謎の男
―なんか、妙なことになっちまったな。
優人は未愛と並んで道路を歩きながら、自分の横にいる未愛の横顔に、たびたび視線を向けていた。何かを思い詰めたような表情で、大事そうに鞄を胸に抱えている未愛には、何か考えがあるのだろうが、正直優人には、これからどうすればいいのか皆目見当もつかなかった。
未愛が大事に抱えている鞄のなかには、先だってあの家のなかで見つけた犯罪の証拠なるものが入っている。台所に踏み込んだ時、未愛はその証拠は二階の六畳の和室、自分たちが人影を見た窓のある部屋にあると言った。その部屋の六枚敷かれた畳の、真ん中の一枚の下にあると。そこにある一冊のノ―トが証拠なのだと。ノ―トは、閉じ込められていたマエカという人物が、必死で自分がここにいた証だけでも残そうと書き留めた手記なのだという。語られた内容のあまりの具体的さに優人は興味が湧き上がってくるのを感じた。優人は幽霊だの霊能力だのということはこれまで信じていなかったが、そんな信念よりも好奇心のほうが勝っていた。誰もおらず来ることもないというならそれが事実かどうか確かめたくなった。それで優人は未愛と一緒に二階に上がった。家の間取りは未愛が語ったとおりだった。廊下の長さ、部屋の数と位置は勿論、階段の段数や問題の部屋のドアに外からしか解錠できない鍵がついていることも、未愛の話と一致していた。その正確さは外からこの家の内部について、推測できる範囲を超えていた。絶対に一度、この家に入ったことのある人間でなければ分からないことがほとんどだった。だからといって未愛が霊能者であると、無条件で信じたわけでは勿論ないが、ひょっとしたら未愛の家はあの寺藤家と何某かの関係があるのかもしれないと思ったのだ。詩奏という少女に目撃された、未愛の両親が会っていたという女は、あの家の住人だったのかもしれない。未愛の家族はあの家と何か繋がりがあったのではなかろうか。それで未愛はかつて、あの家のなかにも入ったことがあった、誰がどういうふうに住んでいるのかも知っていたのかもしれない。そしてその住人が犯している犯罪に、自分の両親が関与していることにも気づいていた。だからそれを暴くために、こんな妙な芝居をしてみせたのではなかろうか。
―マエカさんが、あの部屋に閉じ込められていた、か・・。
閉じ込メールという表現を使うということは、その犯罪とは監禁だったのだろうか。優人は想像を広げてみた。確かに、あの六畳間に監禁されていたとしたら、あの部屋の構造はその目的に適った、まさにうってつけの部屋だっただろう。部屋のドアには外から鍵がかけられるようになっており、内側からの開け閉めは不可能な構造になっていた。窓には鉄格子が取り付けられていた。しかも窓枠には釘が打ちつけられ、開閉することはできないようになっていた。あの部屋のなかに押し込められ、外から鍵をかけられてしまえば、もはや自力で外に出ることはできなくなる。ならばあの部屋は、そのマエカさんという女性を閉じ込メールためにあのような造作になっていたのだろうか。ではそのマエカさんとは何者だったのだろう。なんらかの目的で、どこからか誘拐されてきて、あそこに監禁されていたのか。優人はマエカなる女性の誘拐事件の報道に聞き覚えがなかったが、必ず報道されるものでもないだろうことはよく分かっていたから、これは特に疑問には思わなかった。誘拐されたからといって、マエカという人物が子供とは限らないし、家族のいない人であったとしたら、捜索願が出ずに事件自体が今も認知されていない可能性もある。人知れず誰かがどこかで連れ去られて、人知れず民家のなかで殺され、遺棄される。ありそうなことに思えた。少なくともないとは言い切れないところに、この国の現実の哀しさがあるように思う。
―いったいあの家で何が起きていたんかな・・。
そしてあの家に住んでいた寺藤という人物は、いったいどこに消えたのか。あの元郵便局員の老人の言葉によると、住んでいたのは婦人会の寺藤絵奈の親戚で、派手で近所付き合いのない女、そして小さな女の子がいるということだったが、その二人は今どこでどうしているのだろうか。女の子のほうは生きていれば自分と同じ年頃になっているというが、果たして自分と同じように元気に暮らせているのだろうか。
―そうであればいいけどな・・。
しかしこればかりは運次第だ。優人にできることは、このまま未愛についていって彼女の願いどおり立会人になってあげることぐらいしかない。今から未愛はあの家で見つけたノ―トを手に自分の家へ戻るのだ。そして自分の両親を問い質し、あの家で起きたことについて探るつもりでいる。優人を立ち会わせて、自分の親の罪の所在を明らかにするつもりでいるのだ。それがどれほど辛いことなのか、優人には想像もできなかった。安川なる女医と話すために病院に行く未愛について行った時には、まさかこんな事態になるとは思ってもみなかった。あの時は単に、未愛と少しでも長くいられればそれでいいと思っていた。そのためにロケ中に現れた襲撃者の例まで出して、護身などという些か大袈裟な理由をつけただけだったのだ。
溜息をつき、優人はふと振り返って後方に視線を向けた。ベルの音が聞こえたと思ったら、自転車がすぐ近くまで迫っていた。この道は道路といっても車一台がとりあえずは支障なく通れるというぐらいの狭い生活道路だから、優人は未愛の手を引いて道端に寄った。自転車に乗った女性はありがとうと呟いて、そのまま優人たちを避けて通りすぎていく。女性は優人には見覚えのある服装をしていた。優人も通っていた近くの中学校の夏服だった。後輩だろう。八月の夕方近いこの時間に学校の制服を着ているとは、部活か塾の帰りかもしれない。
懐かしい光景だった。かつては優人も同じ学校の制服を着て、夏休み中も頻繁に学校へ行っていた。部活の練習試合や補習があったからだが、終わってからもそのまま塾の夏期講習へ出席していた。優人にとって、夏休みは決して休暇ではなかった。思えば学期中よりも忙しい日々を送っていたような気もするが、思わずその女子中学生の姿を目で追ってしまったのは、なにも懐かしさばかりではなかった。
―あの子のリュック、レインボ―ロ―ズの・・。
そのことが認識できたのは、女子中学生が優人の脇を通り過ぎる、まさにその瞬間のことだった。おそらくサブバッグだろう、女子中学生の背にはやたらと派手な色合いのリュックがあった。それがレインボ―ロ―ズというブランドの品であることは、優人には一目で分かった。
そのブランドになにやら不穏なものを感じたのは一瞬のことだった。優人がリュックのブランドに気づいた時にはもう、未愛の様子が変わっていたからだ。女子中学生の後頭部が視界に入った頃にはもう、優人はそれどころではなくなっていた。
未愛は急激に身体を傾がせてきた。あまりにも突然に倒れ込んできたために、最初は暑さにやられたのかと思ったほどだ。しかし、そうではなかった。優人に倒れ込んできた未愛はすぐに身体を起こした。そして、遠ざかっていく女子中学生をまっすぐに見据えた。
―なんだ・・?
