甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「いや、申し訳ない。決して下心があったわけではないんだ」
「大丈夫です。そんな誤解はしませんよ。それより、取り乱してすいませんでした。ごめんなさい」
女性は殊勝な表情で私に詫びる。どうやら、かなり落ち着いたようだ。そうだ、それでいい。予期せぬ事態に直面した場合は、まず冷静になることが一番なのだから。
彼女は自身の身体を軽く叩いて、スーツの皺を伸ばしながら、外灯に照らされた駅名看板に近づいていく。その表情には、若干怯えのようなものは見られるものの、真実を突き止めようとする理性的なものになっていた。
『みついし』
赤錆びて、ほとんど朽ちかけの駅名看板にはそう記されている。その下に三石と漢字表記があり、さらにその下に日本國有鐵道とある。
「この駅名標、相当古いものですね。こんなに錆び汚れて、隣駅名も読めなくなってる。この『みついし』って山陽本線の三石ですよね。西明石どころか、網干よりもまだ先の駅じゃないですか」
この女性、「駅名標」なんて言葉を知っているとは、鉄道マニアなのだろうか?
「ここが三石なら、さっき通ったトンネルは、船坂トンネルということになりますね。でも、三石駅はこんな駅じゃなかったはずですよ。わたし、二、三回ほど各駅停車で通ったことがあるんです。確かに山間の小さな駅だったけど、ホームはちゃんと舗装されていたし、ホームの両側に列車が停まるタイプの島式一面です。片側にしか停まらない単式一面ホームじゃなかったはず」
間違いない。彼女は鉄道女子、いわゆる“鉄子”だ。駅名標どころか、ホームの形式呼称までよく知っている。そう言えば、列車内でもロールカーテンのことを遮光幕と呼んでいた。普通のOLが、こんなことを知っているとは思えない。
「それに、明石から三石までだったら、一時間以上かかるはずですよ。そりゃあ、明石からこっち、どこにも停まらなかったけど、それにしても三十分程度で到着するはずがありません! やっぱり何かおかしいです!」
鉄子は再びおかしいと言い出した。しかし、先ほどまでの不安に押しつぶされそうな様子はどこかへ消えている。そのかわり、謎を解き明かそうとするつもりなのか、妙な高揚感を孕んだ表情をしていた。
「そう言えばきみ、さっきまでお友達と電話していたと言っていたが、今もつながっているのかい?」
「いえ、途中で切れてしまってから、全然つながらないんです。電車の中で、何度もかけ直したんですけど……。もう一度試してみますね」
鉄子はそう言ってスマートフォンを操作するが、やはりつながらないようだ。
星一つ見えない山奥の駅。四月中旬の深夜だというのに蒸し暑い。離れた間隔で設置されているホームの外灯には、大小いくつもの羽根蟲が群れ羽ばたいている。
「とにかく駅事務所へ行ってみよう。何か分かるかもしれないよ」
「うーん、そう言えばここ、無人駅じゃなかったっけ? IC乗車券は使えたと思いますけど」
なるほど、それは知らなかった。だが、ここには間違いなく事務所があるのだ。
「まあ、行ってみれば分かるよ。誰かいるかもしれない」
「そうですね。次の電車も来そうにないし、ここに留まっていても、始まらないですよね。そうだ! 確かここは夜間滞泊設定駅だから、無人駅でも乗務員宿泊所があるはずです。おじさんが言うように、誰かいるかもしれませんよ!」
先ほどまでの狼狽ぶりはどこへやら、彼女は鉄子らしいことを喋りながら、駅事務所に向かうべく、ホーム中央に向けて歩き出したので、私もその後ろを少し離れてついて行くことにした。
パンプスで床板を踏み軋ませながら足早に歩く彼女の左手には、まばゆい光を放つスマートフォンがあったが、外灯が灯っているにもかかわらず暗いホームを歩くには心許ない。
「きみ、暗いところが苦手じゃないのかい?」
「え? 別に苦手じゃないですよ。学生時代は天文部で夜の山に登ったこともありますし。あ、山って言っても、街の近くの丘みたいなところですけどね」
「そうなのか。いや、さっき電車の中が暗くなって、怖がっていたように見えたからね。つい、そう思ってしまったよ」
「あ、あれですか? あの時は、もちろん急に電気が消えたことも驚いたけど、暗くなった瞬間、車両の座席全てに、黒い靄のような人影が大勢座っているように思えたんですよ。誰もいないはずなのに……。やだ、思い出しちゃった……。あれ、なんだったんだろう……」
鉄子の足取りが急に重くなる。どうやら余計なことを聞いてしまったようだ。
「それは気のせいだよ。妙なことに巻き込まれて、怖い怖いと思っていたから、そう見えたんだよ」
「そうだといいんですけどね。でも、そもそも何でこんな妙なことになっちゃったんだろ。あーちゃんが言ってた都市伝説、もっと詳しく聞いておけばよかったな……」
“あーちゃん”というのは、さっきまで電話で話していたという友人のことだろう。
その都市伝説には心当たりがあるが、むしろ詳しく聞いていなくてよかったのだ。もし聞いていたら、彼女は先ほどの場所から一向に動こうとしなかったはずだ。いや、電車を降りることも拒否して、もっとまずいことになっていたかもしれない。
足下が見づらいなか、暗いホームをしばらく歩くと、小さな屋根が見えてきた。その下にぶら下がる、薄ぼんやりとした裸電球の明かりに、駅事務所のドアと改札が浮かんでいる。
その光景を目にした鉄子が、急に駆け出した。
「おい、危ないぞ! 走るな!! その辺りは、釘が飛び出ているところがあるから気をつけろ!!」
「大丈夫です! 注意してますから!!」
そう答えながら事務所の前にたどり着いた鉄子は、いきなり扉を叩き始めた。先ほどの運転席のドアのように。
「ちょっと、誰かいませんか! 出てきてください! 誰もいないんですか! 説明してくださいっ! 何が起こっているのか、ちゃんと説明してくださいよっ!! 鉄道事業者は乗客に対する説明責任があるはずでしょっ! ちょっと! 誰かっ! 返事くらいしなさいよっ!!」
「どうやら、誰もいないようだね」
「なんてことなのよっ! 事務所があるのに、誰もいないなんて!!」
自分で無人駅だと言っておきながら、いざ事務所の存在を目の当たりにすると、誰かいるものと信じたくなるのだろう。だが、いくら彼女が扉を叩こうと、誰も応えることはなかった。
「誰も出てこない……。でも、乗務員宿泊所には誰かいるかも! 行ってみましょうよ、おじさん!!」
「それもいいが、スマートフォンの明かりだけで、この暗い駅構内を探索するのは危ないんじゃないか? それに宿泊所に人がいたとしても、この状況を把握しているかどうか分からない。ならばこの際、警察に事情を説明して、助けてもらった方が確実だと思うがね」
「いたずらって思われないかな」
「大丈夫。私が電話してあげるよ。警察が直接動いてくれなくても、鉄道会社に照会ぐらいしてくれるさ」
私はそう言いながら、事務所脇に置いてある公衆電話の受話器を取り、緊急呼出のダイヤルを回す。今夜のような想定外の状況では、これが一番確実な方法だろう。
ふと腕時計を見ると、時刻は既に午前二時を回っていた。