その出会いには意味がある
疲れて……疲れて……もう一歩も歩きたくない気分を抱えながらようやく休める場所に辿りついた。
視界に村の小さな明かりが入った時、らしくもなく安堵した自分が本当に情けなくなった。
ああ……もう自分は、これでおしまいなのかもしれない。
暖かい光が見えるのに、自分はあの場所に行ってもいいのだろうかと迷う。
空を見上げると月は雲に隠れて見えず、雲の切れ間から見える星だけが瞬いていた。
背を木にもたせかけ、そのままズルズルと根元に座り込んだ時、目の前を金色の何かが横切っていった。
暗い夜の闇の中、木々の間をすり抜けるように通ったそれは、ふと立ち止まって空を見上げた。
ああ……美しいな。声は出ず、闇の中でも輝いて見える金色の長い髪が揺れるのを、自分はただぼんやりと見つめ続けた。
離れていても、自分の目がしっかりとその姿を捉えられる幸運に感謝した。
雲が流れ、隠れていた月が姿を表すと、彼女の白い横顔と、青い瞳がはっきりと目に入った。ふいに、彼女の右手が丸い月に触れようとでもするかのように伸ばされる。
幻想的な光景。月を見上げる美しい横顔は、とても人とは思えず。
「そっ……かあ…………森の精霊ってほんとにいたんだなぁ……」
「アリスちゃ〜ん!ビール、おかわり!」
「は〜い!」
帝都のアロイス兄さまの邸を出て、シャリエフ国との国境に近い村に来てから三ヶ月余りが過ぎた。時間が過ぎていくのって本当に早い。
私がキリアの店で働きたいと言い出し、それで少し揉めはしたが、ルーシャの提案でなんとか認められた。
ルーシャの提案というのは変装だ。
アリステアだと誰にも気づかれないような変装。
仕事道具だからと常に変装の道具を持っているというルーシャが施してくれた変装は、まさに完璧。
私自身も、鏡を見て誰?とガン見したくらいだ。
当然、キリアやミリアの二人も驚いていた。
金髪を隠すために被ったカツラは、赤い縮れ毛のショートヘアだ。
赤毛の自分を見るのは何年振りだろうか。懐かしい。
鼻の頭から頬にかけて散ったそばかすに黒いフレームの眼鏡。
それだけで私だと分からない出来栄えだった。
着るものも、サイズが大きめのダボッとしたワンピースにすると、痩せた貧相な女の子の印象になる。
驚いた。顔立ちや体型を変えたわけでもないのに、全く別人のようになるとは。
いったい、ルーシャって何者なのだろう。ただの貴族の令息に変装技術なんて必要だとは思えない。ということは、本人が言うように仕事のためなのだろう。
何の仕事をしているか聞いてみたが、今は私の護衛が仕事だとしか答えてくれなかった。
二日間、仕事の内容や店で働くための注意事項、ルーシャとミリアをお客に見立てての研修をこなしてから私は店に立った。
前世で公爵令嬢だったセレスティーネが、お客を相手に料理を運んだりお酒を持って行ったりは、たとえ働く気になったとしても無理だったろう。
こうして、仕事をこなせているのは、芹那の記憶があるからだと思う。
芹那は、高校の頃は近所のスーパーでバイトをし、大学に入ってからは居酒屋で働いていたのだ。
学費と部屋代を出してもらっているから、光熱費や小遣いくらいは自分で出すと芹那は親を説得した。でなければ、親がどんどん仕送りしてくるに決まっているからだ。
本当に芹那の親は娘に甘かった。一人娘だったからかもしれないが、一番の理由は芹那の身の上だったかもしれない。芹那は7歳の時、都市災害で、多分実の親を失った。
多分、と言うのは、芹那は名前しか覚えていなかったから。
その名前も、そう聞こえたというだけで本名かどうかもわからない。
芹那には、助けられる前までの記憶が全くなかったから。
前々世の私は、とても幸せだったけれど、そんな身の上だった。
幸せになって欲しい。芹那を養女にした夫婦はそう願いとても大切に育ててくれた。
その芹那が……私が殺されてしまい、本当に申し訳なさでいっぱいだ。
前世のセレスティーネも、殺されてしまって──ああ、だから今世こそは。
「おいおい、大丈夫か?俺が持ってくぜ」
大丈夫、と私は高い位置にあるルーシャの顔を見て頷いた。
護衛であるルーシャは、当然私のそばにいる。つまり、ルーシャも店で働いていた。勿論男性の姿で。
ミリアはキリアを手伝って厨房にいた。そこはもう戦場だ。
この時間帯の客は、仕事を終えた傭兵たちが多い。
大半は男だが、女もいる。女の傭兵も男に負けないくらいビールを飲むので、ジョッキを片手に三つは持たないと捌けなかった。
ルーシャにしてみれば、私が貴族令嬢だと知っているだけに、ジョッキを両手にいくつも持って店内を早足で歩き回る私が気になるらしい。
日本で生きていた時も忙しい時はこんなものだったから私自身は驚いたりはしないが、やはり芹那ではないから筋肉痛は諦めないといけないだろう。
