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知らない過去

 今日の茶の間は慌ただしかった。

 未愛自身は特に忙しくはなかったものの、幸珠と彩夜花はセットでもある家電製品に手を加えたり、棚に飾りつけられた小物などの配置を整えたりと始終忙しなく撮影の前準備をしていた。今夜の撮影分からこの家で起こる心霊現象が徐々に激しくなるから、明るいうちにその準備をしておかないといけないのである。準備が大変なため、ほとんどのシ―ンで一発勝負となるから、未愛自身にはそうした前準備の作業は任されず、役作りに専念するようにとの指示があった。準備に手間がかかる分、もしも本番中に未愛が台詞を間違えるなどの単純ミスをすれば、それだけでまた一日が潰れてしまいかねない。それを防ぐためにも未愛は彩夜花からリハ―サル開始の指示が出るまで台本だけに集中しなければならなかった。

 しかしそれが分かっていても、未愛は台本を眺めながら瞼が下りてくるのを止められなかった。その理由が今の安心感にあることは分かっている。昨夜はあのあと、全く眠ることなどできなかった。一人になることにも、暗い部屋にも、当分耐えられそうにない。それで結局、あのあとは陽が昇るまでずっと電灯はつけていたし、優人にもずっとしがみついたままだった。思い返せば、そのことで皆にはかなり迷惑をかけてしまったのかもしれない。けれど優人も幸珠も、彩夜花も美琉瑠も、そのことで何も未愛に苦言を言ってきたりはしなかった。それどころか、優人など今も茶の間のなか、自分の傍らでずっと未愛を見守ってくれている。誰かが傍にいてくれるというだけで、これほど嬉しく思ったことは今までなかった。その嬉しさがもたらしてくる安心感が、昨夜まったく眠ることができなかった未愛に、今頃になって眠気をもたらしてくる。眠ってはいけない、と自分を諫めながらもどうすることもできなかった。次第に台本に並んでいる台詞の意味が取れなくなってくる。意識がぐらついて、正気に戻れたのは急に強い力で押されたからだった。畳に手をついて、未愛はやっと自分の感覚を取り戻せた気がした。身を起こして振り返る。今の力は何だったのだろうと思ったのだ。何か当たったのだろうか。

 だが振り返った先には何もなかった。確かに何か強い力で押されたと思ったのに、そんな力を生じさせかねない何かが見当たらない。自分の隣にいてくれたはずの優人や、襖の向こうでカメラの角度を確認していた美琉瑠、茶の間の隅でテレビの配線に何かしらの細工をしていた彩夜花たちの姿さえもが、なぜか消えていた。いや、それだけではない。

 ―なんで、後ろにあるはずの箪笥がないの?

 未愛は急に変わった情景の変化に思わず瞬いた。自分の背後には、確か古びた茶箪笥が据えられ、振り子のついた古風な掛け時計が壁に掛けられていたはずだった。しかし今、あるはずのそれらのものがきれいに消え失せている。箪笥など、すぐには運び出せるものでもないはずなのに、一瞬の間にまるで手品で消したかのように完全になくなっていた。壁は変わらぬ白い漆喰壁だったが、箪笥の代わりに簡素なカラ―ボックスがひとつあり、そこは雑然と物で埋まっていた。その横にはドアがある。どこにでもあるような木製の、なんの装飾もないドアだった。それを見た時にいよいよ怪訝な思いは強くなる。茶の間を出入りするのは襖のはずだ。このドアはいったいなんだろう。この家には基本、ドアはないはずだ。ドアを開けて出入りするのはトイレだけ。あとは全部、襖か、さもなければお風呂場に出入りするためのすりガラスの引き戸だけだ。こんなドアには見覚えがない。

 ―どこに出るんだろう・・?

