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存在しなかった少女

「すご―い、未愛は女優さんになるんだ」

 病室のベッドに身を起こした少女はそういって歓声を上げた。未愛は慌てて否定する。べつにプロになるわけじゃないよ、と言葉を足すと、それでもすごいよ、との声が返ってきた。

「いいなあ、面白そう。そう簡単に映画なんて出れないもんね。どんなふうにできあがるんだろう。詩奏もその映画見たいなあ」

「じゃあ完成したらここにもそのDVD持ってきてあげるよ。ぜひ見て感想を聞かせて」

 うん、とその少女は大きく頷いて笑ってきた。少女は初対面のはずの優人にも全く物怖じした様子がなかった。優人が話しかけると、時として未愛など意識の外に追いやったかのように二人だけで盛り上がってたりする。

 その様子になぜかもやもやするものを感じながら、未愛は少女に気づかれないよう腕時計の時刻を確認した。あと三十分で定時の診察だ、と思うと、久しぶりに緊張するのを感じる。

 ―それにしても、詩奏、思ったより元気そうでよかった・・。

 未愛は自分のなかにある正体の分からないもやもや感を押し隠しながら、詩奏が思ったよりも元気にしていたことに安堵していた。それが見かけだけであることぐらいは、もちろん分かっている。ここは病室、詩奏はまだ入院患者のままなのだから、病状は好転どころかむしろ慢性化しているのかもしれない。

 目の前の少女はといった。未愛より一つ年下で、未愛にとっては数少ない友人の一人である。未愛もかつてはこの病院に入院していたのだから、そういう意味でとても気安い存在だった。だから未愛は自分が退院してからも暇を見つけては詩奏のところに見舞いにいくようにしている。そのため安川先生が今でも詩奏の主治医であることはよく知っていた。それならば安川先生に個人的に話を聞きたい場合、見舞客として詩奏のところを訪ね、雑談を装って質問をするのがいちばん迷惑にならないのではと思えたのだ。

 だから未愛は、病室に入るまではまるで詩奏を利用しているみたいでとても居心地が悪かった。しかし詩奏が優人に懐いているように見えると、訪ねてきてよかったと思う反面、複雑な気分になる。なんだかまるで、自分が置き去りにされているかのような妙な感覚があった。優人の視線が自分に向いていないことが、寂しくてならない。

 なんでこんな気分になるのだろう。未愛は自分の気持ちを持て余しつつ、詩奏と優人が楽しげに語り合うのをぼんやりと眺めていた。未愛は他人と話をするのは苦手ではないのだが、他人が話しているさなかに割り込んでいくのは昔からどうしても不得手だった。なので詩奏が優人とばかり話し始メールと、なんとなく黙り込んだまま手持ち無沙汰に過ごしてしまう。ぼんやりと安川先生が来るのを待ち、やがて定刻より少し遅れて先生がやってくると、安堵して未愛は詩奏の容態を確認する安川先生に話しかけた。自分はあのときどういう手術を受けて、今のような健康な身体になれたのだと。

「どういう、って、そうですね、まあ、難しい専門用語は使わずに説明するのでしたら、心臓の血流をよくする手術ですよ。神住さんの病気は少し特殊な、発症すること自体が稀なものでしたからね。ずっと対症的な治療法しかできなかったんですけど、あの時はちょうど外国の優秀なドクタ―が来日してらしてね」

「移植とか、そういった手術ではなかったんですか?」

 違いますよ、安川先生は笑っていた。即答だった。

「そんな説明は受けていないはずですよ。この病院ではまだそんな大きな手術の実績はありません。そんなことがあればテレビのニュ―スになるでしょうね。東京とかの大都市ならともかく、城聖市は小さな街なんですから」

 そうですね、と未愛は頷いた。頷かざるをえないような雰囲気があったが、未愛が頷くと安川先生はそれ以上は未愛に話しかけてこなくなり、詩奏の問診に戻り始メール。詩奏は特に病状を悪化させていたりはしていなかったらしく、先生はやがて満足そうに微笑んで病室を出ていった。去り際に何かあったらナ―スコ―ルのボタンを押すようにというお決まりの一言を添えて、その姿が見えなくなると、詩奏が未愛に向けて身を乗り出してくる。

「なになに、どうしたの?どうして今さら、手術のことなんかが気になったの?」

 うん、ちょっと、と未愛はなんとなく言葉を濁して優人のほうに視線を向けた。どう言えばいいか分からず咄嗟にそうしたのだが、すると優人は苦笑を浮かべてきた。

「たいしたことじゃないよ。俺が神住に言ったんだ。神住を苦しめてきた病気がなんだったのか、どんな治療を受けたおかげで元気になれたのか、それは知っておいたほうがいいってね。それを知らないと、再発するリスクだとか、日々の生活で気をつけないといけないこととかも、自分で判断できなくなるから。だから今後、神住がそうしたことを自分で考えながらやっていけるようになるためには、今のうちに確かめておいたほうがいいと思ったんだ」

 すると詩奏は、ふうん、と意味深な笑みを見せた。

「な―んかありそうね。それでどうしてあなたがここまでやってきたの?家族とかってわけでもないのに?ひょっとして結婚するとか?ふふ、それじゃあ心配よね。未来の奥さんのことだし」

「や、や、やめてよ、詩奏。私は真野くんとはそんな予定ないわ。め、迷惑になるから、そんなこと言わないで」

 とんでもない一言に未愛が慌てて否定すると、詩奏は軽やかに笑ってきた。

「あはは、やっぱり未愛って可愛い。冗談よ。そんなに焦んなくていいから。だったら私にもチャンスがあるってことなのかしらね。真野くんって今、彼女とかいるの?」

 え、未愛はその問いかけに思わず硬直してしまった。恐る恐る優人のほうを振り返ると、優人は困惑気味に詩奏を見つめている。なんとなく、優人が返す答えが気になった。いったい彼は何て返すのだろう。

