皇女ビアンカ
オリビア・ローザ・フォン・フォルツ伯爵夫人は、前皇帝イヴァンの異母妹であり、現皇帝カイルの叔母にあたる。
幼馴染みであり初恋の人であったフォルツ伯爵家の次男に嫁いだのは、彼女が17歳の時。オリビア様は、嫁いだ翌年に娘を一人生んだが、その後子供が出来ず、夫妻は唯一の子であるイザベラを大切に愛しんで育てた。
フォルツ伯爵家の次男テオドールは、皇女オリビアと結婚したが、伯爵家は長男が継ぐので、彼は子爵の位をもらって好きな歴史の研究に打ち込んだ。
伯爵家の次男というだけでも結婚を反対されていたのに、さらに子爵で学者では納得できないと彼女の身内たちは最後までゴネたが、オリビア様の意思を覆すことはできず二人は結婚した。
もともと、オリビア様は帝宮で育った皇女ではない。
出生の事情で皇帝の元で育てられることなく、とある貴族の養女となっていた。
自分が皇女であることを知らず、一貴族として育った彼女が、いきなり当時皇帝だったイヴァンの妹だと言われたのだ。驚くなという方が無理だろう。
田舎の伯爵家で奔放に育ったオリビア様が、いつまでも堅苦しく慣れない帝宮での生活に我慢できる筈もなかった。
いや、当人はかなり我慢をしたと思っていたろうが。
だが、さすがに結婚相手まで決められては我慢の限界だったらしく、自分には好きな男がいるからと猛烈な抵抗を繰り広げたそうだ。
その辺りの顛末も、酒が入るたびに師匠であるコルビーから聞かされていた。
だが、オリビア様が現在住んでいるあの邸で、愛する夫と平穏に暮らせていたのは半年ほどだったらしい。跡を継ぐ筈だった長男がタチの悪い女に引っかかり、父親の怒りを買って追い出されたのだ。そのため、次男だったオリビア様の夫テオドールが伯爵家を継ぐことになった。
最初は固辞したそうだが、結局折れてフォルツ伯爵家に戻ることになり、彼女の夫はテオドール・クレイ・フォン・フォルツ伯爵になった。
当然ながら、愛する妹のために当時の皇帝が多大な援助と、そして歴史学者である義弟が研究を続けられるようにと役職を与えたという。
コルビーの話では、イヴァン皇帝の、妹のオリビア様に対する溺愛振りは相当なものだったらしい。まあ、オリビア様の、あの類稀なる美貌ではそうなるかもしれない。
あと、ただ一人の妹ということもあったろう。
夫を亡くし、娘を亡くして一人になったオリビア様は、夫テオドールの叔父であるクリストフに伯爵家を譲り、彼女はかつて夫と住んでいた邸に移った。
それから、伯爵家とは全く関わりを持つことはなかったそうなのだが。
「面倒ごとですか、オリビア様」
思い出のある久しぶりのフォルツ伯爵の邸だろうに、馬車で門をくぐった時、オリビア様の表情がややしかめられるのを見て私は首を傾げた。
「私をここに呼んだことが、そもそも面倒ごとだと言ってるようなものよ」
腹ただしいこと、とオリビア様は溜息を吐いた。
「でも、いつまでも知らない振りはできないわね。真実は明らかにしないと」
オリビア様の言っていることがわからない。
伯爵家を出る時に揉めたという話は聞いてはいなかったが、何かあったのだろうか。
そういえば、師匠からフォルツ伯爵家を継いだ人物のことを聞いたことがなかったが。
伯爵家の侍従が邸の扉を開けると、そこにはオリビア様の到着を待っていたフォルツ伯爵が立っていた。
オリビア様の亡くなった夫の叔父ということだが、夫の父親とは年がかなり離れていたらしく、現当主はそれほど老けてはいなかった。
彼の奥方は、数年前に病気で亡くなったらしい。一人息子は、奥方と二人で帝都にある邸で暮らしているようだ。
「ああ、不躾なお願いでしたのに、よくおいで下さいました、オリビア様」
「そうね。もう、この邸に来るつもりはなかったのだけど」
慇懃な態度でオリビアに向き合っている現フォルツ伯爵だが、どうも二人の間には何か確執のようなものがあるように感じられた。
「お祖母様が着いたなら、ちゃんと知らせなさいよ!使えないわね!」
静かなエントランスに甲高い声が響き渡ると同時に、亜麻色の長い髪をした少女が現れた。
少女の後ろには一人のメイドがいた。怒られていたのは、このメイドだろう。
「お祖母様!」
まだ十代前半だろう幼い顔をした少女は、オリビア様の姿を認めると嬉しそうな顔で駆け寄った。飛びついて抱きつこうとしたのだろうが、さすがにそれをさせるわけにはいかない。
何故なら、オリビア様の目が良しとしていなかったから。
「何?何なの、あなた!」
私がすかさずオリビア様の前に出たので、阻まれた少女はムッとした顔で睨みつけてきた。
緑がかった青い瞳──
オリビア様のことを、お祖母様と呼んだこの少女は、前皇帝に引き取られたという孫娘だろうか。それにしては、オリビア様に似た所が全くないように思える。
アリスの方が余程オリビア様に似ている。
顔立ちも、透き通るような青い瞳も──そしてあの黄金の髪もオリビア様と同じだ。
「私の護衛よ。予告もなしにいきなり飛びついてこようとする者がいれば、私を守ろうとして前に出るのは当然でしょう」
「そんな!私は孫なのに!」
「ビアンカ様!お部屋で待っているように言った筈ですが」
嗜めるフォルツ伯爵に、少女は不満そうな顔を向ける。
