密談・帝国
大変お待たせしてすみません。
本日より、更新を再開します。と言っても、やはり更新はトロいのは変わらないと思いますが…………
気長にお付き合い頂けたら幸いです。
帝宮の奥宮に続く大理石の廊下を歩くのは、いったい何年ぶりだろうか。
まだ子供の頃、先代の皇帝に連れられて、リカードは、主がいなくなってから封印されていた部屋に入った。あの日は、リカードの影となっていたルシャナも一緒だった。
まさか、再びこの廊下を通ってあの部屋へ向かうことになるとは。
王宮の近衛騎士に守られながら、ヴェノスと呼ばれる部屋の前まで来た皇太子リカードは、開けられたドアから中へ入った。部屋にはすでに先客がいた。
短い銀髪に、黒のフロックコートの背中を見たリカードは、緊張し息を吞んだ。
アロイス・フォン・シュヴァルツ公爵──
リカードは、公爵の視線の先を見た。
あの壁には、かつてこの部屋の主であった、オリビア皇女の十六歳の肖像画がかかっている。
黄金の髪に、透き通るような青い瞳。
飾りの少ない、シンプルな青いドレスを着たオリビア皇女の肖像は、この一枚しかない。
見たのは子供の頃の一度きりだったが、今も見ると衝撃を受けるほど美しい肖像画だ。
シュヴァルツ公爵が、肖像画から視線を外し、ゆっくりとリカードの方を向いた。
「ご無沙汰しております、皇太子殿下」
礼をされたリカードは、慌てて背筋を伸ばした。本当に、この公爵は苦手だ。
「何故、公爵がここに?」
「私も呼ばれましたので」
「オリビア様に……ですか」
はい、と公爵が頷くのを見て、リカードは驚いた顔になった。
リカードが一人でここに来たのは、元皇女である、オリビア・ローザ・フォン・フォルツ伯爵夫人から手紙をもらったからである。
現皇帝であるリカードの父カイルではなく、何故自分に?
オリビア様に会えるのは嬉しい。初めて肖像画を見た時から憧れの方だ。
だが、何故今、自分が呼ばれたのかわからない。しかも、シュヴァルツ公爵も一緒に。
「あら、二人とも時間には正確のようね」
ドアが開く音と同時に聞こえた女性の声に、彼らは顔を向けた。
部屋の入り口の前に、青紫色のドレスを着た貴婦人が立っていた。
輝くような金髪を編み込んでアップにしている女性は、六十を超えているはずだが、まったくそうは見えなかった。五十そこそこと言ってもいいほどの若々しさだ。
リカードは、子供の頃に憧れた時から少しも変わらない、彼女の美貌に見惚れた。
「あなた方に会うのは初めてね」
「は……はい。初めまして、オリビア様。リカード・ヘルム・ユリウスです」
「アロイス・フォン・シュヴァルツでございます。お目にかかれて光栄です。フォルツ伯爵夫人」
「オリビアでいいわ、シュヴァルツ公爵」
「はい、オリビア様」
オリビアは、壁にかかった肖像画を見た。
「懐かしいわね。この頃の私は、じっとしているのが大嫌いで、ずっと肖像画は断っていたのだけど、この絵を描いてくれた画家は、とても話し上手で、退屈しなかったわ。まあ、そういう人を兄が探してくれたのでしょうけど」
ふふっと彼女は笑うと、アロイスの方に顔を向けた。
「アリステア・エヴァンス伯爵令嬢に似ているかしら?」
オリビアの言葉に対し、眉をひそめただけのアロイスに、彼女は目を細くして笑った。
「もう二度と来ることはないと思っていたこの場所にあなた達を呼んだのは、話しておきたいことがあったからよ。まあ、公爵は予想がついているでしょうけど」
美しい笑みを浮かべるオリビアと表情を消したアロイスの二人に、リカードは困惑した。
一人は前皇帝の妹で元皇女。もう一人は、現皇帝であるリカードの父親がその能力を認めている公爵家の当主。
いくら皇太子とはいえ、まだ二十歳になったばかりのリカードでは、この二人を前に仕切ることも太刀打ちすることも、到底不可能な話だった。
だいたい、何故ここで、アリステア・エヴァンス伯爵令嬢が出てくるのか、リカードにはさっぱりわからなかった。
(その名前は確か、ビアンカが公爵家の令嬢シャロンと揉め事を起こした時に出てきた名だったな)
フォーゲル公爵夫人のお茶会で、シャロン嬢が、自分の家庭教師を侮辱したと、ビアンカの顔を平手で叩いた。ビアンカが侮辱した家庭教師の名が、アリステア・エヴァンス。シャリエフ王国から来た伯爵令嬢だった。
「まずは座りましょうか」
オリビアが椅子に座ると、二人は、彼女と向き合うように椅子に腰かけた。
奥宮のメイドが部屋に入って来て、紅茶のカップをテーブルに置いた。
「呼ぶまで、この部屋には誰も入れないようにして」
「かしこまりました」
メイドは一礼すると部屋を出ていった。
オリビアは、白い指でカップを持ち上げると、香りを楽しんでから琥珀色の紅茶を一口飲んだ。
彼女の前に座る二人は、カップを手に取らなかった。
「オリビア様。お話とはいったいなんでしょうか?」
リカードは、オリビアがカップを置くのを見てから口を開く。
「そうね。先に頼まれたことを言っておこうかしら」
頼まれた? リカードは、首を傾げた。
「前に本邸に行った時、ビアンカが来ていたの。私が行くことを誰かから聞いたみたいね。まあ、クリストフがうっかり漏らしたのでしょうが」
えっ? とリカードは目を見開いた。
「ビアンカが、ですか? ビアンカがフォルツ伯爵の本邸に行ったなんて聞いていませんが! いったいどうして」
