疑惑の友人
―あれが、立ち眩み、か?
優人は解けないその疑問を弄びながら、帰宅すると自分専用のパソコンの電源を入れた。起動するのを見守る間も考え込んでしまう。優人には、どうしても未愛のあの様子が、立ち眩みなんかには見えなかったのだ。
むろん優人とて未愛が嘘を言ったとは思っていない。未愛は確かに少しの間、意識を失っていたのだ。優人の目には、未愛は貧血でも起こして倒れたように見えたし、ならば立ち眩みが起きたというのも本当なのだろう。それでも―。
―立ち眩みを覚えた人間って、倒れる瞬間にああいう表情をするものなのか・・?
思いながら優人は、ようやく現れた画面のアイコンをクリックして、インタ―ネットの検索サイトを画面に呼び出した。思いつくままに検索窓に言葉を入力し、立ち眩みを引き起こす病について調べていく。しかし優人の納得できる答えを記したサイトは見つからなかった。優人にとって忘れられない、倒れる直前の未愛のあの表情が何に由来しているのか、それはネットからは探ることができなかった。
万策尽きて優人は検索サイトを閉じようとし、その瞬間思いついて地元テレビ局が運営するロ―カルニュ―スのサイトに繋いでみた。この季節に火事はそんなに多くない。出火を目撃してからもう少し時間が経っているし、そろそろあの時の火事について、第一報が出ているのではないかと思ったのだ。
―まだたいしたことは出てねえな。
アクセスすると確かに記事は出ていた。しかしその記事は単に城聖市内で一軒の住宅から火の手が上がっていることを伝えるだけの簡素なもので、規模も犠牲者の有無も確認することができない。まだ自分の情報に報道が追いついてきていないのかもしれなかった。ならば詳細が流れるのは明日の朝かもしれないと思い、また後で調べてみようとサイトを閉ざす。もうパソコンの電源を落とそうかと思ったが、最後にあと一つだけ、と再び検索サイトに戻って検索窓にカタカナを打ち込んでいく。この言葉は優人には全く何か分からなかったが、なんとなくこれが何なのかを知りたかったのだ。薬の名前であることは明白だからだ。
―神住って、いったいなんの病気抱えてるんだ?
優人は招かれた未愛の部屋で、未愛の机の上に薬局の紙袋を見ていた。ドラッグストアなどで買える市販の風邪薬などではない。医者の処方箋がなければ買えない類いの薬だった。未愛が日常的にそうした医者に掛かって、優人には一生縁のないような特殊な薬を常に服用しているとしたら、その病名にこそあの時の様子の変化の答えがあるのではと思ったのだ。
だが表示されたサイトに出てきた記述に優人は瞬いた。全く思いもかけない文言が出てきたからだ。
―免疫抑制剤、だと?
優人が開いたサイトには、確かに未愛の部屋で見た薬と同じ名前の薬について書かれていた。しかしそこに書かれていた内容は、優人の想像していたものとは違っていた。そこに書かれていたのは免疫抑制剤であるという文章だった。人間の免疫を抑制するための薬で、通常は臓器移植の手術を受けた患者が、その後の拒絶反応を防ぐために服用するものだとある。この薬を飲むことで拒絶反応は防げるが、代わりに感染症に罹りやすくなるのだともあった。
―神住って、そんなに大きな手術を受けてたのか?
