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#10 痛み姫

 ――人は、“怪物”を恐れる。

 怪物は人を食らう。人とは異なる法によりこの世に留まり、その心に光が差す事はない。

 根本的に人とは違うのだ。だからこそ怪物。どんなお伽噺だって彼らが幸福をもたらす事はない。人は人、怪物には怪物。絶望的に隔てられたその境界線は、何人たりとも侵す事は出来ない。

 怪物は滅ぼされなければならない。人の手によって。

 邪悪は革められなければならない。聖なる光によって。

 どんなに恐れ敬われた怪物も、数の力には敵わない。だからこそ、人間がこの世界の覇者として繁殖し続けている。化け物は人には敵わない。人が作る法の力には、決して敵わない。

 例え彼らがどれだけ尊くても。彼らのその爪が人を容易く殺め、その喉が赤き血で潤されたとしても。悪い夢はいつか醒める。怪物はすべからく滅ぼされなければならない。

 悪夢に怯えて泣いていたのは子供だけで、きっと大人たちはわかっていた。

 あの怪物をいかにして葬ろうか。その力をいかにして我が物としようか……

 ……人は、“怪物”を恐れる。

 怪物の力を。そして自らがその力を得て、怪物となる事を。

 けれどもう、私は怪物を恐れない。悪夢に怯える少女ではなく。悪夢を滅ぼす力を手に入れたから。

 その力を手に入れた事で、私自身が怪物になったとしても……。

 私はもう、それを恐れる事はないだろう。


「――判決を言い渡す」


 人は、“力”だ。

 言葉は、“力”だ。

 法は人を束ね、言葉を束ね、刃を束ね、軽々と怪物を討ち滅ぼす。


「“魔女”を断頭台へ」


 そう、私は力を手に入れた。怪物を屠る人の力を。

 このとてもとても高く座り心地のいい椅子の上から見下ろす台座には、常に歎きと怒りと憎しみと……絶望と呼ぶべき感情が渦巻いている。私はそれを事もなく滅ぼす事が出来る。

 私のこの声一つで。振り下ろした手のひらの一つで。怪物の首を断ち切る事が出来る。

 ――そう、これが力だ。これがただの少女にはなかったもの。あの頃の私にはなかったもの。

 敵を屠り。怪物を屠り。闇を薙ぎ払う力……。“神の力”。


「笑っておられるのですか」


 隣から聞こえる声。自らの唇を指先で撫で、私はその歪みをそっと隠した。




#10 痛み姫




 聖都オルヴェンブルムには、今日も高らかに鐘の音が響く。

 王城の一部は“教会”に解放されていて、私は割り当てられたその一室から街を見下ろしていた。町の中心に位置するこの城の窓からは聖なる都を一望する事が出来た。

 教会はこの国の成り立ちから携わり、今や国家の全てに深く根を張っている。王でさえも教会の傀儡であるとされ、国の舵取りを任されているのも教会の息のかかった官僚で、最早この国に民衆の意志が介在する余地は存在しなかった。

 彼らは与えられた考え方と与えられた幸福の中に浸っている。だがそれを不幸だとは思わない。邪悪だとも思わない。人は何も考えず、ただ目の前にある幸福をかみしめていればそれで良い。それ以上を望もうなどと、人の身には余りある罪だろう。


「トリエラ様」


 背後の気配にゆっくりと振り返る。そこには長い前髪で顔を覆った従者の姿があった。俗にいうメイドだ。私の召使いはこの女ただ一人。どうやら先ほどから呼びかけられていたようだが、ぼんやりしていたのかこの女の存在感が薄いのか、気が付かなかったらしい。


「トリエラ様。お茶のご用意が出来ました」


 慣れた手つきでポットからカップへとお茶を注ぐその仕草をなんとなく目で追っていると、女はにこりと微笑んで私にそれを差し出した。無言で受取り口にすると、ほのかな花の香りがふわりと広がっていく。

 この女、前髪がばかに長い以外は基本的に有能だった。“どんな仕事”も嫌な顔一つせず完璧にこなす。歳は私より五つくらい上だったろうか。どこかの貴族の娘だったらしいが、魔女戦争で家をなくし、身内には苛め抜かれ遺産も何もかも引っぺがされて捨てられていたところを教会に拾われたらしい。そんな素性だからか、たいていの事はすんなりと受け入れた。