「リカードと結婚したいから、カイルにお願いして欲しいって頼みに来たのよ」
「ビアンカがそんなことを!」
リカードは、頭を抱えた。
「いったい、城の人間は何をしているんだ! 無断でビアンカを城の外に出すなんて有り得ない!」
「一度、ビアンカの周りにいる人間を調べた方がいいわ。特に、あの子の専属侍女であるメリッサを徹底的に調べなさい」
「メリッサ……ですか。確か、彼女はフォルツ伯爵の身内だと聞いていますが」
「ええ、そうね。クリストフの息子が、家と婚約者を捨ててまで愛し結婚した女性よ。最近まで、私もメリッサがビアンカの側にいることを知らなかったわ」
え? とリカードは、驚いたように目を見開いた。オリビア様がご存じではなかった?
「私に知らせるほどのことではないと、誰かが判断したのでしょう」
「そんな……誰が」
ビアンカは、オリビアの甥の息子であるリカードと必ず結婚できると思っている。
そう、彼女に信じ込ませている人物がいる。
「リカード。何故、ビアンカが皇帝に引き取られることになったか、知っているかしら?」
「はい。先代皇帝が、妹君であるオリビア様とフォルツ伯爵との婚姻の条件として、最初に生まれた孫娘を引き取って皇女にすると言われたからだと聞いています」
「表向きの理由はね」
は? とリカードは目を瞬かす。
オリビアは、アロイスの方に顔を向けた。
「シュヴァルツ公爵。貴方はどう? ご存じかしら」
「預言──のことでしょうか」
預言? とリカードは首を傾げた。なんだか、こう……この場ではらしくないような言葉だ。
「さすがに、知っていたようね。まあ、貴方のそばには、記録する一族の末裔がいるようだから、知っていて当然だったかしら」
「恐れ入ります。ご存じでしたか」
ふふ、とオリビアは、笑う。
「オリビア様、預言というのは、どんなことでしょうか」
「皇帝の直系が代々伝えている、世界滅亡の預言よ」
「えっ⁉」
オリビアは、クスクス笑った。
「こうして口にすると、なんだか冗談でも言っている気分になるわ。貴方もいずれカイルから聞くことになるでしょうけど。まあ、今ここで知ることになっても構わないでしょう」
ねえ、公爵? と顔を向けられたアロイスは、黙ったまま頭を下げた。
「冗談……ではないのですね」
「残念ながらね。本来皇族でも、女の私が知る筈のことではなかったけれど、私が当事者だったから預言のことを知ることになったわ」
「当事者、ですか?」
「預言は、私の最初に出来た孫娘が、滅亡の重要な鍵を握るというもの…………だから、皇帝が引き取ることになったのよ。この国で、最も安全な場所で保護するために」
「保護? え! そうだったのですか」
リカードは、そんな事情があるなど、全く知らなかったので、驚くしかなかった。
それなら、ビアンカが勝手に帝宮の外に出てしまったのが問題なのは当然だ。
しかし、世界の滅亡とは…………
そんな預言があるなんて、すぐには信じがたかった。
「詳しい預言についてはカイルから聞きなさい」
そうリカードに言ってから、オリビアは、青い目をアロイスへと向けた。
「シュヴァルツ公爵。貴方とアリステア・エヴァンスの関係を教えてもらえるかしら」
「関係──ですか。彼女はシャリエフ王国から来た、娘の家庭教師ですが」
「ええ。シャリエフ王国の伯爵令嬢だそうね。私が会った時は、彼女は赤毛だったけれど、本当は金髪なのでしょう?」
「会った?」
アロイスは眉をひそめる。
「会ったわ。半分は偶然に、だけど。貴方は彼女のことを知っていた筈よ。アスラを、あの娘の護衛にしたくらいですもの。ああ、そういえば、もう一人──ルシャナという子もいたようね。私は顔を見ていないけれど、彼も貴方が雇った護衛かしら」
「ルーシャが⁉」
何故、そこでルシャナの名が出てくるのかわからず、リカードは困惑した。
とにかく、初めて聞くことばかりで、何が何だかリカードにはさっぱりだった。
二人だけに通じる話をするのはやめて欲しい。これじゃ、何故自分が呼ばれたのかわからない。
疎外されている感にムッとなったリカードを、オリビアは透き通るような青い瞳で見つめた。
「あら? もしかして、ルシャナは貴方の方の関係者だった?」
リカードは、はぁ……と息を吐き出した。
「子供の頃から、私の側にいてくれている友人です」
まあ、とオリビアは口元に細い指先をあてると、アロイスの顔を見た。
「誤解しないでもらいたい。ルシャナ・カイ・リーヴェンは、納得してアリステアについて行ったんです」
「まあ、そう? 彼はどこで彼女と会ったの?」
「シャロンの誕生日パーティーに、フォーゲル公爵夫人と一緒に我が家にやってきたのですよ。丁度、アリステアも邸にいました」
「あら、運の悪いこと。何も知らなかったでしょうに。貴方にとっても、想定外のことだったかしら」
そうですね、とアロイスは苦笑を浮かべた。
「とりあえず使える人間でしたから、都合が良かったとも言えますが」
「どういうことですか⁉」
自分に関係のないことでこの二人が話をするのはいい。だが、自分が信じられる友人の一人であるルシャナの名が出てくるなら黙っているわけにはいかなかった。
そういえば、仕事で遠出するとルシャナが言ってから、いったいどれくらいたっている?
