(幕間)エイリック
幕間は四人の登場人物の話を書きます。最初はエイリック王子の話です。
「ああ‥‥どうしてこんなことに───」
王宮を出る前から嘆き続ける母に対し、もうなんと言っていいのかわからなかった。
エイリックと彼の母親であるニコラは今、馬車に乗って西の離宮に向かっている。
まだ夜が明ける前に城を出たので、昼を過ぎた頃にはもう王都を抜けていた。
この後は森を抜け、いくつもの村を通り抜けながら西の地へと向かう。
ニコラは、息子のエイリックがレクトン侯爵令嬢とエヴァンス伯爵令嬢を断罪し、それが冤罪であることが発覚したことで逆に責められて、元老院から王都追放を言い渡されたことにショックを受けた。
本来は、王位継承権を持つ者が罪を犯した場合王の判断が優先されるが、国王レトニスが倒れたため、王妃クローディアが元老院に裁きを委ねたのだ。
第二王子という地位はあっても、貴族を裁く権限を持たない者が、勝手にない権限を振りかざして、有ろうことか公の場で貴族に対し断罪を行った。
しかも、全くありもしない罪で侯爵令嬢を断罪した罪は、たとえまだ子供といえど許されることではなかった。
ニコラは、エイリックが悪いのではない。
エイリックを唆したマーシュ伯爵令嬢と、その令嬢と一緒になって愚かな行為に息子を巻き込んだレオナードとモーリスが悪いのだと元老院に訴えた。
だが、エイリック自身が噂だけを信じて、真実を一切調べずに侯爵令嬢と伯爵令嬢を責めたてた事実は変わらない。
エイリックが少しでも噂の真相を調べていれば起こらなかったことである。
特にエヴァンス伯爵令嬢がマーシュ伯爵令嬢を階段から突き落としたという事件は、目撃者だという学生の話をもっと突っ込んで聞いていれば勘違いだったで済んだはずなのだ。
突き落とされたと言われていたマーシュ伯爵令嬢自身は、誰かに突き落とされたとは一言も言っていないのだから。
目撃した学生が、勝手に思い込んで事件にしただけだった。
全てはマーシュ伯爵令嬢が嫌がらせを受けていて、それを健気に耐えていると信じ込んだ複数の学生たちが作り上げた架空話だったのだ。
最悪だったのは、レクトン侯爵が王宮警護を任せられるほど国王からの信頼が厚い家系であり、今の当主は豪放で気性もさっぱりしていて騎士たちからの信頼も厚く庶民にも人気のある人物だったことだ。
第二王子とマリアーナの婚姻が望まれたのは、そんなレクトン侯爵と縁戚関係を持つことが王家の為になるという思惑があったからなのだが。
しかし、レクトン侯爵は、第二王子と孫娘の婚約にいい顔をしなかった。
エイリックがそのことを知らなかったことも、今回の醜態に繋がったとも言える。
現国王の側妃であり、王子を生んだニコラは王宮の中での地位は高かったが、元老院は彼女の言い分を一蹴した。
かつて、第二王子と同じ醜態を行った現国王レトニスを、王位継承権第1位であり、兄弟もなかったことで処罰できなかったことを後悔している者は多い。
断罪された公爵令嬢が、その場で殺されたことが隠蔽に繋がったという説もある。
あの事件にトラウマを持つ者がいることを、国王は果たしてどれだけ理解していたろうか。
結局、母親であるニコラの責任も問われ、エイリックと共に西の離宮に送られることになった。
「何故こんなことになるの‥‥せっかく王太子が、エイリックの代わりに帝国に行ってくれたというのに」
え?