「―ねえねえ、お姉ちゃん。おね―ちゃ―ん!おね―ちゃんはいつからあの人と付き合ってるの?もうキスしたの?どっちが先に告白してきたの―?」
ねえねえねえ。飽きもせずに理愛はあれからずっと未愛に纏わりついてきた。そのしつこさに、さすがに未愛も閉口してくる。理愛は優人が帰ってからずっと、飽きることなくこうして未愛に恋愛話をねだり続けているのだ。やれいつから付き合ってるのだの、いつキスしたのだの、どこにデ―トしてるのだの、果てはいつ結婚するのだの、どんなに未愛が真野くんとはそんな関係にないと力説してもいっさい聞く耳を持とうとしてこない。いい加減に鬱陶しくなってきたが、うるさいと言おうものなら、これみよがしにお姉ちゃんがいじメールなどと喚いて父や母に泣きつくので未愛は辟易していっさい無視し、リビングでテレビの画面と睨み合っていた。そもそも普段は母を真似て未愛ちゃんとしか呼ばない理愛がこういう時だけお姉ちゃんなどと呼ぶのはどういうわけか。理愛は自分に何かをねだる時ぐらいしかお姉ちゃんなどとは呼ばないのだ。
―どうしてそんなに聞きたいのかしらね・・。
未愛は夕方のニュ―ス番組を視聴しながら密かに溜息をついた。理愛はどういうわけか、昔から恋愛が絡むような話が大好きなのだ。漫画は恋愛ものばかり愛読しているし、映画もドラマもラブスト―リ―ばかりを好んで見たがるところがある。なぜそんなに男と女がキスをするだのしないだのという話が面白いのか。ここだけは未愛は理愛とは相容れなかった。未愛はそんなに色恋話に興味はない。なのに理愛が騒ぐせいでさっきから向かいで経済誌を読んでいる父までもがちらちらと意味深な視線をこちらに向けてくる。父は自分より理愛の言い分のほうを信じているのかと思えばなんとなく面白くなかったが、意識して関心を向けずにニュ―スに集中した。国会審議も首相や皇室の動静も、内容によっては現代社会のテストに出るかもしれない。そう思えば気は抜けなかった。テレビの視聴だからと油断できない。
「・・それでは次のニュ―スです。今日の夕方、城聖市の住宅で火災があり、焼け跡から一人が遺体で発見されました」
「あら、この火事ね」
そのときふいに背後でも声がした。未愛は映像が切り替わるところで振り返る。すると母が烏龍茶のグラスを手にテレビに視線を送っていた。未愛と目が合うと、飲む?と自分のグラスを掲げてくる。そういえば少し静かになっていた。よく見ればリビングの奥、ピアノの傍で理愛が同じようにジュ―スの入ったグラスを持って口をつけている。未愛は頷いてテレビに視線を戻しながら母に問いかけた。
「この火事って?なんのこと?お母さんの知り合いの家?」
「違うわよ。―あら?未愛は見なかったの?彼が見たって言ってたのが、この火事のはずよ」
母は少し驚いたように話してきた。未愛は首を振って見ていないと返し、画面を見つメール。母が言う彼が優人のことであることには疑いがない。優人はこの火事を目撃していたのか。そんな話は全くしていなかったが。
画面に映る家はかなり激しく炎上していた。屋根から炎が吹き上がっている。かなりの大火で、息を呑んで見守っているうちに下のほうに白字でテロップが流れてきた。一人がこの火事で亡くなったらしい。という二十八歳の女性で、主婦となっていた。名前の横に小さく顔写真も出ている。それを見たとき、未愛は見覚えがある、と思ってしまった。自分はこの人を、いちど見たことがある。
―そうだ。帰り道の途中で見たんだわ・・。
そうだ。いま思い出せた。眩暈を感じて、記憶をなくす直前に見たのだ。たしか家のバルコニ―らしい場所で洗濯物を干していた。自分はその様子を見たときに強い眩暈を感じた。あまりにも突然の、激烈な眩暈で、それを感じた後の記憶がない。おそらくそれで、自分は意識を失ったのだろう。
―そのころ火が出たのだろうか・・?
未愛はなんとなくそう思った。自分はこの家から火が出たのを見た覚えがない。しかし優人はこの家の火事を見たという。優人が意識を失った自分を放置したまま、他人の家の火事を見物していたとは思えない。ならばこの家の火事は、自分が意識を失うのとほとんど同時に発生したのではないのか。
―何が原因だったのだろう・・?
