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#8 月影牢

 確か、あの日もそう。今日のように、しっとりと雨が降り注ぐ日の事だった――。

 この重苦しい牢獄の中で、長い……気が遠くなるほど、長い年月を過ごしたわたしにとって、稀に訪れる来訪者の存在はとても希少だった。その日、わたしの前に現れたのは一人の少女だった。遅れて一人の背の高い男が続く。

 深い、洞窟の奥にあるこの場所に何故二人がやってきたのか……それはわたしにはわからない。もしかしたら、この降り注ぐ雨の所為だろうか……? 少女は……蒼い髪をしていた。闇の中でもはっきりと認識する事の出来る美しい輝き……成る程、納得できる。彼女は……わたしと“同類”なのだ。

 少女は格子の向こうからわたしに手を伸ばした。何か……懸命に伝えようと叫んでいる。けれどもわたしにはその言葉の意味が判らなかった。長い間、生きているのか死んでいるのかも判らない日々が続いた。どれくらいの年月が過ぎ去り、わたしは今……どうなっているのか。

 そっと伸ばした手……。これは、夢なのだろうか。ずっと、長い間、誰もここにはやってこなかった。誰もがきっと、忘れたがっていたから……。わたしは知っている。人間は、決して異形を受け入れたりはしない。だから人間は閉じ込める。追い払う。弾劾する……。

 少女の指先が、わたしの乾いた指先に触れる。その瞬間、わたしは沢山の事を思い出していた。脳裏を過ぎる千の、万の、夜の記憶……。少女がわたしの指先を、小さく白い指で絡め取る。何故……この子は泣いているのだろうか。

 見ず知らずのわたしの為に、こんなにも悲しい顔が出来る……。彼女は……わたしの知っている人間とは違う。わたしの知っている……魔女とも違う。

 時代は……変わったのかもしれない。わたしが生きていたあの頃、魔女戦争と呼ばれる物があった。そしてわたしはここで、長い長い年月を隠れ、生き延びたのだ。そう、彼のお陰で…………。


「…………お姉ちゃん、どうしてこんなところにいるの?」


 あの日……。天から月明かりを取り込む以外には何の役にも立たない穴の上から落ちてきた少年は純粋な瞳でわたしにそう問いかけた。わたしの腕の中、彼はわたしを恐れる事も、不気味がることもなく……。ただ、静かに問いかけたのだ。

 指先に誰かが触れる事の嬉しさと気恥ずかしさをわたしは何年かぶりに思い出していた。少年の目はわたしの姿を映し出している。自分の姿を数年ぶりに見つめ、わたしは途端に居ても立っても居られないほど……急激に、恐ろしくなった。

 この岩戸に閉じ込められてから、どれだけの年月が流れただろう……。世界にとっては刹那の出来事でも、わたしにとっては永久に等しい……。知る事がただ幸福ではなく、絶望さえも運んでくると悟ってからは、ただ月の満ち欠けを数えるだけの日々に終止符を打つ事にした。わたしは、時を数えない。

 だが、少年の瞳に映りこんだわたしは確かに時を感じさせた。自分を見つめる事のない闇の世界……。その日は雨が降っていて、太陽の光はとても微かだった。それでも頭上から降り注ぐ光の中、わたしたちは確かに見詰め合っていた。


「……僕……助かったの?」


 少年ははるか頭上を見上げ、そう呟いた。わたしの腕の中から逃れ、少年はじっと黙って空を見上げ続ける。かつて、ここに封じられたばかりのわたしのように……。

 何もなく、時の止まった永久の世界。そこに落ちてきた少年に触れた指先が、急速にわたしに時を取り戻していく。時は魔女戦争の渦中……。わたしは、絶対に在り得ない恋をした――。




#8 月影牢




「それじゃあ、ずっとここにいるの?」


 頷くわたしに彼は心底驚いたと言った様子だった。この岩戸は、村から離れた山中の洞窟に存在する。退魔の術式が幾重にも施された異様な洞窟の奥底、降ろされた格子の向こうでわたしは生きながらえてきた。

