滅びの魔女
あら? と声がして顔を上げると、ダークブロンドの髪に菫色の瞳の令嬢が私を見て微笑んでいた。
私も、あ……と小さく声を上げる。
「フレイラ・アジェリア様?」
「ええ。名前を覚えて下さってて嬉しいわ」
「いえ。またお会いできて私も嬉しいです」
フレイラ・アジェリアは、公爵家の令嬢だとレベッカから聞いていた。
やはり、レベッカと同じクラスだったので、初めて声を掛けてもらったあの日から、クラスの違う彼女とは顔を合わせる機会がなかった。
「隣に座ってもいいかしら」
「ええ! 勿論です!」
私が頷くと、彼女はニッコリと笑って椅子に腰かけた。
この日、授業が終わった後、学院の中にある礼拝堂で、レガール国教会の神父様がお話をしてくれるから参加しないかと同じクラスのマチルダに誘われた。
だが、先にレベッカと図書館へ行く約束をしていたので、私は断っていた。
なのに、レベッカに待ってもらってまで礼拝堂にやって来たのは、この日話をしてくれるというクラウド神父のことが気になったからだ。
偶然教師と話をしていたクラウド神父の横顔を見た時、何故か私は胸騒ぎのようなものを感じた。
誰かに似ている?
あの、どこか困ったように首を傾げる仕草とか、作ったような笑い方とか。
チラッと見ただけの印象だったので、誰に似ているのかまで思い出せなかった。
思い出せないから気になったのかもしれない。だから、参加しようと思った。
神父の長い話は苦手だと以前聞いていた私は、つきあうというレベッカに、一人で大丈夫だからと言いサロンで待ってもらった。
シャリエフ王国とは違う、レガール国の女神信仰にも興味があったから参加したのだが、まさかここでフレイラ・アジェリア公爵令嬢に会えるとは思ってもみなかった。
「貴女とゆっくりお話がしたいと思っていたの。ここで会えて良かったわ。来週、親しい方達とお茶会を開く予定をしているのだけど、貴女をご招待してもいいかしら」
「え? お茶会、ですか?」
「ええ。確か、オトゥール侯爵家のレベッカ様とはお友達でしたわね。ご一緒に来ていただけると嬉しいですわ」
私は目を瞬かせた。アジャリア公爵令嬢からお茶会のお誘い受けるなんて。
「ありがとうございます。今すぐにはお返事できませんけど、とても嬉しいです」
そう私が答えると、彼女は菫色の瞳を細くして笑った。
「では、後ほどお二人に招待状をお渡ししますわ。楽しみにしてますわね」
はい、と私は頷いた。
それと、と彼女はふっと目を伏せた。
「貴女には謝らなくてはならないことがあるの」
「私に、ですか?」
「弟が、貴女にとても無礼で失礼なことをしたわ」
「弟? アジェリア様のですか?」
「ええ。貴女に対し、魔女だと罵ったとか。本当にごめんなさい」
(あの時の……)
私を待ち伏せていたのだと、アスラが捕まえて首を締めあげていた少年だ。
彼女の弟だったなんて。
「弟のサイモンは、おかしな思想にはまっていて。注意しても聞かないのよ。本当に申し訳ないわ」
「いえ、大丈夫です。びっくりしましたが、何もなかったですから」
というより、首を絞めたのはアスラだし。
公爵令嬢であるアジャリア様に何度も頭を下げられて、私は困ってしまった。
その後、彼女と話をし、少し落ち着いた頃、祭壇近くの扉が開いて、黒い詰め襟の神父服を着た長身の男性が礼拝堂に入ってきた。
四十代後半くらいの黒髪の神父は、整った顔に穏やかな笑みを浮かべて話を始めた。
左手に聖書。首にかけた十字架が白く光っている。
ああ……彼だ、と私は思った。
最初、気になったのは神父が見せた、作ったような笑顔。私が知っている人物の笑顔はぎこちなくて。
いつも彼はむっつりした顔で、笑うのは苦手だと言っていた。
私、アリステアの前世だったセレスティーネの幼馴染みで、卒業パーティーで彼女を殺した男──
(レガールで神父になっていたのね……)
シャリエフ王国の騎士団長の嫡男だったロナウド。
自分は騎士となって国を守るのだと言っていた彼が、祖国を離れ神父となったのは、あのことがあったせいだろうか。
前世の記憶が戻った時は、死んだ時の状況がリアルに何度も思い出され、怖くて苦しかったけれど、今は記録として頭の中に残っているだけだ。
前世のセレスティーネは、あの日、レトニス様と共に私の中から消えてしまったのかもしれない。
そう思った時、祭壇前に立っているロナウドと目が合ったような気がして私はドキリとした。
ロナウドが私に気付く筈はないというのに、なんだか居づらい気分になり、私は椅子から立ち上がった。
アジェリア様が、急に立ち上がった私に首を傾げた。
「すみません。サロンで友人と待ち合わせをしているもので、お先に失礼します」
「ああ、そうなのね。では、また」
はい、と私は頭を下げ出口に向かった。
後ろの席にいたので、スムーズに外へ出られた。
扉を開けて外に出る前に、少しだけ振り返ったが、ロナウドと目が合うことはなかった。
一番前の席に、マチルダのピンクブラウンの髪が見えた。