手紙は何度かきていたが、内容は普通に友人への近況報告のようなものだった。
だいたい、ルシャナが動くのは皇帝一族に関することしかないはずだが。
(最後にルーシャと会った時、俺はあいつと何を話した?)
ハッと、リカードはオリビアの顔を見た。
この部屋に入ってきた時、自分の肖像画を見て、彼女は公爵になんて言った?
──アリステア・エヴァンス伯爵令嬢に似ているかしら?
「…………!」
まさか…………
「アリステア・エヴァンス伯爵令嬢は、金髪で青い目なのですか」
オリビアは頬に手を当てると、青い目を伏せて溜め息をついた。
「困ったものだわ。本当に保護しなければならない娘が無防備でいるのよ」
「オリビア様!」
今、この人は、とんでもないことを言い出した!
いや、疑いはずっとあったのだ。引き取られたビアンカは、祖母であるオリビアに似たところが全くなかった。母親も似ていないというから、父母どちらに似てもオリビアには似ないのは当然だと言う者も多くいたのだが。
「まさか、シャリエフ王国の伯爵令嬢が、本当のオリビア様の……何故そんなことが⁉」
「カイルにはもう伝えてあるわ。アリステア・エヴァンスは、間違いなく、私の孫娘。何故そんなことになったかというと、イザベラが既に私の産んだ娘ではなかったからよ」
「…………」
──ビアンカ殿下の生まれが間違いないってんなら、疑うならその母親の生まれってことにならないか?
(有り得ないと思ったが、ルーシャの言った通りだったか)
「つまり、知らない間に取り換えられていた、と」
「本当なら、私が産んだ娘はとうに殺されていたわね」
「そんな……」
赤ん坊を殺す? 何故?
「代々、皇帝に伝わる預言は、外に漏れるはずのないもの。でも、漏れたわ。それがいつなのかわからないけれど。預言が正確に伝わっているならまだ良かった。でも、預言というものは人によって解釈が変わってくるのよ」
「解釈……ですか」
「世界滅亡の時の鍵になると預言された私の孫娘は、救世主だと言う者がいる反面、滅亡をもたらす滅びの魔女と呼ぶ者もいるのよ。私の娘を奪ったのは、世界を滅亡させないため、滅びの魔女を生まれないようにしようとした者たちの可能性が高いわ」
ふっ、とオリビアは短く息を吐き出した。
「気が変わったのか、それとも、彼らに何かあったのか。私の娘は生き残った」
そして、シャリエフ王国で子供を産んだ。彼らが本当に消したかった筈の子供を。
「それが本当なら、すぐにも保護しなくては!」
「その必要はない」
「シュヴァルツ公爵?」
「アリステアは帝国には渡さない。いや、誰の手にも渡すつもりはない」
「何故ですか! 彼女のことをその者らに知られれば、危険ではないですか」
「護衛はついている」
「必ず守りきれる護衛なんですか」
「あら。アスラは強いわよ。あのコルビーの弟子だもの」
「ルーシャも護衛としては一流です! いや、でも……より安全を期すべきでしょう」
「心配はない。アリステアには、聖騎士もついている」
は? とリカードはポカンとした顔でアロイスを見る。
「聖騎士? 何を言っているんです。聖騎士など、どこにいるというんですか。だいたい聖騎士は初代皇帝にしか……」
リカードは、急に言葉をとぎらせた。シュヴァルツ公爵はいい加減なことは口に出したりしない。
「初代皇帝ベイルロード陛下──あの方が、いらっしゃるのね」
「オリビア様! 初代皇帝は、千年も前に生きていた方ですよ。転生されているとでもおっしゃるんですか?」
そうね、とオリビアは首を傾げると、アロイスを見つめた。
「どうなのかしら、公爵? 聖騎士が動いているというなら、それはベイルロード陛下ご本人の命令しかないわね?」
「その通りです、オリビア様」
頷くアロイスに、リカードは呆然となった。