 ここには何もない。何もない。何も在るはずがない。ただ、岩肌が露出した狭い室内に、わたしだけが存在している。この孤独すぎる檻の中でわたしは何年も過ごしてきた。人と言葉を交わすのは久しぶりすぎて、上手く喋る事が出来そうにもなかった。仕方がなくわたしはぽつりぽつりと、本当に小さな声でゆっくりと語るしかなかった。

 彼はやはり村の人間だった。しかし、わたしの事は知らないのだという。それも仕方のないことなのかもしれない。村の人々にしてみれば、わたしの存在は忘れたいだけの物なのだろう。忌々しい記憶に蓋をして忘れ去り、次の世代には語らぬ事で封殺する……。実に理に適っている。


「山の奥には、危ないから入っちゃダメだってみんな言ってた。でも、女の人がいるなんて聞いてなかったよ」


 少年は岩の壁を背に、小さく膝を抱えて丸くなっていた。それも無理の無い事だ。今日は……冷える。冬、というわけではないのだろうが、もう秋ではあるだろう。森に続いている天井の穴からは変色した落ち葉が落ちてくるのだ。少年が寒がるのも仕方が無い事だった。

 しかし、わたしには彼に貸し与える服も、毛布も、何一つ持ち合わせていない。わたしの身体を覆う黒い布切れは、元はドレスだったものだ。しかしこの長い長い、気の遠くなるほど長い年月の中……既に洒落た面影はどこにも残されてはいない。何も出来ない。わたしには……。


「お姉ちゃん、そんな格好で寒くないの?」


「……うん、大丈夫」


 何年ぶりだろうか。他人から血の通った言葉をかけられるのは……。それだけで嬉しくて涙が出そうだった。ぐっと堪える事が出来たのは、相手が子供だったからだろうか。それでも声は震え、変なトーンになってしまった。

 恥ずかしかった。恥ずかしいなんて気持ちをどれだけ久しぶりに感じるだろうか。羞恥心など持っていては生きていけない人生だった。だから何でもやった。何でもやったのだ。だというのに何故だろう? このぼろぼろの服装も、何年も何年も水浴びをしていない身体も、伸びきってだらしなく地面に擦れる長い髪も……何もかもが気恥ずかしくて仕方がなかった。

 そんな時代があったわけではないのに、なんとなく、まるで乙女に戻ったようだと感じていた。少年と出会ってからどれくらいの時間が過ぎただろうか? 誰かが助けにやってくる気配は今の所ない。当然か……。わたしがここにいるのだから。


「そういえば……お姉ちゃん、ありがとね」


「……?」


 唐突に彼がそんな事を言う。しかしわたしはまるで理解が出来ず首を傾げてしまった。少年は頭上を見上げ、穴を指差す。


「あんなに高くから落ちてきたんだよ? もしお姉ちゃんが受け止めてくれなかったら、僕死んじゃってたかもしれないじゃないか」


 少年は悲鳴を上げながら落ちてきた。すごい勢いだったので慌てたけれど、わたしの身体はなんとか付いてきてくれた。もしも彼が叫んでくれなかったならばきっと気づけなかっただろう。そうしたらここに、確かに成る程……。わたしのほかにもう一つ、死体が転がる事になっていただろう。

 わたしは首を横に振った。しかし少年は照れくさそうに微笑を浮かべるのだ。わたしは何となく、何度も何度も繰り返し見上げた夜空を見上げた。子供一人ならば通れるだろう、しかし小さな竪穴の向こう、雨が降り注ぎ続けている……。


「……どうして、山に?」


 わたしが問いかけたことが驚きだったのだろうか。少年は目をぱちくりさせ……それから項垂れ、気を落とした様子だった。何か、聞いてはいけないことを聞いてしまったのだろうか……。


「……お母さんが、病気で。山に、薬草を取りに来たんだ。皆、山に入りたがらないから、一人で」


 しかし、少年の手の中に薬草はなかった。何もこんな夕暮れ時に山に入ったわけではないのだという。昼間からずっと、薬草を探していた。それでも見つからなくて……。薄暗くなるまで探し回り、ここにあった穴に気づかず落ちてしまったのだという。

 彼はずっと、そわそわしていた。それはきっと、病に臥せっている母親の所に早く戻りたいからなのだろう。彼には小さいなりに強い使命感があった。わたしは小さな少年の母への心遣い、そしてこんな闇の中に落とされて直泣く事も喚く事もないその勇気にいたく感心した。