未愛はなんとなく考え込んでしまった。だとするとあまりにもこの家は火の回りが早すぎるように思えたからだ。
―火って、こんなに早く家じゅうに回るものなのかしら。
「―はい。これが文芸部で作った本」
未愛は携えてきたハ―ドカバ―の本を優人に差し出した。
「昨日話した作品集です。部員一人一人が一作ずつ短編作品を書いて、掲載しました。鷹橋さんが編集長になって内容をまとめて、副部長の山神さんが画家になって挿絵と、表紙デザインを考えたんです。出版費用はみんなで部費を積み立てて、だから部数は少なかったですけど、初版は完売したんですよ。それ、私が記念に持っておいたものなんです。自費出版の本はそんなに売れないんだって、顧問の先生は言ってたんですけど、そんなことありませんでした。つまり、それだけ鷹橋さんの作品は面白いってことですよ。鷹橋さんの作品だけは、ネットでも評判なんです。私の作品は、いまいちなんですけど」
未愛は謙遜してみせたが、内心では勿論、自分の作品にも自信を持っていた。プロになりたいという思いを、未愛だって抱いていないわけではない。だから本を受け取った後の優人の反応が気になった。彼は自分のような素人の作品にも真摯だと知っているからこそ気になる。彼は果たして自分たちに高校生活最後の文化祭を賭けてもいいと思っているだろうか。それだけの価値があると思ってくれているのだろうか。
「・・そうだな、確かに、面白いと思うよ」
優人はペ―ジをめくりながら未愛のほうを見つめてきた。
「この鷹橋ってのが、神住の言ってる部長だろ?確かに、このレベルの作品は、もうアマチュアって感じじゃないし、金を払ってでも読みたいって気分になる。俺が編集者ならすぐにも執筆を依頼したいし、それはきっと他の連中も同じだと思う。だったら多少無謀でも佐田を支持して映画を撮ってみるのも悪くない。プロになってしまえば、そう簡単には脚本なんか頼めなくなるだろうからな」
言いながら優人は未愛に本を返してきた。意外なほどそっけない感じに、未愛は受け取りながらも怪訝に思って首を傾げる。
「真野くん、ひょっとしてあまり乗り気じゃないの?」
「どうして?」
問いかけたが、逆に笑って問い返されてしまった。
「乗り気じゃないなんて、なんでそんなふうに思うんだ?俺も映画なんて、やれるものならやってみたいからね。そうそう機会のあることじゃないし。受験に障りが出なければ、別に反対じゃないよ」
そう言われれば未愛には返す言葉もなかった。だってあんまり楽しそうじゃなかったしとは言えず、何か考え事でもあるのかと訊き返そうとしたところで、ドアが開く音がして口を閉ざした。驚いて振り返ると彩夜花が生徒会室に入ってきたところだった。
「あら、会長ったら未愛と二人きりで。うふ。生徒会室でデ―ト?」
冗談めかせた笑声が響く。未愛は赤面して首を振り、昨日は出席できなくてごめんなさいと彩夜花に詫びた。すると、彩夜花は苦笑してくる。
「いいわよ、気にしなくて。それより昨日の議事録、ちゃんと会長から渡してもらった?」
はい、もちろん。未愛は大きく頷いてみせた。
「ちゃんと見ました。あの、私、佐田さんの案がいいと思うんです。映画なんて、なかなか撮る機会ないし、さっき鷹橋さんに会ってきたら、映画にするなら今月ちゅうには脚本を上げられるって言ってました。それなら、頑張れば文化祭に間に合うと思うんです。一生の思い出にもなりますし、ぜひやりたいです」
へえ、と彩夜花は得意そうな顔になった。優人のほうに視線を投げかける。
「会長、なんか多数決成立したみたいね。これで反対してるの会長だけになったわよ。幸珠は賛成、美琉瑠も音楽作るって言ってるから賛成、未愛もいま賛成って言ったし。どうする?言っとくけどあたしはお化け屋敷なんて反対よ。あんな気味の悪いもの、絶対に作りたくないわ。終わったら全部ごみになるっていうのに」
別に俺は反対してはいねえよ。優人はやや不満そうに言ってきた。
「受験もあるのに期日までに完成させられるのかって思ったから、考え直してみろって言っただけだ。絶対にできるって確信があるんなら俺としちゃ何も言うことねえよ。やってみればいい。監督は誰がするんだ?」
「それはこれから全員で話し合って決メールのよ。昨日も言ったじゃない?誰も希望者がいなかったら監督は編集作業も含めて私が引き受けるけど、面倒だからって自分だけ楽な役目ばかり志願しないでよね、会長。あ、でも、あたしとしては主演女優は未愛にやってほしいなあ。未愛だったら絶対、画面が映えるもんね」
え、未愛は瞬いた。戸惑って彩夜花の前で首を振ってみせた。
