#5 果て無き瞳
この世の中に平和を齎すのは一体何の力なのだろうか……?
そもそも平和とは何か。その定義はどこにあり、何を以ってして平和と断ずるのか。主義や主張はいつも色や形を変え、時代と共に人を翻弄する物。そうした漠然とした世界を前に、一定の平和などという言葉はまやかしでしかないのかも知れない。
聖クィリアダリア王国が世界を治め、ヨト教の布教が始まってまだ間もなく、世界が生まれ変わるには余りにも早すぎる。そしてまた、人が痛みを忘れるにも……。
憎しみや怒りを生む戦争は人の心に変えようのない大きな傷を残し、それらと人はどうにか向き合って生きていかねばならない。それは論ずるよりもずっと難しいことだ。教会なんて場所に勤めていれば、自然と目にするのは祈る人々の姿。しかし彼らの祈りは何処に通じ、そして誰の為のものなのかも判らない。
祈る事と戦う事はよく似ている。どうにかしたいと。ただ目前の状況から逃れたいと。ただ、行うのだ。人の行いに善悪があるのだろうか。それは誰にも判らない。結果として一人の人間がそれを悪だと指差す事も、指された本人にしてみれば正義かも知れない。
故にただあるのは痛みと悲しみだけ。この世界の多くを埋め尽くし、今も尚それらを広げんとする黒い闇。教会はそれらからわずかばかりの安息を得る事が出来る数少ない場所なのかもしれない。
「マドレーヌ司祭様。街の入り口に、魔女が現れたと……」
「そうですか。出来るだけ速やかに案内して差し上げてください。この、ホールズ教会に」
旅の魔女を迎え入れるのはこれで何度目だろうか。オルヴェンブルムから近い教会の一つであるこのホールズに巡礼の魔女がやってくる事は珍しい事ではない。だが、この場所を訪れ、儀式を受ける彼女たちの目にあるのは大抵決まって恐怖や憎しみ……。心の中に暗澹と立ち込める暗い感情。それも仕方の無い事、彼女たち全てが咎人なのだとは、私も考えてはいない。
しかしこの世界を覆う平和や秩序という言葉は時に残酷なほど異端を嫌い、排除し、そして見せしめにする。昔からずっと続いてきた人の歴史の中、いつの世にもそうした存在は表舞台の影に存在していた。
世界の悪意を一身に受け、世界を憎み、恨みながら死んでいく――。その死に様さえ誰にも看取られる事の無い人々。今はそれが魔女だと言うのならば、私に平和という言葉を語る資格はないのだろう。この世の中に平和を齎すのは一体何の力なのだろう。それはきっと形のない夢の様な力。故に誰かを常に犠牲にして、搾り出した血で描かれている。
「……ままならないものですね。いつの世も」
目を閉じて思い出す。魔女という存在が私の中で未だに放つ鈍く、淡い輝きを。戦争が終る少し前。私はそんな闇の中で生きる一人の魔女と出会った――。
#5 果て無き瞳
かつて、ザックブルム帝国が世界を支配しようと武力による統一を試みていた時代。その時代も私はこのホールズの教会に勤めていた。
その頃から比較的ヨト信仰が一般的だったこの町において、教会は様々な意味を持つ場所だった。例えばいざという時は避難所のような役割を果たすし、町長の相談を受けたり町の政を手伝う事も少なくはなかった。
都会と都会の真ん中にあり、しかしこれといって交易のルートにあるわけでもないホールズは、海沿いの小さな町だ。人口は年々減っていくし、心のすさんだ人間も居ない。ただゆったりとした時間が流れるだけの、世界から切り取られたようなこの街に置いて教会はただ祈りや儀式の場、というわけではなかったのである。
こんな田舎に配属されて大変だという街の人に、私は笑って首を横に振る。元々オルヴェンブルムの生まれである私ではあったが、あの町はあまり好きにはなれなかった。大聖堂の鐘が鳴り響くオルヴェンブルムの白い街並みは確かに美しかった。暮らす人々も純粋で、余計な欲を持たない慎ましやかな人々……。しかし、私はそれが何故か好きにはなれなかった。