「お祖母様に会うのに、あなたに指図される覚えはないわ!私は一刻も速くお祖母様に会いたかったんだから!」
あらあら、とオリビア様は呆れたように笑った。
「どういうことかしら。手紙にはビアンカのことで話があるとあったけれど、まさか本人が来るなんて一言も書いてはいなかったわよ」
「も、申し訳ありません、オリビア様……ビアンカ様の訪問が急だったため、お知らせする時間がありませんでした」
「陛下の許可は取ったわ。お祖母様!私、お願いがあるの!」
「ビアンカ。あなたは挨拶ができないのかしら」
「え?挨拶はお祖母様がするものでしょう?何故私がするの?」
「…………」
オリビア様の青く透き通った瞳が大きく見開かれた。
フォルツ伯爵はギョッとした表情で少女の方を見る。
「だって、私は皇女だもの。お祖母様は私のお祖母様だけど、伯爵でしょう?私たち皇族の部下なのに、私が挨拶するのはおかしいわ」
フォルツ伯爵は真っ青になった。
「ビアンカ様!オリビア様も皇女殿下です!」
「元、でしょう?お祖母様は、皇族の身分を捨ててお祖父様と結婚されたと聞いたわ。でも、私は皇女よ。位は私が上だわ」
オリビア様は、ニッコリと微笑んだ。
「そうね。あなたは皇女だわ。失礼したわね」
「いいの!だって、お祖母様だもの。私、怒ってないわ。ねえ、お祖母様!私、リカードお兄様と結婚したいの。陛下にお願いして!」
「それが、あなたのお願い?残念だけど、私には無理な話ね」
オリビア様に素っ気なく断られた少女は、顔をしかめた。
「私のお願いを聞いてもらえないの?私は孫なのに!」
「さっきあなたが言ったでしょう?私はただの伯爵夫人。皇帝陛下に直接お願いできるような身分じゃないわ」
「でも、お祖母様は、前の皇帝陛下の妹なのでしょう?愛人の子でも関係なく愛されていたって聞いたわ」
「…………」
その言葉には、さすがに私も呆れたが、口を出すことは出来ないので黙っていた。
フォルツ伯爵の方は、今にも卒倒しそうな顔色である。
オリビア様の孫だという少女の所業は、伯爵には予想外のことだったようだ。
「お願い、お祖母様!」
「わかったわ。話すだけはしてみましょう」
ぱあっと、少女の顔が喜びに輝く。
「ありがとう、お祖母様!」
自分のお願いが聞いてもらえるとわかったビアンカは、ご機嫌な顔でメイドと共に部屋へ戻って行った。
少女の姿が見えなくなるまで笑顔を見せていたオリビア様だが、ふっと、今にも倒れてしまいそうなほど蒼ざめたフォルツ伯爵に対して冷ややかな眼差しを向けた。
「話を聞かせてもらおうかしら、クリストフ」
「は……い。オリビア様……」
「ああ、私が何も知らないとは思わないことね、クリストフ。そのつもりで全てを話しなさい」
オリビア様がそう言うと、フォルツ伯爵の顔色は完全に血の気を失い、死人のようになった。
処刑台に送られようとする罪人は、きっとこんな顔をしているのではないかと私は思う。
案内された部屋にオリビア様と共に入ろうとした私に、フォルツ伯爵は難色を示したが、オリビア様は無視した。
オリビア様の護衛として雇われた私は、彼女以外の人間の言うことを聞く必要はない。オリビア様が出るよう命じない限り、私は彼女の側から離れることはないのだ。
オリビア様は一人用の豪奢なソファーに座ると、私は彼女の右後ろに立った。
「この子のことは気にしなくていいわ。コルビーが気に入って大事に育てた愛弟子だから」
オリビア様の前に座る伯爵は、コルビーの名を聞いてビクリと肩を震わせた。
「…………わかりました」
メイドがお茶を運んできて、テーブルの上に置いた。伯爵はメイドに、話が終わるまで、誰もこの部屋には近づかないように言う。
メイドが出ていくと、伯爵はオリビア様に向けて口を開いた。
「先程のビアンカ様のこと、本当に申し訳ありません」
伯爵は、オリビア様に向けて深く頭を下げた。
「さすがに驚いたわ。いったい誰の影響なのかしら?」
「…………」
「帝宮内で、あの子のそばについているのは誰?」
「……メリッサです」
「メリッサ──あなたの息子が、婚約者を捨ててまで結婚したという男爵令嬢の?あのメリッサかしら」
はい……と伯爵は頷く。
「ご存知でしたか」
「テオドールの兄も同じことをして伯爵家を追い出されたのに、その数年後に、あなたの息子がまったく同じことをしたと聞いて、血筋なのかしらと思ったわ。勿論、私の夫は別だけど」
「お恥ずかしい限りです…………」
「まあ、そちらは話し合いで穏便に婚約を解消できたようね──そう……メリッサなの、ビアンカのそばにいるのは」
「人見知りの激しかったビアンカ様が、メリッサには懐いておられたので、そのままずっとお側についているようです」
「つまり、先ほどのあの子の言動は、メリッサの影響ということなのね」
「申し訳ありません!まさか、メリッサがあのようなことをビアンカ様に──!」
オリビア様は、口元に右手の指先を当て、少し考え込むように目を細めた。
「その話は後にしましょう。クリストフ。あなたが私にしなければならないことを話しなさい」
「オリビア様……」
「言いなさい!私が産んだ娘はどこ!?」
更新、遅くなりました。アスラ視点は、次回で終わります。