「いないよ。けど、好きな人ならいる。残念ながらそれは君じゃない」

 どきりとした。未愛は高鳴る心音を抑えながら優人を見つメール。好きな人、という言葉が耳を突いた。いったいそれは誰だろう、

 だが優人はその名を明かさなかった。詩奏も特に興味はなかったらしく、あら残念、と呟いたきり、深くは追究しようとしない。すぐに気を取り直したように話題を変えてきた。

「けど本当に意外な気がする。今頃になって未愛がそんなこと気にしてくるなんて。何かあったの?未愛が手術受けたのってもう三年も前じゃん。それだけの期間、なんにもなかったんなら、もう大丈夫でしょ?」

「うん、それはそうだと思うんだけど・・」

 未愛は口籠もった。すると詩奏は何かを思いついたような顔になる。

「それとも、誰かに何か言われたりしたの?未愛って高三だっけ?じゃあ就職とか?会社の人に言われたりしたの?病気が完治してるかどうかの証明をしろとかって?」

「うん、まあ、そんなところかな」

 未愛が曖昧に頷くと、詩奏は心の底から嘆くような溜息を吐き出してきた。

「ああ、そういうこと。まあ仕方ないのかもね。疑う人は疑うんだろうし。それなら先生にちゃんと話して診断書かなんか、きちんと書いてもらったほうがいいよ。それなら一応、健康になりましたってことの証明になるから」

「分かった、そうする」

「大変だね、未愛も。退院した後にまでいろいろあって。家のほうはどうなの?そっちはべつになんともないの?」

 家?未愛は思わぬ問いかけに首を傾げた。家のほうはどう、とはどういう意味だろうか。

「どうって?どういうこと?他には、なにも困ったことはないよ」

「べつに大したことじゃないけど、入院中に未愛のお父さん、なんか女の人と揉めてたみたいだから、その後なんともなかったのかと思ってね」

 え、未愛は訊き返した。今のはどういう意味だろうか。

「揉めてたって、お父さんが?誰と?」

「知らない。テラフジとか呼ばれてたかな。最初に駐車場の隅の、目立たない辺りで話してるの見た時は、その種のヤバい密会かなと思ってどきどきしながら見てたんだけど、たぶんそんなんじゃないと思う。あれはたぶんお金のことで揉めてたんだね。借金かな。どれだけ払えとか、こんなことは許されないとか応じられないとか、ずいぶん深刻な感じで話し合ってたの。途中から未愛のお母さんも会話に加わってきて。マエカちゃんの生命がどうとかこうとか言ってた。マエカちゃんって誰かなって思ってね。それで印象に残ってたの。あのあと何もなかったんだろうかって」

 テラフジ。マエカ。覚えのないそれらの名前に未愛は混乱してしまった。いったいそれらは誰の名前なのだろう。父と話していたというその女は、何者なのだろうか。

「それって、いつ頃のこと?」

「四年前かな。私が中学に入ってすぐの頃だったと思うから。正確な日付はもう覚えてないや」

 詩奏は申し訳なさそうな顔をした。それに未愛は首を振って大丈夫と答える。ちょうどそのとき、マエカという音に聞き覚えがあることに気づいていた。

 ―まさか、関係ないとは思うけど・・。

 そのはずだった。幸珠の元祖父母宅で襲われた時に聞こえてきた音声のひとつに、そうしたマエカなる人名のような発音があった。しかしそんなことは、単なる偶然だろう。


「―テラフジ、か。城聖の電話帳には載ってないみたいだな」

 優人は閲覧台の上で広げた大型の冊子の項目に、指を滑らせていきながらそう呟いてきた。うん、と未愛も頷く。未愛も同じように閲覧台の上で電話帳に指を這わせながら応じた。

「明陽のほうにも載ってない。近くの人じゃないのかもしれないね」

「そうとは限らないかな。最近は電話なんてケータイだけで、固定は持たない人間も多いだろうし。そもそも電話帳には載せてない家ってのもあるだろうから、ここに載ってないってだけじゃなんともいえないよ」

 囁き声を交わし合った。ここが図書館の閲覧室であることを意識してのことだが、そうでなかったとしてもなんとなく大きな声では話しづらい。未愛は両親がそんな女と会っていたことを詩奏に聞くまで知らなかった。病院を訪ねてきた女とわざわざ人目を避けて駐車場の片隅で会い娘である自分には何も伝えなかったということは、両親は未愛にその女のことは伏せておきたかったのだろう。親とはいえ他人の秘密を、こうして優人とこっそり暴こうとしていることにはなんとなく後ろめたいものがある。声は自然に小さくなっていった。

「う―ん、だったら次どうやって調べよう。インタ―ネットの地図検索じゃ、家の表札までは出なかったんだよね」

 未愛は館内に入って真っ先に向かった、コンピュ―タ―ル―ムでのことを思い出していた。この図書館では誰でも一定時間内であれば無料でインタ―ネットを使った調べ物をすることもできる。それで未愛は到着早々最初に利用申し込みをしてパソコンで地図を出してみた。しかし倍率を最大まで上げても個人の住宅などは単に四角い枠が表示されるだけで表札などは出てこないのだ。アパ―トやマンションの名前などは出ても、そこに住んでいる人が誰かまでは分からない。地図を調べるのはインタ―ネットのほうが便利だと美優に聞いたことがあったから、その通りにしてみたのにと未愛は少し不満に思ったが、優人が個人情報だから仕方ないだろうと言われて諦めた。確かに誰がどこに住んでいるのかネットでたやすく検索できるようでは、プライバシ―ということに関して重大な倫理的問題があるかもしれない。

