あの日へと帰る
国境を越えてから王都に入るまで、私は馬車の窓からずっと懐かしい景色を眺めていた。
ここから帝国に向かったのは、一年以上前のことになる。
あの時、私は十四才だった。そして、国を出た私は、帝国で十五才を迎えたのだ。
私とミリアが乗った馬車は、王宮の正門前で止まった。
アロイス兄さまから、レトニス様のことを聞いたあの日、私は母マリーウェザーの手紙を受け取った。
その手紙は、私に帰国を促すものだった。
「お母様!」
王宮の侍女に案内された部屋で、母マリーウェザーの姿を目にした私は思わず声を上げて飛びついた。
貴族の令嬢としては、はしたない行為だが、この場にいるのは身内とも言えるミリアだけだ。
「まあ、アリスちゃん!ちょっと見ない間に、かなり背が伸びたのね!」
驚いたわ、とマリーウェザーは、笑いながら私を抱き返してくれた。
確かに、母との視線の高さが近くなっている。
母は、どちらかというと長身の方だから、驚くのも当然かもしれない。
最後に会った時は、まだ視線は顎のあたりだったように思うから。
帝国で身近にいた人たちが、皆大きかったから、あまり意識していなかった。
あ、だったら──サリオンも、すごく背が伸びていたことになるのね。
「元気そうでよかった」
さらに美少女になっているわよ、とマリーウェザーが私を見て微笑んだ。
「お母様もお元気なご様子で安心しました。オスカーは元気ですか?」
「元気よ。アリスちゃんが帰ってくるって言ったら、喜んでたわ」
「本当ですか?忘れられてるだろうなって思ってたんですけど」
なにしろ、私が帝国に行った時はまだ二才にもなっていなかったから。
覚えてる筈はないと思っていた。
「大丈夫よ。アリスちゃんのことは、毎日あの子に聞かせていたから」
「え?」
「寝る前には必ず、アリスちゃんの物語を聞かせていたのよ」
「私の物語、ですか?」
思ってもみなかったことに、私は目をキョトンとさせ首を傾げると、マリーウェザーはフフフと楽しげに笑った。
「アリスちゃんも聞きたい?」
「え、はい」
「私も聞きたいです、奥様!」
頷いた私に続いてミリアが、興奮した顔でマリーウェザーに強請った。
「いいわ。じゃあ、家に帰ったら話してあげるわね」
「ありがとうございます、奥様!楽しみですね、お嬢様!」
ええ、と私が頷くと、マリーウェザーはパンパンと手を叩いた。
すると、王宮の侍女が青いドレスを持って部屋へ入ってきた。
「まずは着替えましょう。さすがに、その格好でお会いすることは出来ないわよ」
「あの方に……お会いすることができるのですか?」
「それは、まだわからないわ。殆ど眠っておられるそうだから。でも、アリスちゃんが、どうしてもあの方に言いたいことがあるというなら、私はできる限りのことはするわよ」
お母様…………
「ありがとうございます、お母様。最初は、お会いしたいと思いました。でも、お会いして、いったい何を言えばいいのかわからなくて──今の私の中には、あの方に対する感情が何もないから」
そう答える私に向けて、マリーウェザーは、柔らかく微笑んだ。
「そうね。わかるわ。だって、あなたは、アリスちゃんだもの。とりあえず、先に私の従姉妹に会ってみない?」
ねっ、と言われ、私はコクンと頷いた。
王宮の侍女と、ミリアに着替えを手伝ってもらい、髪は母マリーウェザーがブラシで綺麗にとかしてくれた。
「本当に綺麗な金髪……溜め息が出ちゃうわ。普通、金髪といっても赤みがかったり、少しくすんだ色だったりするのに、アリスちゃんの髪は、輝くような黄金色だもの。こんな綺麗な髪はめったにないわよ」
溜め息混じりの褒め言葉に、私は苦笑を浮かべた。
今は金髪だが、昔は赤い髪だった。私を産んだ母は、その赤い髪が嫌いで、一度も私を抱いてくれたことはなかった。もし、生まれた時にこの髪色だったらどうだったろう?と、そう思うこともあったが。
「時間がないから、髪はセットできないけれど、髪留めくらいはつけておくわね」
マリーウェザーは、両側から上半分の髪を掬い取ると、後ろで、青い石のついた髪留めで一つにまとめた。
準備が整い、私はマリーウェザーと共に部屋を出た。
ミリアはこの部屋以外の場所に行くことは許可されていないので、私たちが戻るまでここで待つことになる。
長い廊下を進み、許可された者しか入ることのできない奥の部屋まで来ると、マリーウェザーはある部屋の前で立ち止まった。
重厚で美しいレリーフのある扉をノックすると、中にいた侍女が顔を出したので、マリーウェザーが名乗る。
侍女は恭しく扉を開けて、私たちを部屋の中に招いた。
白を基調にした広い部屋で、家具や調度品はあまり派手ではなく上品な印象だった。
部屋で待っていたのは、黒髪をアップにし、小さな銀のティアラをつけた女性だった。
記憶にある顔より、やはり年齢を感じるが、王妃としての威厳もあって美しい。
王妃の側に立っている男は、上位貴族のようだが、どこか見覚えがあった。
誰だったろう?