 どうにかして、ここから彼を出してあげたい……。しかし、ここは魔物を閉じ込める岩戸の奥底……。堅牢な格子の向こうにある異界だ。地上に出る為には、幾重にも張られた退魔の結界を貫かねばならない。だが、それはわたしにとっての問題であり……人間である彼には何の障害にもならないだろう。

 最大の問題は、この古びて直頑丈さを失う気配の無い格子……。わたしは格子の前に立ち、その冷たい感触に指を這わせた。何年ぶりかに触れる格子はあの頃よりざらつき、そしてやはり冷たくわたしの感覚に滲んで行く……。


「……ここから、出たい?」


 問いかける言葉。まるで自分に語りかけているかのようだった。少年は強く頷き、それから正直な気持ちを訴えかけた。


「出たい……! 早く帰って、母さんの看病がしたい!」


「…………そう、わかった。じゃあ……貴方をここから出してあげる」


「で、出来るの!?」


 出来るとは思って居なかったのだろう、彼は驚きの声を上げた。勿論――出来はしない。だがそれはわたしにとってはという事であり、彼にとって障害となるのはたかが鉄格子くらいのものだ。

 己の掌をじっと見詰める。わたしは異形――。その気になればこの格子も、そしてあんな陳腐な結界も突き破る事が出来る。だからわたしは己の意志でここに閉じこもったのだ。いつか……外の世界に出たいと思える日が来るまで。

 その答えはまだ判らない。だが、少年をここから出してあげたいという気持ちは確かだった。鉄に手をかけそれを握り締める。わたしは振り返らず、少年に問いかけた。


「わたしがここを開けるから、その間……どうか、目を閉じていてほしいの」


「え……? 開けるって、どうやって……」


 論ずるよりも、わたしは片手を差し出して彼の言葉を遮った。少年は暫く黙っていたが、やがてそっと両手で視界を遮り、それからわたしに背を向けた。

 わたしは……ずっとこの力が嫌いだった。恨む事はあれども感謝した事など一度足りともなかった。けれども今、少しだけ嬉しく思う。力――誰かの為に使う事が出来るのならば……。

 少年の笑顔を思い浮かべ、わたしは格子を破壊する。握り締めた鉄は簡単にひしゃげ、一瞬で形状を変化させる。この衰えた細腕にも、まだこれだけの力が残っている。恐ろしいものだ……魔女というものは。

 凄まじい音に驚いたのか、少年は背中を丸くしていた。わたしは静かに彼の背後に立ち、そっと声をかける。


「もう、大丈夫……。さあ、格子は外れたから」


「え……? ほ、ほんとだ……ど、どうやったの!? すごい!」


 少年は恐る恐る振り返り、それからすぐにぱあっと明るい笑顔を浮かべた。わたしは嬉しくなって……一緒に笑いたかった。でも、笑う事は出来なかった。長い間動かす事をしなかった顔の筋肉は笑顔の形さえ忘れてしまったのだろうか。

 わたしは少年から母親の病状を詳しく聞いた。山に入るのは危険だが、ここは山中……それに帰り道に彼の求める薬草がある事をわたしは知っていた。驚く彼だったが、当然の事だ。魔女などという生き物は、普段から人里離れた場所で生きている物……。わたしが外で生きていた時代と森が変わっていないのであれば、そこに彼の目的は存在する。


「ありがとう、助かったよ……! 本当にありがとう!」


 二度、礼を言ってから。彼はそっとわたしに手を差し出した。意味がわからずに黙り込むわたしに彼は当たり前のように言う。


「何やってるの? ほら、一緒に行こうよ!」


「え――」


 絶句してしまう。その手をその時ほど魅力的に思った事はない。わたしの体の中に流れる魔女の血は、この世界に解き放たれる事を望んでいた。魔物として、命を貪る事を常に望んでいる。わたしは……その宿命を封じたかったのだ。

 簡単すぎる事だ。だから絶対にやってはいけなかった事をわたしはしてしまった。格子を外す事など容易く、何の問題もなく……。そうであると知る事を恐れ、それをしなかった。わたしは……外の世界が怖かった。