優人は自分の目の前で起きていることがなんなのか分からなかった。それぐらい、目の前で起きていることは常軌を逸しているように思えた。
未愛が女子中学生を見据えると、突如として未愛の周りだけ熱風が吹き荒れた。ファンヒ―タ―の風よりも熱いその風に、優人は耐えきれず未愛から駆け足で遠ざかってしまう。しかし未愛のほうは、自分の周囲で吹き荒れるその熱風にも、何も感じていないかのような顔で平然としていた。ついさっき優人に倒れ込んできたというのに、今はそんなことなどなかったかのようにしっかりと、自分の足で地面を踏みしめている。そして背後の優人など、忘れ去ったかのような顔で、前方の道路を自転車で遠ざかっていく女子中学生を見つめていた。その表情にはかつて一度も見たことがないほどの憎悪の色があり、優人はその表情の禍々しさに一瞬、今が猛暑の八月であることも忘れて鳥肌が立つような寒気を感じてしまった。
―神住・・?
呼びかけようとは思った。いったいどうしたのだろうと。しかし優人が突然の異常な変化から我に返って未愛に呼びかけようとした時には、すでに未愛は動き出していた。ゆっくりと腕を上げてこちらに背を向け遠ざかる女子中学生を指差したかと思うと、目を眇メール。真夏の太陽の眩しさに目を細めたかのような何気ないその瞼の動きの後、それは起こった。
あまりの事態に優人は声を出すことすらできなかった。もはや何と言ったらいいのか、何を言うべきなのかも分からない。いや、そもそも声を出すことすらも忘れていたのかもしれなかった。自分が何をすべきなのかも判断できない。今、自分の目の前で起きていることは、いったい何なのだろうか。
最初に見えたのは閃光だった。まるで稲妻のような光が一瞬だけ閃き、それはすぐに消えた。だがその直後、何かが爆発でもしたかのような激しい音がした。優人はその音の大きさに、反射的に後ずさったものの、すぐに立ち止まって目を見開く。目の前にあったのは、およそこの世のものとは思えない光景だった。
道路の先で激しい炎が渦巻いていた。直前まではなかったのに、気がついたら目の前に火柱が立っていたのだ。何が燃えているのか、ここからでは分からない。優人の記憶では、路上にはごみ袋の一つも置かれていなかったはずだった。なのにどうして、ここまで激しい炎が生まれたのだろう。いったい何に引火したというのだろうか。
―あの中学生は、どこに行った?
呆然としていた頭に、ふいに人間としての思考が戻ってきた。優人はそれで我に返ることができた。そうだ、たった今までこの道路の上は、自分と未愛の他にあの名も知れぬ女子中学生がいたはずだった。彼女の姿は、今どこにあるのだろう。もしやあの突然の火柱に、巻き込まれたりはしていないだろうか。
思い立つと急に心配になってきた。優人のいるところからは火柱以外、何も見えない。あの女子中学生がこの火炎を回避することができたかどうか、それは優人には分からなかった。だが分からないとなると、逆に気にかかってくる。優人は自分に危険が及ばない範囲で、炎のほうに近づいてみることにした。だが一歩、足を踏み出し、もう一歩、足を踏み出し、三歩めを踏み出したところで足を止めてしまった。それは身の危険を感じたから、というのとは少し違った。優人の前に未愛が倒れ込んできたからだ。咄嗟に足を止めて、未愛を受け止メール。完全に不意を突かれてのことで、支えきれずに未愛を抱いたまま地面にしゃがみ込んでしまった。今度は未愛は、すぐに身体を起こしてこない。蒼白な顔で目を閉じたまま、ぐったりと、優人に己の全てを預けてきていた。
いつかの住宅火災を目撃した時と同じだ、優人はそう気づいた。あの時も、未愛は優人に凭れかかったまま倒れ込んできて、しばらく意識がなかった。しかし今回は、あの時と完全に同じではないと優人は気づいていた。未愛の様子が、というだけではない。自分の思いが全く違うものになっていたのだ。あの時は、純粋に優人は未愛が心配だった。突然倒れて意識がないことに、不安で心配でたまらなかった。早く目覚めて元気になってほしいと思っていた。それは本心だった。しかし今は、それがほとんどない。今の優人の思いは、未愛に対して心配というより恐怖のほうが勝っていた。意識がないならそのほうがいいとさえ思ってしまう。それぐらい、優人にとって未愛は恐ろしい存在になっていた。このまま目覚めてほしくなかった。いったい彼女は、あのとき何をしていたのか。
かしゃん、と何かが落下するような、弾けるような音が聞こえてきた。優人は反射的に顔を上げた。今のこの状況では、どんなに些細な変化でも優人にとっては恐怖があった。
―まさか。
優人は息を呑んで目の前の火炎を見つめた。火の勢いは衰える気配がなかった。炎が空中に噴き上がると、それに反応したかのように火の中で何かが弾けるような音がする。火のなかで、何かが燃えていく音だ、そう悟って何が燃えているのか見定めようと視線を地面のほうへ滑らせていき、視界に入ったそれに戦慄した。凍えるような寒気がする。真夏の太陽の下、目の前では炎が燃え盛っているというのに、優人には極寒の南極に放り出されたかのように身体の震えが止まらなかった。
炎のなかで弾けていたのは倒れた自転車の車体だった。それが炎に包まれて、火のなかで弾かれるような音を立てながら、なんともいえない臭いを放っている。その意味が分からないほど優人は愚かではなかった。目を離さずにいると、布の塊のようなものが炎のなかにあるのも見えてくる。それがセ―ラ―カラ―のついたシャツを着た人の身体であると気づくのにも、時間はかからなかった。
―なんてことだ・・。
優人は愕然としてその場で身動きがとれなくなってしまった。もう自分がどうしたいのか分からなかった。目の前のこの、誰が見ても明らかな惨事を前に何をしたらいいのかも分からない。それぐらい混乱していた。今ほど誰かに指示してほしいと願ったことはないかもしれない。これからどうすればいいのか、切実に教えてほしかった。
「―素晴らしい、これが、マエカちゃんの力か・・」
感嘆するような溜息が聞こえてきた。背後からだと気がついて、優人はびくつき、慌てて振り返る。混乱すると感覚が鈍くなるのだろうか。声が聞こえるまで優人は背後に人がいたことに、気づいていなかった。
「思っていた以上だ。これなら、充分に我らの戦力になりうる」
そう満足そうに呟いたのは一人の男だった。どこにでもいそうな若いサラリ―マン風の男で、口許に浮かべる微笑には爽やかさすら感じる。だがそれは、あまりにもこの場において場違いな表情に思えた。いったいこの男は、なぜ、これほどの惨状を前にして笑っていられるのだろう。普通なら血相を変えて動転し、常軌を逸した火炎に狼狽えるものではないのか。
「―君も見たんだね?」
信じられないものを見る気分で呆然と男を見上げていると、男はそう言ってじろりと優人を睨んできた。訊ねる口調だったが確信が感じられる。男は優人が何を見たと考えているのだろうか。
「では、君にも来てもらう。君は真野優人君だね?おとなしくすれば手荒なことはしない。夜までには家にも帰してあげよう。だから、今は我々と来るんだ。むろん彼女と一緒に」