ヨト教の教えもあまり私は好きではない。それだというのに司祭という立場に居るのは、単純に血筋のお陰である。だから私はこのままヨト教司祭という立場の子孫を残していくつもりにもなれず、特にこれといった恋もしないままホールズに足を踏み入れ、そのままその地に根を下ろし静かに朽ちて行く事を望んでいた。しかし戦火はホールズの付近にまで及び、オルヴェンブルムから近いこの町はしかし敵軍の攻撃からは遠く、ヨト教の町という事もありクィリアダリアの“聖戦”の対象にはならなかった。故に戦火を運んできたのは、ザックブルムの兵士だった。
その夜、森の木々はざわめき、荒波は危険を知らせようとしてるかのようだった。暗闇の中、戸を叩く小さな音を聞きつけ、私は読みかけの本を閉じて立ち上がる。それが、私の運命を大きく変えるきっかけになるとも知らずに……。
「どなたかしら?」
私の問い掛けに戸を叩く音は止まる。代わりに聞こえてきたのは若い女の声だった。
「夜分遅くにすみません。僅かな間で構わないので、ここで匿っては貰えないでしょうか?」
何となく騒がしい夜。窓の向こうを見ると、何だか嫌な空気が街に立ち込めているような気がした。
「……いいわ。今、扉を開けるわね」
素早い身のこなしで扉を潜り入ってきた女は黒いローブを身に纏っていた。その下から覗くのは金色の甲冑……。紛れも無くザックブルムの兵士の物だった。だが私が目を奪われていたのはそんな彼女の服装のことではなく、揺れるような淡い群青の髪だった。見れば剣一つ装備していないその姿は、紛れも無く魔女の物……。私は静かに溜息を漏らした。
「敵国の教会を堂々と正面から訪ねるなんて……。無茶なお嬢さんね」
「クィリアダリアの騎士に追われているのです。私の事を、彼らに突き出しますか?」
「そんな事はしないわ。この街にとって戦争は遠い物……。どちらに加担したところで戦争は戦争よ。それに教会を困って訪れた人を突き出しては、司祭の面目がないわ」
「……驚きました、司祭様でしたか。感謝致します。断っていたのなら、私も実力で貴方を黙らせねばなりませんでした」
随分と物騒な事を言いながら魔女は明るく笑っていた。その微笑には確かに人を魅了する魔性の力さえ感じられる。私は魔女を奥の部屋に案内し、椅子に座らせる事にした。春とは言え、その日は冷え込む夜だった。私は暖炉に火を点し、彼女はその炎の明かりをぼんやりと眺めている。
「貴方、魔女なのでしょう? 私をその力でどうにかしようとか、そういう風には考えないのかしら?」
「全ての魔女がそうした力を持っているわけではありません。それに、私は出来る限り人に力を使いたくはないものですから」
寂しげな笑顔を浮かべる魔女。私はその姿をじっと見つめる。“化け物”――。そう呼ばれて当然の存在だと幼き日から教わってきた魔女。しかし実物を見ても私はどうにもそうとは思えなかった。
少なくとも彼女は会話が出来るし、言葉が通じる以上分かり合う事も出来るだろう。だが今クィリアダリアは優勢。そして、魔女は皆殺しにしようとしている。
そもそも、それは魔女だけに限った事ではない。聖戦の名の下に行われる戦闘に置いて、騎士は皆敵に情けなどかけはしないだろう。どちらにせよ皆殺し――何も残る事は無い。それは彼女も例外ではないのだろう。この暗闇の中、騎士に追われこの場所に逃げ延びた……。逃げ延びた先が教会というのもまた少々おかしな話だが、これも何かの廻り合せだろう。
「司祭様。貴方の方こそ、私を匿ってよいのですか? 魔女の隠匿など、どの様な罰に処されるか」
「大丈夫よ。貴方には夜が明ける前に出て行ってもらうし、私は何も知らなかった事にするから。それよりお話をしましょう? こんな夜は、一人でいるには少しばかり寂しいわ」
「……同感です。では、何を話せば良いでしょうか?」
「そうね。魔女の……貴方の話を聞かせて頂戴。どんな事でもいいわ。今の貴方の正直な気持ちを伝えて頂戴。大丈夫、どうせ私たちは一晩だけの関わり……。他人なのだから、失うものは何もないわ」