そういえばマチルダは、小さい頃から親しくしてもらっている神父様がいると言っていたが、ロナウドのことだったのね。
(やはり、あの栞は……)
私は、幼い頃のセレスティーネの懐かしい記憶を思い出しながら、礼拝堂を後にした。
(フレイラ・アジェリア)
クラウド神父の話が終わり、礼拝堂を出たフレイラはサロンに足を向けた。
アリステア嬢が、サロンで待ち合わせをしていると言って出て行ってから、大分時間がたっているから、もういないかもしれない。
それでも覗いてみようと思ったのは、アリステア嬢と話ができたのが嬉しかったからかもしれない。
初めてあの方を見た時から、ずっと気になっていた。
金色の髪に、澄んだ美しい青い瞳は、憧れていたそのままだった。
つい嬉しくてお茶会に誘った。そんな予定などなかったのに。
(ああ、どうしましょう。急いで準備をしないと! お茶とお菓子はどこに頼もうかしら)
色々考えながらサロンに入ったフレイラは、一人窓際のテーブルに座っているレベッカ・オトゥールを見て、え? と首を傾げた。
てっきりアリステア嬢が待ち合わせしている相手はレベッカ嬢だと思っていたのだが。
「ごきげんよう、レベッカ様。お一人ですの?」
「ごきげんよう、フレイラ様。友人と待ち合わせよ。そろそろ終わる頃だと思うけど」
「…………」
何か嫌な予感がした。レベッカ様が待ち合わせている友人って…………
「待ち合わせの方は…………アリステア・エヴァンス様ですか?」
「ええ、そうよ」
みるみる顔を青くしていったフレイラを、レベッカは不思議そうに見る。
「どうかしたの?」
「彼女は……アリステア様は──サロンで待ち合わせをしているからと、途中で抜けられましたわ……」
「なんですって⁉」
フレイラはバッと向きを変えると、サロンから飛び出していった。
(ああ、なんてこと!)
フレイラは、己の失態に歯がみした。
十分に注意していたはずなのに。彼女と親しく会話ができて、それが思いの外心地よく、楽しくてつい油断してしまった。
(早く……早く見つけなければ!)
幸いなことに、放課後で学舎内に残っている生徒がごく僅かだったため、淑女の鑑とも言われているフレイラ・アジェリア公爵令嬢が、制服の裾が翻るのも構わず廊下を走っていることに気づいた生徒ははいなかった。
学舎から外に走り出たフレイラは、中庭を歩いている弟のサイモンの後ろ姿を認めた。
「サイモン!」
名を呼ばれたサイモンは足を止めると、笑みを浮かべながらゆっくり振り返った。
「これは、姉上。そんなに慌ててどうしたんです?」
フレイラは眉をひそめながら歩み寄ると、弟の顔を睨み付けた。
「怖い顔だ。何か怒ってますか、姉上?」
「わかっていて白々しい。あの方は、どこ?」
「あの方って、誰のことかな?」
サイモンは、何のことかわからないと言うように首を傾げた。
「とぼけても無駄よ。あの方が消えた理由は、貴方達しかないわ」
サイモンは、フンと鼻を鳴らした。
「裏切るんですか、姉上」
「あら? 私が、誰を裏切るというのかしら?」
「我がアジャリア公爵家は、代々滅びの魔女を滅することを使命としてきたことはご存じでしょう。姉上は、その公爵家を裏切り、魔女につくと言うのですか」
フレイラは、サイモンの言葉に呆れた顔をした。
「貴方の言う代々って、いったい何年前からのことかしら? 五年? それとも十年前かしら?」
「は?」
「少なくとも、お祖父様が生きていらした頃まで、そんな使命など、どこにもなかったわ」
「何を言ってるんですか、姉上? そんな噓を誰が信じると言うんです?」
「噓ではないわ。全く貴方は──すっかりお母様に騙されてしまっているのね」
「なっ……!」
サイモンは、カッとなって目を吊り上げると、姉であるフレイラの胸倉を掴んだ。
「母上を侮辱するな! 姉上の方こそ魔女に騙されてるんだ!」
「…………」
胸倉を掴まれたフレイラは、弟の手から逃れようと後ろに下がり、木に背を付けた。
それ以上、下がれなくなった彼女は、相手の目を見つめながら右手をゆっくりと上に伸ばした。
そして……ボキッと何かが折れる音がした瞬間、姉の胸倉を掴んでいたはずのサイモンの身体がくの字に折れ曲がり、気づけば尻餅を付いていた。
自分が腹に膝蹴りを受けたのだとわかったのは、鳩尾の痛みに吐き気を覚えたのと、自分の目が、ぞっとするような表情で見下ろす姉の目と合った時だった。
男に守られるだけのか弱い貴族令嬢という認識しかなかった姉の、意外な面を見て、夢でも見ているような気分だった。
優秀で淑女の鑑とも言われ、母親が元王女でなければ王太子妃に最も相応しいと誰もが認めるフレイラ・アジャリアの手には、いつの間にか木の枝が握られていた。
蹴り倒される前に聞いたあの音は、フレイラが枝を折る音だったようだ。
「あ……姉上?」
フレイラが持つ枝の先が顔の前に突きつけられると、サイモンは顔がこわばったまま動けなくなった。
(に……逃げられない? そんな馬鹿な!)
