ルカスの失敗
実の姉から容赦のない一撃をくらったルカスは、あまりの痛さに頭を抱えてその場に蹲った。一瞬だが、魂が抜けたかもしれない。記憶が飛んでる。
ああ、くそっ!手加減って言葉を知らないのか、うちの姉上は!
「生きてますかぁ、ルカス様?」
ぐわんぐわんと揺れる脳を落ち着かせていると、聴き慣れた声が間近で聞こえる。
ゆっくりと顔を上げると、見慣れた表情の薄い女の顔が、じっと彼の顔を覗き込んでいた。
「マイラ〜〜頭が痛い……」
「自業自得です」
冷たい、とルカスが情けなそうに顔を歪めると、マイラはフンと短く鼻を鳴らして、己の主人である少年の銀色の頭を撫でた、
「ああ……全く、なんで私はこんなのに殺されかけたんだろう」
そう言って、深々と溜め息をつくマイラに対し、ルカスは口を尖らせた。
「なに?まだ、根にもってんの?あの時は、ちょっと手を滑らせただけじゃないか。殺そうなんて思ってなかったって、何度も言った」
条件反射だよ、条件反射!と反論する少年の頭を、マイラはぐしゃぐしゃと掻き回す。
「だいたい、殺そうとしたのはそっちじゃないか」
「別にルカス様を狙ったわけではありませんが」
そう。かつて殺し屋だったマイラが依頼を受けて狙った相手は、ルカスの姉のレベッカの方だった。
それを見抜いて阻止したのは、レベッカに仕えている執事のイリヤだ。
ルカスは、たまたま現場を目撃しただけだった。ただ、あまりに往生際が悪いので、少し脅すつもりで、チョイ……と。
「チョイ、とですか」
「あれ?口に出てた?」
「ルカス様は言動が迂闊すぎるのです。反省なさって下さい。だいたい、悪役令嬢とは何なのです?よく、レベッカ様に対しても仰ってますが」
「性格の悪い令嬢って意味だよ」
「アリステア様は、性格が悪い方ではありませんよ。お優しくて、気遣いのできる方です」
「でも、あの姉と普通に付き合えるってのはさぁ……」
「ルカス様のレベッカ様に対する悪口は、実は惚気だそうですよ」
「あぁ?誰がそんなこと言ったんだ」
奥様です、とマイラが答えると、ぐぐっとルカスの喉が鳴った。
「とにかく、お客様であるアリステア様に対して、性格が悪いなどと言うのは失礼極まりないです。謝罪なされた方がよろしいかと思います」
「う……うん」
そうだな、とルカスは頷く。確かに、初対面の相手にいきなり〝悪役令嬢〟はない。
「謝ってくる」
「その方がよろしいですね。少しでもレベッカ様のお怒りを鎮めないと、後が大変ですよ」
大魔神かよ、とルカスはブツブツ言いながら立ち上がった。
「レベッカ様たちはサロンです」
「わかった」
ルカスは、ふぅ……と息を吐き出すとサロンに足を向けた。
(それにしても、ここで続編の悪役令嬢に会うとは。いったいどうなってるんだ?)
アリステア・エヴァンスは、乙女ゲーム〝暁のテラーリア〟の続編で悪役令嬢として登場する伯爵令嬢の名前だ。
そして姉のレベッカが悪役令嬢として登場する話は〝暁のテラーリア〟の続編の後に、スピンオフとして出たものだった。
続編ではたいして出番のなかったレベッカが、何故だか人気が出たため、レベッカを悪役令嬢にした話が作られたのだ。
レガール国の侯爵令嬢レベッカは、シャリエフ王国の二人の悪役令嬢に比べて性格がきつく、物事を物理で解決しようとする傾向があるので、とにかく話の展開が痛快だった。
まさか、自分がそのレベッカ・オトゥールの弟に転生するとは思ってもみなかったが。
しかも、話の中では、ルカス・オトゥールは攻略対象の一人なのだ。
(って言っても、他の攻略対象より学年が下で、他より地味キャラだからモブに近いよな)
だいたい自分は転生者だから、この世界のシナリオに従う気は元からなかった。
そのせいなのか、ルカスはヒロインには全く興味を引かれなかった。
学校に入ってからゲームのストーリー通りに進むのを、ルカスは第三者として眺めながら、姉が断罪されない計画を練っていた。
さすがにあの姉を修道院に入れたら、修道院にいる人達があまりに気の毒すぎる。
まあ、ルカスが入学する頃には、何故かゲームのストーリーから大きく外れた展開になっていたが。
それは姉のレベッカが、シャリエフ王国の王立学園に本気で留学を決めたからだ。
ゲームでは、ひと月で飽きてレガールに戻ってきた悪役令嬢のレベッカが、現実ではシャリエフ王国で初めて友人が出来たことが変化の理由だろう。
出会いは、父についてシャリエフ王国に行った、五歳の時だったらしい。
姉レベッカは、生まれて初めて大好きと言える友達と出会えたのだ。
名前はセレーネ。シャリエフ王国の伯爵令嬢だという。
もう耳にタコが出来るほど繰り返し聞かされた。
赤い髪に青い目の、とっても可愛い女の子だと。だから、続編の悪役令嬢アリステア・エヴァンスに結びつくことはなかった。
名前は違うし、金髪じゃなく赤毛だし。
断罪が終わって、姉が何故か激怒して会場を飛び出した後に、ルカスはマイラから聞いた。
うんざりするほど聞かされた赤毛のセレーネが、実はアリステア・エヴァンスだったということを。
なんでセレーネ?なんで赤毛なんだ?わけがわからなかった。
本当に自分が知るゲームの設定と違ってきている。
これはもう、ゲームなんか関係ない。
自分たちは誰かの意思で動かされているのではなく、変えようと思えば未来を変えられる。それは、前世、日本で生きていた自分となんら変わらない──現実に存在する世界で、皆が普通に生きているということだと、今はそう思っている。
(でも、やっぱ変なんだよなぁ。なんで、ベースが乙女ゲーム?)