彼女は苦笑を浮かべ、それからゆっくりと頷いた。それから語り始めたのはまず今の自分が居る部隊の事だった。魔女を編成する部隊には必ず護衛の騎士が数名着き、一つの小さな部隊を結成するらしい。
正面からの戦いになれば、並の兵士では魔女には傷一つつけられないと彼女は語る。そんな魔女も身体そのものは生身の人間とそう変わらない。故にその魔女の虚弱な身体を守る為に騎士が存在するのだという。
「私にも三人の騎士が居ました。一人は先日戦争で私の代わりに矢を受け死に、一人は私を逃がす為クィリアダリアの聖騎士と一騎打ちをして、もう二度と会うことはありませんでした」
「三人目はどうしたのかしら?」
「つい、先程……やはり私を逃がす為に。彼らは良い騎士でした。彼らより誇らしい騎士を私は知りません。少なくとも、私にとっては英雄でした」
魔女というのは、ザックブルムの中でも良い待遇を受けてはいなかった。人とは違う力を持つという事は、扱う側もそれによって被害を受ける側も恐ろしい事であり、忌むべき存在には変わりないのだろう。
故に彼女たち魔女が生き延びるためには敵を殺し、自らの存在価値を高めるしかなかった。失敗すれば、中には味方の騎士に殺される魔女も居た程らしい。彼女たちにとって、生きることは殺す事だったのだろう。
「それに私たちは、魔物の血を継ぐ者です。時には人を食らいたいなど、恐ろしい考えを持つことがあります。それは自我で制御出来る程度のものですが、戦場はその自我を壊してしまう。死にたくないが為に……或いは辛い今から目をそらし、人である事を忘れる為に……。敵や味方の肉に牙を突き立ててしまう者も少なくはありませんでした」
「貴方もそうだったのかしら」
「勿論例外ではありません。ただ私は他の魔女より少しばかり人殺しが上手く、そして他の魔女より護衛の騎士に恵まれていましたから。血肉を食らわねば衰える性質を持つ魔女は、自然と騎士の身体に依存します。血を分け与えて貰い……時にはそれ以上の感情を抱く事もあります」
そう呟く彼女はとても寂しそうだった。今はもうこの世に居ない彼女の騎士たちは、一体何を思って死んでいったのだろう。それを思うと私も少しばかり物悲しい衝動に襲われた。戦争なのだから仕方が無いと、その一言で片付けるつもりは勿論無い。しかし彼女たちを救う力は私にはないし、生きていける場所を用意してくれるほど世界は優しくはないのだ。
「死んでしまいたいと思う事も少なくはありません。ですが、せっかくこの世に生を受け、そして誰かに守られ生き延びたのならば……。何か、この世界に自分の生きた証を探したいのです」
「……生きた、証?」
彼女は小さく頷き、それから目を閉じる。深く椅子に体重を預け、その指先はテーブルの上を小さく叩いていた。
「何の為に生まれ、何の為に死ぬのか――。それは分かりませんが、生きていたという証を……。この先も自分の生きた意味を残す事が出来たら、それ以上の幸せはありません」
「それは、例えばどういうものなのかしら?」
「絵や歌、なんていいかもしれません。ずっと後世まで受け継がれ、誰かが好きになってくれるかもしれない。子供を生む、なんていうのもいいですね。その子が幸せになれるかどうかはわかりませんが、私の生きた証には違いないでしょう。それから或いは……」
彼女は目を開き、窓の向こうを見つめる。風でがたがたと揺れる立て付けの悪い窓。彼女はその向こうに何を見ていたのだろうか。
「誰かの心の中に……。そんな場所に生き続けられたのならば、それはきっと幸せでしょうね」
そう語った彼女の笑顔は本当に素敵だった。掛け値なしの生きている笑顔。その先何度か魔女という存在を垣間見る事になる私の記憶の中でも、その魔女の笑顔は飛び切り忘れられないものになった。彼女の目は未来を映していた。いつ殺されてもおかしくない、世界の悪意を一身に背負った存在で……。それでも尚、明日を信じていた。
