#19 魔女狩り
――それでも俺達は、旅を最後まで続けると決めた。
最後の聖地、ヒースエンド。そこは嘗てヨト神が舞い降りたとされる神降ろしの聖地。
ザックブルムの北にあるそこがクィリアダリアから忘れ去られて久しく、そこはザックブルムの住人も近づかない辺境の中の辺境と化していた。
「……寒くないか?」
我ながらバカな質問をした。寒くないわけがない。随分と厚着をしてきたが、それでもレヴィの小さな体でこの雪道を進むのは辛い筈だった。
俺たちの旅はとうに終わりを告げた。ナッシュを殺してもう三日になる。どう考えても追手が放たれている頃だ。いつ俺たちの旅を終わらせようと聖騎士団が襲ってくるかわからない。
この大陸の中で、大聖堂に目をつけられた人間が生きていける場所は限られている。それでも目をくらませようとすれば出来ない事ではなかったはずだ。ただ生きる、命を永らえる事を目的とすれば、俺たちはきっと旅をやめていた筈だ。
だがレヴィは旅を続けることを望んだ。最後まで自分の足で。最後の最後まで、光を信じ続けると言った。俺は……もう、どうしたらいいのかわからなかった。
俺は情けない男だ。何一つこの小さな少女にしてやれない男だ。どうする事が正しいのかなんてまるでわからない。もう何も信じられない。ただ生きているだけの男だ。
それでもレヴィは俺の手を握りしめてくれた。最後まで共にありたいと言ってくれた。その切なげな声に応えたかった。全ての希望が存在しないのだと知った俺の前に現れた希望、その光をどうにかして守りたかったのだ――。
「わたしはもう、人間にはなれないのですね」
急な旅支度で飛び出した夜の雪原。岩山を風よけに作った簡素な寝床で焚火に当たりながらレヴィは優しく微笑んだ。少しだけ残念そうに、けれどすべてを受け入れるように。
「……すまない。おそらくヒースエンドに行ったところでどうにもならないだろう。だからレヴィ、お前は……お前は、一人で逃げろ。追っ手は俺がなんとか食い止める」
「どうして……そんな事を言うのですか?」
「俺は親友を殺した。この世界でたった四人だけ分かり合える奴をこの手で殺してしまった。それしか道はなかったと分かっていても……それでもこの罪は許されない。俺はもう、ただの人殺しの俺はもう……誰かと共に、歩む資格なんて――」
「マスターがどんな人かなんて関係ありません。わたしはマスターと一緒がいいんです。マスターが一緒でなければ……これまでの旅は、一体なんだったというのですか?」
この旅に……どんな意味があった?
俺は迷ったまま、ひたすらに迷い続け……。レヴィは希望を信じ、それを打ち砕かれ……。
ただもう最初からどうにもならなかった結末を追いかける為だけに、何度も死にそうな目に遭って。ただどうにもならない事を確認する為だけに、こんな世界の果てにまで足を運んで。
どうにもならなかった現実を前に打ちのめされている俺は。目の前の少女に気の利いた言葉の一つもかけてやれないこの俺は。一体何のために旅をしてきたのだろうか。
「これまでの旅を、無意味なものにしたくないんです。だから最後まで……二人で。もうどうにもならない事を確かめる為に……諦める為に。二人で……一緒に進みませんか?」
目を瞑り、歯軋りする。己の不甲斐なさが腹の奥底で暴れまわっていた。焦がれるような罪悪感に刃を抜き、俺はレヴィの前に立ちそれを振り下ろした。
レヴィの両手をつないでいた拘束具を破壊した。これで少しは旅を続けやすくなるだろう。
戒めを解いた瞬間、己の意志で彼女を解き放つと決めた瞬間、俺は世界へ明確な反逆を遂げた。これで俺はもう己の意志で大聖堂に逆らう異端者というわけだ。
「最後まで……行くんだな。諦める為に……終わらせる為に」
「……はい。だからどうか……一緒に……」
「……一緒に行くよ。終わらせる為に。お前との約束を……果たす為に」
この子を守ると誓った。これまでに守れなかったすべての物の代わりに。
しがらみも、運命も、後悔も……もう何もいらない。俺はただ一人の騎士に戻る。