「テラフジってのが地元で古くから住んでいるような家なら、住宅地図の古いやつを見れば載ってる可能性もあるけど。そもそも漢字ではどう書くんだろうな。寺藤ぐらいしか思いつかんが、それで間違いないんかな」

「分かんない。けどそれにしたって、その人がアパ―トとかに住んでる人だったら同じだよね。アパ―トはアパ―ト名しか載ってないんだろうし」

「そうだろうな。もう一度、ネットを見てみようか。日付を四年前の前後に絞って、城聖市とテラフジという名前で検索すれば、誰かが該当してくるかもしれない。顔が分からないから、確認する方法はないけどね」

「うん、やってみる。―ありがとう、真野くん、こんなことに時間使わせて。せっかく撮影、終わったのに」

 未愛は改めて隣に座る優人に詫びると、優人は気にしなくていいといって笑ってきた。

「大丈夫だよ。収録が終わってしまえば、後のことは佐田と岩宮がするっていうし、俺と神住の役目は出演と撮影の際の諸々だったんだ。こっちは完成を楽しみに待っていればいいんだよ。俺はもう大学も決まってるから、そういう心配もないし。俺なんかより神住は大丈夫なのか?映画のことで勉強に支障が出たりしなかったか?」

 未愛は首を振った。

「そんなことないよ、私は進学は考えてないから。高校出たら、働くつもり」

 じゃあ奇遇だな、と優人は再び笑ってきた。

「お互いに時間はあるってことなんだ。それならこれから二人でネット調べに行こうか?図書館じゃ時間制限もあるし見れないサイトも多いから、他所に行ったほうが効率もいいと思うんだけど」

 いいよ、と未愛は頷いた。

「他所ってどこ?駅前のお店?私は他にネット使えるところって知らないんだけど」

 いや、俺んち。優人はやや躊躇いがちに口を開いてきた。

「駅前の店でもいいけどさ、そこだと金かかるし、うちに行ったほうが経済的じゃないかと思って。俺、自分の部屋にネットに繋がったパソコン持ってるからさ。俺んちだったら時間とか、気にしなくていいし」

 思わぬ申し出に、未愛は驚いてしまった。

「いいの?真野くんの家族にご迷惑じゃない?」

「大丈夫だよ、俺がいいって言ってんだから。神住は俺の客だ。それに、俺の親はどうせ夕方になるまで帰ってこねえよ。両方とも仕事してるからな」

 優人の答えはあっさりとしたものだった。それで未愛も遠慮することをやめ、優人の申し出を受けることにした。

「じゃあ、お邪魔してもいい?」


 バス停は図書館の正面玄関前にある。未愛たちのいる第二図書館から優人の家までだと、少し距離があるため、未愛たちはバスで優人の家まで向かうことになった。時間を惜しまなければ歩いてでも行けるが、八月の炎天下を歩くのは正直しんどい。それでバス停の時刻表で出発時刻を調べ、ぎりぎりまで館内で雑誌を捲りながら時間を持て余すと、やってきたバスに乗り込んだ。八月の陽気ということもあって、自分と同じように考えた者も多いのか、車内は意外に混んでいた。プ―ルの帰りと思しき小学生らしい子供の姿もかなりの数いる。なので未愛と優人は座席に座ることができず、運転席の近くで並んで立ち、吊り革を握った。しかしバスのなかだとあまり会話も弾まず、二人して窓の外ばかりを眺めてしまう。しかし慣れ親しんだ街なかを走る路線バスでは見応えのある景色など望メールはずもなく、気がついたら車内アナウンスにばかり注意が向いていた。乗り慣れない路線だけに乗り過ごしたりしないか心配だったのだが、優人が降車ボタンを押して未愛を促してくれたのでその恐れはなかった。料金を払ってバスを降りると、停留所周辺は未愛の自宅近所と大差のない住宅街で、未愛は優人に手を引かれながら歩を進めていく。優人の家は、停留所から歩いて三分ほどの場所にあるらしい。

 そこまで歩いて向かいながら、未愛は優人と話しつつ辺りを見渡した。と、そのとき視線が一か所に吸い寄せられるのが分かる。気になるものが視界に入ってきた。思わずそちらを凝視してしまう。

「どうしたの?」

 未愛の動きに気づいたのか、優人が足を止めてこちらを伺ってきた。未愛は彼にも自分の見ていたものを指し示して伝える。二人でそれに見入ってしまった。

「・・この人、寺藤さんだね」

 未愛は呟いた。未愛の視線の先にあったのは掲示板だった。町内会や自治会の人間が、地区のイベントのお知らせなどを掲示するための案内板である。日頃はそれほど利用頻度が高くないのではないかと思える古びた木製の掲示板だが、今は一枚だけ手作りのポスタ―が貼られていた。八月半ばに開催される納涼花火大会のお知らせだった。松峰山に水源を持つ清川の河川敷で毎年開かれている夏の定番イベントで、理愛も行くのを楽しみにしている。お知らせ自体は初めて見るものではない。未愛の家に届いた回覧板で、七月にはもう目にしていた。だがそのとき回覧板に入っていたお知らせには記載されていなかったことが、いま目の前に貼られているポスタ―には書いてある。それはポスタ―に掲載された昨年の花火の写真の右下に記入されていた。撮影、寺藤絵奈(住民提供)とある。

「そうだな。住民提供ってことはこの近所に住んでる人かな」

 優人が応じ、未愛はかもしれない、と返した。寺藤という名前はそんなにありふれた名前ではないように思える。ならば、絵奈という名前からするにこの人物は女性のはずだ。すると、ひょっとしたらこの人物があの日、自分の両親を訪ねてきていたのかもしれない。もちろん断定はできないものの。