ふと、教会の扉を乱暴に叩く音が聞こえてきた。それが彼女の追っ手であることは最早疑うまでも無く……。故に私は立ち上がり、彼女の肩を叩いていた。
「お名前を聞かせて貰っても良いかしら? 貴方の事を、忘れてしまわないように」
「……“ウェルシオン”」
「……そう。ウェルシオン。またいつか、会えたらいいわね」
彼女は曖昧に微笑み、私の言葉を濁した。それが彼女なりの思い遣りだったのだろう。魔女と会うなんてことは、百害あっても一利なし。私の事を思えばこそ、彼女は頷けない心境に陥る。素直にそれが嬉しくて私は笑ってしまった。それから彼女に立ち上がるように促し、部屋を後にする。
「裏口からお逃げなさい。貴方の旅路がどこかに続いている事を祈るわ」
「司祭様のお祈りならきっと私を導いてくれる事でしょう。それでは……」
魔女は夜の闇の中に溶けるようにして消えていってしまった。それはそれで魔女らしいか……なんてことを私は考えていた。勿論、知らず存ぜずを貫き通し、教会を訪れた兵士は追い返してしまった。それはそれでまた司祭らしくはないのだろうが、まあ致し方の無い事である。司祭である前に一人の人間である以上、できれば付き合っていて気持ちのいい人間に肩入れしないと思うのは特に不自然でもなんでもないと思うから。
その時私は、魔女という存在の未来に僅かな希望を見出していたのかも知れない。だが私の期待とは裏腹に世界は変わらなかった。むしろあの戦争の憎しみ全てを押し付けようとするかのごとく、世界は魔女を忌み嫌い殺し続けた。司祭という立場である以上私もそれに加担しなければならず、今はその憎しみが生んだ儚い唯一の恩情の旅に加担させられている。
教会を訪れる、騎士を連れた魔女の少女たち。十五歳にも満たない彼女たちは皆、私を憎んでいた。様々な少女がいた。私に疑問を投げかける者も居れば、恨み言を呟いた者も居る。それでも仕方の無い事を私はしてきた。
結局この旅に果てなどない。辿り着く許される場所など存在しないのだと誰もが本当は理解しているのだ。無論私も例外ではない。彼女たちが必死で旅をしたところで、待っているのは絶対に平和な世界などではない。ただ辛い旅を課せられ、そしてのたれ死んでいく。回りくどい、拷問のように。それでも中には本当に未来を信じて旅をする少女がいる。その日私の元を訪れたのも、そんな真っ直ぐな目をした一人の魔女だった。
「遥々ようこそ、ホールズへ。貴方も道中、大変だったようね」
ステンドグラスの光を浴びる場所に立つ少女の全身は泥だらけだった。その姿を見ただけで恐らく誰もが顔を顰めた事だろう。
神聖なる儀式を前に、不必要な人間は全て排除してあるこの空間の中、ただ彼女を笑う人間が居ないだけ。だから私にも、きっと彼女にも聞こえているだろう。人々の嘲笑の声と、彼女に向けられた確かな憎しみが。
共に旅をする聖騎士は若い男。一見気の抜けた表情で適当に立っているように見えるが、その状態には隙が無い。聖騎士は皆腕の立つ並外れた強さの戦士……。彼もまた全てを警戒し、彼女を守ろうとする強き騎士なのだろう。この教会の中でも、警戒を怠らないほどに。
私は資料に視線を落とした。あらかじめやってくる騎士や魔女の情報は司祭の手元に送られてくる。それに目を通す事が出来るのは儀式の直前のみであり、それが済んだら即座に処分しなければならない決まりだ。資料を眺めて私は何となく騎士の不思議な気配の正体に近づけたような気がした。平民出身の一平卒――魔女、魔獣を討伐した経験のある最前線の兵士。彼もまた、恐らくはあの聖戦の中の真実を垣間見た存在なのだろう。あの夜の私のように。