魔女を守る騎士に憧れた。ただ一人だけ守るべき、愛する人の為に戦うあいつらに憧れた。
ただ奪うだけだった俺は。何かを救うと、守ると言いながらただ奪い続けたこの俺は。いよいよもって何もかもをなくした今にこそ、初めてその本懐を遂げる事が出来る。
「さあ、行こう。これが俺たちの、最後の旅だ」
ヒースエンドの街には既に聖騎士隊が先回りしていた。故に街には入らず、街を大きく迂回するようにヒースエンド大聖堂を目指す事にする。だが大聖堂へ続く道にはどこも騎士達が巡回をしており、うかつに近づく事も出来ない状況だった。
一晩、森の中で時を過ごした。それでも警戒は緩まなかった。また一晩隠れて過ごすが、いつまでも騎士達はしつこく封鎖を続けている。
レヴィは魔女だ。生半可なその辺のガキとは違うが、それでも体力に限界はある。俺も大聖堂に反旗を翻した以上、“聖水”の補給は受けられない。この身体がいつまで正常に動くかは怪しいところだ。
「……まだあと何日かは持つだろうが……」
レヴィの体力にも限界がある。おそらく連中は俺達を見つけるまで永遠にあそこにいるつもりだろう。となれば、多少危険だとしても……別ルートを使うしかない。
本来のルートを大きく迂回し、険しい山道を進む方針に切り替えた。辛い旅になると言ってもレヴィはただ笑顔でうなずくだけだった。俺は彼女の棺を一緒に牽き、最北の山を目指した。
本来は人が立ち入れるような場所ではない。深い雪で覆われた道を俺はレヴィの前を強引に突き進み道を作る。この聖騎士の身体なら何とか進めない事もない。逆にいえばこんなバカみたいなルート、強行突破できる兵士はいないだろう。
雪山の途中、穴を掘ってそこで一晩を過ごした。食料も水もろくに準備が出来なかったので限界が近かった。その辺の雪を溶かし、温めたお湯を器に注ぐ。レヴィはしもやけで真っ赤になった素足を晒し、身震いしながらお湯で足を温めていた。
「少しは疲れが取れそうか?」
にっこりとほほ笑んで頷くレヴィ。だがそれは空元気だ。防寒具を纏っていても、この極寒の世界は寒すぎる。こんな薄着で活動できるのは聖騎士か魔獣くらいのものだろう。
「……レヴィ、俺の血を飲んでから寝るんだ。お前の身体なら、血を摂取するだけで随分回復するだろうからな。いざとなったら魔法を使ってもいい」
レヴィは生命を癒す魔法も使える。こいつはその気になれば完全に壊死した細胞さえも完全に回復させ、死人さえも起き上がらせるだけの力を持っている。これまではそれを制限してきたが、今となってはこだわるだけ無駄だ。無駄なのが……。
「わたし、魔法は出来るだけ使わないと決めているんです。それが約束ですから」
「今更そんな事気にしてどうする」
「そうですね。枷も外してしまったし……。それでも、これはわたしの意地みたいなものなんです。旅は。旅そのものは……魔法の力なしで。自分の力だけで、成し遂げたいんです」
聖剣を僅かに鞘から引き抜き、刃で指先を切る。ほっとけばすぐに塞がってしまうその傷をレヴィに差し出すと、彼女は両手で俺の手を握り、目を瞑り指先を口に含んだ。
温かい舌が傷口を舐めると痛痒さに背筋がぞくりとする。レヴィは本当に大切そうに、慈しむように俺の血を飲む。傷から流れるその血を止める事が、俺を癒す事がまるで目的であるかのように。決して欲望に支配されず、歯を立てる事もない。
「マスターの血……温かいです」
「そりゃそうだろうな。体温と一緒だ」
「そうですね。マスターの体温……こうしていると、すごく近くに感じられます」
あんまり無邪気に言うものだから、照れくさいセリフを責める気すら起きない。上着を脱いで片手で招くと、レヴィはまるで猫か何かの様に近づいてくる。俺は上着の前を開いてレヴィを膝の上に乗せ、少女を包むように上着を多い被せた。その上から毛布を被り、焚火をじっと見つめる。
「山越えにはまだ二日はかかる筈だ。ちょうどヒースエンド大聖堂の真横辺りに出る」
「あと二日……それで……全てが終わってしまうのですね」
背中を向けたまま、レヴィはうつむいて呟く。