「だったらネットではこの人の名前を検索して調べてみようか?フルネ―ムが分かれば検索しやすいし、プロでなかったとしても、単なる町内会のお知らせだったとしても、他人がポスタ―に載せようと思うほどできのよい写真を撮る人なら、ネット上にいろいろ情報が転がってるかもしれない。コンテストの入賞歴とかがあるかもしれないからね」

 うん、と未愛は頷いた。その可能性はある、と思う。この人があのテラフジ氏なら、名前の漢字表記が分かっただけでもずいぶん調べやすくなるのだ。調べてどうするのか、そもそもこんなことを調べることに意味があるのかは分からないにしても。


 ゆっくりしていってね、の一言とともに母が氷の入ったコ―ラのグラスを置いて出て行くと、優人は無言でそのグラスに手を伸ばした。トレイに載せられたもう一方を未愛に押し出すと、検索画面に集中する。礼の言葉とともにコ―ラを飲み下していく音を傍らに聞きながら、なんで今日に限って家にいるのだと自分の母親の在宅を恨めしく思う。盆休みだと?なんでそんな風習、未だに律儀に守ってんだよ。

 今頃階下で自分の親がどんな想像に耽ってるのかと思えば忌々しくなるものを胸の内に押し込み、優人はできるだけ部屋の外には意識を向けないようにしながら検索結果から適当なサイトを選択すると、クリックして画面に表示した。

「けっこうたくさんヒットしたけど、なんか意外な感じだね。こういうサイトが多いみたいだ」

 画面を指し示すと、未愛はグラスをトレイに戻して身を乗り出してきた。彼女の息や体温が間近に感じられ、優人は落ち着かなくなったが、未愛自身は全くそんなことは感じていない様子で画面の記載に見入っている。

「・・幽霊屋敷って。そんなふうに言われている家が、この市内にはあったの?」

 未愛は驚いたような声を発してきた。実際、優人も意外に思う。自分の家からそれほど離れていないところに、こんな怪談の温床のような場所があるとは思ってもみなかった。

 最初は寺藤絵奈の名前で検索してみた。しかし予想に反してこの名前を含むサイトは見つからず、代わりに寺藤の名字だけで検索したところ、今度は対照的に異常なほど多くのサイトが結果一覧に表示された。ほとんどが怪談か心霊現象を紹介するもの、あるいはそれらについて語り合うサイトやブログで、要約すると、城聖市にある寺藤という表札のついた空き家には幽霊が出る、ということのようだった。そうしたことがネット上で多くの人々に噂されているのだ。

「そういうことみたいだね。ネット上のことだし、城聖市民じゃない人が書き込んでることも多いだろうから、尾鰭がかなりついてると思うけど、少なくともそういうふうに呼ばれてる家がこの市内にはあって、その家には寺藤という表札がまだ掲げられたままになってるんだ。うちに来る途中でバスがファミレスの横通ったの、まだ覚えてる?たぶんあの裏手にあるんだろうね。この画像、モザイクかかってるけど、建物の並びに見覚えがある」

 優人はサイトに掲載されている写真を指した。どこにでもあるような住宅地の写真が、妙にぼやけたようになって写し出されている。たぶんこの不自然なぼやけ方がモザイクなのだろう。目印になるような店や看板が何も写り込んでいないせいで、未愛にはどこを写したものなのか見当もつかないのだが、優人にはおおよその推測がつくようだった。ファミレスの裏と言われれば未愛にも思い当たるものがある。あの裏手なら、本当にこの家のすぐ近くで撮られた写真だった。

「・・なんで、幽霊が出るなんて言われてるのかしら?この家、以前に何かあったの?事故とか事件とか?」

 いや、優人は首を振った。問われても思い浮かぶものは何もなかった。

「聞いたことはないな。覚えもない。ファミレスのほうだったらあるけどね。何年か前に、ブレ―キとアクセルを踏み間違えた人が入り口から店内に突っ込んだ事故があったはずだけど、あの事故では確か死傷者は出てなかったはずだよ。怪我人はいなかったって聞いたことがあるし」

 じゃあ、どうしてこんなふうに言われてるのかしら、と未愛はますます怪訝そうな表情になった。その首を傾げる仕草がとても可愛い、と優人は場違いなことを思ってしまう。

「人がいるはずのない家の前を通ったら、窓から誰かに睨まれた、とか、女の子の悲鳴が聞こえた、とか、どういうことなのかしら?それが本当だとしたら、実際に誰かがいた、ということ?じつは空き家なんかじゃなくて、古くて荒んで見えても、人が住んでいる家、とか?」

「だったらネットでこんなふうに書かれて黙ってるとも思えんけどな・・」

 優人も考え込んでしまった。確かに、すぐに思い当たるような事象が何もないのに怪談だけがある、というのは少し奇妙な気がした。優人が生まれるよりも前に何かが起きていた、という可能性もあるが、だとしたらこの怪談が新しすぎるような気がする。この家での心霊現象を目撃したとされる日時は、いちばん新しいものが四年前だが、それ以前になるとどんなに古いものでも十年前より昔には遡らない。優人はこの街で生まれてこの街で育ってきた。仮に十年前に何かがあったとしたら、自分が知らない道理がないような気がする。なにしろこの家は優人の家と同じ町内、本当に近所にあるからだ。五年以上も怪談が語り継がれるような大きな出来事があったのなら、暮らしていくうちに自然に耳に入ってくるようにも思える。報道だってあっておかしくないのに、そうしたことは何も聞いたことがなかった。あの辺りが自分の生活圏からは外れていることを考慮に入れても、それは少し不自然な気がする。いったいなぜ、この家にはこれほど多くの怪談があるのだろうか。