「どういうことですか、母上?」
王都を出るまでは放心したように黙って俯いているだけの母だったが、王都を出た辺りからブツブツと嘆く言葉を呟いていた。
その言葉は、王宮にいた時から言っていたエイリックが犯した醜態に対する文句や、己の身に降りかかった不運に嘆く言葉だったりしたが、ふと初めて聞いた母の言葉にエイリックは驚いて問い返していた。
「それは、ライアス兄上のことですね。私の代わりにというのは、なんのことなんですか。兄上が帝国に行ったのは留学のためではなかったのですか」
ニコラは、エイリックがようやく自分の言葉に反応したことに笑みを浮かべた。
最初はニコラが嘆くと、エイリックは謝ったり慰めたりしたのだが、あまりにもニコラがヒステリックに叫んだりしたものだから、彼は何も答えなくなってしまっていたのだ。
「ああ、エイリック、貴方は何も知らなかったのね。まあ、貴方はまだ小さかったから。だから、王太子のライアスが代わりに行ってくれたのよ」
「代わりに、ということは、本当は私が帝国に行く筈だったということですか」
「そうよ。シャリエフ王国は、何度もガルネーダ帝国と揉めていて、30年前からは戦争に発展するようなトラブルが何度も起きていたわ。国境付近は常に戦争の危険性があったの。実際、トラブルが起きるたびに多くの命が失われていたそうよ。幸い、国境警備の兵たちや辺境伯らが食い止めてくれたおかげで王都にまで影響が出ることはなかったけど」
「そんな──帝国と戦争なんて‥‥‥‥」
エイリックには初めて聞く話だった。聞いてもまさか、という思いが先に立つ。
帝国と戦争───想像するだけでも恐ろしく思える。
帝国にとって、シャリエフ王国はたった200年の新参者で、領土の大きさも人口も比べるべくもない。そんな大国と戦争になったら我が国はどうなってしまうのか。
「5年前、帝国側の国境の町がシャリエフの貴族の私兵によって蹂躙されるという事件が起きて、帝国は王族の誰か一人を寄越せと言ってきたの。そうすれば、シャリエフに報復の兵を送ることはしないと。シャリエフ王国は帝国との戦争は絶対に避けなければならないから、言う通りにするしかなかったの。最初は貴方を帝国に送る筈だったのだけど、私は反対したわ。貴方はまだ幼かったし、とても野蛮な帝国になんかに行かせることはできなかったから」
「それで、兄上が代わりに?それっておかしくはありませんか?兄上は次期国王となられる方!いくら幼いからと言って、王太子を私の代わりに帝国へ行かせるなんてあり得ません!」
「ライアスが自分から言ったのよ。帝国に行くって。陛下は反対されたけど、最後は頷かれたわ」
「そんな‥‥何故───」
帝国が欲したのは人質だ。5年前、被害を受けたのは帝国側。帝国は、戦争にしたくなければ、王族から人質を差し出せと言ってきた。それを、我が国は拒むことはできない。
しかし、いくら帝国でも、次期国王となる王太子を人質に寄越せとまでは言わなかった筈だ。
何故、兄上が────
兄とは10歳離れていたこともあって、あまり一緒にいたことはなかった。
兄は正妃の子で、自分は側妃の子。
同じ王宮内といっても生活空間は別で、王宮の行事以外は一緒に食事をしたこともなかった。
それでも、たまに会うと話しかけてくれる優しい兄だった。
「ああ、そうだわ。ライアスは帝国の許可がなければ国には帰ってこれないわ。もしかしたら、もう生きていないかもしれないし」
「母上!」
なんてことを言うんだ!
