物事が動き出す時 2
アスラが不審な少年に気づいたのは、いつもの場所でアリステアを待っていた時だった。制服を着ているので生徒だろうが、この時間この場所で生徒の姿を見るのは初めてだ。
木の陰に隠れるように立ち、学舎の方を見ながら何かブツブツ言ってる様子は、不審者そのものだ。
後ろからアスラがじっと見ていることに、少年は全く気づいていない。
アスラは足音をさせずに少年の方に近づいた。
少年は、前に視線を向けたまま、ぶつぶつと何かを呟き続けていたが、ある呟きが耳に入った途端アスラはカッと目を吊り上げ、少年の首を掴んだ。
アスラに全く気付いていなかった少年は、いきなり首を掴まれ木に押し付けられて悲鳴を上げた。
蒼褪める少年の顔を、アスラの赤い目が睨み付ける。
「アリスを捕まえるって、どういうこと?」
「…………え?」
「さっき、そう言っていただろう」
「ぼ……僕は…………」
「何をしている?」
肩を掴まれるまで気配に気付けなかったアスラは眉をひそめ、だが少年を押える手を緩めないまま後ろを振り返る。すると、アスラの肩を掴んだ相手が驚いたように目を見開いた。
「お前──アスライア、か?」
アスラも、赤い目を大きく見開いて相手を見つめる。
「……イリヤス?」
「レイナート師匠は、我が家では変な人扱いだったけれど、師としてはとても優秀だったわ」
この日、私は授業を終えると、レベッカと一緒に学院の図書館へ向かっていた。
毎朝、東屋で待ち合わせてレベッカとお喋りはしていたが、放課後もレベッカと一緒にいられるのは嬉しい。
そのうち、王都の街に一緒に行って楽しみましょうね、とレベッカは笑顔で言った。
「それにしても、師匠がこの学校で教師をしていたなんて、全く知らなかったわよ」
なんで教えてくれなかったのかしら、とレベッカは不満を口にする。
図書館の管理をしているというレイナート・オルゲンが、レベッカの知り合いだとわかった時は驚いた。それも、護身術を教えてくれた師なのだという。
「レヴィは、どうして護身術を習ったの?」
淑女になるための教育ならともかく、およそ公爵家の令嬢が習うようなものではない。
それとも、レガール国では違うのだろうか?
レベッカは、はぁぁと息を吐いた。
「バカ王子と婚約したせいか知らないけど、子供の頃、とにかく暴漢に襲われたり誘拐されかけたりしたのよ。まあ、いつもイリヤが助けてくれたんだけどね。でも、イリヤだってまだ子供だから、さすがに大人相手では怪我しちゃうのよね。イリヤが怪我すると、何故かお父様が発狂するから。じゃあ、何かあったら自分でも対処できるようにしようと思ったの」
驚きの理由だった。
「自分でなんて……護衛を付けてもらうのでは駄目だったの、レヴィ?」
「護衛はバカ王子の婚約者になってから、うっとおしいくらい付けられたわよ。でも、常にそばにいるわけじゃないでしょ? 結局、一番近くにいるのはイリヤだし──なら、私も少しは抵抗できるだけの力をつけておいた方がいいと思ったの」
「それでレイ先生に?」
「師匠と初めて会ったのは、街に買い物に出た時。勿論護衛も三人いたんだけど、隙をつかれて抱えられたわ。まだ十歳にもなっていなかったから大人の力には到底かなわない。護衛は、仲間らしい男達に足止めされていたし、私は口を塞がれていたから助けも呼べない。その時、立ち塞がったのが師匠だったの。びっくりするくらい強かったわよ。なにしろ、男の顔面を、拳一発で倒してしまったもの。気づいたら私は師匠の腕の中。男は師匠の足元で白目をむき泡を吹いていたわ」