「・・なあ、後で近くまで行ってみようか?」

 疑問は頂点に達し、優人は未愛にそう提案してみた。未愛はこの家に?と画像の一枚を示してくる。

「そうだよ。実際に行ってみれば、こんな怪談が出ている所以が分かるかもしれない。運が良ければここに書きこんでる連中と同じ体験もできるかも。どうかな?」

 未愛は逡巡するような素振りをみせてきた。

「いいけど。危なくない?そんな遅い時間に出るの。陽が落ちてから用もないのに他人の家の前なんかにいたら、不審人物と思われそう」

 はは、大丈夫だよ、優人は笑ってみせた。

「そんなに夜遅くになんか出ないよ。そうだな、五時くらいになってから出て、あのへんを一周して戻ってくればいい。歩きながら家の周りを少し見るだけなら、誰もなんとも思わないよ。近所の人間が、買い物帰りにでも通りかかったと思うだけさ。それさえ思わないで通り過ぎる人間もいるかもしれない。五時くらいならまだ明るいし、危険はないんじゃないかな。かえって昼間より涼しくなっていいかもしれない。そこまで気温は下がらないかもしれないけど」

 だから行かない?ともう一度だけ誘ってみると、今度は未愛も頷いてきた。

「それなら、私も行ってみたい」


「―ねえ、この券どうしよう」

 未愛は優人の家の門を出ると、渡されたばかりのチケットを眺めながらその使途に迷ってしまった。こんなものを貰えるとは思ってもみなかった。

「持って帰っていいよ。母が勝手に気を利かせただけだから。今から遊びに行くと思ってるんだろう。単なるク―ポン券なんだから、気にしなくていいよ。持って帰って、今度何か見たい作品があれば見に行ったらいい。それがあれば映画代が少しは安くなるから」

 優人は門扉を閉めながら未愛に向かって話しかけてきた。未愛が扱いに困っているのは玄関を出る前に優人の母に渡された二枚のチケットだった。駅前のシネコンが発行している優待券で、これを提示すれば映画料金が割安になるのだという。未愛と優人は今から映画を見に行くわけではないのだが、遊びに行くとは言っているのだから少しでも安く楽しんでおいでという優人の母の配慮に違いなかった。すると、必要がなくてもなんとなく捨てにくい。かといって持って帰って自分の両親にあげることもしにくかった。それはなんだか好意を無駄にしてしまっているような気がする。

「ねえ、せっかくだから今度、本当に映画を見に行かない?」

 未愛は勇気を出して自分から優人を誘ってみた。並んで歩いていた優人はなぜか急に足許を踏み誤ったかのように身体を傾がせ、慌てて体勢を整えていた。びっくりしたような顔で未愛を見つめている。

「映画?俺と?」

 そう。未愛は頷いた。

「せっかく貰ったんだから捨てるのも悪いし、理愛と行ってもいいけど、私は真野くんと行きたいの。真野くんと見に行ったほうが絶対楽しく映画見れるから。理愛と行くと、どうしても理愛に合わせてアニメか恋愛物見ることになっちゃうし」

 だめ、と問いかけると、優人は勢いよく首を振ってきた。

「そんなことない。俺も映画は好きだからさ。今はちょうど話題作が幾つかあるから、二人で見たほうが面白いだろう」

 やった。未愛は優人に笑いかけた。

「ありがとう。行くのはいつでもいいから、真野くんのほうで都合のいい時間に、うちに電話をくれる?真野くんの時間に合わせて出るから」

 ああ、分かった。優人はなぜか高揚したような表情で頷いてきた。未愛は自宅の電話番号を教え、優人となんの映画を見るかで盛り上がりながら足を動かしていく。話をしていると時間が経つのは早かった。気がついた時には問題の家の前に到着しており、危うく通り過ぎそうになる。慌てて立ち止まった。

 ―この家が、そうなんだ・・。

 未愛は件の家を見上げて嘆息した。人が住んでいる家ではないことは一見して分かった。それほど状態のいい建物ではないからだ。鉄格子の門扉は外から頑丈そうな南京錠で閉ざされているし、門扉の隙間から見える庭も雑草で覆われている。雑草といっても未愛の胸の辺りまで伸びていた。何年にも亘って満足に手入れもなされていないことは明白で、それどころかその奥に見える木造二階建ての建物の、一階部分の窓は全て外からベニヤ板で塞がれていた。ここの現在の持ち主が誰であるにせよ、おそらくその人物はもう、この家に住む意思は持っていないのだろう。しかし土地を売却する気はなく、取り壊す費用もないことからこうして窓を塞ぐだけで良しとしているのかもしれない。

「―人影を見たっていうのは、あの窓かしら?」

 未愛はなんとなく優人と手を繋いだまま、二階の窓を示した。二階の窓はベニヤ板で塞がれていなかった。おそらく満足な足場もない二階の窓からの侵入は困難であるとして、そのままにしているのだろう。不法者の侵入が困難なら、所有者とて対策を取ることは難しいし、対策を取らなくてもそれほど問題はないのかもしれない。

「かもしれないな。確かにこの家の窓に人の姿があったら怪奇現象としか思えん」

 その答えに未愛は頷き返した。視線を滑らせると、南京錠で閉ざされた鉄格子の門扉は昔ながらのブロック塀と繋がっている。人の背丈ほどはあるそのブロック塀の、ちょうど未愛の目の高さぐらいの場所に金属製のポストが埋め込まれていた。表札は、そのポストの上に取り付けられている。石に刻まれた寺藤の姓は、まだはっきりと読み取ることができた。