男は微笑を浮かべながら、一歩、こちらに近づいてきた。その動きで優人には男の背後の様子がよく見えるようになった。男の背後には一台の白い普通乗用車が停まっている。どこにでもありそうなその車は、さっきまでは存在していなかった。優人が突然発生した火炎に驚いて、呆然としている間にどこからか現れてあの場所に停車したのだろう。ひょっとしたら、この男はあの車でここに乗りつけてきたのかもしれない。車がやってくる音すら認識できないほど、最前の自分は混乱の極みにあったのだ。だがだからこそ、この状況でこれだけ落ち着いていられるこの男の言動は不可解だった。この男はいったい何者なのだろう。我々と来いとは、いったい何を言っているのだろうか。
得体の知れない男が近づいてくるのには本能的な恐れがあった。しかし後ずさろうにも背後で正体不明の火炎が燃え盛っていることを思えば、優人には男から遠ざかることは難しい。それで優人は腕のなかの未愛をしっかりと抱きしめた。彼女に対する恐怖が消えたわけではない。ひょっとしたら、無意識に優人は彼女を盾に自分を守ろうとしたのかもしれなかった。卑劣なのは分かっている。しかしそれ以上に、優人は目の前の男が怖かったのだ。未愛を目の前の男に奪われたくはなかったが、同じくらい自分も男の傍には近づきたくなかった。
「―どうしたんだね?ああ、腰が抜けたか?まあ、それも仕方ないのであろうな。我らにとっては周知のことでも、君にとっては突然の原因の分からぬ出来事であったのだろう?それについても聞きたければ説明してやろう。だから今は、君は我々に従うんだ。いいね?」
男の口調には有無を言わせぬものがあった。気がつくと目の前まで接近していた男は、優人の前まで来ると半ば強引に未愛を抱き取ろうとする。優人は抵抗したが、未愛はあっさりと奪い去られてしまった。意識のない未愛を抱いた男は、優人を見下ろすとついてくるよう顎をしゃくる。それだけで歩き出していこうとし、それを見て取って優人はズボンのポケットに手を入れた。頭が少し冷静さを取り戻していた。ポケットのケータイで、警察を呼ぼうと思ったのだ。
だがポケットに手を入れた瞬間、優人は動きを止めてしまった。
「―ああ、忘れていた。ポケットのなかのものは、我々に預けてもらおうか」
冷ややかな口調で命じる声が聞こえた。あの男の声だったが、優人は顔を上げてそれを確認することができなかった。動いてはならない、と無意識が決断したのだ。額に押し当てられた金属の冷たく硬い感触が、それを優人に促していた。
「最近の学生は油断がならない。なぜ誰もが学業には必要ないはずのケータイなど持ち歩いているのか理解に苦しむが、それが事実なら我々としてもその現状に合わせた対応をするだけだ。我々の前で我々の許可を得ずに行う第三者への通信は認めない。それが可能になるような機器類は全て預けてもらおう。従えない場合、私は躊躇なく引き金を引く。もともと君の生命に関心などないのだからね。私が引き金を引けば、銃口は確実に額を貫いて君の頭を砕くだろう。死にたくなければ私に従うことだ」
声にはいっさいの感情が感じられなかった。この男なら本当に、優人が従わなければその通りにするだろうと思えるほどの気迫があった。
優人は僅かに逡巡したものの、結局は諦めて男に自分のケータイを差し出した。誰か、この男とは無関係の他人が、この騒ぎに気づいて出てきてくれないかと思ったのだが、それは期待できそうになかったからだ。ならば、優人としては自分で自分の生命を守るしかなかった。正直なところ、ケータイを渡した瞬間に射殺されるのではないかと、気が気ではなかったのだが、ケータイが掌から離れる感触がするのと額から銃口が離れる感触がするのは、ほとんど同時だった。額から人工的な冷たさの感触が消えると、優人は安堵の息をつきかけたが、すぐに立って歩くよう命じられて、我に返った。
「移動する。車に乗れ」
短く命じられて、優人は息を呑む。男の左手には黒光りする物体があった。少し距離ができただけで、自分の生命が脅かされた状態に変わりがないことは、一瞬で理解できた。
優人は突きつけられた銃口から目を離さないようにしながら、静かに白い乗用車のほうへ向けて歩を踏み出していった。
窓の外が闇に満たされ始めた。その様子を眺めながら、本当に周囲にはまったく人が住んでいないんだなと嘆息する。あの男の言葉に嘘はないようだった。ならば本当に自分は安全にいられるのだろうかと、優人はぼんやりと思う。
視線を室内へと滑らせた。外とは対照的に煌々と照明の灯された部屋は、使う者が快適に過ごせるようなあらゆる物資、設備が揃っている。ドアと窓が内側から開けられないことを除けば、自分が閉じ込められていることさえ、忘れてしまいそうだった。
―これ、監禁っていうれっきとした犯罪だよな・・。
そのはずだった。自分と未愛は、武器を持った相手に脅されて、無理やり車に乗せられ、ここまで連れてこられたのだ。ここがどこかは分からない。優人を拳銃で脅した、あの正体不明の若い男は、未愛をこの部屋に据えられたベッドに寝かせ、優人に彼女を見ているよう命じると、部屋を出て行った。それきり戻ってきていない。男が出る時にドアには鍵がかけられる音がした。駆け寄ってノブを回してみると確かにドアは開かず、内側には解錠するためのつまみなどもなかった。完全に閉じ込められている、それだけが明白な事実としてあった。
それから少し時間が経った。未愛はまだ目覚めない。腕時計は取り上げられなかったから、今が夜の八時であること、あの原因不明の出火から二時間以上が経っていることは分かっていたが、それだけ分かってもどうしようもなかった。こうなるともはやどうしたらいいか分からず、優人は窓辺を離れると未愛の傍に歩み寄った。勝手な話だとは分かっていても、今の優人には一刻も早く未愛に目覚めてほしかった。未愛だけが、今の優人と立場を同じくしている仲間だからだ。
ベッドの傍にしゃがみ込み、優人は未愛の手を握った。ひんやりとした冷たい手だった。寺藤家に行く時に繋いだ手は、こんなに冷たくなかったから、もともと冷え症だったというわけではないはずだ。未愛はあの異常出火の時から尋常の状態ではなくなっていた。ならばこの手の冷たさも、あの異常と何か関わりがあるのかもしれない。
しかしそれ以外に明確な異変は出ていなかった。脈もあれば呼吸も穏やかに繰り返している。突然倒れたことと顔色が少し悪いことを除けば、単に眠っているだけのようにしか見えない。そうであってほしかった。それならいずれ必ず目を覚ますからだ。このまま未愛が失われるようなことがあれば、優人にはもうどうしたらいいか分からない。それは未愛だけがあの異常出火のことを知る当事者であるというだけではなかった。優人にとって未愛はかけがえのない人なのだ。あんな凄惨な光景を見た後でも、それだけは変わらない。失われると考えただけでも譬えようのない喪失感が湧き上がってくる。それはもう、抑えようと思っても抑えきれるものではなかった。
―神住、頼む。目を開けてくれ・・!