 怪訝さはやがて未愛に好奇心にも似た思いを掻き起こした。未愛はドアに近づいていき、ノブに手をかける。開けてみようと思ったのだが、ノブを回し、どれだけ押しても引いてもドアは開かなかった。どうやら外から鍵がかけられているらしく、ノブを回すごとにドアがドア枠にぶつかって音を立てる。鍵を開けたかったが、鍵を開ける手段は未愛には見つけられなかった。普通であればノブの下にあるはずのつまみがないのだ。

 ドアが開かない。しかもこのドアには外側から鍵がかけられ、こちら側からは開けられない構造になっている。その事実は未愛に恐怖をもたらした。自分は今、この部屋に閉じ込められている。そのことが瞬時に理解できたからだ。

 ―どうして。

 未愛はドアが開かないことに恐慌しながらも、とりあえず落ち着こうと呼吸を整えながら室内を振り返った。そして、ますます当惑した思いに捉われる。ここはどこ、咄嗟に思ったのはその一事のみだった。

 室内は六畳程度の和室だった。それほど新しくはない、全体的に黄ばんだ、古い畳が敷き詰められている。それだけはあの茶の間と変わりがなかった。しかし、それ以外は全て、何もかもがあの茶の間とは違っている。まず家具がほとんどなかった。家具と呼べそうなものはあのカラ―ボックスだけで、家電製品などは見当たらない。茶の間には幸珠と彩夜花が撮影のために運び込んだり、元からあるのを利用しようとしていた家電がたくさんあったはずなのに、そうしたものもいっさいなくなっていた。テレビも時計もなくなっている。代わりに、なぜか畳の上には一組の布団が敷き延べられていた。敷くというにはあまりにも乱雑に広げられたその薄汚れた布団の周囲には、コンビニ弁当の空容器や空のペットボトルが散乱している。人が使っている部屋であるのは確かなのだろう。だが生活の痕跡というにはあまりにも薄汚れていて簡素で、雑然とごみの散らばるその部屋にはあまり住居という感じがなかった。外から鍵のかけられたドアといい、これではまるで誰かを閉じ込めている部屋のように見える。誰かを閉じ込めて、そしてそれをなした人間は、閉じ込めたその誰かに最低限の食糧と生活物資を与える以上の情を持たない、そういう部屋に思えた。だからこそこの部屋は、これほどにも簡素で、なおかつ手入れが行き届いていないのではないかと。

 部屋にはたったひとつだけ窓があった。未愛はとりあえずその窓に駆け寄ってみた。しかし窓は開かなかった。鍵はかかっていないのに、窓枠ががたつくこともない。どうやら釘で窓枠がしっかりと打ちつけられているようだと、窓枠を観察してみて気づいた。これではどうあっても、この窓を開けることはできない。完全に、自分はこの部屋のなかに閉じ込められていた。しかも。

 ―ここ、二階?

 窓には外から雨戸など閉められていなかった。カ―テンもなく、ガラスの向こうには防犯用の鉄格子越しに外の景色が見える。窓の外に見えるのは住宅街の甍の群れだった。幸珠の祖父母の家は、平屋だったはずなのに、なぜ窓の外に、平屋の家では決して見ることのできない景色が広がっているのだろう。

 ―どうして、私、いったいどこにいるの?

 未愛は混乱した。自分に何が起きているのか分からず怖かった。とにかくなんとかしてここから出たいと未愛は必死で窓ガラスを叩いた。どうにかして、このガラスが割れないかと思った。しかし、拳でどれだけガラスを叩いても、窓はびくともしなかった。拳で無理ならあのカラ―ボックスが使えないかと、未愛は引き返してカラ―ボックスを抱え上げる。カラ―ボックスはそれほど重くなく、未愛にも簡単に持ち上げることができた。なかに入っていた細々とした品々を畳の上に撒き散らしながらそれを抱えて窓辺に戻る。足で畳を踏みしめ、勢いをつけてカラ―ボックスをガラスめがけて振り下ろした。一撃でガラスに小さなひびが入ったのが確認できた。それに喜びを感じて再度カラ―ボックスを振り上げる。だがそのとき、耳が木材の鳴る音を捉えて、思わず身体が硬直したように動きを止めてしまった。

 ―誰か、来る。

 それは条件反射のようだった。木材の鳴る音が響いてくるたび、未愛のなかで恐怖が大きくなってくる。身体はもはや硬直したように全く動かなかった。音は未愛の恐怖に比例するようにどんどん大きくなっていった。いや、これは未愛の恐怖のほうが音に比例して大きくなっているのだろう。音は明らかに足音だった。誰かが、こちらに近づいてきている、その音だ。重い感じの響きからして、子供の足音ではない。それがあの、鍵のかけられたドアの向こうから響いてくる。こちらに向かって、近づいてくる。