 それを見て取って、未愛はこの後どうしようと思ってしまった。これで確かに、同じ市内にテラフジという人物が住んでいたことは確認できた。しかしそれが分かったところで、この情報を未愛にはどうしたらいいか分からない。自分の両親と揉めていたのがここに住んでいた寺藤氏とは限らないし、仮にそうだったとしても、何で揉めていたかも分からないのに四年も経った今、当時の事情を知らない自分が押しかけていくわけにもいかない。ここまで来て、まるで今までの時間を無駄にしてしまったような喪失感しかなかった。この後どうしたらいいのか分からない。

「―あんたたち、どうした?寺藤さんとこに用事かね?」

 途方に暮れていると、突然声をかけられて未愛は驚きに跳ね上がった。弾かれたように振り返ると、犬を連れた一人の老人が自分たちを見ているのと目が合う。優人は老人にそうだと答えた。あまりにも自然に発された言葉に未愛は一瞬狼狽えたものの、かろうじて優人に合わせて頷く。すると老人は、ここはもう何年も無人だと答えてきた。

「いつから空き家なのかは知らんが、もうずっとこういう状態だ。ここの人を訪ねてきたんなら、婦人会の寺藤さんとこ行ったほうがいい。婦人会の寺藤絵奈さんだ。寺藤さんの親戚かなんかが住んでたんだ。駅前のチェリ―なんとかってマンションに住んどる」

「親戚か何か、ですか?どういう人が住んでいたのかは分からないんですか?」

 老人は首を振った。

「俺は知らんな。ここの家のもんは町内会とかにも入っとらんだったし。近所付き合いってもんもなかった。俺の女房はごみ出しの時に挨拶しても無視されたとか言ってたな。だからどういう人だったのか、なんでいなくなったのかも分からん。俺だけじゃなくて他のもんも同じだろうよ。表札が出てなきゃ名字も分からない、って連中も多いからな。俺だって下の名前は知らんし」

 そうですか、優人は呟いた。するとその呟きを落胆と受け取ったのか、老人は少し気の毒そうな表情を浮かべて言葉を継いでくる。

「けど、ここに住んでた寺藤さんには子供がいたからな。それだけは俺もよく覚えてるよ。あんたらはあの子の同級生かなんかかね?間違って古い住所を頼って来ちまったのか?」

 ええ、まあ。優人は曖昧に頷いた。

「付き合いがない、と仰る割には、よくご存じなんですね」

 すると老人は苦笑を浮かべてきた。

「まあ、俺の印象は他の連中よりも強いかもな。俺は昔、郵便局にいたからね。この家にも何度も配達で来たことがあったよ。それだけなら他の家と変わらんが、この家の場合は危うく誤配しそうになったことがあったからね。間違えて荷物持っていって、渡す直前で気づいたんだ。ヒヤッとしたからね、よく覚えてるよ。応対に出たのは派手な化粧した若い女だったが、奥のほうに小さな女の子がいてね。その子がびっくりするぐらい可愛くて、お人形さんみたいだったから、印象深かったんだ。あの子は今どうしてるんだ?もう十年くらい前のことだから、君らと同じくらいの年になってるだろう?さぞかしすごい別嬪さんじゃないか?」

 まあそうですね、と優人は曖昧に微笑んでみせてから、老人に礼を口にした。

「ありがとうございました。俺が、いや、僕が古い住所のままになっていたのに気づかないで来てしまったみたいです。帰って電話してみます。―行こうか」

 優人は早口で老人にそう弁明すると、未愛を促してきた。未愛は優人に手を引かれるままに老人から遠ざかるほうへと歩き、三つ先の角を曲がったところで足を止めた。優人が止まったから、止まらざるを得なかった、というほうが正しい。

 おかしいな、優人は足を止メールと独り言のように疑念を口にした。

「十年くらい前に、子供?俺と同じくらいの年?誰だ?この家には子供なんていなかったはずだぞ」

「え?私立に行ってる子だったんじゃないの?」

 未愛も口を開いた。未愛には優人の疑問がなぜ疑問なのか分からなかった。

「学校で見たことがない子がいたとしても、普通じゃないの?同じ校区だったとしても私立に行く子だったら学校が違うし、不登校とか、障害児とかだったりするかもしれない。それだったら最初から普通の学校へは行かないから。私だってそうだったし」

「いや、そういう意味じゃないよ」

 優人は首を振ってきた。

「それだったらうちの親が把握してるはずなんだ。うちの親はどっちも弁護士なんだよ。だから俺の母親なんか地区の児童委員も兼任してる。児童問題とかに熱心なんだ。いじめだの虐待だの非行だの、そういった問題への相談や対策に力を入れてる。この家に子供がいればうちが知らないわけがない。俺は小学生の頃、自由研究の素材選びに困った挙句、地域の人権問題をテ―マに選んだことがある。親に頼んで個人名を出さないことを条件に周辺に住んでいる同じ年頃の子供が抱える問題について箇条書きにして、相談のための機関や方法を並べたんだ。親から貰った資料を抜き書きしただけに等しい手抜き研究で、少し後ろめたかったからまだよく覚えてる。その資料に寺藤って子はいなかった。断言できる。うちの親はこの町に寺藤って名字の子はいないと認識してたんだ」

「問題のある子とは認識してなかった、ってことじゃないの?あるいはこの家の子じゃなくて、他所から遊びに来てた子とか、預かってた親戚の子とかかもしれないよ。元々この家の子じゃなかったのなら、児童委員が知らなくて当たり前だし」

 未愛は口を挟んだ。未愛にはまだ、優人と同じようには疑念を抱けなかった。

「そうかもしれない。それならなんの問題もないと思う。郵便屋が一瞬見ただけだ、確かにこの家の子供だったと断言できるものじゃない。けど俺は、地域の児童委員が知らない子供が家のなかにいたようだというのは、とても重大な事実の発見だと思う」