 村の人間がわたしの事を忘れたとは限らない。大人たちはまだ、わたしの事を覚えているかもしれない。外の世界に出れば騒ぎは広がるだろう。わたし自身、何をしでかすかわからない。ここに閉じ込めた人間たちに復讐をしたがる可能性もある。何しろわたしは化け物……自我の制御など、時の運なのだから。


「お姉ちゃん?」


 少年の眼差しにわたしは首を横に振って応える。格子の奥に戻り、闇の中に座り込む。少年は拒絶の所為か、寂しげにわたしを見つめていた。胸の奥が少しだけ痛んだ気がした。でも、わたしと一緒に居ない事こそ彼にとっての幸福に他ならない。


「……どうしても、ここに残るの?」


「…………」


「わかったよ……じゃあ……もう無理に連れ出したりしないよ」


 少年は頷き、それからわたしに背を向けて去っていく。洞窟の中へと消えていく後姿を見送り、わたしは膝を抱えていた。もう、会うこともないだろう。

 しかし少年は途中で引き返してきた。そうして格子に捕まり、わたしにもう一度手を伸ばしたのだ。指一本だけを立て、少年は無邪気に笑う。


「じゃあ、また会いに来るよ! お礼をしなきゃけないでしょ? だから待ってて! 約束だよ!」


 どんな言葉で、応えれば良かったのだろうか……。

 ただ立ち上がり、わたしは手を伸ばして少年と指を絡めた。それが約束の証……。少年の小さな手はわたしの指を強く絡め、上下に揺さぶっていた。わたしは急に泣きたくなって、でも泣く事はなかった。

 小さな足音が遠ざかっていく。わたしはただ、ずっと格子の奥で……結んだ指を見つめていた。雨はいつの間にか止み、頭上からは月の光が差し込んでいる。これは、何かの罰なのだろうか。或いは、わたしにとっての救いなのだろうか――?




「お姉ちゃんって、何でも知ってるんだね」


 感心するようにそんな事を語りかけてくる彼に、むしろわたしの方が関心してしまう。もう、彼は二度とここには来ないだろう……そんな不安と期待の入り混じった時間は、たったの三日で過ぎ去ってしまった。

 無事に薬草を入手し、母親の具合もよくなったのだという。それから三日後、少年はわたしのところにきちんと顔を出しにきた。彼の手には森の中で取れる果物があった。少年もどれが食べられるのか判らなかったらしいのだが、わたしはその名前とどんな味なのかを彼に教えてあげることにしたのだ。

 森の中で暮らしていたのは、今からもう随分と前の事になる。だが森の歴史に比べればわたしの歴史など浅い物なのだろう……。少年の手から果物を受け取り、数年ぶりに食べ物を口にする。しかし……その味はわたしには判らなかった。


「ねえ、お姉ちゃんはどうしてここにいるの?」


 その質問は以前にも受けた事がある。だがそれを説明するのはとても長く、そして悲しい事も思い出さねばならない。何より彼にとって、決して良い事ではないのだろう。

 ここでこうして彼と一緒に居るだけで、わたしは強い罪悪感に苛まれていた。わたしが人間と一緒にいるなど、絶対にありえない。あってはならないのだ。だが、彼は歴史を知らない。世界を知らない……。わたしを何かの枠に入れる事が出来ず、正常に判断出来ずにいるのだ。


「そういえばお姉ちゃん、頭から角が生えてるよ? 山羊……みたいなの?」


 自分の即頭部に手を伸ばす。そこには忌々しい魔物の証が残されていた。魔女として生まれた時から常にわたしの傍にあり、わたしを苦しめてきたものだ。それを彼に見られるのが嫌でわたしは両手で角を隠そうとした。しかし角は手よりも大きく、全てを覆う事は出来ない。

 彼からは純粋に感謝の気持ちを受ける。そこには何の裏表もないのだろう。だがわたしは魔女としてそれを信じて良いものか、判断に困っていた。結局わたしたちはろくに言葉を交わさずその日が終わり……しかし、少年は何度も何度もわたしの所に足を運び、姿を見せてくれた。

