#16 祈りと嘘
「私はずっと君を探していたのだよ。“天使い”の少女よ」
幼い頃の記憶は、あまり残っていなかった。
わたしの母は、わたしを産むと同時に死んでしまったらしい。父親はいない。魔物の親は魔物と決まっているから。
物心ついた時にはもう、自分が誰からも許されない存在なのだと自覚していた。生きていてはいけないものだと知っていたのに生きるという罪に、わたしは押し潰されそうだった。
小さな手足でさ迷い歩いたこの世界は、どこまでも異端に冷たかったと思う。もうこれ以上生きてはいけない。そう諦めて眠ろうと思った時に、わたしはあの人に出会った。
彼はクィリアダリアという国の教会関係者で、今は没落したとはいえ立派な貴族の一人だった。皺くちゃになった顔に長い白髪は確かに少し怖かったけど、その眼はとても優しかったのを覚えている。
彼はわたしの手を取り、君は天使だと言った。その意味がわたしにはさっぱりわからなかったけれど、彼はわたしをお風呂に入れてくれて、きれいな服と寝床をくれて、温かい食事をくれた。
「この世界は救いを求めている。神による救済をね……。そして君には世界を救う力がある。人間が遥か昔に忘れてしまった、“世界”と対話する能力だ」
温かい暖炉の炎にあたりながら、彼は薄暗い部屋の中で寂しげに語った。彼は世界中の珍しい物を集めるコレクターであり、学者でもあった。古代から続く魔物、そして魔女という存在の伝承を調べていた。そして彼は教会の仕事をする中で、この世界に神が実在するという確信を得たのだと言う。
「間違いなく、神は実在したのだよ。そして今も教会は神を“飼っている”」
首輪をつけ、枷をはめて、それを地下深く、他の神々の目の届かないところに押し込めて。
「私はきっと長くはないだろう。だから君には知っておいてもらいたいのだ。これは書に記してはならない禁忌。故に口頭で君に語ろう。この世界の始まりと、終わりの物語を……」
おじいさんはそう言って困惑するわたしの頭を撫でた。
彼はわたしにひどい事なんて一つもしなかった。きっとこの国の人たちからは薄気味悪がられていただろうけれど。彼の瞳はどんな人より純粋で、慈悲深い光を持っていたから……。
「――なるほど。これがキミの原風景というわけだ。薄暗い地下牢に匿われていた記憶……まったく、辛気臭いったらありゃしない」
突然の事だった。これは間違いなくわたしの記憶で、想い出の景色のはず。そこへ突然亀裂が生じて、まるで紙を引き裂いたような音と共に見知らぬ人が登場した。無論、こんな人をわたしは知らないのだから、記憶の中に存在するはずもない。
黒いローブに黒い三角帽子。ウェイブした金髪、そして眼鏡と杖……。まるでお伽噺に出てくる魔女のようなその人は、よっこらせと声を上げながら時の静止した世界でわたしに歩み寄る。
「君が新たな星の魔女か。初めまして。我が名はサマリエル……人は私をこう呼ぶ。“記憶の魔女”……とね」
恭しく頭を下げ、帽子を片手に彼女は微笑んだ。困惑するわたしはすでに想い出の中にはなく、わたし自身を自覚していた。そこは真っ白な世界。果てしなく広がる、魔女の記憶の世界だった。
#16 祈りと嘘
「まあ、色々と訊きたいことはあるだろうが大人しく説明を受けたまえ。星の魔女、君は今生死の境を彷徨っている最中にある。ここは君の思い出の中であり、同時にすべての魔女の記憶の世界でもある。私はこの魔女の記憶の世界の番人だ。わかったかな?」
全然わからないということがわかりました。
「君はついに自らが秘めた神秘を解放した。星の力……虹の魔法だ。私は代々その力の継承者とこうして話をしてきた……というより、私は君の中に住まわせてもらっているのだがね」
相変わらずまったく理解できずにいると、彼女は笑顔でパチンと指を鳴らした。
「――順を追って説明しようではないか。まずは私の記憶の魔法について。これは、自分自身の記憶を他人の記憶と同化、そして継承する能力だ。私自身はもう何百年も前にこの世界から消滅しているが、私の記憶は魔女から魔女へと渡り続けている。今となってはサマリエルという魔女というよりは、これまでの魔女の記憶の集合体として存在している。そして記憶の魔法は代々、星の力を持つ魔女へ自動的に継承されてきたのだ」