祈りを込めて手を握る力を強メールと、まるでその願いが通じたかのように未愛が微かな呻き声を上げた。長い睫毛がぴくりと動いたのが視界に入り、優人は身を乗り出す。神住、と呼びかけると、瞼が僅かに持ち上がった。
「神住、目が覚めたか?大丈夫か、起きられるか?」
矢継ぎ早に問いかけると、未愛は何度か瞬きを繰り返した。しばし眩しさを堪えるような仕草をした後、大きな瞳をいっぱいに見開いてその場に身を起こしてくる。辺りを見回し、ここはどこ、と優人に問いかけてきた。
「俺は知らない。連れてこられたのがここだった。ここがどこにあるどういう地域なのか、俺にも答えられない」
分かるのは市街地から離れていることぐらいだと答えると、未愛は目を見開いてきた。いったい何があったのだと問われ、優人はこれまでのことを説明する。なにひとつ隠しはしなかった。自分たちを自転車で追い越していった女子中学生がいたこと、その直後の未愛の様子の変化、そして女子中学生が炎に包まれたこと、その後に現れた正体の分からない男のこと、そしてその彼に脅されてここに連れ込まれたこと、全てを。
話を終えると未愛は蒼白な顔になっていた。呆然とした表情で、なんでそんなことに、と呟いている。自分はそんなこと覚えてないと。
「・・私、そんなの、知らない。その、女の子は、確かにいた、と思う。それは覚えてる。けど、私、そんな惨いことが起きたのなんて、見てない。私が覚えてるのは、その子が自転車で通り過ぎていくところまでなの。女の子が自転車で通り過ぎようとした時に、なんかすごい眩暈がして、その後のことはなんにも覚えてない。気がついたら、この部屋にいて・・」
未愛は不安をいっぱいに湛えていた。その表情からは優人は偽りを感じられなかった。彼女は自分のなかにある真実をありのままに語っている、そのように見える。しかしだとしたらいったいどういうことだろうかと、優人は薄ら寒いものを感じた。未愛が眩暈を感じた瞬間というのは、優人があの女子中学生が通り過ぎるのを見送った直後の、あの時のことだろう。あの時、未愛は急に優人に向かって倒れ込んできた。では未愛はあの時に、自らの意識を手放していたというのだろうか。ならばその後、自分が見たものはいったいなんだったというのだろう。優人は混乱した。何を信じるべきなのだろうか。未愛はあの時、倒れ込んですぐに自分で身体を起こした。あの動きは眩暈を感じた人間の動きではない。すると、あのときの未愛は未愛ではなかったというのだろうか。未愛はあの時、自分は意識がなかったというのか。では自分が見たものはいったい、何だったというのだろう。
―素晴らしい、これが、マエカちゃんの力か・・。
鳥肌の立つような思いを味わった時、ふいにその言葉が耳の奥に甦ってきた。自分たちをここに連れて来た、あの男の口にした言葉だ。あの時、突然現れたあの男は確かにそう言ってきた。あの言葉はいったいどういう意味か、今になって気にかかってくる。マエカ、それは未愛も口にしていた言葉ではなかったか。あの寺藤家を訪ねた時、未愛はその名を口にしていた。この家で、マエカさんは閉じ込められて殺されたのだと。二人はどうして同じ名を口にしたのか。マエカとはいったい誰なのだろうか。マエカちゃんの力とはどういう意味か。それはあの未愛の異変と関係があるのだろうか。
分からないことだらけで優人は癇癪を起こしたくなってきた。なぜ自分が、こんな得体の知れない場所で、こんな思いをしなければならないのか。全てはあの男のせいだと優人のなかで憎悪が漲ってきた。マエカが誰でも自分にとってはどうでもいい。なのにそのどうでもいいことのために自分は生命を脅かされているのだ。
だがその不満も憎悪も吐き出す場所がなく、優人は苛立つ気分を弄びながらドアのほうを睨みつけた。未愛が目覚めたことは喜ばしいが、その未愛が自分に起きた異常さえ説明できないようでは優人の疑問は解消しない。こうなれば自分たちをここに閉じ込めて出て行ったあの男の再訪を待つしかできることがないが、いっこうに現れる気配はなかった。後でまた来るからそれまで未愛の様子を見ていろといった言葉は、どうしてしまったのだろう。
苛立つ思いを押し隠しながら、何をすることもできずに来るかどうかも分からない男を待ち続ける、それはかなりの根気を要することだった。時間が流れるのすら緩慢に感じられる。持て余し気味の時を手持ち無沙汰に過ごし、優人は無目的に室内を歩き回った。設備の整った部屋だが、当然というべきか通信機器や情報機器の類いは一つもなく、他にできることもない。それでもひょっとしたら、ここに来た経緯を把握しているだけ優人はまだましなのかもしれなかった。さっき言ったことが本当なら、未愛は慣れ親しんだ近所の道路から突然この見知らぬ部屋に移動したように感じているはずだ。自分の与り知らないところで自分の身体だけが移動している、その恐怖は察するに余りある。
それでほとんど会話らしい会話もない、妙な緊張感だけが漂う重苦しい時間を過ごすと、ようやくその緊張を打ち破る音が聞こえてきた。もっとも待ち望んでいた音というのとは少し違う。聞こえてきた音はドアの向こう、複数の人間の立てる足音だったからだ。
―あいつか。
優人は聞こえてきた音に反射的にドアのほうを窺った。それは未愛も同様だった。ベッドに腰かけたまま、優人以外の誰かが立てる足音に緊張した表情で聞き耳を立てている。二人して無言でドアを見つめ合い、そうしていると足音が徐々に大きくなってきた。やがてその音が止むと、今度はドアで金属が甲高い音を立てる。外の風が吹きこんでくると、優人は警戒してそちらを凝視した。
「―ああ、目が覚めたようだね」
朗らかな声が聞こえた。外の空気と共に部屋に足を踏み入れてきたのは、優人たちをここへ連れてきた、あの男だった。背後に二人の人間を従えている。同い年くらいの若い男女で、その二人は男と違い、一言も喋らずなんの表情も浮かべていなかった。
「体調はどうだい?どこか苦しいとか、痛いとか、そういう異常はあるかな?」
男はにこやかにそう話しかけてきながら、未愛のほうへと近づいてきた。優人のほうへは目もくれなかったが、男が傍に寄ると、優人が駆け寄るまでもなく未愛が悲鳴を上げて飛び退いた。恐怖に震えるような顔で、未愛は男を見上げている。
「・・あなた、鷹橋さんの家にいた人ですよね?」
思わぬ一言が飛び出てきた。その言葉の衝撃に優人の足は止まり、男のほうを見てしまう。だがそう言われた男のほうは、何も気にしたふうもない表情で苦笑を浮かべていた。
「へえ、よく分かったね?」