 ―いや、来ないで。

 未愛は手が震えるのが分かった。カラ―ボックスを持っていられなくなり、重い音を立ててカラ―ボックスは畳の上に落ちた。すると、まるでその音を聞き咎めたかのように足音は絶える。ドアのすぐ向こうであることは直前の音の大きさからなんとなく推定できた。未愛が息を詰メールと、すぐに小さな金属音が響き始メール。鍵が開けられる音だとすぐに気づいて、未愛は壁際まで後ずさった。ドアから視線を外すことができないまま壁まで退り、これ以上退れなくなると息を呑んでドアを見つめ続ける。もはや無駄だと悟りつつも、祈らずにはいられなかった。

 ―いや、お願い、来ないで。

 だが祈りは通じなかった。必死で恐怖を抑えつつドアを見つめ、祈り続ける未愛の目の前でドアに暗い隙間が生まれる。どんどん広がっていくその隙間は、今の未愛にはどんな闇よりも暗く見えた。


「―神住、神住、起きろ。もうすぐリハ―サルだぞ」

 肩を揺すられる感触があった。同時に名を呼ばれる声も聞こえてきて、未愛は自分の瞼に力を込メール。誰かに覗きこまれているのがぼんやりと分かって、ふいに最前の恐怖が甦ってきた。思わず悲鳴を上げそうになったが、口から音が漏れる直前にその誰かが誰かを悟って未愛は声を呑み込む。安堵感から泣きそうになったが、かろうじて堪えてその誰かと向き合った。

「・・真野くん」

「寝てるとこに悪い。けど、もう起きろ。準備が整ったからリハ―サルに入るぞ」

 優人が少し済まなそうに言って、未愛の背を軽く叩いてきた。それで未愛は我に返り、状況を悟って急ぎ彼の動きに従った。台本を抱えていったん茶の間を出ると、カメラのセッティングを始めている美琉瑠に近づいていく。美琉瑠は未愛が傍に来ると、苦笑したような笑みを浮かべてきた。

「ごめんね、眠かったんでしょう?昨夜はぜんぜん寝られてなかったみたいだし、大丈夫?頑張れる?」

 うん、未愛は頷いた。

「大丈夫よ。ありがとう。台詞ならちゃんと入ってるから、心配しないで。私はどうすればいい?」

「う―ん、そうね。私はとりあえず、どんなふうにカメラに映るか確認したいんだけど。佐田さん、どうしますか?」

 美琉瑠は傍の彩夜花を振り返った。彩夜花は茶の間の外、襖を挟んですぐ隣の和室で何やら図面のようなものを座卓に広げては、考え込む素振りを見せている。すぐ傍には、顧問の斎藤先生や幸珠の姿もあった。先生は手持ち無沙汰そうにしながら、こちらを見ている。昨夜の襲撃を受けて、幸珠の電話に駆けつけてきてくれたのだ。以来早朝から、先生はずっと自分たちを見守っていてくれている。あんなことがなければ、今回の映画制作などに参与する予定のない先生は、今日ここに来る予定などなかったのだから、単なる見守りとはいえずっとここにいることを頼まれるのは、先生にとっていい迷惑に違いないだろう。しかし、少なくとも見た目には、先生はそんなふうに感じているようには見えなかった。斎藤先生はとても温厚そうな微笑みを浮かべながら、未愛のほうに視線を向けている。未愛は先生に会釈をしてから、彩夜花の傍に寄った。

「佐田さん、あの、私、どうしましょう」

 訊ねると、彩夜花は図面と台本の交互に視線を落としながら口を開いてきた。

「とりあえず茶の間に入って。まずはこのテレビのシ―ンから撮るから。未愛がテレビを見ていたら、突然画面が乱れて変な映像が流れる、そのシ―ンよ。その後で、襖や障子を開け放して遮蔽物のない縁側に、足音だけが響くシ―ン。最後にポルタ―ガイストが起こって茶の間の飾り物などが全部床に落ちるシ―ンまでを撮るわ。だからまずは茶の間に入ってテレビの前に座ってて。一分ぐらい画面を見てたら、会長が外から自分のケータイでこの家に電話をかけるから、それを取りに廊下を走っていくの。そこで十五ペ―ジ目からの芝居を始めて。音が収録されるといけないから会長は何も喋らない。電話シ―ンは全部未愛の一人芝居なるわ。応答がないと自分の言葉だけで会話の流れを作るのが難しいと思うけど、なんとか頑張ってみて。電話シ―ンの途中から、足音を響かせて最後に茶の間の小物類を全部床の上に落とすことになる。その光景に驚いてみせたところでいったんカメラを止メールわ。そこまでやれる?」

