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映画撮影

「―そうすると、序章の殺人事件のシ―ンはで撮影できるの?」

 彩夜花が問いかけると、ペンを動かしながら幸珠は頷いた。

「大丈夫。お母さんの実家を借りられることになったから。どうせもう誰も住むことはないんだから好きにしていいってさ。松峰山のけっこう奥のほうにあるから、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんが亡くなった後はずっと空き家のままになってて、けっこう汚れてあちこち傷んでるんだけど、うまく使えばかえっていい感じが出ると思う。安心してよ。彩夜花たちがロケ地の選定には困らないよう、工夫して脚本を書いたんだから。序章だけでなく、終章まで全部、そこで撮影できるように、わざわざ田舎の家に越してきた主人公がそこで怪奇現象に遭うなんてスト―リ―にしてあるのよ。そうすれば撮影場所を決メールのに苦労することないでしょ?撮影中に他人の目がなければ演技にも集中しやすいだろうし」

「そのとおりだな。場面の数が増えれば収録できる場所を探すためでも大変な労力が要るだろう。市街地なんかで撮影すれば人目もあるから、とても落ち着いて演技なんかできるもんじゃねえ。けどこのスト―リ―だと役者の演技レベルが全てを決してしまうだろうな。下手な奴が主演なんかすれば、それだけで全部崩れちまう。主役は誰がするんだ?あてはあるのか?」

 優人は配られた台本を見ながら向かいの幸珠と彩夜花に交互に視線を送った。このスト―リ―だと役者の演技の出来不出来が映画の出来を決定するものになりそうだった。演技をするのはほぼ主演の一人だけ。それがひたすら新居で起こる怪異に怯えるのがメインの作品になる。最初のうちは洗面所の鏡に人影が映るとか、閉めたはずのドアが勝手に開くとかの些細な怪異となるが、終盤が近づくにつれて怪異は徐々に激しくなり、ラストでは主役の行方を曖昧にした形でのエンディングとなる。演出は事前に決めたとおりにこなしていけばなんとかなるような気もするが、台詞もほとんどないのに表情や動きだけでスト―リ―を牽引できるだけの演技力が一朝一夕に身につけられるだろうか。これはとりあえず台詞さえ覚えてしまえばなんとかなるような類いの作品ではない。このスト―リ―で優れた映画を作り上げられるだけの者は、間違いなく一流の役者になれるだけの才覚を持っている。

 優人の問いかけには全員が口を閉ざしてしまった。全員がいったん黙り込み、やがて各々が自分の近くの者を控えめに推薦し合っている。いや、この場合は押しつけ合っているというのが正しいだろうか。幸珠が書き上げてきた脚本は想像以上にレベルの高いものだった。おそらくこれが幸珠が幸珠なりに高校生が短時間でも制作を終えられるよう最大限の工夫を凝らした結果なのだろう。少ない人数で激しいアクションがなくてもスト―リ―が成立するような配慮がなされた上、ロケ地までも用意してくれていた。ここまでしてくれれば、後はそもそも映画を企画した自分たちがやらねばならないことだ。演出方法を考え、衣装と小道具を揃え、台詞を覚えて収録をし、撮った映像を編集して完成させねばならない。このうち衣装と小道具、映像の編集については特に問題はなかった。元々それほど特殊な設定の話ではないため、衣装などは各自の私服で充分だし、小道具についても同様だ。消耗品などは制作の概要が決まったあの日に優人と未愛がホームセンタ―で買ってあるし、撮影用のカメラやライトのような機材は学校の放送室にあるものを借りられるよう顧問の教師がすでに許可を取ってくれている。さらに足りないものがあれば、また借りるなり買うなりすればいいし、映像の編集については最初から彩夜花が請け負うと表明しているのだからこれも問題はない。一番の問題は、やはり演出をどのようにして誰が演じるか、それに尽きるのだ。今この場において自分たちが決めなくてはならないことは、映画において最も重要な、その一事に尽きる。

「―こりゃ主演は佐田で決まりだな。誰もやりたくないんなら、責任とって最初に言い出した佐田が自分でやれよ。俺たちは手伝いだけしてやるからさ。そのほうがいいんじゃないか?監督、主演、編集、全部自分でやれば好き放題にできるだろ?」