つーっと、首筋に汗が伝う。
「ご自慢の顔に消えない傷をつけてあげましょうか? それとも、大好きなお母様と同じ色の瞳を潰しても良くってよ」
「ハッ……そんな脅しが聞くとでも? 僕は実の弟ですよ。それも、アジャリア公爵家の跡継ぎだ」
姉が公爵家の嫡男である自分を傷つけるはずはないと信じている弟を見て、フレイラは溜め息をつくと、薄く目を閉じた。枝の先が下がるのを見て、サイモンはニヤリと笑った。
しかし、次の瞬間、彼女の白い手がまるでタクトでも振るかのように優雅な動きを見せると、サイモンの口から甲高い悲鳴が上がった。
突然庭園に響き渡った悲鳴に気づいて駆け寄ったのは、レベッカからアリステアがいなくなったと聞いて探していたサリオンとレイナートだった。
彼らが目にしたのは、顔から血を流して泣き叫んでいる男子生徒を、無言で見下ろしているアジャリア公爵令嬢の姿だった。
彼女の足元には、血の付いた枝が一本落ちていた。
「どうしたんだ⁉ 何があった!」
フレイラは、サリオンとレイナートの方を振り返る。
「アリステア様のいる場所がわかったわ! キリタリア教会よ!」
え⁉
キリタリア教会? とサリオンがレイナートの方を見る。
「キリタリア教会って、あれだろ? 王都中央にある、王族や高位貴族の結婚式が行われる教会。そんな場所にアリステア嬢を?」
「いや、多分そこではなく、旧キリタリア教会のことでしょう。西地区にある王立公園の先にあります。今のキリタリア教会は、二十年くらい前に新しく建てられたものですから」
そう言ったのは、やはり悲鳴に気づいて走ってきたレベッカとアスラの後から現れた、クラウド神父だった。
「そこまでは、どのくらい距離があるんだ?」
サリオンが問うと、彼は、そうですね、と少し考える。
「距離があるので走っていくのは時間がかかるためお勧めしません。馬を使った方がいいでしょう」
「だったら、うちの馬車を使えばいいわ! 迎えの馬車がもう来るはずだから!」
レベッカはそう言うと正門に向かって駆け出した。その後をサリオンらが追う。
その場に残ったのは、神父とフレイラ、そして彼女の弟のサイモンの三人だった。
さっきまで泣き喚いていたサイモンは、いつの間にかおとなしくなっていた。
どうやら、痛みと顔に傷を付けられたショックで気を失ったようだ。
本当に情けない子、とフレイラが呆れたように意識のない弟を見下ろした。
「そう言うものではありませんよ。誰もが強いわけではないのですから」
「確かにそうね。たとえ弱くて馬鹿でも、彼はアジャリア公爵家の次期当主に間違いないわ」
「…………」
神父はサイモンの方にかがみこむと、顔の傷を確かめた。
「ああ、出血はあるが、たいした傷ではないですね」
「やはり血の繋がった弟だから、手加減してしまいましたわ。少しくらい傷があった方が箔が付いたでしょうに」
神父は喉を鳴らして笑う。
「それはちょっと無理でしょう。彼のように綺麗な顔に傷がついていれば、勇ましい理由ではなく、女性を怒らせて付けられたものと考える者が殆どだと思いますよ」
実際、姉にやられたものだし。
「ああ、彼が騎士なら、勇ましい理由を想像する者もいるかもしれませんがね」
神父はそう言うと、サイモンの体を肩に担ぎあげた。
「では行きましょうか」
「どこへ?」
「まずは教会へ。馬車を待たせていますので、ご一緒に来ていただけますか」
フレイラが眉を顰めると、神父はニコリと微笑んだ。
「あなた方に聞きたいことがあるのですよ。滅びの魔女の事や──聖護教団の事とか、ね」
フレイラは、目を大きく見開いて、長身の神父の顔を見つめた。
「クラウド神父……貴方はいったい?」
「そうですね──聖護教団を敵だと考える側、と思って下さい」