 未愛は頷いた。深呼吸して気持ちを整え、手にした台本で覚えた台詞や動きを再確認してから、台本を幸珠に預けると、茶の間に足を踏み入れてテレビに面した位置にある座布団に腰を下ろした。今から自分は玲美になるのだと、意識を切り換えながらテレビの画面に視線を向ける。最初は何も映っていなかったが、すぐに光が灯って映像が流れ出した。彩夜花か誰かが背後でリモコンを使って電源を入れたのだろう。ドラマのワンシ―ンのようなものが画面に現れてくる。理愛がよく見ているドラマだと、すぐに気づいた。理愛はこのドラマに出ている主演の若手俳優が大好きなのだ。彩夜花も好きなのだろうかと思う。だからこそたくさん番組があるなかで、あえてこのドラマを録画して、使うことにしたのだろうか。

 だがドラマが流れたのはほんの僅かの間だった。彩夜花は一分と言っていたが、確実に一分も流れていなかっただろう。画面はすぐに乱れ、間もなく何が映っているかも判別できなくなっていった。しかし勿論、こういう展開になると分かっている未愛は別に慌てたりはしなかった。台本に書かれていた内容を思い起こし、画面が乱れ始メールと立ち上がってテレビに駆け寄る。裏側を覗き込んでコ―ドの接続とテレビの画面を交互に確認する演技をしながら心のなかでカウントを取ると、ちょうど十を数えたところで電話が鳴る音がした。顔を上げて、開け放してある襖の向こうを見る。いかにも誰からだろうと怪訝に思っているふうを演じ、立ち上がって茶の間から廊下に駆け出していった。廊下の果てには玄関があるが、電話機はその途中、自分たちが控え室にしている座敷に行く廊下との分岐点にある。そこに小テ―ブルを置いてプッシュ式の白い電話機を置いていた。未愛はそこに駆け寄ると、呼び出し音が鳴り終わる前に受話器を耳に当てる。もしもし、と応じた。

「はい、どなたですか?」

 受話器の向こうは無音だった。電話をかけているのは家の門前まで出ている優人なのだからそれも当然で、未愛は少し間を空けてから再び口を開いた。

「どういうことです?あなたは誰ですか?」

 声に少し不快げに苛立ちを込めた。今のは早くこの家を出ていけ脅されたことに対する応答という設定だったからだ。この後さらに続けて、出ていかなければ殺してやるという言葉が続くということになっている。それに未愛演じる玲美が抗議の声を上げるのだ。未愛は聞こえないその声を聞こえるものとして空想し、耳のなかに響く想像の声が途切れた頃を見計らって自分の台詞を発した。だが自分の声が受話器の向こうに消えた瞬間、突然現実の声が耳に飛び込んできて未愛は面食らった。

「・・助けて」

 掠れたような声だった。小さくてよく聞き取れなかったものの、確かにそう聞こえた。声は何も聞こえないはずだと聞かされていたから、ちゃんと意味のある言葉が聞こえてきて未愛は驚いたものの、これは優人が自分が演技をしやすいように配慮してくれてるのかもしれないと思ったから、未愛は特に疑問には思わなかった。むしろ彼の配慮が嬉しくなり、未愛は表情が崩れそうになるのを懸命に抑えながら台詞を吐き出す。それは脅迫ですか、と言葉を紡ぐと今度は悲鳴が聞こえてきた。悲痛な響きのそれに、あれ、と思う。悲鳴なんて台本にはなかったのに、いったいどうしたのだろう。何かあったのだろうか。

 思わずどうかしたのかと、受話器越しに優人に呼びかけたくなったが、ここで台本にはない予定外の言葉を投げかけて、なんでもなかったらそれこそ悪いような気がする。そうなればこのシ―ンは最初から撮り直しだ。本当に何か異変が起きているのなら、彩夜花のほうで収録の中断を呼びかけてくるだろうから、そうした声が何も聞こえてこないということは、なんでもないのかもしれない。金属の擦れる音か何かが、偶然悲鳴のように聞こえただけかもしれなかった。それなら特に気にしなくてもいいかもしれないと、未愛は受話器の向こうの悲鳴のような喧騒は聞こえないふりをして台詞を続けた。

