第十一話 國鐵山陽本線 西明石特殊駅
時刻を見ると、日付が変わっていた。
二人して乗り込んだエレベーターのドアが閉まると、白露がポケットから取り出したカードキーを、操作盤のスロットに差し込む。
すると、その下から“特”と記されたボタンが現れた。私を振り返る白露に頷くと、彼女は緊張した面持ちで、そのボタンを押した。
突如、かごがゴトンと大きく揺れ、ゆっくりと下り始めた。数名の乗降客が通り過ぎる連絡通路がドア窓に見えなくなると、コンクリートの壁面がゆっくり上方に流れる。
だが間もなく、壁はぬらぬらと妙な液体に覆われ、赤黒く錆び汚れた物質に変わった。一面に張り巡らされている血管のようなものが、一定の周期で脈動している。まるで生物の体内のような中を、我々を乗せたかごは、ゆっくりと時間をかけて下りていく
先ほどまで、活き活きと喋っていた白露も、今は少しばかり青ざめた顔色で押し黙っていた。やはり、移行経験が浅いだけあって、恐怖心が先に立つのかもしれない。ここは上司として、気持ちをほぐしてやるべきだろう。
「きみはあの晩、私と別れてからどうしたんだ? 私はきみが、イレギュラーではあるものの、一般の移行者だと思っていたから警察へ引き渡したんだが、あれで本当によかったんだろうか。今更ながらそれが気になっていてね」
「怪しいおじさんに騙されて、パトカーに乗せられたあとのことですか?」
白露は冗談めかして返してくるが、不安を打ち消すためにそうしていることは、明らかだった。視線も私に固定して、ドア窓の外を見ないようにしているようだ。
「あのあとは規定通り、深洞簀神社の社務所に連れて行かれました。深洞簀様の従者の方――、洞簀馬様でしたっけ。あの方の説話を聞かされたんですけど、すぐに眠くなってしまって、思いっきり寝ちゃいました。あんなに怖い思いをしているなかで、あそこまで気持ちよく眠れるなんて、洞簀馬様って睡眠学のプロだったりして」
そう、あの説話はどんなに頑張って聞いていても、すぐに眠くなるのだ。私も受けたことがあるから、よく分かる。あの洞簀馬、一度スピーチのセミナーでも受けた方がいいような気がする。
しかし、彼の説話で居眠りしたあとは、不思議と不安感や恐怖心が払拭されるのも事実だ。それだけ質のよい睡眠を得られるということか。あれを録音して、睡眠導入音声として売れば、大儲けできるかもしれない。
白露は説話で眠ってしまったあと、社務所の宿泊室で目を覚まし、その後訪ねてきた役場の職員から、異界移行に関する大まかな説明を受けたという。
移行についての説明が、事前か事後かの違い以外は、全く規定通りの流れで、私の時とそれほど変わらない。
宿泊室の布団で目覚めてから、しばらくうなじに痒みのような違和感があったということも、私の時と全く同じだった。おそらくあの布団、南京虫か何かがいるのかもしれない。
一連の流れのあと、特殊駅管理室長からの電話が役場に入り、全ての事情を明かされたというのだ。
「室長も、ほんっと意地悪ですよね。ちゃんと事前に説明してほしかったです。浦波駅長は“親心”って言ってましたけど、室長、絶対楽しんでましたよ、あれ! なんか悔しい!!」
あれこれ、とりとめのない会話を交わしているうちに、かごは停止し、再びドアが開いた。そこはやはり、暗いプラットホームだった。エレベーター内の蛍光灯が闇を押しとどめようとしているが、形勢は不利なようで、次第にかごの中が薄暗くなってくる。
エレベーターを降りると、すぐにドアが閉まり、かごはそそくさと上昇していく。まるで、この陰鬱な世界から逃げ去るかのように。
我々二人は、漆黒という言葉が陳腐に思えるほどの暗黒の中へ取り残されていた。
だが、お互いの姿が辛うじて見えるのは、上屋の梁に多数備えられた、高輝度の照明のおかげだ。どうやら三石とは違い、西明石に関してはかなりの投資がなされているようで、そこかしこに高輝度照明が設置されている。