「大司祭様から封書を預かっております。おそらく、例の件かと」


 無言で書を受け取り、ロウの封印をティースプーンで無理矢理剥がした。私の作法に何か言いたげな視線を無視して中身を取り出すと、女の方も向かずに私は片手を振る。


「失礼いたします」


 そんな声が聞こえ、遅れて扉の閉まる音。その頃には私はもうすっかり大司祭様からの秘密文書に興味が移っていて、あの女の事なんてどうでもよくなっていた。




 ――戦争があった。

 それはとてもとてもひどい戦争で、たくさんの人が犠牲になったという。

 人と怪物の戦い。聖なる神の名を掲げて戦うクィリアダリアと、悪しき魔の存在を総べるザックブルム。その二つの聖なる戦いは……正直なところ、巻き込まれる側にしてみればどうでもよい事で。私たちにとっては、その日何を食べてどこで寒さをしのぐか……そんなことの方が大切だった。

 私の家は、ザックブルムとクィリアダリア、二国の間にあった。とても小さな村で、山奥だったものだからほとんど戦争にも関係がなかった。周辺の村と交流がなくなっていくのは色々と不便だったけれど、元々自給自足の村だったからそこまで深刻ではなかった。

 うちは四人家族で、お父さんとお母さん、それに大好きなお兄ちゃんが一人。そして小さな私。お兄ちゃんは森の中にとても詳しくて、狩りも上手で……。生活は苦しかったから、私もお兄ちゃんにくっついていつも森の中に入っては、あちこちに擦り傷を作りながら木の実を拾ったり、果実をとったり……。お兄ちゃんが獣を捕まえる為の罠を手伝った事もあった。

 私が長いスカートをたくし上げて、そこに果実を乗せて。お兄ちゃんは獲物の首をきゅっと縛って、担いで持ち帰る。家に帰るとお母さんがその日とれたものを使ってご飯を作ってくれた。

 お父さんは村で唯一、畑仕事をしない人だった。というのも彼はヨト教の聖職者で、手作りとしか言いようがない小さな小さな教会にいたからだ。神父と言えば聞こえはいいが、実際のところは何でも屋と言った様相で、なにせ彼しかこの村ではまともに読み書きができる者がいなかったから、収穫物を他の村に売るにも、どこかから買い入れるにも、彼の力が必要だったのだ。

 お母さんはそんなお父さんについて、都会からやってきた人だったから、最初はとても苦労したらしい。けれどお兄ちゃんが生まれて、私が生まれて、村の人たちからは沢山感謝されて、とてもやりがいのある、素晴らしい人生だと言っていた。

 幸せだった。そんな幸せは、けれどあっという間に失われてしまった。

 戦争が始まって何年かすると、激化する戦況に伴い戦線が拡大。私たちの村もいい加減無関係ではいられなくなった。そろそろ村から離れようかという話がでたけれど、村の人たちは故郷を捨てられずにいた。そのせいで魔女が村にやってきた時もろくに逃げられなくて、見る見るうちに村は火の手に包まれ、魔女の手は返り血に染まっていった。

 お父さんは聖職者だったから、最後まで抵抗して魔女の怒りを買い、体中をずたずたに引き裂かれて死んだ。村の真ん中に貼り付けにされて、腕や足から順番に引き裂かれて、一晩じゅうその悲鳴ともうめき声とも取れぬ物が響き渡っていた。お母さんはとっくに死んでいたけれど私とお兄ちゃんはたまたま森に行っていたお蔭で助かって、草葉の陰からその様子をただ見ていた。

 お父さんっぽかったシルエットがだんだんとただの肉片に変わっていく。そのそぎ落とされた肉がどうなったかというと、魔女の口に収められていた。あれは村の人たちを次々に殴殺して、その血肉を音を立てて吸っていた。お兄ちゃんが私を痛いくらい抱きしめて、それでもその瞳を逸らさずに村が死んでいく様をじっと黙って見つめていたのをよく覚えている。

 それから二人であちこちを放浪した。後はテンプレートな生活。私たちみたいな子供はどこにでもいたし、みんな同じだった。生き残る為には必要だから悪い事もたくさんした。ある日兵隊に捕まったお兄ちゃんがもう別人なんじゃないかってくらい顔中をぼこぼこにされて帰ってきた時は驚いたけど、そんなことが結構頻繁にあったものだ。