「やめてください、あなたは誰ですか?他人の家に変な電話をかけてこないでください!」

 未愛が台本どおりにそう怒鳴ると、受話器の向こうの喧騒はいっそう大きくなった。悲鳴のような音声が増し、もはや未愛の耳には単なる騒音にしか聞こえない。いったい何の音だろうか。未愛はだんだん不安になってきた。電話の向こうで何が起きているのだろう。このままでは受話器を通して廊下にもこの音が漏れ、映像のなかに予定になかった音が収録されてしまいかねない。どうするべきか、未愛は一瞬迷った。だが未愛が何某かの結論を下す前に突然誰かの腕が視界のなかに飛び込んでくる。驚く間もなくその腕に未愛は受話器を奪い取られた。

「もしもし、どなたですか?」

 受話器を奪ったのは幸珠だった。なぜいま出番がないはずの幸珠が割り込んでくるのだろうと戸惑ったが、振り返って周囲を見渡してみればいつの間にか美琉瑠はカメラを下ろしている。どうやら撮影は現在小休止の状態にあるらしい。彩夜花に手招きされて未愛は彼女の傍に寄った。彩夜花は未愛に囁いてきた。

「未愛、いま誰と話してたの?」

 え、と未愛は驚いて訊き返してしまった。まさか彩夜花にそれを訊ねられるとは思わなかった。そんなの明らかではないか。

「誰って、真野くんでしょ?真野くんが電話してくれることになってたじゃない」

「俺は電話なんかしてないよ」

 ふいに近くから言葉を挟まれた。見ると、優人が窓から室内を覗き込んでいる。彼は手に持ったケータイを振ってみせた。

「かけたら通話中で繋がらなかった。このタイミングだから誰と話してるのかと気になったんだけど。鷹橋さんが昨日何年ぶりかで繋いだとか言っていたからね。誰がかけてきたの?間違い?」

 訊かれて未愛は返答に困った。未愛にはとても、あの電話は間違いであるようには思えなかったからだ。

 ―じゃあ、あの悲鳴って、本物?

 そうなのだろうか。あの声や、あの悲鳴は、優人の配慮などではなく実際の誰かの声だったのか。誰かが、必死で電話に向かって助けを求めていたのか。未愛は血の気が引くのが分かった。自分の、最前までの言葉が脳裏に甦ってくる。自分はいったい、さっき何と言っただろうか。台本どおりに、電話はするなと言わなかっただろうか。必死で助けを求めている人間が、縋るようにしてかけた電話でそんなふうに言われたらいったい何を感じるだろう。しかもあの悲鳴だ。尋常の事態ではない。その悲鳴を、自分は単なる騒音と考えたのだ。

 そのことに、なにやら恐ろしいような気分を感じて、未愛は慌てて幸珠を振り返った。すると幸珠は受話器を耳から離し、見つめながらしきりに首を傾げていた。未愛の見ている目の前で、やがて受話器を電話機に戻すと、こちらに向き直ってくる。

「切れてたわ。間違いでなければ悪戯かも。タイミング悪いわね」

 もう一回いきましょうか、と優人を促した。すると優人は肩を竦メール。彩夜花は気を取り直すように未愛に対して微笑みかけてきた。

「なんか中途半端になっちゃったね。けど気にしなくていいよ。今までのはリハ―サルだから。このまま続けようか。また会長に外から電話をかけさせるから、それをとるところから始めて。また変な電話がかかってきたら切っていいから」

「俺はなんにも喋らんから、なんか言ったらそれはもう俺からの電話じゃねえからな」

 優人も言い添えてきた。幸珠は彼に頷いてみせる。

「真野くんもああ言ってるし、なんか言われたら次からはすぐ私に受話器を渡して。ここは私の祖父母の家だったんだから、ここにかかってきた電話なら応対するのは私の役目だもの。もうかかってこないと思うけどね。ここは五年も空き家だったんだから。今さら電話してくるような人なんてそんなにいないだろうし」