 優人が投げ遣りに彩夜花に向けて視線を投げると、彩夜花は睨むような視線を優人に向けてきた。

「冗談。それじゃわざわざ生徒会の主催にする意味ないじゃん。真野くんがやってよ、主役は男性に変えるから。真野くんだったらハンサムだし絶対いい作品になるわよ」

「ふざけるな。俺は自分が主演をやらされるって決まってたら、最初からこんな企画拒否したよ。自分がやりたくない仕事他人に押しつけんな」

 じゃあ美琉瑠、と彩夜花はあっさりと優人を諦めたのか、美琉瑠のほうに目を向けた。美琉瑠は勢いよく首を振ってきた。

「そんな、無理です。私、出ることなんて考えて準備してないし、テ―マ曲作るのに手一杯で、とてもそんな余裕なんてありません」

 ほら見てみろと優人は彩夜花に視線を投げた。すると彩夜花は忌々しそうに優人を見返し、それならいっそ顧問の斎藤先生にお願いする?と口を開いてきたので、優人は首を振った。

「やめとけ。先生だってそんなに暇じゃねえだろ?忙しいのに文化祭の出し物のことまで押しつけるな。それに万が一にも引き受けてくれたとしたって顧問の教師が主役をしたんじゃ俺たちの作品とは言えなくなるぞ。しかも第一、先生が主役じゃあんまり見栄えがしないと思うがな?斎藤先生って幾つだ?たぶんあと二、三年で定年だと思うんだが?」

「じゃあどうするのよ?ここまできて企画を流すの?それじゃあせっかく脚本を書いてくれた幸珠に失礼じゃない?」

 ねえ、と同意を求メールように彩夜花は幸珠を見やった。幸珠は苦笑を浮かべる。

「私は別に。彩夜花たちが無理なら演劇部にでも持ち込めばいいし、小説の形に書き直せば文芸部の会誌に載せられるから。私のこと考えてくれてるんなら気にしなくてもいいよ。映画って大変だから、最初から完成できないこともある程度には想定しているし」

 すげえ、優人はあからさまに感心してみせた。

「脚本家のほうが口だけの監督よりしっかり考えてるぞ。その手があったんじゃねえか。佐田、演劇部に協力を仰いで共作ってことにすればいいじゃんか。あいつらなら演技なんか慣れたもんだろうし、頼めばすぐ引き受けてくれるんじゃねえの?部長と副部長は劇団所属のプロだっていうぜ?そんな連中が主演なら、文化祭が終わった後もどこかの映画祭に出品できる機会だって手に入るかも・・」

 ああ、それだけはやめて、彩夜花は言いかけた優人の言葉を慌てたように遮ってきた。

「蝶野や中城だけは加えたくないわ。あんなのに引っかき回されるぐらいだったら、いっそ―」

 自分が、と言いかけたように見えた。だが彩夜花はその続きを発してはこなかった。ちょうどその瞬間になって自分たちがいる生徒会室の扉が音を立てて開いたからだ。全員の目がそちらに向いた。

「すみません、遅くなりました。合唱部の練習が長引いて―」

「決まり。いいところに来てくれたわ。未愛ならきっとできる。最高の出来栄えになるわね」

 え、と未愛は突然自分に向けて投げかけられてきた意味不明な褒め言葉に瞬いた。当惑を感じ取って優人は彩夜花を咎メール。

「佐田、やめろ。今までいなかった神住に押しつける気か」

「あら、押しつけてなんかいないわよ。未愛なら演劇部にもいたことあるし、経験あるし上手でしょ。おまけに可愛いし。見栄えや実力を考えてこれ以上の人材がうちにいると思うの?」

 彩夜花はやけに強気で反論してきた。そういう問題じゃねえよと優人も負けずに言葉を返す。

「神住の意見を無視して自分の都合だけで決メールんじゃねえって言ってんだよ。お前がそんなふうに言ったら神住は拒みにくくなるだろうが。少しは相手の都合ってもんを考えろ。神住はまだ台本も読んでねえんだよ。―神住、大丈夫だぞ。俺がちゃんと言っておくからこいつの言葉になんか耳を貸すな」

「え?え?あ、あの、真野くん・・」

「はいはい、二人とも、あんまりうちの可愛い部員をいじめないでよ」

 未愛が戸惑ったような声を発すると、それまで何かを訊かれない限りは口を開かなかった幸珠が自分から口を開いてきた。彼女は呆れたような声音で彩夜花と優人を見比べてくる。

「二人とも仲が良いのは結構だけど、そういう言い合いなら外でやって。神住さんが困ってるから」

 言い放って立ち上がると、幸珠は美琉瑠の隣から椅子を引き出してきて自分の席の横に置いた。

「神住さん、立ってないで座って。今ね、私と生徒会のみんなで映画の配役をどうするかについて話し合ってたの。これが台本。神住さんはやりたい役ある?副会長は主役してもらいたいみたいだから、やりたいなら主役でもいいわよ」