「分かりますよ。だって、あなたはあの時、襲ってきた人と同じ臭いをさせてるじゃないですか・・」
未愛は恐怖からか、絶望したような面差しに見えた。その様子に優人は未愛に駆け寄る。彼女を抱き寄せるようにしながら、男を睨んだ。
「お前、あのときも鷹橋の家に来ていたのか?何が目的だ?なんで神住を連れ去ろうとした!」
言い募ると、男は感心したような顔になった。
「ほう、君はずいぶんと彼女と親しいようだね。ひょっとして惚れているのか?恋人かね?ならば気の毒だがその恋は諦めてもらわねばならないな。彼女は我々の重要な戦力だ。そうではない君とこれ以上関わらせることはできない」
唐突な言葉だった。意表を突かれて優人は男を見つメール。何を言ってるんだ、という感覚しかなかった。未愛は自分の重要な戦力だから関わらせないなどと、この男はなぜそんな主張をするのだろう。この男に優人の行動を制約する、いったいどんな権限があるというのか。
だが優人のそんな戸惑いや怒りなど構わぬ風情で、男は未愛に微笑みかけてきた。
「初めまして、神住未愛さん、だね?君は私とは初対面だろうが、私は君のことはよく知っていた。市民総合病院の安川医師から連絡を受けていたからね。君が発現したらしいと。だからずっと君の周辺で、君のことや君の周りで起こることを調べさせてもらった。その結果、君が極めて我々の理想に近い者であるということが分かったから、こうして迎えに行かせてもらったんだよ。我々は君のような理想的な者に出会えて嬉しい。だから君も、我々に協力してもらえないだろうか?」
協力。優人はその言葉に反感を抱いた。男は口先だけは丁寧に未愛に頼み込んでいるが、この状況では脅迫とそう変わらない。いったいどこの誰が、通信手段を全て奪われた状態でどこかも知れぬ場所に閉じ込められて、それをなした人間の言葉に逆らえるだろう。そんなことをすれば自分の生命が危うくなるかもしれないというのに。
「協力って、どんなことへの協力ですか?私の何が、あなたがたにとって理想的なんです?」
未愛が男に問い返した。優人が抱いたような反感を、多少なりとも未愛も抱いているのかもしれない。口調がかなり強張っていた。
「君が発現していることだよ。それが理想的なんだ。異能の力が芽生えることを、我々は発現って呼んでる。普通は君ぐらい成長してから発現することは稀だから、君はかなり特殊なんだ。発現している者は我々にとって貴重かつ重要な戦力だ。だから協力してほしいんだよ」
男は親しみやすそうな微笑みを浮かべていた。優人や未愛の反感など、まるで意に介していないかのように見えた。
「勿論、そのためにまだ若い君の人生まで犠牲にしろとは言わない。その同意が取れたのなら、家には今すぐに帰すさ。そちらの彼も一緒にね。それは約束しよう。我々の組織に力を捧げれば、その代償にこちらも君にできる限りの援助をする用意はある。君は高校三年生だったな?それなら今の最大の懸案は卒業後の就職か、大学受験の合否だろう。どちらを希望しても我々には君にとって最良の結果を与えてあげられるよ。どこでも行きたい大学を言えばいい。なんなら留学や、大学院までの学業継続を申し出てもいいよ。就職にしても同じだ。やりたい仕事を言いなさい。映画に興味があるなら、大手の芸能プロダクションに入れるよう手配しよう。プロの女優としてやっていくことも、君にとって夢じゃなくなる」
「・・ずいぶん、いい条件を出してくれるんですね。そこまでしてくれるなんて、あなたはいったい私に何を望んでいるんですか?」
未愛は疑心暗鬼そのものといった表情をしていた。それはそうだろう、胡散臭すぎると優人も思う。この男は未愛が何かに協力をすれば、優人と一緒に無事に家に帰すだけでない、卒業後の進路まで保証すると言っているのだ。人を二人もわざわざ誘拐し、監禁までしている犯人にしては親切すぎる申し出。怪しさしか感じない。ここまでする男は、いったい未愛に何を望んでいるのだろう。何に協力させようとしているのだろうか。常識的に考えれば、犯罪への加担、というのが最もありそうではあるが。
「何を望んでいるか?簡単なことだよ。君のなかにはマエカちゃんがいる。マエカちゃんは君のなかで力を発現させた。正確には発現しているのは君ではなくてマエカちゃんということになるんだろうね。けどマエカちゃんは今や君と同体だから、我々がマエカちゃんの力を得ようと思えば君の協力が不可欠なんだ。だから我々は君を発現したとみなし、君を組織の戦闘員として迎え入れることにした。君ほどの力の持ち主は我々のなかでも貴重だ。ぜひとも戦力として抱えておきたかった」
組織?戦闘員?優人は混乱を通り越して困惑した。もはや優人には男が何を言いたいのか分からなかった。この男は果たして今、本当に日本語を喋っているのだろうか。そんなふうにさえ思えてくる。言葉の意味が分からない。この男はいったい何を言っているのだろうか。もしやこいつは、何か良からぬ妄想にとりつかれてはいまいか。
「・・私のなかには、マエカちゃんがいる。それっていったい、どういうことですか?組織の戦闘員ってなんです?私の力が貴重とはどういう意味ですか?」
冷静な問いかけだった。未愛は優人ほど、状況の理解に戸惑ってはいないのかもしれない。毅然として、男に相対しているように見えた。
すると男は未愛の質問に僅かに怪訝そうな表情になった。だがそれはほんの一瞬のこと、すぐに男は何かを得心したような顔になる。そうか、君は知らないんだね、と口にした。
「なるほど、君は何も知らされないまま今日まで暮らしてきたということだね。まあ、それも悪いことじゃない。君のご両親は君には隠しておきたかっただろうからね。それならいい機会だ。君には見ておいてもらいたいものがある」
男は軽く背後を振り返った。自分に従っている二人のうち、女のほうを見てマエカちゃんのカルテを、と命じた。すると女は携えた鞄のなかから数枚の書類を取り出す。男はそれを受け取って内容を確認するように一瞥すると、それを未愛に差し出してきた。
「読んでみるといい。それは寺藤舞永歌という少女のカルテだ。分からないところがあれば説明するから、そこは訊いてくれ」
「・・なんで、カルテなんてものが、ここにあるんですか?ここは病院ですか?」
未愛は差し出されたカルテをすぐには受け取らなかった。なぜそんなものを気軽に見ろなどと言われるのかと、訝しく思っているのかもしれない。当然だと優人もそう思った。医者ではない優人にも、カルテがそんなに気安く人に回し読みさせられるような種類の書類でないことぐらいは、想像がつく。