「こうしてあなたの傍に居られるのも……あと二日……なのですね」
俺は何も応えなかった。あと二日……それがとてつもなく短い時間の様に思える。
俺たちはもう、何年もこうして一緒に旅を続けてきた。その一日一日が波乱万丈で、とても密度の濃い時間だった。いつ終わるかもしれない途方もない旅だった。途中で力尽きても何もおかしい事なんてなかった。
だが旅は終わりを迎えようとしていた。あと二日。たったのあと二日。それだけの時間でこれまでの旅が終わる。そうなった時俺達は……旅をすることでしか繋がれなかった俺達は、どのような明日を迎えられると言うのだろう。
「旅が……終わったら……」
無意識にそんな話を始めていた。旅が終わる。それが希望の終わりだというのに。懲りずにまた俺達は、明日の話を始めようとしていた。
「大聖堂の目の届かない場所に……行くか。この大陸の外にも世界はある。そこに船で渡ろう。小さい船でも、お前の魔法があればきっと簡単に渡れるだろう」
「異国……ですか。素敵ですね。まだ見た事のない世界……」
「この大陸の不思議なもんは、たいてい見ちまったからな。だが、外の世界にはきっともっと不思議な事があるさ。そこにはもしかしたら、魔女が生きていける世界があるかもしれない」
「……そんな世界……あったら、本当に素敵ですね」
「あるさ。きっとある。だから、その世界を探しに行こう。また一緒に旅をしよう。それで……それでいつか、お前が幸せに生きていける場所を……お前の、居場所を……」
何故だろうか。気づけば両目から涙が溢れていた。
わかっている。わかっているんだ。そんな世界、どこにもないって事。
夢も希望も理想も、掲げた先から砕かれて……願えば願うだけ傷ついて……それしかない。この世界にはただ悲しみだけがある。そんな事はとっくにわかっていたのに。
口にすることをずっと恐れていた光。ずっとずっと耐え忍んできた希望。それを口にしてしまった瞬間、悲しとは思わずとも。苦しいとは思わずとも。ただこの少女が哀れで……ままならないこの世界が憎く……涙が溢れて止まらなかった。
「マスター……泣かないでください。どうしてマスターが泣くんですか」
「ああ……すまん」
「でもわたし、そんなマスターが……本当に大好きでした。大好きで、大好きで……。ただあなたと一緒に居られるだけで……一緒に旅が出来るだけで、本当に幸せでした」
「変わってるな……俺なんかを……」
「知ってるんですよ。本当はマスターが凄く優しくて……凄く、たくさん傷ついて……。苦しみを抱えて……それでも一生懸命に生きようと足掻いていた事。誰よりも、わたしが知っている誰よりも……わたし自身よりも。マスターは、生きる事に必死だったから」
俺も……本当は知っていたよ。君が誰よりも心優しく、誰よりもこの世界を愛していた事。
君はこれまで出会ったどんな悲劇に対しても真正面から正直にぶつかっていった。決して卑屈にならず、諦めず、ただ流れに身を任せるだけで楽になれるのに、それを良しとしなかった。
石を投げられ化け物と蔑まれても、理不尽な試練を次々に押し付けられても。それでも君は絶対にあきらめなかった。最後の最後まで、こんな地の果てに来てまでそれでもまだ君の心は純粋で……美しい宝石の原石がより磨かれるように。君は本当に、美しく成長した。
「ねえ、マスター? マスターって呼べるのも、あと二日なんですね」
毛布の中をもぞもぞ動いて振り返り、レヴィは俺の涙を拭う。
「旅が終わったら、わたしは本当のわたしに。マスターは……聖騎士イルムガルドではなく、本当にマスターに戻れるんですよね? そしたらわたし、マスターと……あなたと、本当の意味で一緒に旅がしたいです。約束でも決まりでも、罪でも罰でもない。自由な旅が」
「そうだな。そうだな……。一緒に旅をしよう。本当の俺と、本当のお前で」
「約束ですよ?」
取り出した小さな手に俺の手を重ねる。レヴィは俺の胸に頬を寄せ、安心したように息を吐き、ゆっくりと目を閉じた。