 幸珠は穏やかな口調で未愛に台本を差し出した。未愛はそれで少し状況を理解したような顔になって椅子に腰を下ろす。見てもいいですか、と幸珠に声をかけてきた。幸珠が頷くと未愛は本のペ―ジをめくり始メール。表情はみるみるうちに真剣なものに変わっていった。

「・・すごい。鷹橋さんって、やっぱりすごいです。こんな話が書けるなんて、尊敬します。面白いです」

 ふふ、有り難う。幸珠は微笑んでみせた。自分の書いた作品を手放しで褒められるのは、やはり嬉しいものがある。

「私、本当に何の役をしてもいいんですか?」

 いいわよ、と幸珠は頷いた。

「監督と編集はもう佐田さんがやることが決まってるの。演出が真野くんで、私も少し手伝うことになったわ。テ―マ曲の作曲とカメラが岩宮さんの役目。あとは配役を決メールだけなんだけど、主役の人だけは出番が多くて大変だから、裏方仕事は免除して役だけに専念してもらおうってことになったの。神住さんは何がしたい?裏方はもう音響とか照明とか、わりと地味なのしか残ってないから、華やかなのがやりたかったら主役を勧メールわよ」

 え、と未愛は驚いたような顔で台本から視線を上げ、幸珠を見つめてきた。

「私が、主役をしてもいいんですか?主役って、この玲美っていう女性のことですよね?」

 そうよ、と幸珠はにこやかに頷いてみせた。いつの間にか彩夜花は勿論、優人も美琉瑠も黙りこんで生徒会室は静まり返っていたが、未愛だけはそれに気づいていないようだった。目をきらきらさせて台本に見入っている。

「じゃ、じゃあ、私、やってみたいです。この玲美の役。この役がしたいです」

 いいわよ、幸珠は微笑み、励ますように台本を読み耽る未愛の手にそっと自分の手を添えた。視界の片隅で小さくガッツポ―ズをしている彩夜花は見えないふりをした。

「頑張って。この役、台詞が少なくて大変だと思うけど、神住さんならきっとできるから」


 洗面台の蛇口をひねると、流水が迸った。未愛はそのなかに手を突っ込む。ひんやりとした涼やかさが両手を包み込み、思わずほっと息をついた。左右の手を互いに撫で回し、丁寧に埃を洗い流していく。石鹸を取ろうと顔を上げて片手を伸ばした。正面の鏡の横に小さな棚があり、そこに買ったばかりの石鹸を封も切らないまま置いているのだ。真新しい石鹸で初めて手を洗おうとして、未愛はふと動きを止めた。鏡のなかに、何か妙なものが見える気がする。

 ぎくりとして未愛は振り返った。だが何もいない。何もいなかった。何かを見間違えたかと、恐る恐る首を背後へ向けて動かす。すると、そのときにはもう鏡のなかにはどんなものの姿も確認することはできなかった。恐怖と驚愕に引き攣る自分の顔しか映っていない。

 その様子を確認すると、思わず安堵の溜息を吐き出した。いま見たものは何だったのだろうと訝しみながら、再び蛇口をひねって水の流れを止メール。いま見たものは気のせいなのだと、無理やり納得することで自分の心を鎮めようとした。

「はい、カット。いいよ、未愛。そこまでで」

 明るい声が背後から聞こえてきた。その声に今度は本心からの溜息が零れた。足から力が抜けるのが分かる。安堵のあまりその場に座り込んでしまうと、背後から抱きかかえられるのが分かった。

「大丈夫?緊張した?」

 うん、と正直に頷いて未愛は背後を振り返りながら笑んでみせた。背後の優人と目が合うと、優人も笑んでくれる。

「良かったよ。最初にしてはいい演技だった、って、俺はべつにプロの俳優じゃないけど、この調子なら最後まで順調にいけると思う」

 良かったあ、と未愛は今度は安堵だけでなく自信も感じた。優人の手を借りて立ち上がると、背後でカメラを構えていた美琉瑠や、ライトを構えながらモニタ―を凝視していた彩夜花、台本を手にした幸珠も未愛に向かって微笑んでくる。今までは見えないものとして必死で無視していた彼女たちの姿を、今度はちゃんと見えるものとして振る舞えることには大きな喜びがあった。