 未愛は頷いた。それから再び電話に近寄り、受話器を見つめながら幸珠に問いかける。

「さっきの電話、誰からだったんですか?」

 思わず出てきた質問だったが、幸珠は、さあ、と首を傾げてきた。

「私が出たときにはもう切れていたわ。悪戯かしらね。何も言われなかった?」

 いえ、未愛は言い淀んだ。咄嗟にどう言えばいいのか分からなかった。

「なにか、悲鳴みたいな喧騒が聞こえました。真野くんの身に何かあったのかと思ったんですけど、佐田さんから何も指示が出なかったから、とりあえず続けなければと思って、それで・・」

 悲鳴?そう呟いて幸珠も電話のほうに視線を向けた。すると、彼女は目を見開いて電話機に手をかける。

「やだ、これ、コ―ドが外れてるじゃない!」

 幸珠の声に一瞬、その場にいた全員が動きを止めてしまった。なんとなく妙な空気が流れる。最初に口を開いたのは優人だった。

「なんだ?いま足でも引っかけたのか?気をつけろよ、コ―ドが抜けたら電話は鳴らんぞ」

「私が引っかけたわけじゃないわよ!もともと抜けてたのよ、どうしてこんなところに足を引っかけるのよ、コ―ドはテ―ブルの後ろを通ってるのに」

「そんなこと知らねえよ、いま抜けたんでなきゃ俺の電話が通話中になるわけねえだろうが。べつに責めてるわけじゃねえぞ。単に気をつけろって言っただけじゃねえか」

 そんな、美琉瑠が上擦ったような声を上げた。

「それじゃ、今の電話、いったいどうやってかかってきたっていうんですか?コ―ドっていつから抜けてたんでしょう?鷹橋さん、いま躓いたりしなかったですよね?」

 ほら、幸珠は勝ち誇ったような目で優人を見据えた。優人は忌々しそうな感じで幸珠に言葉を吐き出してくる。

「じゃあ何だ?その電話は最初から繋がってなかったっていうのか?じゃあどうして俺のケータイでは通話中になってた?コ―ドが抜けてたらそうはならんだろうが。しかも通話中ってことは、俺以外の誰かの電話とは繋がってたってことだからな。そいつはどうして電話をかけてこれたんだ?神住が証人だぞ。悪戯でもなんでも、神住はそいつの声を聞いてるんだからな。電話が繋がってた動かぬ証拠だ」

「じゃあ、もしかして本物の幽霊だったんじゃないですか?」

 美琉瑠が嬉々とした声を上げた。

「本物の幽霊が電話をかけてきたのかも。こういう映画を撮っていたから、近くの霊を呼び寄せちゃったんじゃないですか?神住さんはきっと、幽霊の声を聞いていたんですよ!」

 だから受話器から聞こえたのが悲鳴だったのかも、と騒ぎ、幸珠もそれに乗り出した。だから自分が受話器を取った時、何も音がしなかったのねと同調する。彩夜花の溜息が聞こえてきた。

「だとしたら面白い怪談話だけど、その話は後で楽しみましょう。とりあえず今はリハ―サルの続きと本番を収録してしまわないと、今日一日分の時間が無駄になっちゃうわよ」


「―神住は幽霊が電話をかけてくると思うか?」

 優人は日没後の控え室で就寝の支度を整えながら未愛に話しかけた。美琉瑠と幸珠は今も昼間の電話のことで話を広げて盛り上がっているが、唯一その怪しい電話の音声を直接聞いた未愛はあまり積極的には話に入らず、隣で静かにペットボトルのミネラルウォ―タ―を口に運んでいた。手にはピルケ―スがある。中身は流行のサプリメントなどではなく、いつか彼女の自室で見たあの薬だろう。そのことは簡単に予測ができた。

「分からない。そんなふうには聞こえなかったけど、私は本当の幽霊の声なんて知らないから。そんなの、今まで聞いたことないし」

 そっか、優人は頷いた。

「そうだろうな。俺も本物の幽霊なんて、今まで一度も見たことないし。それにしても神住は大変だな。今日のことばかりじゃなくて、いつもそんな薬を飲んでなきゃいけないんだろ?」