「あと二日……それしかマスターって呼べないなんて。嬉しいけど、ちょっと寂しいです」
「贅沢なやつだな」
「そうですよね。こんなに心地よい場所に居られる……こんな贅沢な事……他にありません」
――二日が経過しようとしていた。
俺たちは休み休み、何とか大聖堂にたどり着こうとしていた。あと峠を一つ越えればそこに旅の終わりがある。そこまで来て、ままならない運命をもう一度突きつけられることとなった。
あともう少しという所で追手に追いつかれたのだ。そいつは俺たちが進んできた雪道の後に気づき、追い立てるように真っ直ぐに走ってきた。不眠不休で明確な意思を以て俺達を引き留めに来たのは、ナッシュという主を失ったペルスダートだった。
俺はペルスダートを殺さなかった。それがナッシュの最後の願いだったからだ。どちらにせよペルは大聖堂に始末されるだろう、そう思っていたのもある。だが今ペルは明らかな敵意を持って俺達に襲い掛かろうとしていた。
「みつ……けた……みつ……け……た……!」
血走った眼。口は笑みを作り、しかし端から涎を垂らしている。獣のように息を荒らげ肩を上下させるペルの頭には、棺に封じ込めた筈の二本の角があった。
大聖堂がペルを解き放ったのか、それともペルが自分の意志でそれを取り戻し、俺達を追跡してきたのかはわからない。だが知性を持たないと思われていたペルスダートは、その通りに獣のように……しかし確かな悲しみと怒りを込め、慟哭した。
「ペルスダート……まさか、俺を追って……? 俺がナッシュを殺した事を理解しているのか?」
「ペルちゃん、やめて! マスターは……マスターは確かにあなたの大切な人を殺したかもしれない! でもそれは、聖騎士同士の決めた事は……わたしたち魔女が口出しできる事じゃない!」
「下がってろレヴィ。こいつに何か言ったところで無駄だ」
ペルは雄叫びを上げる。それと同時に少女の身体が変質していく。肌がざらざらと変化し、やがてそれは岩に変わる。体の内側から皮膚を突き破るようにして岩が爆ぜ、やがてそれは新たな存在へと変貌を遂げた。
石の魔女と呼ばれた少女は、今や石の魔獣と成り果てた。鋭い爪と牙を持つ巨大な猫のようなその怪物は、猛然と真正面に飛び込んでくる。
ここは断崖絶壁の迂回路。まともに戦えるだけの広さはない。一歩足を踏み外せば断崖絶壁を真っ逆さま。俺は剣を抜き、これが最後となるであろう、魔獣との戦いに挑んだ。
もう何もかもをかなぐり捨てて良い。ただレヴィと旅を終える、その為ならばその他の事はもう気にしなかった。久々に、数年ぶりに俺はあの戦争の頃の感覚を呼び覚ました。勝つために、生き残る為だけに敵を殺す。敵を殺す……その為に全神経を傾ける。
次々に繰り出される爪や牙を聖剣で打ち払う。生半可な名刀ならとっくにへし折れているだろうが、この剣は聖遺物。遥か古代に誰がどうやってか作り出した絶対に折れない剣だ。どれだけ激しい攻撃をはじいたところで、決して砕ける事はない。
「マスター、わたしも魔法で戦います!」
「それを止める権利は俺にはない。だがレヴィ、戦いのために使う魔法と、生きるために使う魔法は意味が違う。暖を取る為に燃やす炎と、命を奪う為に燃やす炎はまるで別物だ。お前はこれまでの旅で、決して誰かを傷つける為には魔法を使わなかった。それを旅を完遂する目前で破ってもいいのか?」
「そ……れは……」
ペルが吼えると同時に大地が隆起する。俺はとっさにレヴィを片腕で担いで跳躍した。逃げる俺を追尾するように次々に岩が飛び出してくる。そのうち一つに背中から追突され、落下しそうになるのをとっさに大地に剣を差して踏み止まった。
「もうどんなに努力したところでお前は人間にはなれない……! だからこそ俺はもうお前の魔法を禁じない。レヴィ、お前が自分で選べ。それでも魔法を使わずに生きるのか……それとも、魔女としての自分を受け入れて生きるのか……!」
ペルの爪が脇腹を引き裂く。血を流しながら俺は背後に跳んだ。雪に思い切り減り込むとレヴィをそこに残し、刃を手に真っ直ぐにペルへと向かう。