「お疲れ。次のシ―ンは陽が暮れてから撮るから、いったんここで止めて夕食にしようか。食べてから次のシ―ンのリハ―サルしよ。第一章だけを撮り終えたら、今日は終わり。それでいいかしら?」

 彩夜花はてきぱきと今後の段取りを説明した。未愛は特に異論はなく、黙って頷く。優人や美琉瑠、幸珠も特に異論はなさそうだったので、未愛は彩夜花に訊ねた。

「台本にあった、鏡に映る幽霊ってどうやって表現するの?彩夜花は見えるものとして演技しろって言ってたけど、ないものをどうやって映像に出すの?てっきり誰かが幽霊役をするものだと思ってたのに」

 素朴な疑問だった。未愛は自分のクランクインともいえる洗面所でのシ―ンで、実際には見えていない幽霊を見えているとして演じた。鏡のなかにあったのはむしろカメラを構える美琉瑠であり、未愛は見えるものを見えないものとして無視し、逆に見えないものを見えるものとして扱うというそれなりに難しい演技をこなしたのだ。だがこのとき未愛演じる玲美は鏡のなかに一瞬ではあっても幽霊を見るのであり、それは映像でどのように作るのだろうと思ったのだ。ないものをあるものとして見せる方法というのは思いつかない。いったい彩夜花はどうするつもりなのだろう。

 すると彩夜花は、そんなの簡単だから大丈夫、と片目を瞑ってみせた。

「編集のときに合成するから。今はそういうことも簡単にできるソフトがあるからね。それをやってみる。未愛は心配しなくていいよ。そういうことは全部私がやるから」

 だから安心して、完成を楽しみにしててね、と彩夜花は言い、未愛は納得して優人とともに洗面所を離れた。廊下を歩いて控え室として使わせてもらっている座敷に入る。今は旅行鞄などで雑然としているその部屋の床に、未愛は優人と腰を下ろした。

「・・なんか、畳の上に座ったことって、あまりないかも」

 俺もかな、と優人も笑ってきた。

「うちも和室なんてないからね。座るのに椅子を使わなかったことなんてほとんどないんだけど、足を伸ばして座るってのもなんかいい感じだね。くつろいでるって気がするから」

 ほんと、と未愛も同意した。ひとしきりそのまま二人で和やかに語り合い、次第に打ち解けた気分になってきた。今日は制服を着ていないからだろうか。いつもよりも舌が滑らかに動く気がする。学校の外で、私服でいるというだけで気安くなれるのはなぜなのだろう。互いにプライバシ―をさらしているからか。だから親近感が湧いてきているのだろうか。ずっとこのままでいたいと思った。こんな楽しい時間はそうそうやってこない。

「・・でね、理愛が今回の映画のことに興味津々で、お姉ちゃんは綺麗なドレスが着られていいなあって言われちゃったわ。たぶん理愛のなかでは鷹橋さんの映画はシンデレラみたいなプリンセススト―リ―になってるんだと思う。だからなんだか言い出しにくくて」

 優人は笑った。

「それはたしかに言いにくいだろうな。ホラ―は好みが分かれるからね。けど理愛ちゃんはどんなジャンルの映画であっても神住の出てる映画ならきっと見るのが楽しみじゃないかな。なにしろ理愛ちゃんにとってはお姉ちゃんが主役なんだし」