更に彼女がパチンを指を鳴らすと、周囲の景色が変わった。そこはどこかの教会で、彼女は私の手を取ると相変わらず早口で、しかも早足で移動を開始する。向かう先は地下のようだ。
「私という存在と記憶の魔法は全ての魔女の潜在意識内に存在する共通無意識であると言える。しかし星の継承者である君だけは私の存在を自覚し語り合う事が可能なのだ。勿論回数制限はある、無限ではない。時は惜しい。だから私は急いでいる。理解してくれたかね?」
「急いでいるということだけは……」
「結構! では語ろうではないか、魔女の真実と嘘の歴史について!」
教会の地下には書庫があった。そこにはたくさんの本棚にぎっしりと本が詰め込まれている。背表紙を見てみると、どうやら全てが誰かの名前のようだ。そしてその中にサマリエルの書もあった。彼女はそれを引き抜くと、私の手の上にポンとそれを無造作に放つ。
「事細かに世界を知るには一冊ずつすべてを網羅する必要があるが、概要を抑えるだけならば私の記憶だけをさかのぼるのがオススメだ。なにせ君には時間がない。君の友人たちの処置が適切であったお蔭で君は幸運にも助かるだろうが、不運な事にここには長時間駐留出来ない。故に私は適切に君に語ろう。君が最も知りたい事……それは、魔女と人が共存できるのか、だね?」
ずいっと顔を近づけてくる。息さえもかかる距離だ。サマリエルの目は爛々と輝いているのに、なぜか生気がない。それが幻だからなのだとしたら、確かに納得だけれど。
「ずばり結論から言おう。人と魔女は共存出来る! というより……していたのだよ」
「え……!? ど、どういう事なんですか?」
「君は魔女信仰という言葉を知っているかね? 耳にはしたことがあるはずだ。それはまだ人と魔女が敵対していなかった世界での出来事だがね。時を遡ろう! これはまだサマリエルと呼ばれた魔女が己の肉体を失っていなかった頃! 今から大体三百年程前の事だ」
突然本が勝手に開き、放たれた光が視界を覆った。次の瞬間目を開くと、わたしは明るい森の中にいた。木漏れ日の下、呆然とするわたしの目の前を数人の子供たちが走っていく。
「ここは……?」
「君たちがザックブルムと呼ぶ国の過去だよ。さあ、追いかけようか」
肩を叩いて頷くサマリエル。わたしは子供達の後を追いかける。体はとても軽くて息切れも疲れもない。直感的に理解した。これは過去のリプレイだ。だからわたしは観測するだけの存在であり、この世界に干渉する事は出来ない。だからこそ、ここで何をしてもつかれる事はないのだ。
森の中には村があった。大きな木に寄り添うようにして作られた、水と木の集落だ。そこには木がまるで自然に作り上げたような、不思議な形の家が並んでいた。大樹の下には湖があり、幾つかの浮島が周囲に並んでいる。その中の一つにサマリエルは座っていた。
島に渡る小さな橋を駆けていく子供達。サマリエルは読みかけの本を閉じ、少年少女に笑いかける。
「せんせー! おはよう!」
「ああ、おはよう。今日も元気なようで何よりだ」
「せんせー、これお土産!」
少年の一人が果実を投げ渡す。サマリエルはそれを片手で受け取ると笑顔で礼を言った。
『これって……あ? 声が出ない?』
『幻の世界だからね。ただ、こうして心で通じ合う事は出来る』
『サマリエルは先生だったんですか?』
『人間の子供たちに勉学を学ばせていた。ここは魔女の村。人間の世界よりもさまざまな知識に満ち溢れていた。私達魔女は元々、人間とは共存していたのだよ』
それは今の世界からは信じられないような光景だった。
人々と魔女が当たり前に笑いあっていた。サマリエルは腕の下部から羽を生やした魔女で、それは現代ではよく目立つ奇形だった。けれどこの時代の人間は気にも留めない様子だった。それどころか人々は魔女を敬い、頭を下げて知恵や力を授かっていた。
『魔女信仰と言ってね。ザックブルムは古くから魔女と共存してきた国だった。なにぶん田舎だったし、閉鎖的な土地だったからな。そして何より魔獣が多く存在していた。魔獣を制御できるのは魔女だけだという事は知っているね? つまり人々は魔女の加護をうけなければ生きてはいけない世界だったのだ』