まあ! と私は手で口元を押さえた。
レイナート先生って、そんなに強いのか。白衣の彼は、ひょろい印象だったが。
「レヴィは、何度もそんな酷い目にあっていたのね」
「もう、バカらしいくらいにね。いつも、怖いと思う前に助けられていたから良かったけれど」
「レヴィ……」
「ああ、そんな顔をしないでセレーネ! 師匠のおかげで、大抵の男には負けない自信がついたんだから。もともと、この学校は希望すれば女性でも武術を学べることになっているから、貴族令嬢が、なんて目で見られることもないしね」
「女性が武術を?」
「さすがに素手での格闘は女性には無理だけど、剣術は学べるのよ」
「まあ! 女性が剣術を学べるの⁉」
驚いた。シャリエフ王国では考えられないことだ。
女が武器を持つなどはしたない、という文化なのだ。なので、シャリエフ王国では女が騎士になることはない。
「もしかして、この国には女性の騎士がいるのかしら?」
「いるわよ。少ないけれどね。やっぱり、貴族の令嬢が剣を持つのって抵抗があるみたい。特に、高位貴族はね。それでも、騎士に憧れて剣術を習おうっていう女生徒はいるわ。セレーネはどう?」
「え? 私?」
「興味ない?」
そうね、と私は少し首を傾げた。
「この国で出来ることなら、やってみたいかな」
芹那の時、剣道を習いには行ったものの、すぐに薙刀の方にハマったので、竹刀で練習した期間はとても短かかった。こちらの剣は洋剣なので扱い方は違うだろうけど、興味は引かれる。
「レヴィは剣術をやっているの?」
「一度やってみたんだけど、つい手や足が出ちゃうので危険だからってやめさせられたわ」
まあ、そうなのね、と私は目を大きく見開いてから小さく笑った。
「いいのよ。剣が使えなくたって、拳は使えるんだから」
レベッカは、ツンとしてそう言った。
頼もしいなぁ、とレベッカの方を見ながら笑みを浮かべていた私は、ふと目の端に捉えた光景にハッとなって足を止めた。え? アスラ?
いつもの場所で待っている筈のアスラが、何故か、生徒らしい少年の首を掴んで木に押さえ付けているのが見えたのだ。それを止めているらしい人の姿もある。
ええっ‼ 何をやっているの、アスラ!
私は、慌てて声を上げた。
「駄目よ、アスラ‼」
私が駆け出そうとすると、そちらを見たレベッカも気づいたのか、顔をしかめ叫んだ。
「イリヤァァァァ! 何やってるのよ!」
アスラの背後にいた、アスラと同じ執事姿のイリヤが振り返る。
「お嬢様」
「お嬢様、ではないわ! どうして貴方がここにいるの⁉」
「旦那様に言われて、ルカス様をお迎えに来たんですよ」
「はぁぁ? なんでイリヤが? マイラはどうしたの」
「マイラは、私用で外出中です」
レベッカがイリヤと話している横で、私はアスラの手を掴んでいた。
「アスラ! 手を離して!」
「離す? 何故? こいつは、ここでアリスを待ち伏せていた」
待ち伏せ? 私を?
「理由を聞くわ! だから離して!」
私がそう言うと、アスラは手を緩めた。押さえつけられた少年が、ホッとしたように息を吐き出した後、何度か咳き込む。
「大丈夫?」
心配で覗き込んだ少年の顔に見覚えはなかった。
ボタンの色は、一年下だから知らなくて当たり前かもしれないが。
咳き込みがおさまった少年が顔を上げ、私の顔を見た途端、彼は真っ赤になった。
「ア……アリステア・エヴァンス! お、俺は悪くないからな! 勘違いでもなんでもない! おまえは魔女だ!」
「は?」
勘違い? 魔女って……私が?