 それが変わったのはある日の事。いつもは怖いだけで大嫌いな兵隊がニヤニヤしながらパンを持って子供たちに近づいてきた。彼らは私たちを集めて言った。


「この暮らしを抜け出したくないか?」


 それは魔法の言葉だった。勿論怪しかったけど、でもこの生活がいつまでも続けられない事はみんなわかっていた。どちらにせよ死は身近なもので、私たちには疑っている余裕などなかった。

 やせっぽちのやつはだめだと兵隊は言った。私はまだちびで、全然食べていなかったからへなちょこだった。けれど兄さんはこんな生活の中でも比較的がっしりしていて、背も戦ったし、何よりいつも兵隊とケンカしていて顔が知られていたから、お前ならいいと言われて立ち上がった。


「うまく行けばまともな暮らしが出来るだけの金がもらえる。だから妹はおいていけ」


 兄は困っていた。私は兄においていかれるだなんて思わなかったが、兄がどこかに連れていかれてしまうという不安はあった。兵隊が子供を連れていくという話は噂半分に知っていた。連れていかれた子は誰も戻ってこなかったということも、私は知っていた。だから兄に泣いて縋ると、彼は笑顔を浮かべて言った。


「大丈夫だ。必ず俺は戻ってくる。いっぱいお金をもらって帰ってくる。だから……戻ってきたら、一緒に暮らそう。二人で一緒に、いつまでも暮らそうな」


 約束だよ、絶対だよ……私はそう言って何度も何度も兄と指を絡めた。

 彼は何度も何度も手を振りながら兵隊に連れられて去って行った。ほかにも何人か男の子が連れていかれた。お兄ちゃんは一度たりとも約束を破ったことがなかった。どんなにつらい時も私に優しかった。こんなどうしようもない、生きているのか死んでいるのかわからないような生活を続けてこられたのも、すべては彼が私を愛してくれたから。

 だから信じていた。彼の全てを信じていた。きっと帰ると言ったその笑顔を。

 けれども、彼はもう二度と帰ってこなかった。毎日毎日お兄ちゃんの帰りを待ったけれど。日が昇って落ちていくのを繰り返し見ていたけれど。そこに彼の影が差すことは二度となかった。

 すっかりもう生きていくのも嫌になり、何も食べず、ただ横たわって死ぬのを待っていた時だ。ある日私の下に一人の兵隊がやってきた。そして彼は私に手紙を渡した。それは懐かしい兄の字だった。あの村で読み書きができる子供は兄と私だけ。兄の字は私にも読みやすいようにとても大きく、簡単な言葉で書いてある。だからその優しい字を見間違えるはずはなかった。

 そこには、お別れの言葉が書かれていた。自分はもう戻れないと。おそらく死ぬだろうと。理由は話せない事、そしてその代わりに私は教会で引き取ってもらえるという事が書いてあった。

 唖然とする私の腕をつかみ、兵隊は無理矢理私を馬車に乗せた。振り返ると暗がりから子供たちの目が光って私を見ていた。


「今日からここがお前の家だよ」


 どこかの貴族の豪邸はきらきらとまぶしくて、とても暖かかった。でもぼろぼろの布きれみたいな服を着ている自分がどこか恥ずかしくて俯いたのを覚えている。

 こうして私はあの暗がりから抜け出して、新しい生活を送る事になった。

 一流の教育。一流の生活。何もかもが与えられる。戦争中だっていうのにその家はとてものんきなもので、誰もが遊んで笑って暮らしていた。この世界では死はとても遠いものだった。

 もうあんな怖い思いはしなくてもいいんだ……そう思うと涙があふれた。けれどそれは安堵からではない。もう二度と兄とは会えないのだと、このあまりにも違いすぎる世界で私はそれを強く実感していたからだった。


「うん、うん。随分と肉付きもよくなった。血色もいい。ようやく人間らしくなったな」


 屋敷に入って一月も経った頃だろうか。私は毎日おいしい物を食べさせられて、きれいな服を与えられて、すっかりどこかのお嬢様のようになっていた。そんな私を家の主人は笑顔で眺め、それから私を自分の部屋に呼びつけた。

 私はすっかり彼の事を信頼して感謝していたから、夜中にひとりで呼び出された事に何の不信感も覚えなかった。今思えばボンレスハムみたいなそのハゲ男が私をどんな目的で“もらった”のかは明白だったが、その当時の幼い私には見当もつかなかった。だからベッドに押し倒され、もらったばかりのきれいな服を無理矢理引き裂かれてもなお、きょとんとしたままだった。

