決して死なない(1)意識
「では、次の方どうぞー」
バラエティ番組のスタッフの合図で私はカメラの前に出た。
素人を笑いものにする低俗番組だ。
奇異の目で私を見つめるゲストたち。
テレビでは拍手や歓声が鳴り響くものだが、スタジオは意外に静かだ。
恐らく後から付け加えるのだろう。
私は<決して死なない>ことを悟り、気付かない人に伝えるために応募した。
もちろん他の硬派なメディアにもアクセスしたが、結局採用されたのがこの番組だった。
予測はしていたが気分が悪い。
それでも電波は日本中に届くはずだ。
「さて、さっそくお伺いします」
ヘラヘラとした司会者がマイクを向けてくる。
「不死身だそうですが、どうしてそう思うのでしょう?」
不死身と決して死なないことは同じではないのだが、説明すると長くなる。
しかし、決してして死なないのは、思うことではなく事実だ。
リンゴを見てリンゴだと思う理由を質問しているようなものだ。
それはリンゴだからリンゴなのだ。
私の答えが理解できないらしく、呆れ顔のゲストが苦笑いをしている。
「はぁ・・・では質問を変えましょう」
「いつごろから不死身になられたのでしょうか?」
やはりこの手の番組では無理があったか。
リンゴを見て「いつからリンゴになったのでしょう」と質問するようなものだ。
「ということは、生まれながらに不死身と言うことでしょうか?」
以下同文。
そして私が「そうだ」と答えたところで納得することもあるまい。
リンゴの木に梨がなるとでも思うのだろうか?
私は特異体質なわけではない。
もちろん、神でも超能力者でも宇宙人でもない。
しかし決して死なない。
「痛みも感じないとお伺いしていますが、本当でしょうか?」
感じないなどとは言っていないのだが、不死であれば痛みも感じてはいけない
と思っているようだ。
私は理解されていないことを理解しつつも説明を試みた。
痛みとは信号でしかない。
痛みがある場所は保護をしなければ破壊されるかすでに破壊されているのだ。
それを知らせようとして、その場所が痛みとして信号を発信する。
私はそれを認識すれば十分だ。
痛いとは情報であって、私はそれを知れば十分であり苦しむ必要などない。
泣き叫けんで状況が好転するならそれも良いが、好転する理由がない。
司会者は私の説明を聞き流しながら次の手に出た
「では、元プロレスラーのマッドデモンさんに関節技をかけてもらいましょう」
やれやれだ。
痛みを理解している私に痛いと言わせたいらしい。
この番組はそういう番組なのだ。
やたら背の高い筋肉質の元プロレスラーが登場し、私の腕を取って技を仕掛けてきた。
もちろん痛みはある。
しかしそれは信号でしかないのだ。
それを理解すれば痛みで顔をしかめるようなことはない。
カメラが私の苦痛の表情を取ろうと近づいてくるが、私の表情は変わらない。
「痛くないんですか?」
司会者がマイクを向けてくる。
痛くないわけがない。
でもそれは腕が痛いだけで私が痛がる必要はないのだ。
それを平然と説明することに元プロレスラーはプライドを傷つけられたらしい。
私の腕を関節技で締め上げたまま持ち上げると私を裏返し床にたたきつけた。
-グギッ-
首が妙な方向に曲がり体の制御ができなくなった。
面倒なことになった。
プロレスラーは青ざめ、司会者がスタッフを呼び私を取り囲み揺らしたりしている。
客人はもう少し丁寧に扱ってほしいものだ。
いくら不死でも体は普通の人間だ。
それにしても面倒なことだ。体が全く動かせない。声も出せない。
目も見えなくなった。
これでは死んだみたいではないか。
冗談ではない。
私は生きている。
私は不死なのだ。
痛んだのは首であり、制御できなくった身体だけのことだ。
心臓が止まっていようとも私は生きている。
暗闇の中で私は叫び続けていた。
私は生きている。
決して死なない。
ただ、それを伝える手段がないだけだ。
暗闇と静寂の永遠とも思える時間の中で私は繰り返していた。
私は生きている。
私は生きている。
「よし、意識が戻ったぞ」
痺れたような感覚と共に私は生き返った。
いや、そもそも死んでなどいなかった。
そして理解したのだ。
私は決して死なない。
それが間違いだとは思わない。
しかし、死んでいないと誰かに伝えられなければどうだ。
心臓が止まり、呼吸が止まり、肉体的な機能が死を表明してしまえば
他人に私が生きていることを伝えられない、理解などされない
私も肉体が機能しなければ、見ることも聞くこともできない
世界と断絶されたまま生き続けることになる。
それは生きていると言えるだろうか?
私は死を誤解していた。
私の死は私が決めるものではなかった。
私を取り巻く世界が決めるものだったのだ。
SFのテーマの中でも大きな1つ、不死をテーマに
SF的視点で短文をいくつか書いていきたいと思います