お姉さま!と王妃がマリーウェザーを呼ぶのを聞いて、私は驚いたように目を瞬かせた。
ああ、クローディア様は、従姉であるマリーウェザーお母様をそう呼んでいたのか。
「お待たせして申し訳ありません。娘のアリステアです」
王妃に向けて膝を曲げてのカーテシーをするマリーウェザーと共に、私も王妃に向けて礼をした。
「アリステア・エヴァンスでございます。お目にかかれて光栄にございます」
「あなたが、アリステア……エイリックが本当に申し訳ないことを致しました。あなたには、大変な思いをさせてしまって。到底謝り切れるものではありませんが」
「いえ……そのように言って頂けるだけで、心が休まります」
「本当にごめんなさい」
立場的に頭を下げることはできなくても、クローディアが心から謝罪していることは私にも理解できる。彼女はそういう女性だった。
前世、彼女と話をしたのはほんの数回。
学園ではクラスが違った上に、王太子妃として学ぶことが多かったため、友人と会話する時間も殆どなかったくらいだ。
辺境伯の令嬢であるクローディアは、美しい黒髪の美少女であったが、常に一歩引く性格で、地味とまではいかないが、あまり目立つ少女ではなかった。
どちらかというと、大人しくて真面目で、気づけば本を読んでいるというような、そんな印象だった。
そんな彼女が、王妃になったと知った時は驚いた。
最初は側妃だったとしても、何故彼女が?と首を傾げるほど意外だった。
いったい、彼女に何があったというのか。
「それで、お願いしたことはどうなったのかしら?許可して頂けるの?」
マリーウェザーがそう問いかけると、王妃が答えるより先に、側にいた貴族の男が口を開いた。
癖のない焦げ茶色の短髪に端正な顔立ち。年齢は、多分陛下と同じくらいだろうか。
王妃であるクローディアの側に、そして病に伏せっている陛下の近くにいることを許されている上位貴族。
思い出せる人物は、一人だけだ。
子供の頃からレトニス様を友人として支えてきた、公爵家のハリオス・バーニア。
ああ、やはり今もずっと、レトニス様のお近くにいて支えてこられたのだなあ。
「エヴァンス伯爵夫人。陛下にお会いしたいとのことですが、それは何故です?」
そうね、とマリーウェザーは少し考えるように右手を曲げて人差し指を頬に当てた。
「恨み言を言いたいから、かしら」
ね、と母は私の方に顔を向け、ニッコリと笑った。
ハリオスはというと、母の恨み言、という言葉に眉をしかめた。
「さすがにそれは、不敬ではありませんか、エヴァンス伯爵夫人」
そう咎めるハリオスに向けて、王妃は首を振った。
「いいえ。親として、きちんと教育が出来なかったのは事実。そのせいで、まだ学生である二人の貴族令嬢を貶めてしまった。恨み言を言いたいというのは当然のことです。でも、お姉さま……陛下はもう、話を聞ける状態ではありません。ですから、全て私に仰って下さい」
マリーウェザーは、半分目を伏せ、疲れ切った表情のクローディアを見つめた。
「陛下はもう、そこまでお悪く?」
「はい……今ではもう、ご自分で身体を動かすこともできません……目も、もう何も映されることはなく……」
クローディアは握っていたハンカチを口元に押し当てた。
どうして……どうして陛下が……
「陛下が後悔し、苦しんでこられたのを、私はずっと見てきました。それが自分に課せられた報いなのだと……全てを知ったあの日から、陛下は自分を責め続けてきました。陛下は……エイリックが犯した罪も我が身の罪として背負って逝くつもりなのです」
クローディアの言葉を聞いたマリーウェザーは、視線を上に向け息を吐き出した。
「本当に馬鹿ね──後悔なんて、どれだけしても、元に戻ることはないし、救われることなどないというのに」
お母様、と私はマリーウェザーの腕に触れた。
ハリオスの眉間には深い皺ができていたが、再びマリーウェザーに向けて不敬だとは口にすることはなかった。
「せめて、同じ罪を犯したエイリック殿下が、罪を償う方法を見つけて、陛下のように一生を後悔に苛まれないよう生きて下されば良いのだけど」
「お姉さま…………」
「クローディア。陛下に対して恨み言を言いたいのは、私ではないわ」
マリーウェザーが私に向けて頷くと、小さく頷き返し、私は静かに前に進み出て王妃の前に立った。
私は王妃の手に握られているハンカチに視線を向ける。
「クローディアさま。そのハンカチ、まだ持っていて下さったのですね」