「そうよ。陛下の跡を継げるのは、もうエイリックしかいないわ。西の離宮に行っても、そう遠くない日に王宮から迎えが来るに違いないわ」
「‥‥‥‥‥」
「元老院はそのうち騒ぎも収まるから、それまで王都から離れていればいいと言いたかったのね。そうよ。そうに違いないわ」
ニコラは落ち込んでいた表情を一変させ、頰を染め安心したように笑顔を見せた。
元老院がそんなことを考えているわけはないとエイリックは思うが、それを口にはしなかった。
母はいずれ現実を思い知ることになるだろう。それまでは、とエイリックは思う。
エイリックは母の話を聞き、本当に何も知らない自分に生まれて初めて罪悪感を覚えた。
知らなかったからと全てが許されるものではない。知らないことも罪になるのだと言ったのは誰だったろう。
自分は王族でも第二王子で子供だから何も知らなくていいと守られてきたのか。
いや違う。自分はなんの責任も持たされなかったから、ただ甘えてきただけだ。
王である父から30年前のことを聞いた時ショックは受けたが、それを深く考えようとはしなかったのは自分だ。
父は言ったのに。おまえは間違っていないのか、と。結論を出す前によく考えてみろと。
なのに私は────何故考えなかった。何故知ろうと思わなかった。
考えれば気がついた筈だった。
帝国に留学していると思っていた兄が、五年の間、ただの一度も帰国していない事実に気付くべきだった。
エレーネが嫌がらせを受けていると知った時、何故そういうことが起こったのか、その原因を知るべきだった。
そして、エレーネが階段から突き落とされたと聞いた時、それを目撃したという学生の証言に矛盾点があったことに、何故自分は気づかなかったのか。
今考えると簡単にわかることなのに。
何が悪かったのか。何故私は─────
セレーネ‥‥‥
エイリックは、5歳の時のある出会いを思い出す。
5歳になって、初めて王宮の行事に参加させてもらったあの日。
5歳になった貴族の子供は、例外なく王宮に招待される。
ずっと王宮にいたエイリックは、あんなにたくさんの同じ年の子供を見るのは初めてだった。
華やかで可愛い女の子たちが自分のまわりを取り囲み話しかけてくるのが嬉しかった。
皆が自分に夢中になっている。
エイリック付きの侍女はいつも、殿下は素敵ですから、女の子たちは皆殿下の虜になりますよ。殿下のことを嫌う者などいませんと言っていた。
事実、エイリックは令嬢たちに囲まれ、貴族令息も自分に話しかけたがっていた。
そんな彼の目に入ったのは、赤い髪だった。
遅れてホールに来たようだ。どんな子かな、とエイリックは思った。
どうせ、あの子も自分の所に挨拶にくると思っていたら、一向に赤い髪は見えなかった。
あれ?と思って視線を動かすと、小さい赤い頭がホールを出て庭に向かうのが見えた。
え?なんで外に?まさか、僕に気づかなかった?
ああ、こんなに囲まれていたら、僕の姿は見えないか。
エイリックは、令嬢たちの関心が新しく追加されたお菓子に向いた隙に抜け出して、赤い髪の少女を追った。
エイリックはこの日、令嬢たちにチヤホヤされることがとても気に入った。
誰もが自分に声をかけたがり、令嬢たちが頰を染めるのを見ると嬉しくて堪らなかった。
あの赤い髪の子も、きっと自分を見たら頰を染めて喜ぶに違いない。
だって自分は王子だし、みんなが素敵だと褒めてくれるから。
庭に出たエイリックは、キョロキョロと辺りをみまわし、そして花壇の所にいる赤い髪を見つけた。
女の子は、じっと花壇の花を見つめていた。
「花、好きなのか?」
近づいて声をかけると、びっくりしたように赤い髪が大きく揺れ、女の子が振り返った。
うわ、可愛い!