しかし、どれほど強い光であろうと、すぐに闇に絡め取られてしまうのは、この駅が、邪神災害の被害が甚大だったという神戸や大阪に近く、瘴気が非常に濃いからだろう。もちろん人体に影響のない濃度のはずだが、ここまで闇の粒子が濃いとなれば、壊滅した都市部はどんなことになっているのだろうか。
三石駅とは全く質が異なる濃密な闇に気圧された私達は、なかなかそこを動けず、立ち尽くしたままだった。
プラットホームは木造でもコンクリート製でもなく、錆だらけの鋼材が格子状に組まれた、グレーチング状の床面になっており、格子の隙間から床下の闇が覗いている。頭上には、スレート材が葺かれた上屋があるようだが、そのほとんどが抜け落ちており、そこからは、やはり黒い空間が見えていた。
赤黒い錆に覆われたプラットホーム。僅かに、昔は白かったであろう塗装が残っている部分と相まって、なんだか血塗られた骸骨に見える。
あまりにも不安なのか、いつの間にか白露が右腕にしがみついてきていたが、無下に振り払うこともないだろう。
「ウゥゥゥ……。昨日も通ったけど、ここ嫌い……」
「暗いところが苦手なのに、一人で通ったのかい? なかなかやるな」
「前も言いましたけど、わたし暗いところが苦手なわけじゃないんですよ」
「昨日通ったって言うが、どうやってここまで来たんだ? 昨日は移行列車は動いていないはずだが」
疑問を白露にぶつけてみると、彼女は意外そうな表情で答えた。
「あれ? 如月駅長だったら、もうお分かりだと思っていたんですけど。車で送ってもらったんですよ。この前のお巡りさんに、パトカーで。本当は村役場の車で送ってくれるはずだったんです。でも、何かあったらいけないと、あの晩に運転してくれたお巡りさんが言い出して、それで、ここまで乗せてきてくれたんです。もしかしてあの人、わたしに気があったのかも。なんてね」
あの巡査、真面目なふりして結構マメなやつだ。だが残念ながら、白露は彼の名前は聞いたものの思い出せないようで、お巡りさんとしか言わなかった。そして、さらに残念なことに、私も彼の名を知らないままなのだ。
だが、いずれ、また会うこともあるだろう。その時にあらためて名前を尋ねてやろう。
「でも、ここの雰囲気、すごく嫌じゃないですか? なんだか真っ黒な空気が纏わり付いてくるような……。三石とは全然違う暗さで、生理的にあわないんです。送ってくれたお巡りさんも、なんだか怯えているようでしたよ、ここの雰囲気に」
「分かるよ。私も初めてこちらへ来た時はそうだったからね。ここは三石よりも厳しい環境だから、きみが嫌悪感を抱いて当然だ。でも、じきに慣れるさ。経験者が言うんだから間違いない」
そう言ってはみるものの、私もここの雰囲気は苦手だ。闇の粘度が高くて、全身が絡め取られるような気がする。
しかし、ここでずっと立ち止まっていても仕方がない。駅事務所に向かおうと、エレベーター乗降口のすぐ脇にある、上り階段に向かって歩き出した時、闇に潜んで見えないレールから、低い音が響いてきた。
間違いない。この音は列車がレールを走る音だ。同時に足下から僅かな振動が伝わってくる。
姿はまだ見えないが、響く音の様子から、既に列車はホームに入構しているはずだ。
そう思った瞬間、黒い霧をかき分けるように、煌々とヘッドライトを灯した普通列車が現れた。私に向かって運転士の敬礼する姿が一瞬見えるが、答礼が間に合わないまま先頭車両は通り過ぎ、やがて列車は定位置に停車した。
空圧システムの動作音とともに全てのドアが開くと、車内の明かりが弱々しく漏れてくる。ホームは先ほどまでに比べ、かなり明るさを取り戻していた。
しかし反面、その錆び汚れた異様な光景は、暗闇の時よりも一層、不気味さを増しているように思えた。