この場所を訪れる聖騎士も様々な者がいる。さっさと魔女が死に、オルヴェンブルムに帰りたいといった様子の騎士がいれば、本気で魔女を守ろうと考える騎士もいる。男も居れば女も居るし、その年齢や出で立ちも千差万別だ。だが彼らには一つの共通点がある。それは魔女という重い存在を背負い、考えているということだ。彼らの背負う重い役職よりも更に重い魔女という憎しみの象徴を、彼らはなんらかの感情で背負っている。
気負っている、というべきなのかもしれない。だがこの若い騎士にはそれがなかった。ただ、そこにいる。ただ、少女を見守っている。背負うわけでも担うわけでもなく、ただ守っている。それは戦争の真実を垣間見た者の余裕なのだろうか。なんにせよ、彼女は良い騎士に恵まれたというべきだろう。中には魔女を奴隷のようにこき使い、殺そうとする者までいるくらいだ。美しい外見をした少女が多いという理由もあり、魔女の敵は何も魔女を憎むものだけではない。騎士もその例外ではないのだから。
「……蒼き魔女、レヴィアンクロウ。貴方の贖罪の旅の記録を」
肩からかけた小さなポシェット。恐らく彼女が持つ財産の全てが詰め込まれたそこから取り出したのは彼女が記した分厚い羊皮紙だった。全てを保存する必要はないが、彼女たちには旅の記録をつける義務がある。その羊皮紙の束をしっかりと握り締め、少女は私の前に立つ。
私はそれを受け取り、素早く目を通していく。その間ずっと私を見つめる少女に、いくつか質問を繰り出す事にした。
「貴方はこの旅の先に、何を見ているのですか?」
少女は息を呑む。勿論、この質問も無意味ではない。魔女の現在の状況を確認し、このまま旅を続けても良いものかどうか、その判断を下すのも私の役目なのだ。故に司祭の問いかけには素直に、嘘偽り無く……しかし正しい答えを返さねばならない。少しだけ間を空け、少女はゆっくりと言葉を口にした。
「――――許し、です」
「人として生きていくための……ですか?」
「……はい。わたしは、生きていてはいけない存在ですから」
「それでも生きていたいと?」
「はい」
今度は即答だった。思わず顔を上げて少女の瞳を覗き込む。そこに渦巻くのは群青の光――。あの夜出会った魔女と、彼女はよく似ていた。鬱屈としたものが多い魔女の瞳……しかしまれに彼女のように美しく澄んだ瞳を持つ者がいる。未来を信じ、歩み続ける固い決意のようなもの……。そんな、幼い少女には似合わない決意を感じるのだ。
「魔女は許されざる存在であると同時に憎しみの象徴です。戦争の傷跡を残す人々も、平和を維持しようとする人々も皆、貴方を憎むでしょう。その傷も、きっとこの街に着いてからつけられたものでしょう?」
見ると少女は全身傷だらけだった。この町では当たり前のように魔女の迫害が行われている。ヨト教の町なのだから当然なのだが。特に魔女が公然と旅で訪れるようになってから、住人の魔女嫌いは加速した。彼らは皆魔女に近づく事を恐れ、自分たちのテリトリーに彼女たちが立ち入るのを嫌った。
だからよく物を投げる。この街に来た魔女全てが恐らくその洗礼を受けている事だろう。彼女も例外ではない。それでも彼女は真っ直ぐに私を見ていた。
「……旅は楽しいかしら?」
「……辛い事もあります。けど……それでも楽しいこと、嬉しいことはあります」
「そう……。では最後に、貴方にとって旅とはなんなのかしら?」
「……わかりません。でも、その答えを……いつか見つけたいと思っています」
彼女のそれは恐らく本音だったのだろう。迷いを抱き、しかし絶望はしていない。答えは見えず、しかし足を止めるつもりはないのだと――。
随分と滅茶苦茶な、闇雲な旅路だ。しかしそこに彼女は希望を抱いている。いつかの未来を、この絶望的な世界の中でも模索しようとしている。
「良いでしょう。レヴィアンクロウ、貴方に第四の秘蹟を授けます。さあ、こちらへ」
少女は頷き、祭壇の前に立つ。そうして自ら衣服を脱ぎ、肩を露出させるとそこには幾つかの焼印が姿を現した。教会をきちんと巡ったという印――。旅を継続する為の切符。それにしてはまるで、罪人に与えられるかの如き傷跡。