 優人は何かを憂えるような顔になった。

「家のなかというのはじつはそんなに安全な場所じゃない。外での交通事故より家庭内での事故で死傷する人のほうが圧倒的に数が多いものだし、日本は外の治安は最高だと世界から絶賛されているけど、年間起きる殺人事件は家族間によるもののほうが多数だ。外では平穏でも家のなかでは何が行われているか分からないのがこの国なんだよ。外が認識している事実と、家のなかの事実が異なるならば、まずは最悪の可能性から考えないといけない。そうでないと取り返しのつかないことになることもある」

 ひょっとして、と優人は言葉を途切れさせた。何か深刻な問題を考えているような表情に、未愛には見えた。

「そういうこともありえるかな。もしかして、あれは単なる怪談じゃないかもしれない」

 もう一度あの家に行ってみよう、と優人は未愛を促してきた。一切の好奇心の抜け落ちたその真剣な表情に、未愛は戸惑う。単なる怪談でなければ、なんだというのだろうか。

「家のなかに人影を見た。その家には誰もいないはずだ。だったらそれは幽霊だという理屈は少し飛躍している。誰もいないはずの家に人を見たら、なぜそこに人がいるのかということを考えないといけない。それが人がいること自体不自然な場所なら、その人は普通の状況でそこにいるとは限らないからだ」

 それって、本当にあの家のなかには誰かがいたと優人は言うのだろうか。未愛はなんとなく緊張するのを感じた。もしそうなら、あの怪談の数々は何を意味している?家の前を通ったら窓から誰かに睨まれたとか、女の子の悲鳴が聞こえたとかいうあの怪談は。

 事実。その結論に未愛は背筋が冷えるのを感じた。窓がベニヤ板で塞がれて、完全な空き家として放置されている家で見聞きされたそれらの出来事が、全て現実の人間から発されたものであるなら、それはもはや只事ではない。その人は当たり前な理由でそこにいるのではないからだ。

 それが意味することが次々に脳裏に浮かんできて、未愛は気がついたら真夏の暑さも忘れていた。凍えるような思いとともに優人とあの家の前に駆け戻る。あの犬を連れた老人の姿はもうなかった。家の前に人の姿はなく、だからこそ響いてきた優人の声は未愛の耳にすんなりと沁み込んできた。

「―誰かいる」

 その声に未愛は視線を彷徨わせた。優人が上のほうを見ていると気づき、そちらに焦点を合わせる。そうすると、すぐに未愛にもその姿ははっきりと識別することができた。道路に面した二階の窓、防犯用の鉄格子とガラスに遮られた向こうに、確かに人の姿が見える。

 尋常のことではないと思った。未愛は優人と競うようにして門に飛びつく。インタ―ホンのようなものは門前にはなかったので、なんとか直接玄関に駆けつけようとしたのだが、南京錠はびくともせず、どうあっても門を開けることはできなかった。それで早々に門扉を諦メールと、未愛は優人と共に裏手に回る。こういった個人の住宅には、たいてい裏にも出入り口があるはずだと思ったのだ。その予測は当たった。ブロック塀を廻り込むと、確かに裏手にも小さな鉄格子の扉がある。こちらの扉にも鍵がかかっていたが、これは鍵ともいえないような簡単な閂にすぎなかった。格子の隙間から未愛が腕を差し入れると、それだけで外からでもすぐに開けることができた。鍵というより、単に扉が勝手に開かないようにするための金具にすぎなかったのだろう。裏手に面しているのは道路というより水路に蓋をしただけの路地だったのだから、それで用は足りた、ということなのかもしれない。

 扉を開けると、コンクリ―トで覆われた僅かな地面があった。そこに踏み込み、裏口だったと思しい簡素なドアに駆け寄る。力を込めて拳で叩いたが、応答はなにもなかった。声をかけてみても変化はなく、反射的に未愛はノブに手をかける。するとその瞬間、手のなかで、かちり、と小さな金属音が響いた。戦慄とともに未愛は動きを止めた。

 ―今、鍵、開いた?

 なんとなく息を呑んで未愛は様子を伺ってしまった。鍵が開いたということは、やはり中には誰かがいるのだろうか。ここは空き家ではないのか。だとしたらどうして空き家であるかのように窓を板で塞いでいるのか。室内にいる人は果たしてまともな状態にあるのだろうか。

 だがどれだけ待っても誰かが出てくることはなかった。未愛と優人が動きを止めた分だけ余計に静寂が際立つようになった裏口に、未愛は途方に暮れて佇み、優人と顔を見合わせる。迷った挙句、このままここにいてもどうしようもないと思い定めて、未愛は意を決してドアを開けた。古びたドアは、微かな軋みの音を立てて外に向けて開いた。

 室内は暗かった。ほとんど光が射してこないらしく、薄暗くてドアが開いても中の様子はほとんど見えない。目を凝らしていると、優人が未愛の身体を遮るようにして身を乗り出し、ケータイの液晶画面に灯る明かりを懐中電灯代わりに室内を照らし出した。照らすといってもケータイの小さな画面の明かりではほとんど内部は見通せない。しかしそれでも僅かな光に浮かび上がってくる室内に、未愛は驚愕して立ち竦んでしまった。

 ―私、この家を知ってる・・。

 ケータイの明かりに照らし出されたところは台所のようだった。食器棚やレンジボ―ドのような家具がまだ残されている。人の姿はなく、食器やト―スタ―などの細々としたキッチン用品は失われていた。ここの家主が、家を移るに際して大型の家具は不要として運び出さなかったのだろう。その家主がどんな人物であるのかも、今や未愛には分かっていた。台所を眺めているだけで、その人物の姿が目の前にいるかのように思い浮かべられる。今にも奥から現れてこちらに迫ってきそうで、未愛は怯えて思わず優人の背に隠れてしまった。