「違うよ。ここは病院じゃない。医療設備はあるが、ここは組織の拠点だ。カルテがあるのは病院だからじゃないよ。それがあるのは安川医師がここで書いたものだからだ。うちでは資料の外部への持ち出しは禁止しているからね。端的に言えば、君はマエカちゃんの、つまりは寺藤舞永歌の生命によって生きている。そのカルテは寺藤舞永歌の生前最後の記録だ。彼女は三年前、身体のどこにも致命的な病変はないことが確認された後、摘出された臓器のうち心臓だけが君に移植された。君は三年前に寺藤舞永歌の心臓を貰い受けることによって生き永らえたんだ」
そんな、優人は思わず声を上げていた。そんな話はありえない、と思った。
「そんなことがありえるか。病院でもない場所でなんで臓器の摘出だの心臓の移植だのという手術ができるんだよ。神住がそんな手術を受けてないってことは、神住の親が断言していたぞ。俺だってそんなニュ―スは見ていない。脳死移植なら今でも新聞に載ったりするだろうが。下らんこと言うんじゃねえよ、人攫いが」
「下らないことじゃないよ。私は事実以外は口にしない。話を作るのは得意じゃないのでね」
男は苦笑していた。罵倒する優人にまるで子供を宥メールような目を向けていた。
「病院でなくても薬と機器と設備、それに医者さえいれば医療行為はできるものだよ。報道されなかったのは報道する連中が手術が行われたことを知らないからだ。連中の知っている手続きを経て行われた手術じゃないからね、当然だろう」
「報道の知っている手続きじゃねえってどういうことだ?まさかあんたら、そういう団体ってわけか?前に外国のどっかの街で、臓器だけを抜き取られた子供の死体が棄てられてたって事件が国際ニュ―スに出てた。同じことやろうってのか?俺と神住をここに閉じ込めて殺して内臓を盗ろうって考えか」
優人が声を張り上げると、未愛が腕のなかで小さく悲鳴を上げた。顔色は蒼白になっている。男は違うよ、と否定してきたが、優人は勿論、未愛も信じてはいないようだった。
「我々はそんな野蛮な団体ではないよ。そんなことはしないから安心しなさい。我々の組織の設立理念は人助けだ。社会の人々を貧困と理不尽な暴力から救うためにある。神住未愛君にはその手伝いをしてもらいたいだけだ。真野優人君には何も求めていないから心配しなくていいよ。我々のことを口外しないと誓約してくれれば、君はそのまま普通の生活を続けていくことができる」
優人は鼻で笑った。
「へえ?あんたのなかでは俺に拳銃を突きつけて従わなければ殺すと脅して無理やりこんなとこまで連れてくることや、他人の家で神住を襲うことは理不尽な暴力ではないわけか」
「襲ったわけではないよ。そう誤解されることがあったのなら謝罪しよう。私は単に神住未愛君と会って話をする手段を模索していただけだ。我が組織には紳士と淑女しかいない。暗闇に紛れて未成年の少女を乱暴するような不埒者の存在など許していないよ。人を救う者が人を苦しめてはならないからね」
じゃあこのカルテはなんだ、と優人は未愛の手から書類を取って男の前で翳してみせた。
「この寺藤舞永歌って人が死んだのはどう説明すんだよ?彼女の心臓を神住に移植したっていうんなら、この女性はもう生きてない。この移植手術をあんたらが斡旋したっていうんなら、あんたらがこの女性を殺したんだよな。正規の手続きでない移植手術ならカネだって絡んだだろ?意識を失くす前に残した本人の意思に基づいて、事故や病気で脳死になった後に摘出されたという、世間でよくある経緯で移植が行われたわけじゃないよな?だったらあんたらがやったのは臓器売買ってやつじゃねえのか?あんたは人の生命をカネに変えたんだ。それでよく社会の人々を理不尽な暴力から救うのが役目だ、みたいな顔ができるな」
「人聞きの悪いことを言うものだね。神住未愛君の移植に際して金銭の授受の事実はいっさいないよ。なんだったら神住未愛君のご両親にここから電話してみてもいい。希望があれば二人を呼んでも構わない。あの二人も我々の組織の構成員だ。我々のことは全て知った上で、移植を願ってきたのだからね」
この言葉に未愛はそれまでで最大の衝撃を受けたようだった。咄嗟には返答する言葉も思いつかないらしく呆然としている。それで代わりに優人のほうが口を開くことにした。優人にとっては、知りたいことは山ほどあった。男の言葉の真偽は別として、訊いておかなければならないことは多数ある。
「では、神住の親はあんたらのことも、寺藤舞永歌とかいう女性の心臓が娘のなかに入ったことも、知っているわけか?」
「勿論だ。寺藤舞永歌という少女は城聖市内のという地域に住んでいた。ただし、彼女の住民票はこの地域にはない。彼女は城聖市に市民として住民登録されていないんだ。そもそも出生届も出されていなかったと聞いたことがある。舞永歌の名前も私が適当につけて漢字を当てたからね。名無しのままにするのは分類上少し不便だったからそうしたんだけど、あの二人は最初、名前などつけないでくれと反対していた。名前で呼ばれるのを聞くと罪悪感が出てくるとか言っていたかな。なんでも舞永歌ちゃんは神住未愛君の母親の友人が、未婚で生んで自宅に隠していた子供だったらしい。戸籍もなく親に自宅に監禁されている子供を助けるのは我々の務めだから、神住未愛君の母親はそれを実行したのだが、その際に思いついたとか言っていたな。戸籍がなく存在が社会に認知されていない子供なら、殺して心臓だけ娘のと取り換えても誰にも分からないだろうと。むろん私を含め、組織の者は最初、全員が反対した。子供を助けるために事を起こしているのに、その子を組織の構成員の子供のために殺したのではもはや自分たちは義賊ではないとね。けど、我々は最終的には神住未愛君の母親の言葉を受け入れた。寺藤舞永歌ちゃんには社会で生きていくのに重大な欠陥があったんだよ。だから、死なせてやるのが善意だという決断に、全員が落ち着いた」
「それ、障害者っていう意味か?障害があったら死なせても構わないっていうのが、あんたらの考えなのか?中世以前の思想だな。あんた、どっからかタイムスリップでもしてきたのか?」
意図的に嘲笑を含ませて吐き捨ててやると、そうではない、と男は優人に首を振ってきた。