 人間扱いをされるのはどれだけ久しい事だっただろうか……。彼はわたしの為に服を用意してくれた。暗い穴の中で、彼にしかお披露目することの出来ない服……。勿論、今までわたしが着ていたのよりましなだけで、世間的に見ればどうしようもないぼろ布同然の物なのだろう。だが、それでもわたしにとっては久しく感じていなかった人の生き方そのものだった。

 わたしは彼に様々な事を教えた。山の中で取れる食べ物、生活の知恵……。彼と言葉を交わす内、次第にわたしにも言葉が戻ってくるのを感じた。止まっていた時計の針が動き出し……それがまたわたしを苦しめていく。

 一度動き出した針はもう止める事は出来ない。気づけば彼が来ることだけを生き甲斐にしている自分がいた。永劫そのものであった時の流れは本来の重さを取り戻しわたしの両肩へずっしりと圧し掛かる……。忘れ去っていたはずの寂しさや悲しさ、そうした感情が喜びと共に戻りつつあった。

 なにも、最初からわたしはここで暮らしていたわけではなかった。穴倉に押し込められる前は、どこにでもいる田舎の苦しい村に住む子供であった。しかし、この角がそれをわたしにとっての普通にはしてくれなかった。

 わたしが生まれるより前、村は一匹の魔獣の襲撃を受けた。そこで村は一度壊滅し……わたしの母は魔獣の子を身篭ったのだ。結果生まれたのがわたしである。しかし、それでも母はわたしに優しかった。魔獣と戦って死んだという父……。夫を殺した魔獣の娘を育てるのは、どれだけの葛藤があったかわからない。それでも母は優しかった。わたしは母が大好きだった。

 しかし、村ではわたしの姿がより異形の特色を色濃く出すような年代になってくるに連れ、わたしを魔獣の再来と恐れる声が上がり始めた。母はわたしを庇ったが、わたしは自ら母に迷惑をかけないためにこの暗く深い洞窟の中へと足を踏み入れたのである。

 あれから、母とは一度も会っていない。恐らくは死んだのだろう。わたしは、“死”さえも従える力を持つ魔女……。全ての魔女がこれだけの力を持つのかどうかはわからなかったが、わたしはわたしの元になった魔獣の力の所為で安息な死からさえも拒絶された存在となった。

 闇の中で暮らすうちに、時は流れ流れた。全てが遷ろう世界の中で、わたしだけを取り残し世界は変わっていく……。人であるならば絶対に逆らうことの出来ない時の濁流に、母も例外なく飲み込まれ朽ち果てて行ったのだろう。

 母の事を思い出したのがまずかった。わたしは急に何もかもが怖くなった。少年は何度もわたしに会いに来る。そうして、何も変わらないわたしだけを取り残して少年は育っていく。気づいた時には彼は背も伸び声も低くなり、初めて会ったばかりのあどけなさは消え去っていた。


「…………もう来るなって? どうして……? エリーゼ」


 わたしの名前を呼ぶ彼。格子を背に、彼は果実を齧りながら首をかしげる。わたしの足元に転がる果実……それを手に取り、わたしは空を見上げた。

 夜の空には月が浮かび、竪穴から光を吸い込んで降り注がせている。彼が落ちてきたのも、こんな夜だった……。ふと、林檎に目を向ける。それは紅く瑞々しく、甘い香りを放っている。まるで彼のように……。


「エリーゼは、僕の事が嫌いになったのか……?」


「…………そうじゃない」


「だったらどうして? 村の事なら心配ないよ。バレないようにちゃんとこうして夜に抜け出してるんだからさ」


「そういう事じゃなくて……」


「…………。だったら、どうなんだ? 僕はやっぱり、エリーゼを放っては置けないよ。君は僕の命の恩人だし……何より僕は君を大切に思っている」


「…………ライル」


「そんな悲しい事は言わないで、エリーゼ。僕はまたここに来るよ。ここに来る事でしか、僕は君に会えないのだから……」


 寂しげに微笑んだ彼の後姿が印象的だった。それから何度かの太陽と月がわたしの頭上を通過した頃の事だ。彼がわたしに会いに来ている事が、村で発覚したと知ったのは……。

 新たに封印が施され、壊れていた鉄格子は修理された。天井に空いていた穴が塞がれ、月の光さえもが遮られた。完全なる闇の中……。わたしはどこに壁があるのかもわからない世界の中、膝を抱えて待ち続けた。気づけばいつの間にか、また彼がやってきてくれる事を期待している自分が居たのだ。

