黄金の髪の貴婦人
アスラ視点です。
森で見かけた美しい金色の精霊は、村の中程にある建物の中へと姿を消した。
そっと後をつけていた私は、しばらく壁にもたれて彼女が消えた小さな扉を見ていたが、誰も出てくる様子もないので、私は溜息を吐きながらその場に座った。
そうしていたら、いつのまにか膝を抱えた格好で眠り込んでいたようだ。
声をかけられ、ハッとなって顔を上げると、間近に赤い髪があって驚いた。
こんなに近くに寄られても気づかなかった自分に強い衝撃を受ける。
な……なんで…………
「どうしました?気分でも悪いんですか?」
心配そうに覗き込む彼女の瞳は、先ほど森で見た金色の精霊と同じものだった。
ああ、彼女は………いったい何者だ?
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辻馬車を乗り継いで最後に降り立ったのは、鬱蒼とした木々が生茂る森の入り口だった。
そこは、一見すると先に何があるのかわからないような細い道が奥へと長く続いている。
知らない人間は、踏み込めば深い森の奥に飲み込まれてしまうのではないかと恐れを抱いてしまうが、実はこの先にはとある高貴なご婦人が住まう屋敷があった。
地元の人間は、そこが誰の屋敷であるかを知っているので、滅多に近づくことはないが、たまに知らないで迷い込んだ人は、進んだ道の先で高い塀と門を、そしてその奥の重々しく大きな屋敷を見ることになり呆然と立ち尽くすことになる。
大抵は、蒼褪め転がるようにして元来た道を駆け戻ることになるのだが。
背を軽く超える門の前に立っていると、毛足の長い白い大きな犬がこちらに向かって走ってきた。
とうに訪問者が誰であるか知っていたのか、門の前で立ち止まった犬は吠えもせずに、黒々としたつぶらな目で私を見つめてきた。
門を挟んで犬と対峙していると、白髪の混じった短い黒髪の男が現れた。
「お待ちしておりました。アスラ様」
黒い執事服を身につけた男は、私に対しては最初から変わらずに丁寧な態度で接してくれる。私はただの傭兵だというのに。
貴族の家で執事を務める人間に敬語を使われるような者ではないのだが、そう言っても、彼が態度を変えることはなかった。
もしかしたら、私がどこの家の出かを知られているのではないかと疑ったが、確かめる気は今の所ない。どうだとしても、私が貴族でないことは間違いないのだから。
男は門を開けると、私を中へ招き入れた。
既に顔馴染みとなっているこの屋敷の犬が、私の傍らにぴったりと付いて歩く。
時々、犬は私の手に鼻面を押し付けてきた。
狼の血を引いているという、このノーブルな顔立ちの犬は、出会った当初は牙を剥いたが、何故か帰る頃には私の身体に顔を擦り付けるようになった。
また来て〜というような目で見つめられ、私は呆れてしまったのだが。
三度目であるこの屋敷の訪問では、もう私に対して番犬の役目を完全に放棄しているとしか思えない。別に私が犬好きで、可愛がるわけでもないというのに。
屋敷の手前で犬は立ち止まり、その先を行こうとはしなかった。
呼ばれれば屋敷の中にも入るが、今は呼ばれていないのでその場に留まるようだ。
しつけられているとはいえ、頭のいい犬だ。
私は、この屋敷の女主人に仕えている執事の後をついていった。
彼は、ある部屋の前で止まると、扉をノックした。
扉を開けたのは若いメイドだった。
執事の男に促され部屋の中へと入れば、大きく開けられたガラス戸の向こうに金髪を綺麗に結い上げた貴婦人が一人、優雅な姿で立っているのが目に入った。
上品な淡い紫のワンピースにベージュ色のストールをかけた貴婦人が、女神のように美しい笑顔を私に向けた。
年齢はすでに50歳を過ぎているというが、まだまだ若々しく美しいので四十代といってもおかしくない女性だ。
年のせいで髪に白いものが混じっていたが、日の光が当たって輝く髪は黄金色だった。
「こちらへいらっしゃい、アスラ。いい天気だから、外でお茶にしましょう」
優しく微笑む伯爵夫人の瞳は、珍しい透き通るような青色だった。
「はい、オリビア様」
私は右手を胸に当てて頭を下げると、夫人の方へ足を向けた。
庭に面したテラスに置かれたテーブルには既にお茶とお菓子が用意されていて、私は夫人と向かい合う席に腰掛けた。
綺麗に手入れされた広い庭は、相変わらず見事なものだ。
前に訪れた時には咲いていなかった花が、この日は満開になっていた。
メイドが手際良くお茶の用意をし、女主人と私のカップに紅茶を注いでいった。
「少し背が伸びたかしら?」
「はあ……自分ではよくわかりませんが、少しは伸びたかもしれません」
そうでしょう、とオリビア様は紅茶を飲みながら私に向けて美しく微笑んだ。
「まだまだ成長期ですものねえ。若い子の成長を見るのは、本当に楽しみなことだわ。時々は顔を見せに来て欲しいものね」