「せめてお前が人間らしく生きられるように……俺が戦う。お前を守る……! 優しいお前が誰かを傷つける為に、その呪われた力を使わずに済むように……俺が!」
爪を掻い潜り懐へ飛び込んだ。透かさずペルの胸に剣を突き立てる。悲鳴を上げるペル、だがその頑丈さは圧倒的だ。これでは致命傷にはならない。石の魔法は破壊力もそうだが、防御力に優れた魔法だ。石そのものとなったペルを破壊する事は、ただの剣では不可能だ。
「レヴィ、大聖堂へ行け! お前一人でも旅を終わらせるんだ!」
「そんな……マスター、そんなのって……」
「こいつは俺が何とかする! お前を守ったまま戦うのは俺にも不可能だ! だから……先に行っていてくれ! そこで待っててくれ。必ず……必ず追いつく!」
「約束……ですよ。必ず……絶対に……約束ですからね、マスター!」
レヴィは泣き出しそうな顔で雪をかき分け進みだした。これでいい。こんな狭いところでレヴィを守って戦うのは不可能だ。俺だって約束を守りたい。こんなところで死ぬつもりはない。
このデカブツを葬り去るのが不可能なら、何とかしてここから突き落とせばいい。この断崖絶壁から落ちれば、殺すのは無理だったとしてもしばらく身動きを封じられる筈。
攻撃をやり過ごし、壁を蹴って跳躍。ペルの頭の上に飛び乗ると、右目めがけて剣を振り下ろした。やはり目の防御力は低い。悶えるペルの角を掴み、全力を振り絞る。
体中に怪物の血が流れ脈打つのを感じる。ありったけの力で角に剣を叩き付けへし折った。角は、この部位はペルの魔力の源だ。片方でも粉砕すれば一時的にその力を削ぐ事が出来るだろう。後はもう片方をぶち負って、怯んだところを崖から叩き落とすだけ――。
「……何!?」
次の瞬間、ペルは自ら崖へと飛び降りていた。俺を頭の上に乗せたまま。とっさに跳躍し戻ろうと腕を伸ばすが、落下しながら俺の足を掴んだペルがそれを許さなかった。
一度斜面に激突し跳ねるペル。その激しい衝撃の中、俺はペルの腕に剣を突き刺す。ぐるりと回転しどこまでもどこまでも落ちていく。その最中何度もペルの手に剣を突き立て、強引に拘束から離れる事に成功する。
もう一度傾斜に激突し空を舞う。信じられない程の衝撃だ。俺もぶつかり体が軋んだが、壁を蹴って距離を縮めた。もう片方の目に剣を突き刺し身体を固定すると、そのまま顎に両足のつま先をひっかけ、強引に剣を頭の奥底へと突き進めていく。
怪物が悲鳴を上げ俺の身体を叩く。それだけで口から血がこみあげた。だがまだだ。落ちるならそれはそれでいい。このままこいつが――もうレヴィの所に戻れないようにする。
大地へ激突するのはあっという間の事の筈だったのに、俺には途方もなく長いように感じられた。何度も殴られながら、爪を立てられながらも俺は刃を深く押し込んでいく。流れ飛び散る血は最早俺の物なのかこの魔獣のものなのかもわからない。ただ俺は一心不乱に、レヴィが無事に逃げ延びてくれる事、それだけを祈り続けていた――。
「――私を殺すのは、やはり貴方でしたか」
ウェルシオンを追いかけて、戦争の終わりを過ごした。
あいつの護衛だった騎士を次々に殺して回った。あいつらはみんなウェルシオンを逃がす為に俺の前に立ちはだかり、勝てるはずのない戦いに挑み、死んでいった。
俺はあいつらがうらやましかった。本当はうらやましかったんだ。自分の大切な物の為に命を賭けられるあいつらが……。ウェルシオンと共にあり、最後までの忠義を守り抜いたあいつらが。
そうだ。俺はウェルシオンを愛していた。理由はわからない。一目ぼれだったのかもしれない。
あいつはどんな戦場でも高潔で、いつでも容赦なかった。まるで戦場に咲く一輪の花のようで、しかし同時に修羅の慟哭でもあった。あいつに沢山の仲間を殺された。俺もあいつの仲間をいっぱい殺した。
俺たちは強かったから、結局いつも決着を着けられず痛み分けを繰り返した。そうやって俺達が、聖騎士が四人だけになって。あいつは一人ぼっちになった。