「神住?どうした?」

 未愛の様子の変化を怪訝に思ったのか、優人が背中越しに訊ねてくる。その問いに未愛は答えなかった。答えられなかったというほうが正しい。自分の視界に立ち現われてくる幻像が、自分のなかに湧き上がってくる恐怖の由来が、未愛には自分でも説明できなかったのだ。

 ―収録の時、そういえば変な夢を見た・・。

 未愛は幸珠の元祖父母宅で見た、あの妙な夢のことを思い出していた。茶の間で台本を読んでいて、自分でも気づかぬうちに眠って見たあの夢のことを。夢にしてはリアルすぎるほどだった、あの薄汚れた部屋に閉じ込められる恐怖が、いま再び甦ってくる。このままこの家には足を踏み入れたくない、と直感的に思った。なぜだかは分からない。なんとなく、このままこの家に入れば、二度と出られなくなるような気がするのだ。

 それに、自分には分かる。この家のなかにはもう誰もいない。さっき見た人影は幻なのだ。あの窓の向こうにはあの部屋がある。あの部屋にかつていた人の姿を、自分が幻として見ただけなのだ。鮮明な幻影は、気配すらその場に残っているように感じられる。佇んでいるだけで、今や声すら聞こえてきていた。

 ―助けて。

 その声は撮影の時に聞いた声だった。いま再び甦ってきた。幸珠が見た時にはコ―ドの外れていた電話機から聞こえてきた声。あのあと幸珠が美琉瑠と本物の心霊現象かどうかで盛り上がっていたあの声だ。あの声が誰の声だったのかも、今の未愛には分かる。あれは、ここにいた少女の声だ。なぜあの時、あの場に聞こえてきたのかは分からなくても、それは分かる。同じ声を、聞き間違えることなどありえない。

 マエカ。その名は唐突に心に浮かんできた。そう、この家にはマエカという女の子がいたのだ。この家の、二階にあるあの部屋で、ずっと監禁されていた。今や手に取るようにその光景も見えていた。なぜそんな非道なことが行われていたのかは分からない。それでもそれが事実であることは分かっていた。この家の光景は、今の未愛にとって自宅の風景に等しかった。

「・・真野くん、一緒に来てくれる?」

 未愛は優人の腕を摑み、必死で恐怖を押し隠しながら前の優人に囁きかけた。勇気を振り絞って彼の前に出、裏口の三和土から台所の床に踏み込む。靴底にさらりとした埃の感触があった。土足のままだったのは、何も汚れることを嫌ったからではない。靴のままでいることで、いつでも逃げられるようにしておきたかったのだ。

「真野くんには絶対、迷惑はかけない。もしも見つかったら、私が真野くんを証人にしたくて無理やり連れ込んだんだって、ちゃんと言う。だから、お願い。一緒に来てほしいの」

 証人?背後で優人が訝る声が聞こえた。拒否する声ではない、純粋に、今の言葉はどういう意味かと、未愛に訊ねてくるような声だった。未愛は室内を見据えたまま、頷いてみせた。

「そう、証人。この家で行われていた犯罪を証明する手伝いをしてほしいの。この家にはもう誰もいない。たぶんもう二度と戻ってこない。その証拠は、二階にあるから、私はそれを取りに行く。だから、確かに私がこの家で見つけたんだってことを、ついてきて証明してほしいの」

 自分が怖いから、とは口にできなかった。怖いなどと口にすれば、なぜ怖いのかを説明せねばならなくなる。未愛自身にも由来の分からない漠然とした恐怖を、他人に説明できるほどの語彙を未愛は持っていなかった。だから、本当に事実だけを口にした。この家で犯罪が行われていたことも、その証拠が二階にあることも本当だから、そのために優人にはついてきてほしかったのだ。

 すると優人は、ますます訝るような様子を見せてきた。

「誰も、いない?そんなはずはない。さっき、二階の窓のところに人がいたじゃないか?痩せた、若い女性だった。一階の窓が全部ベニヤで塞がれて、出入りのできない空き家として放置されている家屋に、そんなふうにして女性だけがいるのは不自然だ。だから犯罪が行われているであろうことは俺にも分かる。けど、誰もいないはずはないし、二度と戻ってこないとも断言できない。まずは警察に電話するべきだ。そうでないと、俺らのほうが不法侵入になりかねない」

 未愛は首を振った。

「警察には連絡できない。ううん、後でそれはするけど、今はできないの。いま電話なんかしたら、絶対に悪戯って思われる。だってここには誰もいないんだから。真野くんと私が見たのは人間じゃないの。強いて言えば、あれは幽霊。たぶんさっきこのドアの鍵を開けたのも、その幽霊の仕業」

 喋っているとだんだん落ち着いてきた。少し冷静になってきた。今なら一人でも、二階に行けるかもしれない。どう行けばいいのかは分かっているのだから、簡単なことのようにも思えてきた。証拠はあの部屋の、畳の下にある。六枚敷かれた畳の、真ん中の一枚の下に隠してあるのだ。それを持ってくればいいだけのことだ。

 しかし意を決して足を踏み出した時、引き留められるのを感じた。急のことで驚いたが、優人だとすぐに分かったから未愛は怯えることはなかった。

「待て。状況がよく分からんが、一人で行くな。危ない。神住はどうして分かったんだ?幽霊が出るとか、二階に犯罪の証拠があるとか」

 教えてくれたの、未愛は正直にそう答えた。言葉を飾ることはしなかった。それ以外に説明できる言葉はないと思ったからだ。

「マエカさんが。この家に閉じ込められてたマエカさんの幽霊が、私に教えてくれたの。自分がこの家に閉じ込められてたこと、一度は助けられたのに殺されたこと、その全てを」


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