この時代には魔法以外にも様々な力があったという。
魔女から技術的に魔法を再現する力を学んだ“魔術師”なんて人間もいた。人々は神秘と身近に暮らしていたのだ。そして魔女は人を救う代わりに、ほんのわずかな報酬を受けてそれで暮らしていた。彼らは己の力を恥じる事も秘める事もなく、人の為に役立てていたのだ。
『まるで夢のような世界ですね……でも、どうしてこの暮らしが変わってしまったのですか?』
『理由はいろいろあるがね。最大の理由は、魔女信仰の変化だろう』
はじめ、それは信仰と言ってもただの“畏敬”であった。魔女は素晴らしい力を持つが怒りに触れれば恐ろしい報復を受ける。だから平等に、人として当たり前に接しようという敬意から来ていたはずだ。しかし時代が流れ、この大陸にも戦国時代とも呼べる時がやってきた。方々の領主が挙兵し、領土争いが頻発したのだ。
国力の弱いザックブルムは蹂躙された。時の王が縋り付いたのは盟友である魔女だった。魔女達は自らの友人を守る為、必要なだけの戦をこなし国土を守った。だがそれがいけなかった。
人々はその力が世界を支配するだけの可能性を秘めている事を知ってしまった。それから彼らは魔女をただの友人として見る事が出来なくなった。そして、魔女を崇め奉る事で、信仰心を集める事で国を一つに纏め、そして魔女の力を利用する事を考え付いた。
『無論、魔女はこの状況を快く思わなかった。だが魔女にも色々な奴がいてね。戦争に積極的だった奴もいた。君も知っているとは思うが、魔女は生来破壊本能を持つ。他の生き物を殺傷し食らいたいという、性欲にも似た本能があるのだ。これは別に満たさなくても死ぬようなものではないが、一度ハマると病みつきになる。だから魔女の間でも今後の人間との付き合い方は二分化されていた』
「長老、また一部の魔女が勝手に人間の軍に手を貸していると聞いた。このままでは魔女は人殺しの悪魔になるぞ」
場面は変わり、魔女の村の集会場。湖の真ん中にある大樹の中に作られたその部屋でサマリエルは数名の魔女と共に長老を相対していた。長老と呼ばれた魔女はその称号の割には年若く、サマリエルと外形上は大差ないようだ。
「……由々しき事態ね。けれどサマリエル、人間が私達を担ぎ出すようになってから生活が豊かになったのも事実なのよ。それに長老と言ってもこの村の長老であり、魔女そのものを制限するような権限はないから」
「我々は神ではないよ。ただ人間より少しだけ特殊な能力を持っているだけだ。ひっそりと暮らしていたからこそ私達は人と共存出来た。このままでは魔女は破滅を迎えるぞ」
「だとしても、それも時代の流れなのでしょう。私達は本来、人と交わってはならない存在……生まれた瞬間から禁忌。ならばそれがどのようにこの世界に受け入れられても、それは運命の一つに過ぎないのだと、私はそう思うわ」
『この長老というのが、私が知る限りで最も古い星の魔女だったね』
『星の……魔女?』
『星の魔女とは、“最初の魔女”の転生体だと言われている。時代に必ず一人は生まれてくるらしい。いわば突然変異種だな。まあこの派閥争いは、結果的に人間のごたごたで有耶無耶となる。人間の中に、より魔女を神聖視して信仰を作り直す者達がいたのだ。そいつらは魔女の村を襲い、そこで保管されていた“あるもの”を奪って南に逃げた。そいつらが作ったのが、クィリアダリアという新興宗教国家だ』
魔女に恭順を示し、その力を借りて共に生きるべきであるという魔女信仰を持つザックブルム。そこから派生した新派は、南で魔女を神に置き換えた。魔女は神として、そして天使として人々に崇められる存在となったのである。
『二つの国は……元々は一つだった?』
『そうだ。そして君の時代だけではない。この二つの国は幾度となく争いを繰り広げてきた。何故二つの国が争うのか? それは、クィリアダリアがザックブルムから奪った“あるもの”を奪い合っていたからだ。なんだと思う?』
わからない。魔女から人が奪ったなにか。一つの神をくみ上げるに値する神秘。そんなものがこの世界に存在しているのだろうか?