大聖堂は、聖騎士団は山ほどいた魔獣や魔女、ザックブルムの大軍よりもあのただ一人の魔女を恐れた。聖騎士四人をあの魔女一人の追撃の為に放ち、俺たちは来る日も来る日もあの魔女を殺す事だけを考えて過ごした。何度も刃を交えた。ナッシュも、レムリスも、アイネも……あいつには勝てなかった。ボロボロになって、傷だらけになって、血まみれになって、それで諦めればいいのに、俺は意地になってあいつを追い続けた。
あいつが最後の場所に選んだのは、クィリアダリア領にほど近い海沿いの街だった。その近くにある美咲には、紫色のきれいな花が沢山咲いていた。名前は知らない。ウェルシオンも知らないようだった。ただ彼女は俺を待ち受けて、そこで剣を抜いて言ったんだ。
「ずっと、貴方と戦ってきたから。貴方の事を、随分と理解してしまいました」
「お前には随分と仲間を殺された」
「私の騎士を、貴方は皆殺しにした」
「何人か殺し損ねたさ。あと二人くらいいたろ?」
「私も三人ほど殺し損ねました。どこへ行きましたか?」
「病院で寝てるよ」
「私の部下は逃がしました。これで私達は二人きりです」
にっこりと、まるで少女のように微笑んで。それからあいつは剣を構える。
「さあ、終わらせましょうか。私たちの戦いを。これまでの旅路を」
俺は知っていた。こいつはその気になれば世界を終わらせられるくらいの女だと。
だから俺は知っていた。こいつはいつも、俺と戦う時に加減をしていたのだと。
魔法を使わず、俺と同等の力量に抑え、あいつは剣での勝負を挑んできた。満身創痍の身体を引きずり、しかし痛みも苦しみもなかった。あいつとの殺し合いはまるで麻薬のようだ。ただ刃を交わしているだけで、とても濃厚な会話をした気分だった。血を流し合い、相手に触れようとすれば傷つけるだけの関係なのに、何故か……何故かひどく安心した。
俺を殺してくれる人。俺を終わらせてくれる人。もしそんな人がいるとしたら、やはり彼女を置いて他になかった。俺も彼女も、誰かに終わらせてもらう事を夢見ていたから。多分きっと、俺が彼女を愛していたように。彼女もやっぱり、俺の事を愛していたのだろう。
攻防は何時間にも続いた。どちらかの体力が尽きそうになると、どちらともなく刃を降ろし僅かな休憩をはさんだ。言葉は少なかった。だがとても濃密な時間だった。どこまでも深く、相手との別れを惜しむように、俺たちは何度も何度も愛を確かめ合った。
やがてあいつの剣が俺の顔を狙った時。ちょっとやそっと剣を刺したくらいじゃ死なない聖騎士の急所の一つである眼球を狙い、脳を貫こうと言う一撃をとっさにかわした時。瞳を切り裂かれる痛みと熱さを感じながら、“もうそろそろ終わりにしよう”とあいつが言った気がして、反射的にあいつの心臓を剣で貫いていた。一秒、二秒もかからない。それこそ瞬く間の出来事だった。
終わった。ただそれだけの事で、永遠に続くと思えた時間が終わってしまった。倒れるウェルシオンから刃を引き抜き、崩れ落ちる彼女の身体を抱き留めた。
「これでやっと、眠れます」
「……どうして」
「……どうして? 貴方こそ、どうして? どうして……泣いているのですか?」
わかっていた。嫌だったんだ。こんな風にしか終わらせられない自分が。
でもしょうがなかったんだ。大聖堂は絶対こいつを放置しない。もしも生きたままなら、また俺達のように生きたまま実験台となり、大聖堂に死ぬまで侵され続けるだろう。それだけは俺にはどうにも我慢ならなかった。俺の中で神にも等しかったこのひとを、自分以外の誰かに蹂躙されたくなかったから。
自分で選んだことだ。それでも涙が止まらなかった。俺は、これで俺は……一人ぼっちになった。
「ウェルシオン……嫌だ。どうして俺を……俺を、一人にしないでくれ……」
殺せたはずだ、お前なら。いや、お前に殺される事を願っていたのに。それをお前も気づいていたはずなのに。どうしてあんなわかりやすく隙を見せて、殺してくれなんて言うんだ。
「かわいそうな貴方は……一人ぼっちの貴方は……それでも、この世界で生き続ける。私は……ふふ、死んで……ようやくこの世界から……解放されて。ほんとう、申し訳ないくらい……ずるくて……そうですね。私の……何もかも、私の勝ち……です」