サロンに近づくと、明るい笑い声が聞こえてきた。
姉と、そしてアリステア・エヴァンスのものだろうか。
「何しに来たの、ルカス」
「そんな、睨まないでよ、姉さん。ちゃんと謝りに来たんだから」
「悪いことをしたと思っているのね?口だけなら許さないわよ」
姉レベッカにジロリと睨み付けられたルカスは、こくこくと頷いた。
「本気で悪かったと思ってるって。信じてよ」
どうもすみませんでした!とルカスは深く頭を下げた。
そして、ゆっくりと顔を上げ、初めてアリステア・エヴァンスの顔をまともに見る。
え?
ルカスは、目を大きく見開き絶句した。
(えっ……か、可愛い!!)
エントランスで会った時は、しっかりと見ていなかったので、改めて目にしたアリステアに彼は衝撃を受けた。
ルカスに頭を下げられ、どうしていいのか困惑する表情の彼女が、あまりにも愛くるしくて言葉が出てこない。
金髪で青い目は続編の悪役令嬢と同じだが、雰囲気が全く違った。
よくよく見れば、前世で見たアリステア・エヴァンスのキャラ絵と同じ顔なのだが、受ける印象がまるで違うのだ。
(天使だ……天使がいる!黄金の髪の天使ぃぃぃぃ〜!)
「ほんとに馬鹿で変態でしょ?もう、どうしようもないくらい壊れてるのよ、うちの愚弟は」
「ちょ……!変態って何!たった一人の可愛い弟に向かって言うこと⁉︎」
「ああ、悪い。変人だったわね」
姉の余りの言葉にルカスは眉をひそめたが、クスクスと可愛らしい笑い声が耳に入ると、途端に彼は金髪の天使に見惚れた。
「あ、笑ってごめんなさい」
手で口元を覆う仕草さえ、とてつもなく可愛い……
アリステア・エヴァンスって、こんなに可愛かったか?
ああ〜将来は絶世の美女に成長するのは間違いないと思えるほどの美少女振り!
「ルカス。その顔、ふざけてるの?すっごいブサイクよ」
ええ〜〜とルカスは、姉からの酷い言われように顔をしかめた時、ピリッと電気が走ったような感覚を覚えた。
ルカスは、それを自分を見る視線だと感じて目を動かし、そして濃い藍色の髪をした男の目とかち合った。
椅子に座るアリステア・エヴァンスの後ろに立っている男は、自分とさほど変わらない年に見えた。
驚いたのは、その異質な姿だ。
茶系のシャツに黒のズボン、上半身に黒っぽい大きな布をマントのように巻いている。
まるで、乙女ゲームの世界に紛れ込んだRPGのキャラのような雰囲気の男だ。
(誰だ、こいつ?続編に、こんなキャラいたか?)
ルカスがじーっと見つめる先に気づいたアリステアが、自分の後ろにいる二人を紹介した。
「私を護衛してくれるアスラとメイドのミリアです」
(アスラとミリア──か)
ルカスは記憶を探ってみたが、二人の名前はどこにもなかった。
つまり、初めて知る名前だということだ。
まあ、ヒロインならともかく、ストーリーに関係がなければ、悪役令嬢側の関係者の名前は出てこないから知らなくてもなんら変でもないが。
(けど、こいつ、すんげぇ印象が強い。とてもモブとは思えないんだけど?)
やはり、この世界は現実なんだな、とルカスは感じた。
主要なキャラを含め、決められた人数しか存在しない作られた物語と違って、多くの人間が生きている世界。
まだ、ルカスはレガールから出たことは一度もないが、世界地図を見る限り大小の国がいくつもあり、そこにはちゃんと顔と名前のある多くの人間が生活しているという事実。
なまじ、知っている乙女ゲームの世界に似ていたせいで、ルカスはずっと狭い範囲でしか物事を考えられなかった。そんな自分にルカスは猛烈に反省している。
続編の悪役令嬢、アリステア・エヴァンスは、ゲームとは正反対の、天使のような愛らしい美少女だった。
「ああ……アリステア・エヴァンス──ホント、マジで天使!」
アリステアを見送った後も、ルカスの興奮は収まることはなかった。
彼女は、レガールに留学してきたので、これから毎日会えるのだと思うと嬉しくてたまらない。
そんなルカスを、レベッカは気持ち悪そうな目で見つめていた。
「姉さん……俺、一目惚れしたみたいだ」
「そりゃ良かったわね。けど、婚約者いるわよ、彼女」
「…………」
レベッカに、あっさりと失恋の事実を告げられたルカスは、無言でその場に崩れ落ちた。
次回からアリステアの留学生活を書きます。