『まあそれはともかく』
……と、ともかく!?
『人は長い時間をかけ魔女を迫害してきた。それは一つの大きな流れだ。かつて人と魔女の道は寄り添っていたが、今は違う。少数単位での共存は可能だろう。君と君の相棒がそうであるようにな。だが大人数になると人間というものは厄介で、どうしても特別な力に縋らずにはいられない。特に君のような、最高の力にはね』
『……なんなのですか? その、星の力というのは……』
『なんでもありの力だ。君の魔法は星の意志の力だからね』
サマリエルがパチンと指を鳴らすと幻の世界から書庫へと風景が切り替わった。その景色が切り替わる直前、わたしには魔女の村に人間の兵隊がなだれ込んでくるのが見えた。その結果を見せないようにしてくれたのかもしれない。
「君は、天使いの伝承を知っているかい?」
「あまつかい……天使……つまり、ヨト信仰における神、ヨトの事ですよね?」
「あの物語はザックブルムから分離した新派が作り上げたものだが、おおよその内容は事実に則している。大まかな内容は把握しているか?」
頷きながら思い返す。それはこんな内容だったはずだ。
ある日、神の国から一人の神が堕ちてきた。それは他の神々と争い、追放された異端の神だった。その神が追放されたのは、人間に大きく肩入れしていたからだ。
神は全ての命に平等でなければならない。しかしその神は人間を贔屓した。人間にばかり知恵を授け、人間にばかり特別な力を与えた。人間に火を与え、言葉を与え服を着せた。その結果人間は数多の獣の中で唯一知性を手に入れ、世界で最も繁殖する事に成功した。
神々はこの異端の神の行いを罰し、地上へと落とした。人々は落ちてきた神を温かく受け入れた。神はもう人そのものをどうにかする力は持っていなかったが、神としての様々な権能を所持したままだった。その神は名をヨトと言った。
ヨトは翼をもつ少女の姿をしていた。ヨトは人々の傷を癒し、邪悪な物を打ち滅ぼす聖なる力を持っていた。ヨトは人々に崇められ神として君臨した後、この世界から邪悪な存在……魔物を消す為に戦い、やがて力尽きた。確かそんな話だったと思う。
「そのヨトという神は実在した。そしてこのヨトこそ、最初の魔女……星の魔法使いだったと言われている」
「星の……魔法使い?」
「君の魔法はこの世界から力を借りる事だ。つまりこの星に出来る事ならば君にはなんでも出来るという道理になる。水も風も大地も全ては君のものだ。神と同等の力、だからこそ教会は君を恐れた。君の力を封じようとした」
自らの両手をじっと見つめる。確かにわたしは知っている。この両手なら、死者を蘇らせる事も……人の命を奪う事も、限りなく造作のない事なのだと。
「わたしは……どうすればよいのでしょうか?」
「それは君自身が決めるべき事だよ。そして選択の時は間近に迫りつつある。君は今代の星の継承者として、自分がどのように立ち回るのかと決めなければならない」
「これまでの星の継承者達は、どのように人と生きたのですか?」
「まちまちだな。だがその多くが自分が持つ特別な力を最大限に発揮しようとはしなかった。大きな時代の流れ、運命に逆らおうとはしなかったのだ。君にならばわかるかもしれないが、“その気になればなんでもできる”からこそ、“何かを変える”事に怠惰になるのかもしれない。君の前の魔女、ウェルシオンもそうだった。彼女は究極にまで成長したその力を、結局一度も使う事はなかった」
ウェルシオン……。何度か聞いたことのある名前だ。先代の星の魔女。ザックブルムの英雄。最悪の敵。そして多分、マスターの……。
「ウェルシオンについて知りたいのか?」
わたしの心境を悟ったかのように彼女は微笑んだ。そして本棚の中から一冊の本を取り出す。その背表紙には彼女の名が記されていた。