「そ、そんなことないです。私は、お芝居なんてできないですし。演技だったら、うちのクラスの蝶野さんとか、上手だと思いますよ。蝶野さん、演劇部の部長で、劇団にも入ってるって聞いたことありますし」
すると彩夜花は論外と言うように首を振ってきた。
「蝶野?やめてよ。あいつなんか入れたらとても文化祭までに完成なんかしないって。プロ意識が高いのはいいことかもしれないけどさ、あいつとにかく演技の完成度に煩いのよ。演劇部の稽古でも、たった一言の台詞の言い回しに一週間はかけるらしいから。こっちは映画会社に売り込むわけでもなし、文化祭で上映するためだけに作るのに、そんなに煩く言われたんじゃ堪らない。別にプロになりたいわけじゃないんだからね。単に楽しく、思い出作りができればいいんだから」
彩夜花は笑った。それから思い出したように自分の通学鞄を近くの机の上に置き、なかから数冊のノ―トを取り出しにかかっている。ノ―トの中身は生徒会の活動に必要な資料の類いだ。今はひょっとしたら映画制作に必要な事項も書かれているかもしれないそれを手に、彩夜花は黒板に向かっていく。チョ―クを手に何かを書き出しかけたが、そのとき彩夜花の腕のなかから何かが滑り落ちた。どうやらノ―トに挟まっていたプリントのようなものが、彩夜花が身動きした拍子に押さえを失って落下したらしい。拾ってあげようと、未愛は彩夜花の許に駆け寄った。彩夜花を手伝って床に散乱したプリントを拾い集め、彼女に返す。彩夜花は照れたような笑みを浮かべ、未愛に礼を述べてきた。受け取ったプリントをノ―トと一緒に持っていたクリアファイルに挟んでいる。その様子が視界に入り、その瞬間だった。未愛はまたしても意識がぐらりと歪むのを感じた。
―あ、また・・。
最近多いなと唇を噛む。あの手術以来、ずっとこうしたことはなかったのに、やはり自分は一生、健康な身体にはなれないのだろうか。思う通りにならない自分の身体を恨めしく思いながらも未愛は懸命に自我を保とうと足を踏みしめ、しかしそれが叶わず足から力が抜ける。だが今日は意識が闇に落ちることはなかった。身体が傾いだ瞬間に支えてくれる腕があったからだ。
「神住?どうした、大丈夫か?」
優人の声だった。その声に一気に自我を強くできた気がして、未愛は生徒会室の床を踏みしめ、声のほうを振り返る。見ると、優人が背後から未愛を支えてくれていた。心配そうなその視線に、未愛は大丈夫だと強く頷いて見せる。未愛が身体を揺らがせたのを見て、咄嗟に身体が動いたのかもしれない。
「未愛、急にどうしたの?大丈夫?まだ具合悪いなら、今日も保健室で寝てる?それとももう帰る?」
どうせもう放課後だし、と彩夜花も心配そうに覗き込んできた。しかし未愛は首を振ってみせる。
「・・いえ、とりあえず、大丈夫だと思います。けど、少しだけ、座っててもいいですか?座っていれば、もう立ち眩みとか、ないと思うので」
いいわよ、と彩夜花は自ら率先するようにして未愛を近くの椅子に座らせた。
「そんなのいちいち私に許可なんか取らなくていいんだから、無理はしないで。自由に座ってていいのよ。苦しいと思ったら、いつでも抜けていいんだから。生徒会はあくまでも課外活動なんだからね」
そういって彩夜花は鞄に走り寄り、クリアファイルをなかにしまってしまうと、ノ―ト一冊だけを手にして再び黒板に戻っていった。
―今のは偶然、か?
優人は身体を傾がせた未愛を背後から支えながら、自分の疑問を弄んでいた。未愛のこの急激な様子の変化が、あまりにも昨日のそれと酷似しているように思えたからだ。
―昨夜も、神住は今みたいに、急に様子を変えた・・。
そう、本当にあれは突然のことだった。あの道で、未愛は昨日、突然に身体を傾がせ、様子を変えた。ちょうど、今朝のニュ―スで言っていた間宮萌香なる女性がバルコニ―に出てきた時にそうなったのだ。彼女がバルコニ―に歩み出てきた時に未愛は彼女に向けて不敵な笑みを浮かべ、そしてその直後に通常ではありえないほどの速さで彼女は家ごと業火に呑まれた。まるで、未愛の動きに反応したかのように、あの家を呑み込んだ炎は女性を襲ったのだ。
―なに考えてんだ、俺は。
そこまで考えて、優人は自分の疑問を自分で否定した。少し様子が不自然だったからといって、たかが立ち眩みを火事と結びつけるなんてどうかしている。自分は未愛があの火事を起こしたとでも思っているのだろうか。超能力者でもあるまいに。
―馬鹿げてる。そんな映画みたいなことがあるわけないだろ。
第一、彩夜花には何事も起きていないではないか。優人は視界に映るその事実を頭に刻み込んだ。あえて自らを嘲り、抱いたばかりの疑問を忘れるよう努メール。その甲斐あって彩夜花が板書を終えた頃には、優人は自分が何に疑問を抱いたのかも分からなくなっていた。