私は苦笑を浮かべ、彼女に答えることはしない。それが可能かどうかわからないからだ。
できないことは安易に答えるべきではないことを、私は身に染みて知っていた。
「オリビア様には成長を楽しみにされているお身内がいらっしゃるのでは」
私がそう言うと、彼女の美しい眉が僅かにひそめられた。
何か不快になることを言っただろうか?思い返したがよくわからない。
それにしても、と私は目の前のオリビア様の顔を見つめた。
オリビア様には孫がいると聞いた。とてもそうは見えないが。
黄金の髪に透き通るような青い瞳を、私は最近見たことがある。
あれはまだ少女で、月明かりに黄金の髪が煌めいていて思わず見惚れた。
そして、透き通るような青い瞳が、私をまっすぐ見つめてきたのだ。
「そうね、娘の成長は楽しみだったわ。ずっと手元で育てたから。とても可愛い子だった。孫は……孫たちは赤ん坊の時に見ただけかしら。夫を失ってすぐにこの屋敷に移ったから」
「…………」
オリビア様が愛する夫と過ごしていた場所は、今はフォルツ伯爵家を継いだ叔父の家族が住んでいると聞いた。
オリビア様の夫であるフォルツ伯爵は、流行病により四十代という若さで亡くなられ、お二人の唯一の御令嬢だったイザベラ様も早くに亡くなられたという。
この話を私にしてくれたのは、私を彼女と引き合わせた、私にとって恩人とも言える男だった。傭兵であり、オリビア様の護衛をしていた経験のある彼は、私に世渡りと戦う術を教えてくれた人だった。
「今回の依頼だけど、そのフォルツ伯爵本家、つまり亡くなった夫と娘と暮らしていた邸までの行き帰りの護衛をお願いしたいの。いいかしら?」
勿論です、と私は頷いた。
「ありがとう。あなたが護衛ならとても安心できるわ。コルビーが推薦した愛弟子ですものね」
「師匠に恥をかかせぬよう、ご期待に添える仕事をさせて頂きます、オリビア様」
私が頭を下げると、オリビア様はにっこりと微笑んだ。
その微笑みに私は、ほお……と息を吐いた。
ああ、微笑み方は違うが、胸が暖かくなるような印象は同じなのだな、と私は思った。
彼女とオリビア様になんらかの関係があるかわからないが、とても似ていると思う。
「どうかした?」
「いえ……オリビア様の笑顔に見惚れていました」
「まあ。こんな年寄りに嬉しいこと」
オリビア様は口元に指を当てコロコロと可愛らしく笑った。
いやいや、本気でおっしゃっているのか?
これほど年寄りという言葉に違和感を覚える方はいないというのに。
その日、私は屋敷に泊まり、翌日、朝食を摂ってから馬車でオリビア様とフォルツ伯爵邸へ向かった。
邸には二頭立ての馬車があるが、女主人であるオリビア様が滅多に外出されないので、御者として雇われた男の仕事はもっぱら馬の世話と庭いじりだそうだ。
あの見事な庭の花々の世話をしているのが、無骨な四十男だとは驚きの事実だろう。
久々の本業である御者の仕事に、ジョッシュと呼ばれる男は、久しぶりに髭を剃ったとツルツルの顎を撫でてみせた。
馬車に乗る時、オリビア様が隣に座るように言ったので、私はそのようにした。
本来、オリビア様の身分なら護衛が数人いて当然なのだが、何故か護衛は私一人だった。
「一人で一個小隊の力を持つという貴方ですもの。十分でしょう?」
「…………」
「身内の嫌なことを話すこともあるわ。たとえ、護衛でも聞かせたくはないのよ」
「私は───」
「貴方はいていいのよ。口が固いのは師匠と同じでしょう」
「はあ………信頼を裏切ることはしませんが、何かあるのですか」
「あるかもしれない、いえ、ないにこしたことはないけれどね」
微笑むオリビア様は、どこか意味ありげで私は首を傾げた。
「着くまでの間、お喋りをしましょうか、アスラ。何かこれまでとは変わったことがあったかしら?」
はあ、と私は頷いた。少し考えてから、私は口を開いた。
「最近ハマれる食べ物ができました。パンに焼いた肉と野菜が挟んであって、その上に溶けたチーズがかかっていてとても美味しいんです」
「まあ、パンに挟んでいるの?それは興味深いわね。今度うちの料理人に作るよう言ってみようかしら」
「パンも表面はかたくて、でも中は柔らかいんです。初めての食感でした。アリスが考えた惣菜パンだと」
「そうざいパン?アリスというのはどなた?」
「国境近くの村にある食堂で働いている女の子です。短くした癖のある赤い髪に青い瞳の可愛らしい子です」
「まあ、貴方のお気に入り?」
「そうですね。友人です」
「友人は何人でも作りなさい。きっと貴方のためになるわ」
オリビア様は、そう言って微笑んだ。
私にはずっと縁のないものだったが、それはきっと母親のような笑顔なのかもしれなかった。
次回もアスラ視点の話です。ビアンカ再登場?