苦しみ続けろと。
呪い続けろと。
足掻き続けろと。
醜さを晒し続け。それでも生きろと。
生きろと、彼女は言ったんだ。
「ウェルシオン……」
死に絶えていく彼女の身体を思い切り抱きしめた。力が強すぎて彼女の身体がつぶれてしまう。それでも俺は抱きしめるのをやめなかった。
愛する人に想いを伝えようとすれば、この化け物になった身体は傷つけるだけ。誰かと共に生きる事ももう叶わないのなら。ただ一人で……一人で、生き続けよう。それが俺の罪であり、罰であり……残された唯一の希望なのだから。
「さようなら……イルムガルド……」
目を閉じ、笑いながら、口の端から血を流し。
まるで幼子を見つめる母親のように。優しく彼女は呟いた。
「名も知らぬ……私の……愛した……ひと……」
俺はウェルシオンを失った。
だからもう、何もかもがとうに終わってしまっていたんだ。
戦争が終わってから、ずっと毎日が地獄だった。俺はもう死んでいる筈なのにそれでも生き続けなければならない。その矛盾がいつも体の内側から俺を引き裂こうとしていた。
毎日が地獄だった。体がゆっくり腐っていくみたいだった。早く俺を連れて行ってくれ。どうして一人にしたんだって、あいつを呪って……自分を呪って……。
そして出会ったんだ。あいつとよく似た少女に。まるで生まれ変わりみたいなあの子に。それから俺は……俺は――あいつの…………あいつの、為に――――。
「……う」
長い間夢でも見ていたような気分だった。
崖の底で俺は目を覚ました。ペルが近くに倒れているのが見える。あの頑丈な岩の身体に巨大な亀裂が入っている。死んだのか、生きているのかはわからない。だがしばらくは動けないだろう。
立ち上がろうとして、足が出鱈目な方向にひん曲がっているのがわかった。体中彼方此方から血が流れている。頭も割れているようだ。眼帯もどこかに吹っ飛んだらしい。あの時と同じように、瞳からは赤い涙が流れていた。
剣を握りしめ、何とか立ち上がる。体が重い。この谷底はすさまじく寒いんだ。空を見上げると、あれから時間が経過したのだろう。日も落ち始めていて、空には雪がちらついていた。
俺は崖を登ろうと壁に手をかけた。レヴィが、あいつが待っている。いつもの俺ならこんな崖くらい楽勝……ではないが、時間をかければ登れたはずだ。だが何故だろう、力が入らない。
「そうか……血を……流し過ぎた、か」
魔女にとってそれが力の源であるように、聖騎士にとっても血は重要なものだ。
この身体を流れる血が神と同じものだからこそ、俺たちは神秘を纏う事が出来る。それが失われればただの死にかけの人間と何も変わらない。
体中から熱が抜け落ち、震えが止まらない。それでもまた壁に手をかけた。痛みはなかった。ただレヴィに、あの子に早く会いたかった。
あいつはきっと待っている。だから早く会いに行かなきゃいけない。約束したんだ、あいつが魔法を使わなくてもいいようにって。俺が守るって。
折れた足で踏ん張って崖を登る。息を荒らげながら、必死で登る。視界がかすむ。体に力が入らず落ちる。雪の上に倒れ込み、起き上がり、また繰り返す。
「レ……ヴィ……」
もうすぐ旅が終わる。そうしたら、あいつをこの世界の外に連れていくんだ。
俺は聖水がなければ生きられないから、長くないけれど。それでもあいつを、少しでも悲しみから遠ざけて……少しでも、希望に近づけて……それから死ねたら、それでいい。
「レヴィ……」
爪が剥がれても肉が削げ落ちても構わない。今度こそ、大切な物を守って見せる。
折れた足から骨が突き出しても、体中から血が流れ尽くしても……それでも、レヴィに会う。あいつの所に戻る。いや……会いたいんだ。もう一度あいつの笑顔が見たい。そして、一緒に……旅を――最後まで。これまでの旅を……終わらせたい。
「いま……い……く……」
足を滑らせて、何度目かわからない落下。
大地に背中から叩き付けられると同時、世界の全てが闇に包まれた。
#19 魔女狩り