物事が動き出す時 3
ふっ……と顔を上げると、先ほどまで窓の外にあった筈の月が見えなくなっていた。
そんなに時間が経っていたのかと私は驚き、ペンを置くと暗紅色の表紙を閉じた。
綺麗なツルバラの模様の表紙。タイトルのかわりに金色の三日月と星が箔押しされていた。
これは、ルカス・オトゥールが貸してくれた歴史の本の中に混じっていたものだ。
借りてから数日経っていたが、今夜初めてそれに気がついた。
表紙にタイトルがないので、最初はなんだろう?と首を傾げたが、開いてみたら、日付けと直筆の文があり驚いてしまった。
他の本はちゃんとレガール国の歴史が書かれた本だったから、ルカスが間違えて入れてしまったのだろうかと思ったが。
しかし、自分で選んだ本だというのに、違う物を間違えて入れるだろうか?
それも、日記を──
どうしようかと思った。
本当なら持ち主に確認すべきことなのだが、わざと入れたものなら意味があるのでは、と私は思い直して最初のページだけ見ることにした。
最初に目に入ったのは、中表紙に書かれた数行の文字。
真ん中に〝この世界の謎と考察〟とあり、下部に少し小さめの字で〝交換日記をしませんか?読んで気づいたことや、疑問、意見などがあれば記入をよろしく!〟とあった。
日本語だった。あまりに懐かしくて、気づいたら私は、指で字をなぞっていた。
改めて中を見ると、文章は全て日本語で書かれてあった。
そして、ああそうか……と思った。彼とは学年が違うし、学校内で頻繁に会うことはできない。第一、人のいる所で話せる内容ではないのだ。
だからこその交換日記なのだろう、と。
もし、見られても誰も読むことができないだろうから、内容を知られることはない。
読める人間がいたら、それこそ同じ転生者だ。
私はすぐに日記を読み始めた。
最初の日付けは、一年前になっていた。レベッカが婚約者である王太子との婚約破棄騒動が起こった後から書き始めたようだ。
初めの数ページには、覚え書きのように、前世を思い出した時のことや乙女ゲームのこと、悪役令嬢だったというレベッカのことなどが記されていた。
その後、ゲームの世界だと思っていたが、ゲームとの矛盾点に気付いて、これは現実世界だと認識したことから、テラーリアの歴史を調べ始めたこと。
時には呟きのような短文が。時には、研究論文のような長文が日記帳の数十ページを使ってびっしり書かれている日もあった。
日記を最後まで読むと、私は白紙の部分に日付けを書いて、読んだ感想や自分がこれまで疑問に思っていたことを記入していった。
少し迷ったが、アリステア・エヴァンスが二度目の転生であり、日本で死んだ後、悪役令嬢セレスティーネ・バルドーに生まれ変わったことも簡単に記すことにした。
多分、彼はこのことも重要だと思い考察してくれるだろうと思ったのだ。
この日記を少し読んだだけでわかる。
ルカス・オトゥールはとても頭がいい。もしかしたら、天才と呼べるような頭脳を持っているのかもしれない。
そう思えるほど、ここに書かれていた推論は、目を見張るほど鋭い閃きがあった。
ルカス・オトゥールは、この世界はゲームの世界だと言う。ただし、それはほんの一部だと。大半は、ゲームとは全く関係のない世界だと、彼はほぼ断定している。
もともとあった世界に、作られたゲームの設定が割り込んできたような感じだ、と彼は考えていた。
そんなことが可能なのかと思うが、彼はそれを、パラレルワールだと考えることにしたらしい。
パラレルワールド……それって、ifの世界だろうか。
彼は、ゲームの世界が紛れ込んでいるのは、シャリエフ王国とレガール国だけだと考えているようだった。
ただし、他の国にもその影響が出ていないとは限らない、と。
今現在、自分の知るゲームの話がどちらも終わっているので、これからの展開はシナリオがないので、どうなるかはわからないらしい。
まあ、普通はそうか、と私は思う。