 男はどうしようもないクソロリコンのペド野郎だった。人前ではニコニコと笑顔を絶やさない小心者だったが、夜のベッドの上ではまるで盛りのついた豚のようだった。未発達な少女の身体をなめまわし、わけのわからない叫びをあげながらのしかかってくる。奴の体重は単純に子供に受け止められるものではなく、あまりの苦しさに悲鳴を上げた。助けを求めても誰も来ない。何とか逃れようと背を向けてベッドをはい回る私の足をつかみ、悲鳴が耳障りだったのか枕を私の後頭部に押し付けて男は行為に及んだ。

 その時の事は正直よく覚えていないのだが、丸太のような腕で枕を頭に押し付けられ、布団に顔面がめり込んでいたのでそもそも息も絶え絶えだった。なにやら色々と全身が激痛の最中にあり、呼吸困難で意識も朦朧としていたので、このままでは殺されると本気で思っていた。

 シーツに爪を立て、それを噛みしめて苦痛に耐えた。その間私はずっと考えていた。夢うつつの中で考えていた。どうしてこうなった? どうしてこうなった? どうしてこうなった?

 どうして? なぜ? 誰のせい? どうして? どうして? どうして?

 思い起こされたのはあの日の記憶。村が燃えて父が食われていた記憶。戦争の記憶。

 そうだ戦争が悪い。何もかも戦争が悪い。この世界をこんなふうにしてしまっている戦争が悪いそもそもこの豚がのうのうと暮らしているのも戦争が悪いお兄ちゃんがどこかに連れていかれてしまったのも戦争が悪い私がベッドの上で呼吸困難に陥っているのも戦争が悪い戦争が悪い戦争が悪い……。


 ――――全部全部全部、戦争が悪い!


 そうだ、戦争なのだ。だからこんな事が起こる。嫌な事ばかりが起こる。

 でもそれが仕方ない事だっていうのなら、私だって仕方ない。私がこんな風に何かを憎んで、殺してやりたいほど憎んで、すべてを憎んで、壊してしまいたいと願う事さえも……。

 幸い、私は全てを手に入れた。金。地位。名誉……。夜の豚との苦痛を代価に奴の全てを受け取ったのだ。時間をかければあの男を殺す事も、あの男の友人に取り入って私への疑いを逸らしてもらう事も簡単な事だった。私は“家”を手に入れたのだ。

 私は幸運だった。あらゆる文学を学ぶ才能が、何より男を誑かす才能があった。腐りきった教会と貴族の世界には金があふれかえっていた。金、金、金……全て力だ。だから私はそれらを根こそぎ奪い取っていく。金があれば力が手に入り、力があれば地位が買える。私は誰より美しかった。だから誰より力を手に入れやすかった。もともと腐っていたこの組織の中を女が一人で勝ち上がっていくのはそう難しくはなかった。少なくとも、私にとっては――。

 やがて私は司祭になった。司祭は教会で上から三番目に偉い椅子だ。女で、しかもこの若さで司祭になった者など歴史上存在しない。私は神の言葉さえも手に入れた。そんな頃だ。あの女を買ったのは。

 どっかの司祭が裏で取引していた女だった。その司祭を適当な理由をでっちあげて裁いて、家をひっくり返して金品を押収していた時、地下室というか拷問部屋からこの女が見つかった。ほかにも少女らしい死体やら骨やらたくさん出てきたのでどこの豚も考える事は同じだなと思ったものだ。そんな境遇への情けもあったのだろう。私は女を拾った。名をエダと言った。


「なぜ、私を救ってくださったのですか?」


「つかえそうだったからに決まってるでしょ?」


 エダは美人だった。その上クッソハードなあの豚の教育を受けているのでたいていの事はけろりとこなす。使い道は腐るほどあった。

 エダという手駒を手に入れた私は更に上を目指して邁進……しようとしていたが、戦争が終わり、国全体が落ち着いた雰囲気になるとなかなか計略もうまく行かなくなる。下手に動けばここぞとばかりに反撃を食らいそうだった。だから私はしばらくの間大人しく息をひそめていようと決めた……そんな時だった。