「まさか。舞永歌ちゃんは障害者だったわけじゃないよ。少なくとも私は心身にそうした異常は確認していない。舞永歌ちゃんにあった欠陥は念写の異能だったんだ。外に向けて力を発揮する念写なら、むしろ我々の活動には役に立つ非常に有り難い存在になっただろう。思念を他者に植えつけることができる能力というのは、使いようによっては念じるだけで人を殺せる人間を作れるということだからね。けど彼女はそうじゃなかった。彼女の異能は外ではなく自分の内に向けてのみ、力を発揮する異能だったんだ。だから彼女は、周りを行き交う人々の思念を自分のなかに取り入れては、その思念によって自分の自我を失っていった。私が初めて会った時には、その異能のせいで知能が異常に高くなっていたよ。義務教育も受けることなく、長年監禁されていたとは思えないほどだった。だがその頃からすでに、彼女は重度の多重人格患者のような状態になっていた。最初は誰もが虐待の弊害として精神に変調をきたしているとしか思わなかったが、日を追うごとにそれは悪化して酷くなっていった。僅か一月で、自我が完全に分裂した状態になって自力では動くこともできなくなってしまった。彼女を治すには彼女の異能を停止するしか術はなかったが、そのための方法はどれだけ探究しても見つけることはできなかった。それでやむなく、最前話した結論になった。その頃にはもう、彼女は意識すら保っていなかった」
男は心の底から嘆くような口調でそう言った。どこまで本気で話しているかは分からないが、少なくとも外見上は、手を尽くしたのに救えなかった無念さが漂っていた。
「摘出の手術を執刀したのは、うちの組織の構成員でもある医師の篠村心絆だ。つい先日、踏切の事故で死んだ。警察は事故として処理をした。しかし我々はその時の状況を教えてくれる諸々の資料を入手し、分析していくなかで、篠村医師の死は単なる事故ではないという結論を出している。おそらく我々が、すでに意識すら失っているとみなしていた舞永歌ちゃんは、本当は手術の直前まで意識を保っていたのだろう。そして自分がこれから殺されることを理解した。その思念は彼女の生命が絶たれた後も失われたりはしなかったんだ。摘出された彼女の臓器とともに提供者の体内で生き続けた」
男はそこでいったん言葉を切ると、背後の二人にいくつかの指示を出していった。二人は無言のまま、男に言われるままに鞄からモバイルパソコンを取り出して電源を入れたり、ファイルをめくったりしている。何をしているのかは、優人には全く見えなかった。何かを探しているようだが、いったい何を探しているのだろう。
「篠村医師は踏切に足を踏み入れて、そのままそこで足の動きを封じられてしまったために通過する電車に撥ねられて生命を落としている。彼女の動きを封じたのは我々の組織が言うところの異能だ。同じ異能を操る仲間はこの力を凍結術と呼んでいる。まるで氷で凍結させたかのように人を動けなくすることができるからだということだ。この凍結術が篠村医師に対して使われた痕跡が、あの事故現場にはあった。つまり誰か凍結術を使える人間があの場にはいて、それを篠村医師に対してあの場で使った、ということになる。あの場でそんなことができたのは、神住未愛君、君しかいない。あの事故はもう一人、城聖市役所に勤メール男性職員が見ているが、彼にそんな力がないことは我々で確認済みだ」
おそらく舞永歌ちゃんがどこかで凍結術を持つ人間と出会い、その力を自分のなかに複写してしまったのだろう、と男は語る。
「それがどこの誰かは知らない。けれど他に考えられない。舞永歌ちゃんの意思と力は君のなかで生き続け、君はその生命を継承することで己の身体に異能を発現させた。調べてみると君の周囲では何人もの人が事故で死んでいるね。例えば―」
準備できました、と言いかけた男の言葉を遮って背後の女が口を開いてきた。男は軽く振り返って女に頷いてみせる。女は未愛たちのほうに少し近づいてくると、モバイルパソコンの画面をこちらに向けてきた。画面には駅のホームを映した映像が流れていた。カメラの動きによる映像の乱れが全く見られない。どこかに固定して撮った映像だろう。位置からして防犯カメラの映像ではないかと思えた。
「これは城聖駅のホームに設置されていた防犯カメラの映像だ。これは三番ホームの映像、小さくて見えにくいかもしれないが、奥の一番ホームに神住未愛君の姿が映っている。その視線の先を注意して見てくれ。女性が一人、映っているはずだ」
言われてなんとなく、その映像に映る未愛の視線の先に優人の視線は移っていった。確かにそこには一人の女性の姿がある。見覚えのある顔立ち、上園絵理奈弁護士だった。仕事帰りだからなのか、地味なグレ―のス―ツには不似合いなほどの華やかなスカ―フで長い髪をまとめ、手許のケータイを操作している。そのスカ―フがレインボ―ロ―ズのブランドの品であることは、画面で見ても一目瞭然だった。桜川聖歌のファンで有名だった彼女なら、ごく自然なファッションなのだろう。
上園弁護士はホームのいちばん端に立っていた。しかし突然、彼女は誰かに押されたかのように身体を前方に傾がせた。前のめりになり、ホームから転落しそうになって慌ててその場に踏み止まる。だがすぐに、今度は身体を飛び上がらせて線路に転落していった。線路に倒れる彼女、そこへ電車が近づいてくる。ホームで騒ぎ始メール他の利用客の姿も少し映っていた。音声はなかったが、電車のライトが上園弁護士の姿を照らし出したところで映像は終わってしまった。視線を上げると、男は肩を竦めてきた。
「これ以上は刺激が強いだろうと思ってね。お望みなら続きもお見せするが?」
いや、と優人は湧き上がってくる嫌な気分を押し殺しながら男に言葉を返した。
「この映像がどうしたってんだ?」
「どうしたも何も、この映像が神住未愛君の異能の証拠だよ。今の女性の転落では我々の仲間が竜巻術と呼んでいる突風を起こす異能が使われた痕跡がある。篠村医師の時と同じように舞永歌ちゃんがどこかでこの異能を持つ人間の力を複写していたのだろう。この女性の身元はすぐに分かった。救急車で搬送された病院に彼女の母親と姉がいたらしい。姉は娘を産んだ当日だったというから、非常にショックが大きかったようだ」
男はそこで言葉を止メール。自分の他にもう一人いる男にファイルを差し出されたからだ。男はそのファイルを受け取ると、未愛に差し出してきた。
「次も映像を見せてもいいが、君たちがショックを受けるといけないから、こちらの一覧表を見ることをお勧めするよ。こちらは文字しか書いていないから、気分的にも楽だろうと思う。―今の女性は上園絵理奈という弁護士なのだが、当初はなぜ彼女が我々の組織の者の異能で襲われたのか分からなかった。上園弁護士はテレビ出演も多い、いわばタレント的な活動にも力を入れている弁護士だったのだが、特に悪い評判は聞かなかったからね。まあ、全くなかったわけではないが、我々が標的にするほどのことでもなかった。だが襲ったのが君らしいということと、君が発現したようだという安川医師の報告と、舞永歌ちゃんの異能のことを総合して理解できた時にようやく納得がいったんだよ。舞永歌ちゃんは、レインボ―ロ―ズに篠村医師を見ているのだとね」