アスラが、私を背に庇うように間に入ってくる。
「ちょっと貴方! 何を言ってるの? アリステアが魔女ですって? どこを見て、そんなふざけたことを! 根拠を言いなさい! ただの嫌がらせなら、只ではおかないわよ!」
「ひっ!」
レベッカの存在に気付いていなかったのか、眉を吊り上げて睨む彼女を見た瞬間、少年は悲鳴を上げて逃げていった。
私は、呆然として、逃げていく少年を見送った。何が何だかわからない。
魔女だなんて──そんなことを言われたのは初めてだ。
「どうしたの、アスラ? いったい、何があったの?」
「あいつ、アリスに何かするつもりで待ち伏せていた」
「私を?」
「どういうことなの? さっきの、下級生よね」
見覚えある? とレベッカに聞かれるが、私は首を横に振るしかなかった。
いったい、なんだろう? 名前を呼ばれたから人違いではないと思うが。
「イリヤは?」
「私は、たまたま現場に出くわしただけで何も知りません」
そう、とレベッカは腕を組んで溜め息をつくと、再びイリヤの方に顔を向けた。
「そういえば、イリヤ。ルカスを迎えに来たんだったわね。まだ教室にいると思うけど、前もって言ってないのだったら早く捕まえた方がいいわよ。すぐにフラフラとどこかへ行くんだから」
「はい。では、失礼致します」
イリヤは、私に向けても丁寧に頭を下げると、背を向けて歩いて行った。
彼と会うのは五歳の時以来だったが、さすがに成長していてびっくりした。
顔は、やはり年齢のわりに幼く見えるが。そういえば、彼はアスラと同い年だった。
「彼は、レベッカの執事?」
そうよ、とレベッカはアスラに向けて頷く。
「四歳の頃から側にいるから、もう腐れ縁みたいなものね」
ふぅん、とアスラは鼻を鳴らすと、離れていくイリヤの背をじっと見つめた。
アクシデントで足を止められたが、私達は目的通り図書館に向かった。
林を抜けて図書館の建物が見えてくると、扉の前に立っているレイナートが見えた。
師匠、とレベッカが呼ぶとレイナートは、おう、と右手を挙げた。
「待ってたぞ。ん? 今日は執事も一緒か」
「いえ。服装は執事なんですけど、アスラは私の護衛で」
ああ、とレイナートは頷いた。
「そうか。この子が、三人の騎士の話をしてたっていう」
はい、と私とレベッカが頷くと、レイナートはよし、とニッカリ笑って入り口の扉を開けた。
入るのは二度目だが、やはり圧倒的に広い書庫には息を吞んでしまう。
「本当に凄いわね。ここって王立図書館と張り合えるんじゃないかしら」
ハハ、とレイナートは笑った。
「さすがに、王立図書館ほどじゃないだろう。あそこは、レガール建国から集められた本や資料、他国から寄贈された本で埋めつくされているからなぁ。毎日蔵書が増えていってるし」
「そうなんでしょうけど、私達が王立図書館で入れる場所は限られてるから、学院の図書室と変わりませんわ」
公爵家の人間であるレベッカでさえ、閲覧室までしか入れない。
殆どが、受付で蔵書の目録を見せてもらい、司書に読みたい本を言って持ってきてもらうだけなのだ。まあ、世界に一冊しかない貴重な本が多いからだろうが。
「まあ。そうなのね」
「シャリエフ王国の図書館はどうなの?」
「どうかしら? 私は行ったことがないから……」
貴族の邸には大抵書庫があるし、学園に通うようになれば図書室があるので、わざわざ王立図書館まで行く必要性はない。多分、殆どの学生は利用したことがないだろう。
でも、あのまま学園に通っていたら……もしかしたら一度くらい行っていたかもしれない。
「レベッカは行ったことがあるのね」
「そりゃあ、一応王太子の婚約者だったから、勉強することも多かったし。大いに特権を使わせてもらったわよ。婚約者じゃなくなったけど、無駄にはなってないわね」
「そうね」
前世のセレスティーネも、王太子の婚約者だったので、教育はかなり厳しいものだった。