「えっ?」
クローディアは、私が言った意味がすぐには理解できなかったようだ。
大きく見開いた彼女の瞳が、私を見つめて瞬く。
「あれからもう、何十年もたちましたわね。私にはつい最近のことのように思いますが。私、刺繍はあまり得意ではありませんでしたの。ですから、頑張って練習していましたわ。あの日──友人から貴女の誕生日だと聞き、思わず自分が刺繍したハンカチを渡してしまったのですが、あの後、顔から火が出るほど恥ずかしくなりました」
何故なら、まだ練習中で、人に見せられるような出来ではなかったのですから。
「え?ま……まさか…………」
信じられないという顔で、クローディアは私を見つめてきた。
今にも叫び出しそうに顔を歪める彼女に対して、私は微笑んで見せる。
「あんなものではなく、もっと良いものを贈れた筈だと、とても後悔しましたの。それを、ずっと持っていて下さったなんて。嬉しいですわ、クローディア様」
「あ……貴女は……!まさか、セレスティーネ……様?セレスティーネ様なのですか!?」
バカな!とハリオスは叫んだ。
「そんなことは、あり得ない!彼女がセレスティーネなどと、あり得ないだろう!」
マリーウェザーは、ハリオスに向けてニッコリと笑った。
「貴方も公爵家の生まれなら、生まれ変わりというものがあることをご存知でしょう?アリステアは、間違いなく、セレスティーネ・バルドー公爵令嬢の生まれ変わりですわ」
「信じられるものか、そんなこと!この少女が、セレスティーネなどと!」
絶対にあり得ない!と否定するハリオスを、クローディアの声が止めた。
「私は、信じます……」
「クローディア!何を……!」
クローディアは、私の右手を両手で覆うようにして掴むと、床に膝をついた。
それには驚いたが、クローディアは私の手を掴んだまま、顔を伏せ、そして──
「セレスティーネ様……セレスティーネ様……」
クローディアは声を震わせ嗚咽しながら、何度も何度もセレスティーネの名を呼び続けた。
──────
───────────
「……誰だ?」
王の寝室に入ると、私はしばらくベッドの側に立っていた。
私の時間では十数年。実際は、数十年の時がたっていたため、記憶にあるレトニス様より、そのお姿はずっと年をとられていた。
それでも、レトニス様だとわかる不思議な感覚に、私は息を殺しながら眠っている彼を、静かに見つめていた。
だが、それもほんの短い時間で、気配に気付いた彼が目を開けた。
彼は、私が立っている方に顔を向けたが、その目は私を映してはいなかった。
「クローディアではないな?そこにいるのは、誰だ?」
私は、ふっと笑った。
「私をお忘れですか?トーニ」
「…………!?」
見つめていた彼から、息を呑む音が聞こえた。
「セレスティーネ?……いや、セレーネ、何故、君がここにいる?これは、夢か?」
「私、貴方に恨み言を言いに来ましたの」
レトニス様の目が、一瞬驚いたように瞬いた後、そうか……と彼は息を吐いた。
「私は君に酷いことをしてしまったのだから、恨み言は当然だな」
ええ、と私は答える。
「あの、卒業パーティーの夜……私はとても辛かったんです。胸が潰れるかと思えるほどに。貴方は、シルビア様のことを初めて心を惹かれた女性だとおっしゃいました。では、私は?私は、ただ政略で貴方の婚約者となっただけの女だったのでしょうか」
「…………」
「私は、貴方のことをずっとお慕いしていました──王妃になるということではなく、貴方の妻としてお側にいられるということが嬉しくて、どんなに辛くても頑張る気になったのです。でも、トーニは、私を人として欠けているものがあると指摘されましたわ。いったい、私には、何が欠けていたのでしょう?」
「セレーネ……あれは間違いだった。人として欠けていたのは、私の方だったんだ」
「トーニ?」
「私が真実を知った時には、全てがもう元には戻せなくなっていた。君は死に……我が王家を建国の頃より支えてくれたバルドー公爵家を永遠に失ってしまった。私に残されたのは、激しい後悔だけだった」
「私は……両親に申し訳ないことをしました。父を、母を悲しませて──」
「セレーネ、それは君のせいではない。全て、私が愚かだったのだ。君への想いを忘れ、君を信じなかった私が、皆を不幸にしてしまった……」
何故、私は……!と、レトニス様は辛そうに唇を噛み顔をしかめた。