 穴倉の中、黒以外の一切の色彩が存在しない世界……。悲しかった。寂しかった。ずっと同じ事を繰り返してきたはずなのに、彼にもう会えないのではないかと思うだけで胸が張り裂けそうだった。

 子供の頃から無邪気な笑顔を見せて、楽しそうに世界の事を語ってくれたライル……。また来るよと言ってくれた。本当は、とても……。とても、嬉しかったのだ。

 ライルに会いたい。そう思ってしまうと、もう忘れることは出来なかった。どうして見つかってしまったの……? 何故……? 自然とやり場の無い怒りや悲しみは村の人間へと向けられた。わたしなら、この穴倉の中からでも村人を殺戮出来る。それだけの力を持っている。魔女の魅力はわたしの脳裏を焦がし続けた。

 復讐したいと思う気持ちと、人を殺してはならないという気持ちがせめぎあっていた。人を殺せば、自らライルとの再会を拒絶することになってしまう。これまでやってきた事、積み重ねてきた時が全て無駄になってしまう。

 押し殺してきた魔女として当然の殺戮本能がわたしのなかでふつふつと音を立てて煮えたぎっていた。それでもわたしは我慢した。我慢して我慢して……。刹那の出来事であったかのような時の流れが異様に長く、長く感じられた頃……。

 既に生き物としての全てを忘れ、闇に溶けた肉体……。解き放つかのように重く塞がれていた出入り口が開かれ、二人が姿を現したのだ。小さな魔女と、一人の聖騎士……。


「大丈夫ですかっ!?」


 わたしに格子越しに駆け寄り、手を伸ばす少女……。感じる。強い魔力を持っている。幼いけれども強力な魔女だ。だが、何故だ? 何故教会の礼式装備を携えた聖騎士が魔女と共にいるのか?

 わけがわからない。何が起きたのだろうか? 魔女戦争はどうなった? 何故魔女と聖騎士が一緒にいる? 時間は? 時間はどれだけ過ぎたのだ?

 声帯は震えなかった。乾いた空気だけが喉からひゅうひゅうと音を立てて漏れていく。わたしは口を何度も開いては閉じ、伝えようとした。その時、少女の背後から銀色に輝く剣がわたしへと突きつけられた。


「マスター!?」


「下がれレヴィ。この魔女は普通じゃない」


「止めて下さい、マスター……! 村の人に頼まれたのは、封印の再施行だけのはずですっ」


「俺もそれだけのつもりだったが……こいつは駄目だ。生きている限り、確実に人間に害を成す」


 二人はわけのわからない会話を続けていた。しかしわたしには何の話なのかわからない。そもそも、言葉が通じているのだろうか……? わたしの思考は魔物の方によってしまっているのかもしれない。人の言語がまるで呪文のように聞こえてくる。意味は理解出来ても、ただそれだけだ。

 少女は懸命にわたしを庇うように両手を広げていたが、騎士の剣の一撃が腐食していた鉄格子を、少女の頭の上スレスレで両断する。怯える少女を押し退け、騎士は牢獄へと足を踏み入れる。限りなく闇に近い漆黒の中、騎士はわたしへと剣を向けた。


「時の魔女、エリーゼだな――? 覚悟してもらおう」


 わたしは何も言えないまま、剣だけをじっと見上げていた。それが鋭く振り上げられ、一気にわたしの首目掛けて振り下ろされる……。しかし、それはピタリと静止していた。わたしの前、震えながら飛び出した少女の姿があった。

 少女はじっと騎士を見上げていた。その目にはいっぱいの涙を溜め込んで……。騎士は魔物刈り取る者の目からゆっくりと人の目へと戻っていく。そうして剣を鞘に収め、わたしたちに背を向けた。


「そこまで言うなら好きにしろ。その魔女は魔女狩りの際村の連中が差し出さなかった魔女だ。触れる事を恐れてな……。魔女狩りに非協力的であった時点で、あの村を助けてやる義理は無い。行くぞ、レヴィ」