レインボ―ロ―ズ、小さく呟く未愛に男は頷いてみせた。
「レインボ―ロ―ズというのはブランドの名前だ。もう製造されていないそうだが、かつて人気のあったドリ―ムガ―ルズというアイドルグル―プのメンバ―、桜川聖歌のプロデュ―スしたファッションブランドということになっている。篠村医師は確かそのブランドの服を愛用していた。桜川聖歌のファンだったということは聞いたことがないから、純粋に服のデザインが気に入っていたのだろうな。舞永歌ちゃんの世話はその死の直前まで、篠村医師が担当していたから、舞永歌ちゃんがそのブランドを篠村医師を表す象徴として見ていた可能性は高い。だからこの三年間、君の周りでそのブランドを身に着けた女性たちが次々と不可解な事故に遭って死んでいたんだ」
その女性たちの名前は、その一覧に書いてある、と言われ、優人は未愛とファイルに目を通していった。ファイルには一枚の紙が挟んであり、そこに幾人かの女性名と、彼女たちが事故にあった場所と日付が書いてある。ブランドをプロデュ―スした当の本人、桜川聖歌の名前もあったし、優人もよく知っている未愛の親友の友佐美優の他、間宮萌香や喜野環奈のような優人が直接は知らない人々の名前もあった。
「・・これ、みんな、私が殺した人たちの名前なんですか?」
呆然と呟くような声が小さく聞こえてきた。意味を悟って優人は腕のなかの未愛を叱る。そんなふうに言うな、と彼女の発言を遮った。
「変な男の妄言を頭から信じ込むな。異能がどうとかなんて、本当にこの世にあるわけねえし、仮にあったとしたって神住が殺したんじゃねえ。舞永歌って女を殺した奴らがこの人たちや友佐を殺したんだ。そんなふうには考えるな」
変な男の妄言とは随分失礼だね、と苦笑する声が聞こえてきた。その言葉に反射的に優人は注意を男に戻す。笑っている顔は先ほどの優人の言葉に怒っているようには見えなかったが、内心までは見えない。
「まあ、けどそこの彼の言う通りではあるから、君がそんなに気にすることはないよ。むしろ気にしてほしくない。気にされたらせっかくの稀少な能力を生かせなくなるかもしれないからね」
「生かす?生かすってあなたの言うこの舞永歌さんの異能の力のことですか?この力が、何かに生きるんですか?」
未愛が男に問いかけた。その縋るような言い回しに、未愛が男の言葉に影響されかけているように思え、優人は咄嗟に未愛を強く抱きしめた。未愛に、この場にいるのは自分一人だけではないことを再確認してほしかった。
いいことを訊いてくれたね、男は未愛の問いかけに今まででいちばんいい笑顔を浮かべてきた。白い歯を見せて笑う顔からは、一点の悪意も感じられない。
「勿論、あるさ。生かせる場所はたくさんある。我々の組織は本来、異能を使える人間は歓迎しているんだよ。超常的な異能の力を使えば、周囲にそうと悟られずに悪徳を駆逐してしまえるからね」
男は両手を広げて歓迎しているポ―ズを全身で表してきた。
「いったいこの世にはどれだけの理不尽が溢れていると思う?君たちぐらいの年になればもう、テレビで新聞で、それ以外のあらゆる書物で、世間のことはよく知っているだろう。最近はインタ―ネットも普及しているから、よりそうした理解も早いはずだ。この世には社会に蔓延る悪徳のせいで、理不尽に苦しめられる心正しき善人たちが大勢いる。不当に苦しめられ、抑圧され、さらには生命まで奪われる彼らのために立ち上がり、真に清く正しい世界を作っていこうというのが我らの組織の存在意義だ。君はそのために我らの敵となる社会の害悪を、誰にも疑われることなく消し去れる最高の戦力となれるんだよ。私はそのために、君に自分の力を使ってほしいと思ってる。そのために君に協力してほしいんだ」
「なんだ、要するにあんたらはテロリストか」
優人が男の正体を悟って冷めた気分になると、君はずいぶん口が悪いようだね、という苦笑だけが返ってきた。
「あまり口が悪いと彼女に嫌われるよ。我々を中東で宗派対立を繰り広げる野蛮な集団と一緒にしてほしくはないね。我々はもっと気高い理念を掲げている組織だ。私は自分の所属しているこの組織を現代日本における義賊だと思っている。この世にはその者の死をもって初めて駆逐できる悪徳というのが少なからずあるからね。それらを除去していくのが我らの組織だ。そうした悪徳は司法で解決するのは不可能だからね。刑事事件なら特にそうだ。日本の裁判所はマスコミが騒ぐ事件ばかり、厳罰化していく傾向があるからね。そうでない事件は軽んじられる傾向にある。ではそうした事件で被害を受け、人生を狂わされた人々はどうすればいい?マスコミが掲げる美しき家族の絆幻想に踊らされる社会にあって、その家族に虐げられた人々は、いったい誰に救済を求めたらいいのか?我々はそうした人々の盾となり槍となる組織なんだよ。断じてテロリストなどではない。我々は家のなか、社会の目の届かない場所で不当に虐げられている人々を救済し、家庭内の事件となった瞬間に不当に軽く扱う社会に代わってその悪を駆逐することを使命としているんだ。舞永歌ちゃんの母親も、普通に警察の手に委ねていたら、たいした罪にも問われずに今頃は堂々と君たちの周囲を歩いていたかもしれないよ」
最後に発されたのはそんな不穏な一言だった。この男は何かマスコミ関係で深刻なトラブルでも抱えているのかと思いながら優人は口を開く。なんとなく、舞永歌の母親は今どうしているのか知りたくなったのだ。寺藤絵奈の親戚だというその母親は、発覚すれば重罪に問われる罪を犯している。この男の言葉が全て正しいのなら、彼女は一人の女性の人生を全て奪ったに等しいからだ。その母親は今どこにいるのだろう。もしかして、と優人は思った。もしかして、舞永歌の母親は、普通に転居したのではないのではなかろうか。悪を駆逐する、その言葉を鵜呑みにするなら、すでに生きてはいない可能性もある。むしろその可能性のほうが高い
だが問いかけた優人に、男はにこやかに笑んで首を振ってきた。
「それは君が知らなくていいことだよ。それを知れば君はこの組織から抜けられなくなる。君はこのまま家に帰って、これからも普通に暮らしていきたいだろう?ならば、余計なことは知らないことだ」