私は両手にトレイを持ち、料理やビールをお客の元へ運んでいった。
ようやく客が減ってきたので、私はひと息つくために店の裏口から外に出た。
明かりのついた店の中にいるとわからないが、既に外は真っ暗だ。
外で大きく深呼吸をしようと身体を逸らした時、ふと目の端に何か黒い塊が見え、私は目を瞬かせた。
なんだろう?とよく見れば、それは膝を抱えるようにして地面に座り込んでいる人の姿だった。髪も上半身を覆っている布も黒っぽいので、暗がりの中ではよく見なければ黒い塊にしか見えない。
本当なら誰かを呼んだ方がいいのだろう。
だが、もしかして具合が悪いのかもしれないと気になった私は、店の壁の前に蹲る人物に声をかけた。
近づいてよく見れば、足の間から剣がのぞいている。剣を足に挟んで抱え込んでいるのか。
皮の胸当てをつけているから傭兵に間違いない。
まあ、この村は傭兵だらけと言っていいから珍しくはないのだが。
宿が一杯で野宿している傭兵たちもいるし。
それでも声をかけようとしたのは、まだ子供のように見えたからだった。
「どうしました?気分でも悪いんですか?」
私の声に、膝の上に伏せられていた頭が上がる。
多分、私が近づいたことに気づいていたのだろう。驚いた様子はなかった。
ルーシャにも注意されていたが、店の客以外の傭兵には無闇に近づいてはいけない。
何故なら、彼らは人の気配に敏感だからという。
たとえ攻撃の意思がないまま近づいても危険なことがあるのだ、と。
上げられた顔は薄汚れていたが、綺麗な顔立ちだった。こちらに向けられた瞳の色は見たことがないほど綺麗な赤色だった。
若い傭兵は私をじっと見つめてから、コテンと首を傾けた。
その仕草が意外と子供っぽく、そのため警戒心が湧かなかった。
「精霊と瞳が同じだ」
いきなり精霊という言葉が出てきたので私は、え?という顔になった。
「精霊って?何が同じなの?」
「瞳の色が── 一緒だ。綺麗な青だ」
「まあ。あなたの瞳も綺麗な色よ。まるで宝石みたいな赤だわ」
覗き込んだ若い傭兵は、キョトンとしたように瞳を見開いた。
本当にルビーみたいに綺麗だ。そういえば、ルビーの最高峰はピジョンブラッドっていったかしら。見たことがないけど、きっとこんな色かもしれない。
「こんな所に座ってどうしたの?」
「あ、ああ……いい匂いがしたんでつい……」
「ここは厨房の裏だから料理の匂いが漏れてくるのね。今日はお客がいっぱいで、今やっと空いた所なの。ちょっと摘もうと思って持ってきたんだけど」
どう?と私は包みを解いてパンを差し出した。余っていたローストビーフと野菜を挟んだものだ。仕事が一段落したら食べてとミリアが用意してくれたものだが、なかなかお客が引かなくて食べられなかったのだ。
今持ってきていて良かったと思ったのは、座り込んでいる若い傭兵のお腹が鳴っているのに気づいたから。
「すまない……報酬をまだもらってないから金がないんだ」
「お金はいらないわ。だって、これは店の残り物だから」
「…………」
「二つあるから」
はい、と私は肉を挟んだパンを一つ取って、赤い目の傭兵の手に押し付けるようにして渡した。一瞬困った顔になったが、すぐにありがとうと私に向けて礼を言い、パンを口に入れた。それを見てから私も遅い夕食を取り始める。
「私はアスラと言う。君は?」
「アリスです。この店で働いてるの」
「アリス──今度は店に行くよ」
アスラと名乗った傭兵は、スッと立ち上がり背を向けて歩き去っていった。
呼び止めようと思ったが、裏口の扉から顔を覗かせたルーシャが見え、私は諦めて口を閉じた。
お金がないと言っていたから、今夜はどこかで野宿をするのだろう。まあ、ここでは珍しいことではないのだが。
「何度も言うけどね。知らない傭兵に近づいちゃいけません」
めっ!とルーシャが私を叱る。確かに何度も注意されていたことだから反論はできない。
私は素直にルーシャに頭を下げた。店内で客と会話するのはいいが、外では、たとえ顔見知りであったとしても、気安く声をかけるのは御法度なのだ。
彼らは武器を携帯している。安易に背後に近づいたため怪我をさせられた者も多いらしい。
それにしても……とルーシャは先ほどの若い傭兵が消えた方向を見た。
「初めて見たな。あれがアスラ……ね。思ってたより若いな」
「知ってるの、ルーシャ?」
「噂だけだがな。北の国境近くでよく名前が出ていたんだ。あの辺は揉め事が多くて、結構な数の傭兵が死んだと聞いている。そんな中、しぶとく生き残っているのが、あのアスラという女だ」
「女?」
私が吃驚した顔を向けると、ルーシャはくくくと笑った。
「まあ、あれじゃあ男にしか見えないか。俺も噂を知ってなければ、男だと思ったな。アスラは、北にいた傭兵たちの間でこう呼ばれている」
北の戦女神──と。
ひと月ぶりの更新です。大変遅くなりました。とにかく、今年に間に合った……!