現実に生きている私たちには、ドラマのように決められた未来があるわけではないのだから。
本当に、世界の一部にゲームのシナリオがあったとしても、それは確実なものではなく、人の意思や行動で未来が変わる。
セレスティーネが死んだことも、アリステアの出生がゲーム通りではなかったことも事実だ。もしかして、私の知らない所でゲームとは違ったことが起こっていたかもしれない。
改めて色々考えてみると、やっぱりこの世界ってかなりおかしい。
芹那として生きていた記憶が残っているからか、今アリステアとして生きている自分が現実であると認識できても、もしかしたらこれは夢なのではないかとつい思ってしまう。
自分は、ベッドの上で、長い長い夢を見ているのではないか、と。
そんなことを考えながら、私は机の上の明かりを手に持ってベッドに向かった。
明かりを枕元の小さな台に置いた時、隣の使用人用の部屋のドアが開いた。
顔を覗かせたのは、部屋着姿のアスラだった。
「アリス……そっちに行っていいか?」
「どうしたの、アスラ?」
「アリスに話しておきたいことがあるんだ」
え?と私は目を瞬かせた。あまり感情を見せないアスラだが、なんだか迷ってるような雰囲気を感じる。
「いいわ。こっちに来て、アスラ」
私はベッドに腰掛けると、隣に座るよう促した。
アスラは部屋の中に入ってくると、静かにベッドに腰をおろした。
「私に話しておきたいことって?」
「………レベッカの執事のこと」
「イリヤ?もしかして、今日のこと?」
アスラが男子生徒を締め上げているあの場には、イリヤもいた。彼とも何かあったのだろうか。
揉めている感じはしなかったが。
多分、居合わせたイリアが、アスラの行為を止めていたのだと思うが。
「彼は、私の双子の兄なんだ」
えっ!?と私は驚いて声を上げた。──兄?アスラの!?
「それ、ほんと?」
アスラは、こくっと頷く。
「兄とは3歳の時に別れたきりだったんだ。母はレガールの人間だったけど、父は海の向こうから来た人だった。身体の弱かった父が亡くなると、父の方の親族が突然やって来て兄を連れて行った。それっきり兄とは会ってない」
「じゃあ、アスラとイリヤは今日、偶然再会したのね」
「うん。まさか兄がレガールに戻っていて、レベッカの執事をしてるとは思わなかった」
「そう……イリヤの方も知らなかったの?」
「多分。私を見て驚いていたから」
私は少し考えるように口元に親指を当てた。
「ねえアスラ。3歳の時に別れてから会ってなかったのに、お互いのことがすぐにわかったの?」
アスラとイリヤが双子の兄妹────雰囲気は似ていると思うが、顔はそんなに似ていないと思う。きっと言われなければ、わからないだろう。
「たとえ、何十年も会わなくてもわかる。気づかないことは絶対にない」
そう断言するアスラを私はじっと見つめた。
それは双子だからだろうか。私たちにはわからない、繋がりがあるからなのか。
「レヴィに言ってイリヤと会えるように……あ、もうイリヤが言ってるかしら」
「わからないけど──話はしたい」
「そうね。当然だわ。明日の朝、いつものようにレヴィと会うから、言ってみましょう」
アスラが無言で頷くのを見て、そういえば、彼女は自分のことを殆ど話さないな、と思う。
今なら話してくれるだろうか。
「ねえ、アスラ。イリヤと双子の兄妹だって言うけど、あまり似てないね」
「ん──よく覚えてないけど、私は父親似だって言われていた。兄は、母親にそっくりだったそうだけど」
確かにそっくりだった、とアスラは懐かしそうに笑った。
「どんな方だったの、お母様?」
「クリーム色っていうのか、淡い黄色のふわふわの髪をしてた。ちょっと天然で、可愛らしい人で……料理は苦手みたいだったけど、お菓子作りは得意だった。よく果物を使ったお菓子を作ってくれたんだ」
「まあ、素敵ね。とってもいいお母様だったのね」
アスラは、私に向けて薄く笑みを浮かべた。