 そうかな、未愛も笑い返した。

「そうだったらいいけど。理愛は恋愛物しか見ないから、見せたらがっかりしてしまうかも―あれ?どうしたの?」

 未愛は言葉を切って優人のほうを窺った。優人がなぜか未愛との会話から注意を逸らしたように見えたからだ。彼は窓のほうに身を乗り出している。

「・・なんか、庭のほうに誰かいたような気がしたから」

 え―、驚いて未愛も窓のほうを見てしまった。思わず立ち上がって窓のほうに駆け寄ってしまう。優人が制止するような声が背後に聞こえたが、構わず窓を引き開けた。

「誰もいないよ。気のせいじゃない?」

 室内の優人に声をかけながら、窓の外を見渡す。窓の外は狭い裏庭だった。一見しただけで裏庭と分かるほどの造作をしている。庭というよりこの座敷の採光と換気のために設けた単なる露地だ。この家は元々は幸珠の祖父母が暮らしていた家だというが、その当時からおそらく庭として活用されていたことはなかっただろう、そんなふうに思えた。それぐらい窓の外は狭い。幅はおそらくこの座敷と同じ八畳ほど、奥行きはほとんどなくてその半分ほどに見えた。両端がこの家の外壁で、奥は無味乾燥な灰色のブロック塀になっている。ブロック塀の向こうは鬱蒼とした雑木林で、そのためそんなに日当たりは良くなかった。全体的に薄暗くて、僅かな雑草の他は庭木らしい庭木もない。そもそも出入りできるドアがなかった。この座敷の窓を通り抜ける以外に、裏庭に出る道はない。このことは最初にこの座敷に入った時から分かっていたことだった。優人もそれは知っていたはずで、改めて見ても誰もいない。優人はいったい誰を見たのだろうか。目の前のブロック塀を乗り越えてくれば、この座敷の窓を通らなくても庭に入ることはできそうだったが、彩夜花や幸珠がそんな方法でこの家を移動するはずなどない。

 そんなはずは、と優人も窓辺に寄ってきては当惑したように外を見やった。だが確かに誰もいないことを自分の目で再確認したからか、首を振って窓を閉め始メール。

「ごめんね、驚かして。確かにさっき、誰かがこっちを覗いていたような気がしたんだけど・・」

 優人の声は自信なさげだった。未愛は首を傾げた。

「誰かって、誰がいたような気がしたの?知らない人?」

 うん、と優人は頷いた。

「誰かは分からなかった。一瞬だったし。けど男だったのは確かだから、誰だろうって思ったんだけど」

 その言葉に未愛はもういちど窓の外に視線を向けてみた。けどやはり外には誰の姿もない。それでもしかして本物の心霊現象だったかもしれないねと、冗談っぽく優人に笑ってみせた。

 しかし今度は優人は笑い返してくれなかった。なぜかとても真剣な表情で窓の外を睨み、未愛に窓から離れようと促してきた。未愛は優人に促されるままに座敷を動き、中ほどで再び腰を下ろす。それから優人はもういちど窓辺に戻ってカ―テンを閉め始めた。光が遮られると、天井の照明が灯される。この家はそもそも空き家になっていたというが、今回の撮影に当たって事前に撮影や滞在に必要なものは運び込んでいたのだ。

 明かりがつくと、優人は照れたように笑んだ。

「ごめんね。明るいうちからカ―テンなんか閉めて。けどどうしても気になるから。誰かに覗かれてるかもしれないと考えただけで、落ち着けないし」

 

 しかしその後、優人が危惧したような覗きの不審者が再び現れるようなことはなかった。

 次のシ―ンのための準備を終えた彩夜花たちが控え室に戻ってきたときも、なんともなかった。彩夜花や美琉瑠たちを必要以上に不安にさせても無意味なように思えたから、未愛は彼女たちには何も言わなかったし、それは優人もまた同じだった。だから表面上は何も変わらないまま、未愛は優人や彩夜花たちと控え室でケ―タリングの夕食を摂り、陽が暮れると次のシ―ンの撮影に移った。未愛の次の出番は夜の茶の間だ。茶の間でくつろいでいると襖が勝手に開いてくるというシ―ンになる。このシ―ンでは幽霊は登場しない。単に襖が開いてくるというだけのシ―ンで、未愛は隣室に隠れた優人や幸珠が動かす襖の音に驚く仕草だけで怪奇現象が起きているように見せねばならない。先ほどの洗面所のシ―ンよりも、未愛にとっては難易度が高かった。この映画では幽霊役の役者がいない。編集で彩夜花がそれらしい影を合成して追加するものの、実際の撮影現場ではもちろん幽霊など出ないし、誰も幽霊の役などしない。未愛の演技だけでこの家の怪奇現象を表し観客に恐怖を与えなければならないのだ。どこの家でも起こりそうな真夏の怪異、それによって脅かされる普通の女性の生活というものが、幸珠の書きたかったこの映画のテ―マであり、未愛が作り上げたい世界なのだ。