「私、ウェディングドレスを着ることができませんでしたわ」
「セレーネ?」
「このまま、恨み言を続けさせて下さいます?」
私がそう問うと、レトニス様は、ああ勿論だ、と答えた。
「トーニ。ウェディングドレスは乙女の夢ですのよ?あの卒業パーティーの前日、王妃様が、ご自分の着られたウェディングドレスを私に見せて下さいました。真っ白な、溜め息が出るほど素敵なドレスでしたわ。王妃様は、既に私が結婚式に着るウェディングドレスを作らせていると言っておられました。出来上がったら、見せて下さると約束して下さいましたの。とても楽しみでしたわ」
「…………そうか」
「きっと、とても素晴らしいウェディングドレスだったと思いますわ。この目で見ることが叶わなくて残念でたまりません」
「…………」
黙り込んだレトニス様を見て、私は、ふふふと小さく笑った。
「覚えていらっしゃいますか?私、貴方に一度だけお強請りしたことがありましたのよ」
レトニス様は、意外なことを聞いたというように目を瞬かせた。
「そう……だったか?そんなことが、あったかな。君は殆ど我儘を言わなくて、欲しいものもわからないので何をプレゼントして良いのかわからず困ったものだが」
「私は、貴方から頂けるだけで、嬉しかったですわ。でも、アレだけは、どうしても欲しくて──」
「悪いが、セレーネ。私は覚えていないのだが。君がそんなに欲しかったものは、何だったんだ?」
「石ですわ。子供の手のひらくらいの小さな──その石の表面に、貴方は綺麗な色の、花の模様を描いておられました」
ああ、とレトニス様は思い当たったのか声を上げた。
「あれは、遊びで描いたものだ。とても、君にやれるものではなかった」
「それでも、私は……欲しかったのです。とても」
そうか、とレトニス様は溜め息をついた。
「私は、君に贈るものは、高価なものでなくてはならないと思い込んでいた。君が、石を欲しいと言ったのを本気だとは思わなくて……すまない」
「私は、ずっとトーニに信じて貰えていなかったのでしょうか」
「違う!──いや、確かに、私はあの頃、君を信じられなくなっていた。今でも、よくわからない。何故、そうなったのか──私は……セレーネ、君を誰よりも愛していたというのに」
「……」
「君を失ってから、記憶が混乱していることに気付いた。特に子供の頃だった時の記憶が曖昧な所が多かった。ハリオスやダニエルに聞いて、欠けている記憶を補ったが、どうしても補うことのできない記憶があった」
君と二人でいた記憶だ、とレトニス様は言った。
「貴方と私の、ですか?」
「ああ。子供の頃だ。まだ小さい……初めてセレーネと出会った頃、私はどうしていた?」
「貴方は、初めての王宮に緊張していた私に、優しく微笑んで下さいましたわ。とても綺麗な笑顔だったので、私は声も出せずに見惚れてしまいました」
「そうだったか?」
「はい。父に声を掛けられるまで、私はかなり間抜けな顔をしていたと思いますわ」
そうか、とレトニス様は楽しげに喉を鳴らして笑った。
「ああ……できるなら、あの初めの頃に戻りたいものだな。君と会ったあの日──初めてセレーネと言葉を交わしたあの……」
レトニス様は、言葉を途切らせ、目を閉じると疲れたように息を吐き出した。
満開でしたわ、と私はレトニス様の耳元で囁くように言った。
「ピンク色の花が風が吹くたびに空に舞い上がって──夢のように美しかったです」
「そうだ……あれは異国の木だった」
「貴方は、あの木の下で初めて、私をセレーネと呼んで下さいました」
「そうだったな……思い出した。アレを〝サクラ〟と呼ぼうと決めたのだった。あの日から、毎年二人でサクラを見たのだったな」
「ええ、そうですわ」
「君とまた、花を見たかったよ」
「見れますわ。だって、あの日に行けば、トーニも私もいますもの」
「ああ、そうだ──そうだな」
ハハ、とレトニス様は声を出して笑った。
「では、帰ろう…………」
セレーネ、君と二人で見た、あの満開の木の下に、帰ろう────
『この木をサクラと呼ぶのは私たちの秘密にしよう。そして、私たちも二人だけの呼び名を決めないか』
『良いのですか?』
『構わない。私たちは婚約者同士なのだからな。そうだ、私の呼び名はセレスティーネが決めてくれ』
『では‥‥トーニと』
『トーニだな。わかった。では、私はお前のことをセレーネと呼ぼう』
『はい、トーニ様』
ずっと、私と一緒にいてくれ。セレーネ──