「うん……思い浮かぶのは、母の楽しそうな笑顔、かな」
本当に、いつも楽しそうだったんだ、とアスラは小さく呟いた。
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「本当に驚いたわよ。まさか、イリヤとアスラが兄妹だったなんて。それも双子よ!こんな偶然ってある?」
ほんとにそうね、と私は微笑む。
やはり、イリヤの方もアスラのことを話していたようで、この日の朝、レベッカはイリヤを連れてきていた。
アスラとイリヤの二人は、私とレベッカのいる東屋から少し離れた場所で話をしている。
アスラの話では、3歳の頃に別れてから一度も会っていないというから、およそ16年振りの兄妹の再会だろう。
二人がどんな話をしているのかわからない。
互いの16年間のことを話しているのか。
彼らの母親は、アスラが10歳の時に亡くなったと聞いた。
「イリヤを育てた身内も、もう亡くなっているそうよ。イリヤは、7歳の時にお父様が連れて来たのだけど、母親と妹がどこにいるのか知らなかったみたい」
「3歳じゃ、覚えていないのは仕方ないわ」
「そうね……まぁ、偶然とはいえ、二人が会えて良かったわ。たった、二人の兄妹だもの」
ええ、と私は頷いたが、少し気になる事があった。
16年振りに会えたというのに、二人の様子がどこか深刻そうに見えるのだ。
それに対してレベッカは、こんな時でも無表情なんだからと呆れていたが。
「そういえば、セレーネ。本はもういいの?どうせルカスのなんだから、返すのなんていつでも良かったのよ」
「いえ、とてもわかりやすい本だったわ。他にもあれば、また借りたいくらい」
「そう?だったら、ルカスに言っておくね」
「ありがとう、レヴィ。嬉しいけど、いいの?」
借りた本は、レベッカが学校でルカスに渡すと言っていたが、今日はイリヤがいるので彼に持って帰らせると彼女は言った。
「ごめんなさい。いろいろと面倒をかけちゃって……」
「まあ!いいのよ、セレーネ!セレーネのことなら、何も面倒じゃないわ。だって、セレーネは、私の大好きなお友達だもの!」
「私もレヴィのこと大好きよ」
そう言って微笑むと、レベッカは頬を少し染めて笑ってくれた。
「あのね、セレーネ。今日の予定なんだけど、街に買い物に行かない?」
「え?街へ?」
「今日はいつもより早く授業が終わるから、街を案内するわ。大丈夫。門限までに戻れるよう、馬車で行くから」
「街で買い物なんて、楽しみだわ、レヴィ」
「最近出来た人気のアクセサリーの店があるの。珍しい雑貨の店もあるのよ。あと、お勧めのスイーツの店もあるから、美味しいスイーツを食べましょう、セレーネ」
レベッカが片目を瞑って笑うと、私もええ、と頷き笑い返した。
授業が終わってから、私は予定通りにレベッカの馬車で街に出た。
レガール国に来て初めて、見て歩く王都の街だ。
レガール国の街は高い建物が多かった。来る時に見た、高い塔のある教会も見える。
レベッカが案内してくれたのは、商店が多くある通りだった。
ブティックや宝石店、雑貨店や本屋、他国の珍しい置物や美術品を置いている店などもあった。
まずは、レベッカお勧めのスイーツの店に寄って、フルーツとクリームが添えられたパンケーキを食べた。
若い女の子たちに人気のある店というだけあって、女性客が多い。
この雰囲気……なんだかとても懐かしい────
スイーツの店を出ると、レベッカの言っていた新しく出来たというアクセサリーの店に入った。そこは、アクセサリーだけでなく、可愛らしい小物もあるので見るだけでも楽しかった。
護衛としてついて来てくれた執事姿のアスラは、キラキラした感じの店の様子に、ちょっと目を丸くしている。
シャリエフ王国でも、ミリアと時々買い物に出ていたが、こんなに物の種類が多い店に入ったのは初めてだった。
「あら。珍しい物があるわ」