 しかし実際に撮影が始まってみると、演技よりも意外なところが難しいことに気づいた。襖を開けるというそれだけの動作で、タイミングがなかなか合わないのだ。古い家屋であるだけに滑りが悪く、肝心なところで引っかかってしまったりする。襖が引っかかって二度開くようなことになれば、人が開けていると誰にでも分かるから、その時点で撮り直しだった。動作のタイミングは腕時計の秒針をストップウォッチ代わりにすればなんとか合わせられるものの、この引っかかりがなかなか解消できず、考え抜いた挙句に幸珠を通して鷹橋家の許可を得、襖が滑る敷居を僅かに削ることでこの問題はクリアした。しかしそのためにこのシ―ンに必要以上に時間をかけてしまい、映像を撮り終えた頃には深夜が近くなっていた。ホラ―作品だけに撮影は専ら夜間に行うことになっているものの、さすがにそれで疲れてしまい第一章の撮影の残りは翌日に持ち越しとなった。優人と幸珠は特に序章の殺人事件のシ―ンで役者をしただけでなく現場そのもののセッティングでも奮闘しており特に疲れている。それで茶の間でのシ―ンが終わると、全員が早々に風呂を済ませて控え室に戻ることになった。控え室には今回の撮影のために借りたキャンプ用の寝袋を置いており、そこに全員で休むのだ。窓は網戸だけを閉ざして開放した。夕方の不審者のこともあり優人は窓を開放することに慎重になったものの、結局は夏の暑気を少しでも和らげたい彩夜花たちの意見のほうが通った。この家は長いこと空き家であっただけに空調の設備などない。松峰山の中腹にあり近くには渓流も流れていることもあって市街地に比べれば気温は低いものの、それでも閉めきっていればかなり暑かった。扇風機もほとんど持ち込めてないのだから、古い日本家屋の風通しの良さは最大限に利用したほうがいい。それに優人以外は夜間の防犯のことなどほとんど気にしていないのだ。そうでなくても付近にほとんど住宅のない山間部であり、なおかつこの座敷は外の雑木林とブロック塀に守られて簡単には近づけない。幸珠は優人の警戒のほうを神経質すぎるといって宥めた。それでほとんど無防備な状態で寝ることになり、未愛も寝袋に潜り込んで目を閉じた。睡魔はすぐにやってきた。ほどなくして現実と夢の境界が曖昧になり、意識が明瞭さを失う。だがそのまま自然に任せて意識を手放そうとした時、ふいに違和感に襲われた。なんだろう、何か、変な気分がする・・。

 違和感は徐々に大きくなってきた。未愛は次第に耐えきれなくなってきて瞼に力を込メール。睡魔の逃げきらない身体では、とても重く感じる瞼を無理に開けると、視界に入ってきたのは漆黒の闇だった。光の入ってこない世界に、一瞬ここはどこだと訝しみ、やがて少し意識が冴えると自分のいる場所を思い出した。そうだ、自分は今、映画の撮影で幸珠の母親の実家に滞在しているのだ。嗅ぎ慣れない山の匂いに記憶が呼び起こされてくる。街なかでは味わえないその独特の静けさのなかで、未愛は昼間の諸々を思い起こしながら違和感の正体を探った。五感に感じられるのは、普段の暮らしではなかなか縁を持てない山々の気配であり、街なかよりも清らかに感じられる風の涼やかさであり、そしてほんのりと香る煙草の独特な臭みだった。

 ―煙草?

 ありえない臭いに急速に未愛の意識は覚醒していくような気がした。闇のなかで目を凝らし、嗅覚に意識を凝らして必死にその臭いの源を探っていく。意識を向ければ向けるほど、その臭いは強くなっていくような気がしてきた。この場では感じられるはずのない臭いへの疑念は、未愛のなかで時間に比例して強くなっていく。いったいなぜ、この部屋でそんな臭いなどするというのか。この場には煙草を吸えるほど年長の者などいないのに。

 限界まで高まった疑念に、ついに未愛は身を起こした。とにかく臭いの源を確かめたくてならなかった。なんでもないことかもしれないが、万一にもこの臭いが、ハイカ―の投げ捨てごみなどから漂ってきた臭いだと困る。臭いが漂ってくるということは、近くに吸い殻が落ちておりまだその火が消えていないということだからだ。そんな危険を放置しておくわけにはいかない。この家は古い。小さな火種でも、いったん火がつけば最悪なことになる可能性もあった。夏でも冬でも、そのリスクは変わらないだろう。

 それで寝入っている優人や彩夜花たちを起こさないように、未愛はそっと寝袋から抜け出て畳の上に座った。少し夜目が利くようになっていた。窓から射し込んでくる月明かりに蒼白く浮かび上がる座敷の上で、音を立てないよう注意しながら静かに網戸を開けていく。未愛がいちばん、窓に近いところで寝ていたのだ。扇風機の風はほとんど届かないものの、網戸越しに吹き込んでくる自然の風であまり暑さは感じない。だからこそ未愛だけがこの臭いに気づいているのかもしれなかった。他の者たちは誰も、あるはずのない煙草の臭いなど感じていないような顔で、みな襖の傍で回っている扇風機のほうに顔を向けている。誰もこちらは見ていない。