これをやる時が一番心が痛む。しかしやらなければ彼女の旅はここで終わり。私は役職に徹して焼印を彼女の腕に刻み込む。レヴィアンクロウは悲鳴を上げなかった。歯を食いしばり、必死で堪えていた。僅かな痛みの時間が終わり、彼女の旅は継続を了承された。
「儀式は終了です。よく頑張りましたね……。ごめんなさいね」
あらかじめ用意しておいた包帯を腕に巻き、そっと衣服を整える。するとレヴィアンクロウは目を丸くして私を見つめていた。
「私にだって人の心はあるわ。貴方のような少女が傷を背負って旅をするのなんて、本当は嫌なのよ。誰も居ないところでしか本音は話せないけど、でもそれが私の素直な思いだわ」
「……司祭様」
少女の前に膝を着き、その小さな身体をそっと抱きしめる。いつ壊れてしまってもおかしくない傷だらけで泥だらけの身体を、私はあと何度見送る事になるのだろうか。しかしそれも私に与えられた役目であり、そして良い機会なのだと思う。せめて私くらいは、彼女たちの存在を覚えておいてあげなければならない。
あの日、暗闇の中に消えた魔女……。彼女のように、彼女たちもまた、生きた意味と証をどこかに求めているのだろうから。
「聖騎士イルムガルド。貴方はこれからも彼女と共に旅を続けるのですね」
「それが任務ですから。それ以上でも、以下でもなく」
「そうかしら? 私には貴方が、この子を本当に大切にしているように思えてならないのだけれど」
「お言葉ですが、そういった言葉は侮辱に値します。発言には気をつけたほうが宜しいかと……。私以外には、ね」
「そうね。そうでしょうね。ええ、気をつけるわ。ありがとう、イルムガルド」
騎士は肩を竦めて笑う。私はもう一度少女の頭を撫で、出来る限り優しく微笑んで見せた。
「今夜はここに泊まって行きなさい。そして貴方の話を聞かせてくれたら嬉しいわ。どんな事でもいい、今の貴方の素直な気持ちを教えて頂戴」
「……はい。ありがとうございます、司祭様……」
柔らかく、穏やかに微笑む泥だらけの少女。嬉しそうに私に飛びつく少女の姿を、騎士は腕を組んだまま黙って眺めていた。彼女は物静かな……しかしとても明るい、無邪気な少女だった。一生懸命に旅の話を聞かせてくれる彼女の言葉を私は丁寧に聞き、丁寧に感じ、丁寧に返事をした。
騎士はさっさと寝入ってしまっていたが、あれは私を信頼してくれたという事なのだろうか。それとも、魔女がその気になれば人間なんてどうにでも出来るからなのか。いや、きっと魔女は誰もが人間をどうにかしようと考えているわけではないのだ。そう、彼女がそうであったように。
「……生きなさい、レヴィアンクロウ。貴方の旅の果てに、貴方の望む幸せがあることを祈るわ」
「……司祭様は、魔女が恐ろしくはないのですか?」
「ええ、怖いわ。でもね、魔女全てが恐ろしいものではないって事を私はもう知っているのよ。きっと貴方の騎士もそうなのでしょうね」
「イルムガルド様は、とてもお優しい方です! エトリアの森に居た私を救い出してくれたのも彼でした。旅の途中でも、何度も私を助けてくださいました。イルムガルド様は、私にとって天使様なんです」
嬉しそうに語る少女に私は微笑を返した。しかしその騎士もまた、多くの命を奪い彼女の仲間である魔女さえもその刃で斬り捨ててきた男――。しかしそんなものは関係ないのだろう。そして彼女の幸せそうな笑顔を見ていると、私はまたどこか希望のようなものを抱きたくなる。
少女に好かれ、少女を守る騎士。生きる事を諦めず、未来を信じる少女。二人の旅路はもしかしたら、魔女と人間にとって大きなものを残す結果になるかもしれない。今までにも何組かそうした二人を私は見てきた。彼らの旅の中で、この世界がゆっくりと変わっていったらどれだけいいだろう。そんな夢のような想いを抱かずにはいられない。
「貴方は人間が恐ろしい?」