 言いながらピルケ―スに顎をしゃくる。すると未愛は、もう慣れてるから、とはにかんできた。

「小さい頃からいつも何か飲んでるもの、もうあんまり気にしないよ。たまにはこんなのを飲まなくても元気で暮らせる子たちが羨ましくなるけど、これが私なんだから」

「移植って術後のほうが大変なんだな、知らなかった」

 優人が何気なく呟くと、未愛はきょとんとした顔で優人を見つめてきた。

「移植って、私が?」

「そうだよ。神住が飲んでる薬って、臓器移植の手術を受けた患者が飲むもんだろ?拒絶反応ってのを防ぐために。失礼かとは思ったんだけど、あのあとちょっとネットで調べてみたんだよ。神住の家に行った時、神住の机の上を見たからさ。聞き慣れない名前の薬があって、なんの薬だろうって思ったんだ。それでネットでどういう薬か知って。大変だったんだね。俺はインフルエンザより重い病気には罹ったことがないから、想像しかできないんだけど」

「え?ちょっと、待って・・」

 混乱して未愛は咄嗟に優人の言葉を遮ってしまった。

「ネットで調べたの?真野くん、ひょっとしてそのサイトを開いてる人が、何か勘違いしてるってことない?たしかに私が飲んでる薬は、真野くんが言ってる薬だけど。私は今は、それ以外に薬は飲んでないから。けど私は移植なんて受けてないよ。そんな話は聞いてないもの。これは、再発を防ぐために飲んでるの。拒絶反応とか、そんな大袈裟なものじゃないよ」

「再発?じゃあ、移植は関係ないの?白血病とか、そういうのに罹ってたの?」

「ううん、違う。私が弱かったのは心臓で―」

 未愛は言葉を途切れさせた。このとき初めて、未愛は自分が患っていた病気の名前を知らないことに気づいたからだ。

 ―私、今までなんの病気だったの・・?

 改めて自問すると愕然とした気分になる。未愛は今まで自分がなんの病気で苦しんできたのかを知らなかった。思えばずっと、心臓の病気という一言で納得していたような気がする。親からも、医者からも、心臓が弱いという言葉以上の説明は聞いたことがなかったし、未愛もあえて訊ねたことはなかった。疑問に思う必要もないほど、未愛にとっては自分に病気があるのが当たり前だったからだ。未愛が知りたかったのはずっと、どうすれば苦しくないのか、楽になれるのかということだけだった。そして今や、それは叶えられている。この薬を飲み続けていれば、もはや病気など過去のものにできるとなってからはずっと、かつて入退院を繰り返した病気の詳細などは意識の外にあった。考えたくもなかったというほうが正しい気がする。辛く苦しいばかりだった闘病生活など、好んで思い出したくはない。

 ―そういえば三年前・・。

 未愛は記憶を探った。いや、探らなくてもまだはっきりと思い出せる。三年前に、未愛は十時間以上に及ぶ外科手術を受けたことがあった。身体が健康といえるほどに丈夫になれたのはそれからのことなのだから、忘れようがない。だが、それまでずっと未愛に病魔を齎し続けていたものを根絶した手術とはいったい、どのようなものであったのだろうか。手術ならそれまでにもいくつか受けてきたが、十時間以上もかかっているのだから、簡単な手術であったはずがない。なのにどうして、自分はその手術がどういう手術かを知らないのだろう。もしかして移植手術だったから、何も知らされなかったのだろうか。

 ―それなら、確かに私だって何も言わないかもしれないけど・・。

 臓器移植の手術はドナ―がいなければできないことだ。ましてや自分が受けたのは心臓の移植手術のはずだから、確実に自分の手術に際しては誰かが死んでいることになる。そのことに、未愛は胸が痛むのを感じた。ひょっとして、自分は三年前、知らないうちに他人の生命を引き継いでいるのではないだろうか。だとしたら、それを自分が知らないままでいるというのは、許されない気がした。

 ―知りたい。

 切実にそう思った。今ほど未愛は自分の身体のことを知りたいと思ったことはなかった。自分がどういう状態で生まれ、どうしてあれほど苦しい闘病生活を強いられてきたのか、そしてどうして今はこれほど元気になれたのか、あの時の手術はいったいどういうものだったのか、全てを知りたいと思った。それが分かれば、たびたび起こるあの原因の分からない眩暈の由来も分かるようになるかもしれない。