 単なる投げ捨てごみだったら、みんなを起こさないように自分で始末してしまおう。未愛はそう考えて、穏やかな寝顔を見せる皆に背を向けると、窓辺に手をついて遮るもののなくなった窓から身を乗り出した。狭い裏庭を見渡そうとして、異変の有無を感じ取れるよりも前に小さな音が耳に入ってくる。

 マエカちゃん、音は人名のように聞こえた。あまりにもはっきりとした人の発声らしい音声に、未愛はぎくりとしてそのまま身体が強張ってしまう。するとその瞬間だった。突如として身体が地面に引きずり込まれるように傾き、未愛は全身の均衡を失った。

 悲鳴を上げ、咄嗟に窓の縁を摑もうとした。しかし声は出ず、手に力を込メール暇も与えられなかった。未愛が自分の身体の傾きに気づいた時には、全身を羽交い絞められるようにされていたからだ。未愛は誰かに口を塞がれていると自覚できていた。そのせいで声が出せないのだと、そしてそれを自覚できた頃には、未愛はその誰かによって窓の外に引きずり出されていた。裸足の足に冷たい土の感触を感じ、鳥肌が立つような恐怖を覚える。自分がはっきりと、優人たちから離されたことが分かったからだ。拉致されそうになっている、そのことは直感的に理解できた。

 ―助けて。

 恐怖に包まれながら未愛は全力で悲鳴を上げた。掠れたような呻き声だけが溢れ出るなかで必死で抵抗し、手足を激しく動かす。大きく振った腕が何かを直撃し、背後で呻くような声が響いた。その声に重なるようにして自分を締め上げている力が緩んだのを感じ、遮二無二身を捻って未愛は何者かの拘束を抜け出す。口許が自由になると全身の力を絞り出すようにして絶叫した。


「―大丈夫だ。とりあえず、今はもう家の周りに怪しい奴はいない」

 優人が座敷に戻ってくると、幸珠は明らかに安堵したような顔で未愛を振り返ってきた。

「よかった、―神住さん、もう大丈夫よ。外には誰もいないって」

 励まされて、未愛はどうにか頷いてみせた。言葉は出てこなかった。咄嗟に何を言っていいのか分からない。未愛のなかにはまだ直前の衝撃が根を下ろしていた。ショックが思考を硬直させている。舌も考えも、巧く動いてはくれなかった。

 すると、まるで未愛のその現状を読んだかのように、彩夜花が口を開いてくる。

「それにしても最低の男よね、そいつ。勝手に他人の家に入り込んで、その挙句に女の子に乱暴しようとするなんて。本当に卑劣」

 美琉瑠も同意するように頷いた。

「なんか、怖いですね。こんな山のなかで、そんな、都会でもなかなか起きないような事件が起きるなんて、思ってもみませんでした」

「そうよね。まあ、田舎だからってそんなにいつも平和ってわけじゃないんだけど」

 幸珠は苦笑した。

「小さい頃は泊まりにくるとよくお祖父ちゃんが言っていたわ。田舎だからっていつも長閑で平和じゃないよって。人目につかないところだから、かえってよくない人がやってきたりするんだってさ。近くの山のなかには時々、あまりマナ―のよくない業者がやってきて、ごみとか無断で捨てていったりするし、前は暴走族が立ち寄って騒ぐこともあったって。だから田舎だからって、家を空ける時は絶対に戸締まりを忘れちゃいけないの。そういうところは都会と変わらないのよ」

 ええ、と美琉瑠が何かを嘆くような声を上げてきた。

「それじゃあ田舎に住む利点って、なんにもないじゃないですか。田舎の良さってそれだと思ってたのに。空気がきれいで閑静で、安全だって」

「閑静なのは確かかな。この辺りはどこも隣家とは少し距離があるから、確かに騒音なんかで揉メールことはないかも。けれど人目がなければ、安全って逆に脅かされるものだよ。松峰山は通り過ぎる場所でも目的地にする場所でもないことが多いから、昼間は目立って悪い人は近づきにくいかもしれないけどね。夜は闇に溶け込んじゃうから。道路沿いでも、ろくに街灯すらないし」

 幸珠は自嘲するように口を開くと、なんとなく警戒したような表情で窓のほうに視線を向けた。今はしっかりとガラスが閉ざされた窓は、きちんと錠が締められている。

「とりあえず、陽が昇ったら斎藤先生に電話してみる。今夜のことを報告して、これからは先生にもここにいてもらおう。人が多ければ、そのぶんだけ変な人は近づきにくくなるかもしれないし」