「…………マスター」


「いいから行け……。二度目は無い」


 少女は俯いたまま、何度かわたしを気にして背後を顧みた。やがて少女の姿が洞窟から消えると、騎士は静かに溜息を漏らす。


「…………お前の人生だ、お前の好きにしろ。だが、お前のその生き方の責任は取れ。それが魔女だろうが人間だろうが、共通した生者の責務だ」


 騎士はそう言い残し、去っていった。ふと、洞窟に光が差し込んだままであることに気づく。格子は騎士が壊してしまった。封印の術式も……停止したままだ。

 光がとても魅力的に見える。夕暮れなのだろうか? 茜色の割合が多い光……。それに手を伸ばし、気づけば洞窟から足を外へと踏み出していた。眩い光に目が潰れそうな程激しい痛みを覚えた。しかし、わたしは歩みを止めなかった。

 森を抜け、山を下りる……。村の場所が変わっていないのならば、帰り方はまだ覚えている。何もかもが懐かしい……。ライルはまだ生きているだろうか? 村の連中はどうしているだろうか……?

 何故だろう、身体がとても重い……。ずるずると、何かを引きずっているような……。木々がとても邪魔だった。わたしは村へ向かっていく。そうして全てを知った。何もかもを理解した。

 村があった場所には、ただ廃墟だけが残されていた。何も、何一つ残ってはいない……。村の様子はわたしが居た時代からは様変わりし、何もかもがまるで別世界のようだった。

 夕焼けの光の中、わたしはただ立ち尽くした。どれだけそうして立ち尽くしていたのだろう? いや、どれだけの時間が流れてしまったのだろう……? わたしが闇になってから何日? 何年? 何度月と太陽が光を降り注がせれば、こんな事になるのか。

 わからなくなる。何の為に生きていたのかわからなくなる。全部が無駄だった。ライルの姿はどこにもない。何もなくなった。わたしは何故生きているのだろう? わからない。わからない、わからないわからないわからない――。


『この村は、魔女戦争でザックブルムの魔女に焼かれたのだ』


 背後、声が聞こえた。首だけを回して背後を見やる。そこには漆黒の甲冑に全身をすっぽりと包んだ一人の騎士の姿があった。騎士はその手に巨大な剣を携えている。直感的に理解した。あの剣の大きさは、重さは、人を斬る為のものではない。魔物、魔女……ばけものを殺す為の武器なのだと。


『聖騎士は貴様を斬らなかったか……。腑抜けた物だ』


 黒衣の騎士は肩に大剣を乗せ、顔を上げる。わたしには判る……。これは、わたしたちと同じ物だ。同じ化け物……。それが、人の形をして鎧を纏い、剣を持っている。酷く滑稽で、矛盾している。だがどうだろう? あの中身が人であるかどうかなど誰にも判らないのだ。あの中身が魔物だろうが、カラッポだろうが――誰にも判らない。


『見ての通り、この世界に貴様の居場所は最早存在しない……。首を落としてやろう、化け物。己が姿を鑑みよ……。時の魔獣よ』


 わたしはそっと、自分の両手を見つめた。それは黒く塗りつぶされていた。白すぎた肌は最早どこにもない。それどころか、なぜかうでがよんほんある。なんだ、これは?

 あしも、よんほん。しっぽがあって、はねがある……。つのがのびていて、かおはひとのかたちをしていない。なんだ、これは? “わたし”はどこにいってしまったのだ?


『憎しみが魔女を魔物に近づけるのだ。貴様の憎悪、闇は貴様の原型を忘れさせるに十分なだけの力を持っていた……。世界にお前の事を知る人間は最早どこにもいない。絶望したならば死ね……。それだけが貴様への手向けとなろう』


 騎士が片手で巨大な剣をわたしへと突きつける。わたしは……大人しくその場に座り込み、首を差し出す事にした。わたしはもう、わたしではなくなっていた。もう何もかもどうでもいい。恐れていた事が全て現実となった。

 母は時の流れの中で死に絶え、ライルも消えてしまった。村は無くなり、わたしはもうどこにも帰れない……。これ以上生きているのはただの苦痛に他ならない。いっそ、楽にしてほしかった。首がなくなれば、楽になれるのだろうか。