 この国には四人の英雄がいた。聖騎士と呼ばれる彼らは聖なる力で魔女を討ち滅ぼしたという。彼らの凱旋を見守る為に式典に出向いた時、私は出会ってしまった。兄によく似た、まったく別の誰かと……。




「お呼びですか、司祭様」


 私はすぐに彼を自分の部屋に呼びつけた。彼は年数の経過に伴って成長していたが、間違いなく兄だった。近づいてその顔をまじまじと見つめるが、彼は眉ひとつ動かさない。


「……お兄ちゃん、よね? あの日……兵隊に連れていかれた……」


 そこでようやく彼の眉が動いた。何とも言えない眼差しで私を見つめている。嬉しさのあまりに抱き付くと、懐かしい彼のにおいがした。もうあきらめていたそのぬくもりに頬を埋めていると、彼はゆっくりと私の肩をつかんで引き離す。


「人違いではありませんか?」


「そんなわけないでしょ? お兄ちゃんを間違えるわけない! 生きてたのね……生きて……戦争からちゃんと帰って来てくれた。私の今の立場を気にしているの? でもその必要はないわ。だってあなたは英雄で、私は司祭。権限もほとんど同等。誰にも咎められる言われはないわ」


「そうじゃない。俺は本当にあなたの兄ではないんだ。俺には戦争に向かう前の記憶がない。あなたの顔にも、まったく覚えがない」


「えっ?」


「正確にいうと、戦争の途中までは記憶もあった……と思う。だが、戦いが続く間にどんどん忘れていった。俺の記憶の中に、あなたの姿は残っていない」


 絶望、その一言に尽きる。

 ようやく兄と再会できたと思ったのに。もう兄はとうの昔に死んでしまっていた。


「あなたも知っているだろう? 俺の名前はイルムガルドという。あなたの兄とは違うはずだ」


「それは……洗礼名だから……」


「違う。俺はイルムガルドだ。それ以上でも、それ以下でもない」


 妙な笑いがこみあげてくる。へなへなと尻餅をついた。

 ああ、ちくしょう。これでいよいよ全部奪われた。何もかも本当になくなった。

 あまりにも悲しすぎて、感情が破綻してしまったのだろうか。涙は流れず、代わりに笑い声がにじんでくる。男は申し訳なさそうに私を見下ろしている。


「魔女を殺すと、記憶がなくなるんだ。俺はたくさん魔女を殺したから、もう何も残っていないんだ。もし俺が本当にあなたの兄だったのなら……すまない」


「どうして……謝るの? 別に……いいわ、私を覚えていなくても。だったらここから、もう一度始めればいいじゃない。私のお兄ちゃんになってくれれば、それで済む話よ」


「それは出来ない。俺はあまりにも命を奪いすぎた。この身体は呪われている。誰かと縁を結ぶ事は出来ない」


「私だって……私だって、呪われてるわ! 何もかも……この身体は、もう……!」


 もう…………何……?

 立ち上がり、うつむきながら考える。その間もずっと私の顔には笑みが張り付いていた。

 間接的にとはいえ大勢を殺した私の手。男を翻弄した躰。呪われていないはずがない。こんなに薄汚れた女はこの世界広しと言えどもそうはいないだろう。私の身体は……命は、人生は。そのすべてが呪いによって形作られている。

 もう、とっくに死んでいたんじゃないか。彼も……私も……。


「話は、それだけか?」


 彼はそう言って踵を返す。私はとっさに背後から彼に抱き付いた。先ほどまでの“妹”としての意味ではなく。一人の“女”としてだ。しかし彼はそれを悟ってか、冷たく私を突き放す。


「……かわいそうだな」


 そう言いながら私の頭をくしゃくしゃに撫でて。


「俺は君の、お兄ちゃんにはなれないよ」


 優しい声で笑って見せた。




 ――私は、魔女裁判の裁判官になった。

 私は自分がとっくに死んでいた事に気づき、あとはただ殺すために生きようと決めた。

 魔女だ。戦争の原因。兄を奪った魔女。憎い……憎い憎い憎い憎い。何度殺してもこの想いが晴れる事はない。

 奴らを何度も水に浸し炎に晒して刃を突き立ててもこの憎しみが晴れる事はない。憎い憎い憎い……私もお兄ちゃんもとっくに死んでいるのにまだ生きているこの世界の全てが憎い。