さっきまで自分の周りにいた小さな令嬢たちも可愛かったが、目の前にいる赤い髪の令嬢は飛び抜けて可愛らしかった。
絵本で見た、天の使いのような可愛らしさに、エイリックの方が驚いた。
「花‥‥ええ、好き」
うわぁ、とエイリックはニッコリ笑った彼女を間近に見て、声を上げそうになった。
「え、と‥‥どの花が好き?」
「花はどれも好きだけど、このクリーム色の薔薇が特に好き」
「クリーム色?」
「黄色い花」
「ああ、黄色かあ。うん、可愛いよね」
「ねえ、君の名前──」
教えてくれる?と続ける前に背後から呼ぶ声がそれを遮った。
「セレーネ!ここにいたのね!新しいデザートがきたわ。一緒に食べましょう!」
黒髪の令嬢はそう言うと、エイリックを完璧に無視して赤い髪の子の手を掴み、さっさと連れて行ってしまった。
止める間もない素早さだ。
あの黒髪の令嬢は知っている。隣国レガールから父親の侯爵と一緒に挨拶に来た令嬢だ。
確か、レベッカと言った。
きついダークグリーンの瞳で睨まれて、ちょっと怖かったのを覚えている。
そのため、エイリックは二人の後をすぐに追いかけることができなかった。
でも、あの子から直接聞くことができなかったが、レベッカのおかげで名前がわかった。
セレーネ‥‥か。どこの令嬢だろう。
その後、レベッカが赤髪の子の側にずっとついているので、エイリックは話をすることができなかった。
だが、話す機会はまたあると思い、その後エイリックは他の令嬢たちとお喋りして過ごした。
だが、その日以降、エイリックはあの赤髪の子と会うことはなかった。
唯一彼女を知っていそうなレベッカも、急遽レガールに帰ったので尋ねることもできなかったのは残念だ。
月日がたち、王立学園の入学式で赤い髪の令嬢を見つけた時は嬉しかった。
5歳の時の出会い以降会うことがなかった彼女のことを、エイリックは気になって、いつか会える時を待っていた。
あの日、他国から参加した令嬢はレベッカ・オトゥールだけ。
なら、彼女はこの国の貴族の娘に間違い無いのだから、絶対に王立学園に入学してくると思ったのだ。
彼女に会った日、参加した貴族令嬢の中にセレーネという名がないか調べてもらったのだが、その名は見つからなかった。
もしかしたら、聞き間違えたかもしれないと思ったが、もう調べようがない。
ただ、似た名前が名簿にあると言われた。
エレーネ・マーシュ。赤い髪の伯爵令嬢だという。
自分は確かに、セレーネと聞いたのだが、実はエレーネだったかもしれないと思った。
なんといっても、エレーネは赤い髪の令嬢だというのだから。
エレーネ・マーシュに会いたかった。だが、エレーネは身体があまり丈夫ではないらしく、領地で療養中だということで王都に来ることはなかった。
だが、14歳になれば、貴族の子は王立学園に入らなければならない。
きっと、その時彼女に会える、とエイリックは思った。
自分は間違えたのだ。
5歳の時に出会い、ずっと気になっていた赤髪の令嬢はエレーネではなかった。
入学式の日、留学してきたレベッカがエレーネに声を掛けるのを見て、自分は間違いないと思った。彼女があの日話をした赤い髪の子なのだ、と。
ただ、何故か入学式の日にエレーネとレベッカは仲違いしたようで、以後二人が一緒にいる所を見ることはなかった。
エイリックは一度エレーネに尋ねたことがある。
レベッカとは友達ではないのか、と。
彼女は、それに対して首を傾げ、笑っただけだった。
今思い出しても、エレーネの態度はおかしかった。
エレーネは何を聞いてもはっきり答えることはせず、曖昧に笑うだけであった。
それを自分たちはいつも勝手に解釈した。
それが、どんどん真実を遠ざけていることに気付かずに。
ーーーーアリステアは、昔赤い髪をしていたのよ。
自分は、自分たちは、あの日一人の少女を誰の助けも入らない場所で断罪した。
彼女は、血の気を無くした青い顔でエイリックたちを見ていた。
どんなに怖かったろうか。
男が三人がかりで、たった一人の少女を責めたのだ。
今更だが、なんということをしてしまったのか。
エイリックは俯き、手で顔の下半分を覆って息を吐き出した。
何故気がつかなかったのだろう。
あの時のアリステアを思い出してみれば、彼女だとわかる。今なら。
何故、あの5歳の時、自分を見た、あの透き通るような青い瞳を忘れていたのか。
エレーネの瞳は赤みがかった青で、まったく違うものだったのに
何故、レベッカがエレーネではなくアリステアと仲良くしていたのか。
今ならわかる。自分がいかに間違っていたのかを。
しかし、もう遅い。時を巻き戻せない限り、もう元に戻ることはないのだ。
自分がした愚かな行為のせいで罰せられ、もう二度と王都に戻ることはない。
だが、もし‥‥もし願えるものなら願いたい。
私の代わりに帝国へ行ったという兄に、自分が間違って断罪してしまったアリステア・エヴァンスに、この愚かな私は心の底から謝りたい。
次回は、マリーウェザーとアリステアの父親ライドネス・エヴァンスとの会話です。