 幸珠の提案に、否定する言葉は聞こえてこなかった。先生一人で大丈夫かしらと、美琉瑠が少し不安そうに口にしたぐらいで、全員が賛成しているように見える。賛成というより、他に方法はなかった。誰もここまできて、今さら撮影を中止にしたくはないし、警察に言ったところであまり意味があることのようにも思えない。犯人は逃げてしまったのだ。それならこれ以上は何をしようと、結局は何某かの不安を抱えていくことになる。それなら幸珠とて、このまま予定通りに進めていきたかった。人数を増やせば少しは安全の確率が上がるかもしれない。その推定を信じたい。

 だが、危うく被害に遭いかけた未愛はどう思っているだろうか。幸珠はまだ怯えたように蹲って肩を震わせている未愛を見やった。未愛はもはや真夏の暑気など感じていないかのような蒼白な顔になっている。傍らに座る優人に縋るかのようにしがみついていた。優人はそんな未愛を慰メールように背を撫でている。その姿はとても頼りなげで、それでいっそう哀れを誘った。未愛のためを思うなら、一刻も早くこの家を去るべきかと思う。

 深夜に突如として悲鳴が響き渡って、幸珠は飛び起きた。美琉瑠も彩夜花も、優人もまた同様だった。いったい何事が起こったのかと狼狽え、そしてそのときに窓の外での事件に気づいたのだ。誰かが裏庭で未愛に襲いかかっていた。その誰かから未愛が必死で逃れようとしているのが、視界に入ってきた。

 だがその誰かを捕まえることはできなかった。未愛を襲っていた誰かは幸珠たちが事件に気づくと、そのまま未愛を放り出してブロック塀を跳び越え、逃走してしまったからだ。そのときは誰もあえて追ったりはしなかった。それよりも未愛の無事を確かメールことのほうが優先だった。未愛を助けて保護し、家のなかに戻って彼女を落ち着かせ、それからようやく優人が逃げた誰かのことを気にしだしたのだ。しかしその頃にはもう、その誰かはどこに逃げたのかも分からなくなっていた。それはそれで望ましいのだが、完全に逃亡されてしまえばかえって安心できなくなる。今から警察に通報したって、警官にしてみれば周囲を警戒する以上のことはできないし、下手をしたら本当にそんな誰かはいたのかという話にもなりかねなかった。だから幸珠は今も緊急通報ができずにいる。今になって警察など呼んだら、逆に自分たちのほうが疑われたりしないだろうか。それが怖かった。

 逃げた誰かは幸珠の目には男に見えた。幸珠が見たのは本当に一瞬のことだったから断言はできないものの、上背のある体格は男性にしか見えなかった。男が夜中に家に押し入るでなく裏庭に未愛を引きずり出して襲っていたのだから、あの男の目的は金銭ではなく未愛を襲うことにあったのだろうが、それにしてもどうしてその男は裏庭などに潜んでいたのだろうか。幸珠にはそれが疑問だった。裏庭に面してはブロック塀と雑木林しかなく、道路はないから通りすがりの誰かが衝動的に入り込むなんてことも考えにくい。意図して雑木林に踏み込まないと裏庭の存在には気づけるはずがないが、なんのためにこんな夜中にそんなところに入り込まねばならなかったのだろう。そもそもどうしてその男は、この松峰山にある古い民家で若い女の子を襲えるなどと考えたのだろうか。幸珠にはそれが納得できなかった。松峰山周辺はお定まりの過疎で、住んでいるのは老人しかいない。それだってもう何軒も家は残っていないのだ。店もなければ小中学校だって今ではもう閉まっている。この家だってもう長いこと空き家だったというのに、どうして今夜に限って未愛のような若い娘がいるなどということが、その男には分かったのだ。

 ―まさか、誰かにつけられてた、とか?

 ありえないとは思う。しかしそれ以外に未愛がここにいることがその種の変質者に知られる理由が想像つかなかった。ならば、もしかして未愛はスト―カ―に狙われているのかもしれない。未愛ぐらい可愛ければ、充分ありうるだろう。そういう男が、未愛をずっとつけていた、だから今夜、未愛はこの家の裏庭に引きずり出され、襲われることになったのかもしれない。その男は、未愛がここに来たことを分かった上で、窓に灯った明かりの位置から、未愛がどこで寝ているか推測したのではないのか。そして裏庭の構造を好都合として、窓から襲うことにしたのかもしれない。

 ―けど、だとしたらいったい誰が・・?


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