学園での勉強だけでなく、王妃教育も受けなければならない。その際、必要な本は兄のアロイスに頼めば全て揃えてくれたので、セレスティーネも王立図書館に足を運んだことはなかった。
(どこの国でも同じなのね)
でも、レベッカの言う通り、学んだことは決して無駄じゃない。
あら、とレベッカが目を輝かせた視線の先には、閲覧用の楕円形のテーブルの上に積み上げられた本があった。
「これ! 赤毛のエトじゃない!」
レベッカが嬉しそうに本を手に取った。
本と言っても、やや大判で薄い、絵本だった。
表紙に描かれた絵は黒の線画だが、少女の髪だけには赤い色が塗られていた。
「エトって、あの?」
「そうよ!」
私が本を覗き込むと、レベッカは本を開いて中を見せてくれた。
見開きに絵が描かれているが、やはり黒の線画で、髪の毛だけに色がある。
この少女が、レベッカの好きなエト──
真っ赤な髪の、まだ幼い女の子が、小さな妖精と並んで森の中を楽しそうに歩いている。
女の子の頭には、猫のような耳がついていて、とっても可愛らしかった。
「ここにある本って、もしかして」
レイナートは、私に向けて、ああと頷いた。
「三人の騎士の話をもとにしていると思える本だ」
テーブルにのっている、大きさも厚みもバラバラの本は、見たところ、二十冊ほどだろうか。
殆どが絵本のような本だったが、文章に挿絵のある本もあった。
「探せば、もっとある筈なんだが、一応、俺が知ってる本だけを抜き取った」
「そんなにも知られた物語なんですか、その……三人の騎士の話」
「それと、白銀の少女、ね」
そういや君、とレイナートは、私の後ろに立っているアスラの方を見た。
「母親から白銀の少女と三人の騎士の話を聞いたことがあるそうだけど、どんな話だったか教えてくれないかな」
「あまり覚えてない。三人の騎士が、白銀の髪の女の子を守って旅をしたってくらいしか」
「うーん、そうか。女の子の名前や、三人の騎士に名前があったかな?」
アスラは、少し考えるように目を伏せた。
「あったと思うが、覚えてない」
そうか、とレイナートはガックリと肩を落とした。
「まあ、昔から人から人へ語られ続けてきた話だから、何十、何百と話が作られていて、もうどれが元の話かなんてわからなくなっているんだけど。それでも、知らない話があるとつい知りたくなってね」
「元の話って、いつ頃のものなんですか?」
「そうだなぁ。数百年か──もしくは千年近く前かもしれないな」
そんなに昔なのか。
でも、昔からずっと伝えられてきたのなら、そこに本当のことが混じっている可能性がないとは言えない。聖書や神話に、実際にあった出来事が含まれていたように。
「読みたい本があれば読んでいいよ。貸し出しはできないけどね」
「はい。ありがとうございます」
私とレベッカは椅子に座ると、本を手に取った。
私はまず、レベッカが好きな赤毛のエトの話を読んでみた。
エトは十歳くらいの、赤い髪で猫耳の可愛い女の子。
親も兄弟もいない一人ぼっちのエトは、知り合った小さな妖精と旅に出る。
それは目的地のない旅で、エトはさまざまな人と出会い成長していくという話だが、なんだか、ふとエトが口にした言葉に懐かしさを感じた。
ああ、なんだろう、これ……
「セレーネ?」
どうしたの? と心配そうなレベッカの表情を見て、私は、自分が涙を流していることに気が付いた。
「アリス……」
じっと心配そうに私を見つめるアスラに、私は笑った。
きっと泣き笑いみたいになっていただろう。
「レヴィ……赤髮のエト、とってもいい話ね」
レベッカの表情がパッと明るくなる。
「そうでしょう! セレーネに気に入ってもらえたなら嬉しいわ」
私は、レベッカに向けて頷くと、もう一度気になったページに視線を落とした。
──また会えるから。絶対会えるから。
──たとえ姿形を変えてしまっても、きっと皆の所に戻るよ。だから待っていてね。約束だよ。