「―未愛、どうして急に、そんなこと知りたいと思ったの?」

 耳に当てたケータイからは母親の硬い声が聞こえてきた。未愛はそれになんとなく、と答える。自分の願望を上手く説明できるだけの言葉は見つからなかった。

「真野くんと話してて、ちょっと気になって。前に時々、急に眩暈がするって話したでしょ?私はずっと心臓の病気だったんだから、あの眩暈に昔の病気が関係してるかもしれないじゃない。だから、どうしても気になるの」

 未愛は昼間、撮影で使った茶の間の畳に腰を下ろし、ケータイで自宅に電話をかけていた。ケータイは優人から借りたものだ。未愛が幸珠に電話を借りたいと言ったら優人が自分のケータイを使えばいいと渡してくれ、有り難く使わせてもらうことになった。その優人は自分の隣で同じように腰を下ろしながら手持ち無沙汰にしている。その彼を視界の端に捉えながら未愛は口を開いていたが、母はそんなことないわよと返してきた。

「大丈夫よ、そんなに心配しなくて。お医者様も仰っていたでしょう?昔の病気のことはもう気にしなくていいの。未愛が眩暈を感じたのは、きっと暑かったからよ。最近多いでしょ、熱中症というのが。だからこまめに水分を摂っていれば心配いらないわよ」

 ちゃんとお水は飲んでる?問い質されて未愛はなんとなく頷いてしまった。それから気を取り直してまた訊ねてみる。

「本当に?だって私、不安だもの。思い返してみれば、私、自分がなんの病気で何度も入退院を繰り返してたのか分からないんだもの。だから今、それを教えてもらいたいの。いいでしょ?私の身体のことなんだから。私は心臓のどんな病気だったの?三年前に受けた手術は、いったいどういう手術だったの?」

「どういうって、たしかバイパス手術というのじゃなかったかしら。先生に訊けば詳しく教えてくれるとは思うけど・・」

 安川先生というのは中学までの未愛の主治医だ。最近は縁が遠くなっているが、今でも何かあれば未愛は安川先生の診察を受けに行くし、薬の処方箋も、常に安川先生から貰っている。理愛のかかりつけ医でもあるから、神住家にとっては馴染みの医者だ。

「じゃあ、撮影が一段落したら安川先生のところ行って訊いてくる」

 言うと、母はいいけど、となぜか難色を示してきた。

「どうして、今さら手術のことまで気になるの?病気のことだけが知りたいのなら、このまま電話で教えてあげるわよ。手術のことは、眩暈にはなんの関係もないから、安心しなさい。あの手術が未愛に健康な身体をくれたのよ。そのことは忘れたらだめ。あの手術が上手くいったから、未愛はこうして元気で暮らしてられるのよ」

 そうだけど、未愛は口籠もった。

「それは、分かってるけど。真野くんが教えてくれて。私の飲んでる薬が、臓器移植の手術を受けた人だけが飲むものだって言ってたから、気になって」

「あら、それは彼の勘違いよ」

 母の笑う声が聞こえた。なぜか少し引き攣ったような笑いに聞こえた。

「ずいぶん、彼のことを信用しているのね。仲がいいのは嬉しいことだけど、それは彼が何か勘違いをしてるのよ。未愛はそんな大きな手術は受けてないわ。未愛だけじゃなくて、城聖市ではまだ誰もそんな大きな手術は受けてないと思うわよ。臓器移植なんて大きな手術があると必ず新聞に載るでしょ?脳死移植ならテレビのニュ―スでも流れるかもしれないわ。けど、お母さんはまだ一度もそんな報道は見てないもの」

 未愛も聞いたことないでしょ?と問いかけられ、未愛は再び頷き、肯定を返した。確かに、そんなニュ―スを見聞きした記憶はなかった。

「だから未愛は自分が他人の臓器をもらって生かされているんじゃないかなんて、考えなくていいの。そんなことはないんだから。安心して撮影、頑張ってね。完成したらお母さん、見に行きたいから」

 母の口調は宥メールようだった。それ以上は訊ねにくい雰囲気になって、未愛は、分かった、とだけ答える。すると、おやすみ、の声だけ聞こえて電話が切られるのが分かる。不通を伝える音を聞きながら未愛は釈然としない思いを感じていた。結局、自分の知りたいことには何も答えてもらえなかったような気がする。気のせいだろうか。


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