「……はい。でも、全ての人が恐ろしいわけではありません。私の事を友達と言ってくれた人も、妹だと言ってくれた人も居ました。だから私は旅を続けられます。たとえそれがどんなに恐ろしくても」
「そう。それはとても素敵な事ね。今の気持ちをずっと、忘れないでね」
少女は微笑んで頷いてくれた。夜はあっという間に明け、彼女たちも直ぐに旅立つ事になった。人通りの少ない明け方ならば、彼女たちも新たな傷をこさえず町を抜けられる事であろう。
朝日に照らされながらレヴィアンクロウは振り返った。肩口から覗く白い包帯……。しかし彼女は笑顔で私に小さく手を振った。
「ありがとうございました、司祭様。また……また、いつか」
「ええ。またいつか……そうね。会えたらとってもうれしいわね」
彼女は素直に頷いて、素直に走り去っていった。そこは大人と子供の違い、というものなのだろうか。朝日を背に騎士が振り返る。それから困ったような表情で首をかしげ、口を開いた。
「貴方の所為で、レヴィはまた旅を続ける元気を取り戻してしまいました。私の苦労ももう少し続きそうです」
「そうね。余計な事をしてしまったかしら?」
「余計な事、かもしれませんね。ですがたまにはそういうものも……」
「ええ――。悪くはないわ」
剣の柄に手を当てたまま騎士は頷く。それから風を受け、マントを靡かせながら背を向けた。
「達者でね。隻眼の聖騎士」
彼は振り返らなかった。そして遠く、丘の上で待つ少女の下へとゆっくりと歩いていく。その姿が遠く丘を越え、山に吸い込まれていくのを見送り私は静かに溜息をついた。
あと何人、こうして魔女を見送る事になるのかわからない。しかしそれらはいつか、彼女たちの望む旅の終わりへと続く大切な一ページなのかもしれない。私という存在がその思い出の中の一つになり、そして私が彼女たちを覚えている限り、少なくとも未来へと継がれる何かがそこにはあるのだろうと思う。
与えられるものは何も無く。得られる物は微かでしかない。それでも私はそれしか出来ないのだから、司祭として。今出来る事をやるだけだ。
「願わくば、貴方たちの旅が未来を作るものでありますように」
祈りではなかった。では、願いだろうか。不思議と悪い気分はしない。私もまた朝日に背を向け、教会に向かって歩き始めた。
しかしふと思い当たる事があり、足を止める。群青の魔女、レヴィアンクロウ――。そういえば四日ほど前、その名前を他の魔女から聞いた覚えがある。確か紅い髪の魔女だった。歳はレヴィアンクロウと大差はないだろう。明るく活発な、元気のいい魔女だった。
「嫌だわ、すっかり忘れていた。もし蒼い魔女が来たらって言伝を承っていたのに……」
歳には勝てない。が、その伝言は恐らく必要ないだろう。紅き魔女も蒼き魔女も、行く先は同じ。次の旅の目的地は……恐らく商業都市ゲリア。
山を越えた向こうで群青の少女が友に会える事を祈りつつ、私は教会の扉を潜る。次に訪れるであろう魔女はどんな少女か……。そんな事に、想いを馳せながら――。
~そし魔女劇場 教えてレヴィ子さん~
レヴィ「あの、司祭様」
マドレーヌ「あら? 何かしら?」
レヴィ「魔女の秘蹟って、いくつあるんでしょう?」
マドレーヌ「そうね……。片田舎のホールズ教会にあるくらいだから、一体いくつくらいあるのか検討もつかないわねぇ……」
イルムガルド「何百もあったりしてな」
レヴィ「ひっ!?」
マドレーヌ「あら……大変ねぇ。もし本当にそうだったら、レヴィの全身は紋章だらけになってしまうわ」
レヴィ「そ、そっちの心配なんですか……?」
イルムガルド「秘蹟は焼印だからな。いちいち痛みに耐えなきゃならんというのが酷なもんだ」
マドレーヌ「中には泣いてしまう魔女や、悲鳴を上げる魔女もいるのよ。いいえ、それが普通……。貴方はとっても我慢強いのね」
レヴィ「はい、ありがとうございます!」
イルムガルド「(……前日俺の血を飲んで力が上がってただけのような気もするが……黙っておくか)」