 首を落とすのだ。だから私は首を落とすのだ。死ねと、死ねと、死ねと、何度も手のひらを振り下ろす。それが途方もない快感で、抗いがたい悦楽で、我が唯一の命の煌めきなのだと憎しみが叫ぶ。

 冷静さの仮面の下で私は笑いつづけた。ざまあみろと。

 そんな私の前に現れた一人の魔女が、また私から兄を遠ざけていくだなんて。それはまるで悪い冗談……悪夢のようで。死んでしまったはずの私はまだ、その闇の中に囚われているらしかった。




「……お嬢様。トリエラ様。お食事の用意が……」


 そこでエダの言葉は止まった。すっかり日は落ちて、窓際に座った私は転寝をしていたらしい。

 嫌な夢を見た。本当に嫌な夢だった。あの忌々しい“別れの日”まで記憶がいたる前に夢から覚ましてくれたエダには感謝しなければならない。


「泣いていたのですか……?」


 目元を拭いながら臓物の中を駆け巡る悪意を噛みしめる。立ち上がると同時、心配げに近づいてきていたエダの手首を掴み強引に引き寄せた。


「トリエラ様……うっ」


 片手でエダの首を絞める。私に表情はない。わかっている。何の感情もなく、私はエダを痛めつける。苦しそうに震えるエダ。その表情がまるで全てを受け入れるかのように笑みを作ると、私は彼女を思い切り突き飛ばし、ベッドの枕元にある棚から鞭を取り出した。

 何とはなしに鞭で打つとエダは何とも言えない艶っぽい悲鳴を上げた。それが面白かったので何度も同じことを繰り返す。

 こいつは生粋のマゾヒストだ。まあそういう風に調教されてるんだからそりゃしょうがないのだろうが、天性の才能もあるのだろう。年下の女に鞭で叩かれて息を荒らげながらも、どこか悦に浸ったような様子だ。屈んでエダの顎を掴み上げる。前髪をよけると、顔には大きなやけどの跡があった。赤黒く爛れた皮膚が頬から上、右半分をグロテスクに変形させている。左半分はこんなに整っているのに顔を前髪で隠しているのはこのためだ。


「トリエラ、さま……」


「……あなたって変態よね。しょっちゅう私にいじめられてよろこんでるんだから」


「トリエラ様は……笑って……いるのですね……」


 口元に手をやると、自分でも気づかないうちに笑っていたようだ。務めて冷静に表情を変えると、彼女は優しげに眼を細めて言う。


「それとも……泣いて……いたのですか……?」


 何かがカチンときて顔面を殴打するとエダの身体が倒れた。私はその腕を掴んですぐに起こすと、エダの顔を地面に押し付け立ち上がり、彼女がそのまま伏せているのを横目に靴を脱ぎ、椅子に腰かけて彼女に足先を差し出す。特に何も言わずともエダはうつむき、私の足を舐めた。


『トリエラ様は、まるで笑うように泣くのですね』


 いつだったかエダはそんな事を言っていた。正直わけがわからない。

 だがその日から私はエダを徹底的に痛めつけるようにした。別に理由はない。彼女の泣き顔やうめき声だか喘ぎ声だかわからない声が面白かっただけだ。


「……例の件だけど。聖騎士四人全員を集める事が決まったわ」


「“全員”……ですか?」


「ええ。事はもうレムリスやアイネンルースだけで解決できるものではないわ。イルムガルドにも事情を話し、参加してもらうつもりよ」


「“四人目”も、ですか?」


 できれば誰だってあいつにはかかわりたくない。だが残念な事に、こと怪物を討伐するということにおいて、あれ以上の適任はいないのだ。


「しかしそれでは、イルムガルド様にも危険が……」


「いいのよ。あいつも少しくらい、痛い目を見るくらいでちょうどいい」


 でないと、割にあわないから。

 見下ろすとエダは舌先を出したまま私の視線に気づいて顔を上げた。

 人を買い、飼い、思うままにする力を手に入れて、私は怪物になった。

 だからもう何も恐れない。何もかもを憎んだまま、憎み切ったまま、すべてを呪いぬいてみせる。


「…………それでいいのよね、お兄ちゃん?」




 あの日、兄と一人の魔女が旅立った日。

 私は彼の口から、あの戦争の真実を伝えられた。

 驚きと絶望に目を見開く私の視界の奥。木陰で草花に囲まれ、まるで世界に祝福されるかのように、あの青い少女は微笑んでいた――。

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