 大剣が振り上げられる。わたしは目を閉じ、全てを思い出していた。永劫と闇、そして胸の奥にかすかに芽生えた人らしい感情……。

 ああ、なにもないな。これが、わたしの終焉なのか。酷く不恰好で、寒々しい……。だが、とても安らかだ。何もないのだから。そう、何もないのだから――――。




 俺は花束を片手に廃墟に立っていた。魔獣の死体が発見されたのは、例の巡礼の魔女がやってきた数日後の事だった。

 魔獣の正体がなんであったのか、俺にだけはわかっている。きっと彼女が時の闇の中であんなおぞましい姿へと変わってしまったのだろう。

 もっと早く、俺が彼女を救うことが出来たならば……。後悔は恐らく永遠に続くだろう。風の中、俺は静かに溜息を漏らし煙草に火をつける。彼女と別れてから、もう八年になる。

 戦争があり、戦争は全てを押し流していった。村を失い、そして戦場に駆り出された俺は故郷に戻ってくる事も出来ず、その日その日を生き延びるだけで必死だった。彼女の事を……エリーゼを忘れてしまうくらい。

 全てが終わり、俺はエリーゼを解き放つ為に彼女の事を調べた。彼女は、俺の先祖に当たる人物の娘であるという事……。そして、彼女は俺の何十倍もの時間を生きていたという事。時を操り、物を腐らせ蘇らせる術の使い手であった事……。彼女の事を知った。

 結局俺に出来た事など何もなかった。幼い頃抱いていた淡い子供染みた感情は、今はどこかに消えてしまった。彼女を救いたかった。でも、こうして死ぬ事が彼女にとっての救いだったのかもしれない。

 今の時代、魔女は余りにも生き辛すぎる。化け物になってしまったというのならば、直の事だろう。聖騎士が、首を落としたのだろうか。いや、並の人間に化け物を殺す力はない。だとすれば、騎士の仕業なのだろう。

 しかし不思議と彼を恨む気持ちはなかった。むしろ、彼女を解き放ってくれた事に対する感謝の念さえ覚えている……。そんな事を言ったら、エリーゼはどんな顔をするだろうか……。

 花束を手作りの墓標に備え、俺は空を見上げた。ここならば光が降り注ぐだろう。四季を感じることが出来るだろう。あの穴倉の、月影牢の中では感じ取れなかった時を感じることが出来るだろう。

 俺は彼女と果たせなかった約束を、これから果たしていこうと思う。また、会いに来るよ……。今度は、何があっても。君に会いに来る。だから……エリーゼ。


「おやすみ……」


 あの魔女と騎士は、旅を続けるのだろう。なんの救いもないと知りながら。あの少女は、どんな最期を迎えるのだろう?

 森の奥深く、彼女の生きた場所を思い出す。悲しいのに涙はこぼれなかった。エリーゼは、どんな気持ちで逝ったのだろうか。できれば伝えてあげたかった。君は一人なんかじゃないのだと。助けられなくて、すまなかったと。

 風の中、墓標の前に飽きる事無く俺は座り続けていた。今度は俺の番だ。俺の背中に、時の重さがずっしりと圧し掛かっている。彼女を救えなかった十字架の重さを、より強く重ねながら……。それこそ、永久に。永劫に――――。

~そし魔女劇場おしえてレヴィ子さん~


イルムガルド「暗ッ」


レヴィ「…………。真っ暗ですね、色々な意味で……」


イルムガルド「闇一色だったな……」


レヴィ「エリーゼさんって、歳をとらないんですか?」


エリーゼ「……うん。わたしは、時を操る魔女だから……」


レヴィ「…………なんだか、すごいんですね」


エリーゼ「すごくないよ。時間の感覚がズレていくだけ……。触れるだけで風化させる事も、巻き戻す事も出来る……。嫌な力」


レヴィ「…………エリーゼさん」


エリーゼ「でも、いいの。ライルとは、また会えるから……」


レヴィ「…………ぐすっ! マスター! なんでこんないい人殺そうとするんですかあっ!! ばか! ばか!!」


イルムガルド「どう考えても危険だったろ、俺らが見た時は……」


エリーゼ「…………聖騎士は全く」


レヴィ「まったく! イル様はまったく!!」


イルムガルド「え、えぇ~……」


エリーゼ「……そんなわけで、ばいばい」

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