レベッカと綺麗なガラス細工の置物を見ていた私は、市松模様の小箱が目に入り、思わず手に取った。
何?と言う顔でレベッカとアスラが、私の手の中にある小箱を覗き込む。
「何が珍しいの?普通の木の箱じゃない」
私は、ふふっと笑って持っていた小箱をレベッカに渡す。
レベッカは、えっ?という顔になって箱をくるくると回した。
「何、これ?蓋がないわよ。これって箱じゃないの?」
レベッカの様子を見ていたアスラが、ああと声を出した。
「これは……箱だよ」
「でも、どこにも開ける所がないわよ?」
レベッカから箱を受け取ったアスラは、側面を確かめると指で中央部をスライドさせた。
模様に見えていた所を次々スライドさせていくと、最後に上部が開くのを見てレベッカは目を見張った。
「何よこれ!どうなっているの?」
「カラクリ箱よ、レヴィ。決められた方法でないと開けられない仕組みなの」
レベッカはアスラから返された箱をマジマジと見つめる。
「驚いた……こんな不思議な物があるのね」
私はアスラの方に顔を向けた。
「アスラは知っていたのね」
「昔、家にあったから。父の形見だって、母が大切にしていた」
「そう。アスラのお父様が」
「面白いわね、これ」
レベッカの目がキラキラと輝いた。
「買って帰って、ルカスに開けられるか試してみるわ。アスラ、開け方をもう一度見せて」
アスラから開け方を教えてもらったレベッカは、嬉々としてカラクリ箱を購入した。
レベッカは、珍しい物が手に入ったと嬉しそうだ。
それにしても、寄せ木細工のカラクリ箱があるなんて。
レガール国にこういう物があるのは、貿易が盛んな国だからだろうか。
どこの国の物だろう?そういえば、カラクリ箱を持っていたアスラの父親は、海の向こうから来た人だって…………
「アスラ?」
ふと振り返ると、私とレベッカの後ろを歩いていたアスラが、いつのまにか立ち止まって、どこかをじっと見ていた。
いったい何を見てるのかと、私はアスラの視線を辿ってみた。
すると、そこでは男女が何か言い争っていた。
喧嘩というよりは、男性が女性に向かって必死に何かを訴えているような感じだ。
「何?喧嘩?」
レベッカも気づいて顔をしかめた。確かに男女の揉め事は見てていいものではない。
私達の他にも当然気づいた者がいるが、誰も関わりたくないのか遠目で見るだけで立ち止まることはしなかった。
そうしてるうちに、男が女の腕を掴んで路地に引っ張り込んだ。
「まあ、大変!」
さすがに、見て見ぬ振りは出来ないので、私達は男女が消えた路地へ急いだ。
原因がなんであろうと、女性に乱暴するのは許せない、とレベッカは拳を握る。
私達が、薄暗い路地に入ったその時、耳に入ってきたのは、どこか聞き覚えのある罵り声だった。
「全く!人が大人しくしてれば図に乗りやがって!この俺がお前なんかに気があるわけがねえだろうが!」
連れ込まれた女性を心配していた筈が、目の前の光景を見て私は呆気となった。
レベッカも驚いて目を瞬かせている。
なんと、地面に倒れている男の身体を、赤髪でクチナシ色のドレスを着た女性が足で蹴っていたのだ。
しかも、どう聞いても男を罵倒する声は女性の声ではなかった。
「ルシャナ?」
私が思わず呼びかけると、女性の蹴りが止まり、ゆっくりとこちらを振り返った。
赤髪の女性(?)は、立ち尽くしている私達に気づき、ギョッとした顔になった。
その顔を見た私は、ああ、やっぱりルシャナだわ、と思った。
ルシャナは、大きく目を見開くと、うわぁぁぁぁっ!と声を上げ、慌てたように背を向けた。
そのまま走り出し、あっという間に路地の向こうへと消える。
「何よ、あれ?もしかして、アレって男なの!?」
「え、まあ……」
姿は女性だが、声は男なのだからごまかしようがないかと思う。
「この男、どうする?」
アスラに聞かれて存在を思い出した私とレベッカは、地面に転がっていた男を見下ろした。完全に白目を剥いて気を失っている。
どうしようかしら……?