「知りたければ知ればいい。君にはその権利がある」
ウェルシオン。きっとマスターの……あの人の心の中に今でも生きている人。
魔女戦争を生き抜いて、そして死んでしまった幻。きっとその存在はマスターだけじゃない、たくさんの人の中に残っている。そしてそれはこの本を開くだけで、すべてが簡単に詳らかにされるだろう。
「どうした? 知りたくないのか?」
「……はい。だけど、これは見ないで置きます。彼女の記憶も……そして記憶の魔女。あなたの記憶も、すべてはその人の物だと思うから」
少しだけ躊躇った後、本を返す。サマリエルは僅かに微笑んだ後、困ったようにそれを受け取った。
「君がそういうのなら、まあいいだろう。しかし君はきっと避けられないぞ。このウェルシオンという魔女の影が君には常に付きまとうだろう」
「それでもいいんです。わたしは今を生きているから」
「……そうか。さて、そろそろ時間のようだ。私はひとまず引っ込むとしよう。運が良ければまた会うだろう。その時まで続きはとっておくよ」
わたしが礼を告げる間もなく、サマリエルは指を鳴らした。パチンという音と共に目を開くと、そこはもう現実の世界だった。そこはゲヒトゥムの教会にある部屋のようだった。見覚えがある。わたしたちが黒騎士を討伐しに出かける前に居た場所だ。
「気が付いたか」
「……マスター」
ベッドに寝かされたわたしの傍にはマスターがいた。彼はきっと一睡もしていないのだろう。普段はともかく、教会の中ではルールは破れない。魔女が眠っている間、聖騎士は眠る事を許されないから。
「アイネンルース様は……?」
「腕を失ったが、それだけだ。旅を続けるといって俺達より先に出て行ったよ」
「そうでしたか……」
腕を組んで椅子に掛けたマスターを見つめる。この人はきっと、今でも魔女戦争の時代の中に取り残されている。そこで抱え込んだたくさんの闇と傷に苛まれながら……。
「……なんだ? 何をじっとみてやがる」
「いえ……。その……マスター。ありがとうございました」
「礼を言われるような事をしたか? むしろお前に助けられた。聖騎士失格だ」
「いいえ。マスターは……本当に優しい聖騎士様ですよ」
知っている。わたしは彼の事が大好きだ。
いつも少しぶっきらぼうで。誰かの心に触れる事を恐れているその強い眼差しが。
本当は熱い気持ちを、正義感を持っているのに、それを表に出さないように振る舞っている。
彼は必死でこの世界を彷徨い続ける。かつて失ってしまった熱意を、大切な物を取り戻す為に。その戦いの最中でわたしは彼と出会った。そしてその二人の旅も、もうじき終わりを迎える。
「あと何か所……ですか?」
質問の意図を察し、彼はゆっくりと答えた。
「もう数か所だ」
曖昧な返答の中に彼の寂しさを見て、わたしは思わず悲しくなった。
心から愛しく思うこの人と、いつまでこうして共に歩めるだろう? 残された時間は本当に僅かだ。
終わりを夢見て続けてきたこの旅が、望んでいたはずの終わりが目の前にある。毛布の中からすっと手を伸ばすと、マスターはわたしの小さな手を握りしめてくれた。
「身体はもう大丈夫か?」
「はい」
「ならもう少し休め。そのあと出発だ。俺は手筈を整えてくる」
指先が離れ、温もりが離れ、マスターが部屋を去っていく。その背中を見送り、わたしは神様に祈った。
この時間が少しでも長く続きますように。そしてそれよりも何よりも――彼の止まってしまった時間が再び動きますようにと。
自分自身はどうなっても構わない。けれども彼には見つけて欲しい。どうか、どうか……彼だけには神の祝福を。
「見守っていてください、ウェルシオン。どうか……あなたの愛した人を」
――旅が、旅が始まる。
全ての終着点は、もう目の前にあった。