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火事

 ―なんて声をかけようか・・。

 優人は保健室の前まで辿り着いてから、扉の前で逡巡していた。ここまで来ておきながら、このドアを開けていったい何を話したらいいか、全く思い浮かばなかった。

 ―落ち着け、落ち着け俺。

 自分で自分を叱咤しながら呼吸を整える。いったい何を言い迷うことがあるのだろうか。言うべきことは決まっているではないか。とりあえず、まずは今日の授業のノ―トを渡して、それから生徒会と図書委員会の集まりで決まった連絡事項を報せて、それから合唱部の部長から預かった今度の発表会の譜面を渡して、それから―。

 シミュレ―ションは念入りに頭のなかで試した。だが、いざ扉の引手に指をかけようとすると、緊張からか手が震えるのが自覚できる。たいして暑くもないのに掌に汗が湧き出してきて、優人はズボンで手を拭った。

 ―大丈夫だ、友佐のこと、不用意に持ち出して安易な慰めを口にしなけりゃ、大丈夫だろ。

 そうだ、きっとそうに違いないと心のなかで念じ、勇気を込めて扉の引き手に指をかけた。するとその瞬間、ふいにその扉が自動ドアのように勝手に開いて優人は肝を冷やす。あまりにも図ったようなタイミングで驚いたが、相手はそんなこともなかったようで、僅かに驚いたような顔はしたもののすぐに微笑を浮かべて優人を見つめてきた。

「あら、ごめんなさいね。来ていたことに気づかなかったわ。今日はどうしたの?怪我?」

 見せてみて、とその人は優人を促してきた。ドアを開けたのは養護教諭で、優人は彼女に首を振って、自分はなんともない、神住に用があったのだと答える。答えながら優人の心は次第に落ち着いてきた。腹を括ったというのとは少し違う。この先生の前では自然と心が落ち着いてしまうのだ。不思議なものだと思う。特別な話術を使っているわけでも、特別美人というわけでもないのに、この養護教諭はいったいどんな魔術を使っているのだろうか。

 養護教諭は優人の言葉を聞くと、少し表情を引き締めてきた。それから小声で、神住さんならいちばん奥のベッドだからと教えてくれる。くれぐれも言葉には気をつけてあげてね、と念を押された。

「神住さん、友佐さんのことでとてもショックを受けてるから。元気づけてあげようとするのは構わないけど、言葉は選んであげてね。友佐さんのこと、あの子のショックはとても大きなものがあるから」

 そう言って養護教諭は保健室を出ていく。少し用があって職員室に行くけどすぐに戻るから、何かあったら遠慮なく呼びに来てと去り際に言い残していった。何かって何だろうかと優人は疑問に思ったものの、それは追及せず保健室に足を踏み入れて後ろ手に扉を閉メール。神住、と呼びかけるといちばん奥のベッドに腰かけた女子生徒が優人を振り返ってきた。

「・・寝てたんじゃなかったんだな。朝の全校集会で倒れて、そのまま戻ってこなかったから、大丈夫かと思ったんだけど」

 優人がそう言いながら近づいていくと、未愛は首を振って軽く頭を下げてきた。ごめんなさい、と小さく囁くように告げてくる。

「心配、かけましたか?ごめんなさい、私は大丈夫です。一日、休んでかなり落ち着きましたから、明日からはきちんと授業に戻れますし、ちゃんと教室で、先生の話を聞けますから」

 そう、それならよかった、と優人は高まってくる緊張感を押し隠すため、わざとぞんざいにノ―トとプリントの束を突き出した。

「これ、いちおう今日のぶんの授業のノ―ト。数学と物理と国語と英語だな。五時間目は体育だったし六時間目の古典は緊急ロングホームル―ムに変わったんで、ノ―トはない。神住は頭いいし必要ないかもしれないけど、貸しとくからよかったら見といて。返すのは明日でも明後日でも、いつでもいいから。後は生徒会と図書委員会の会議で決まった連絡事項、それからこれは合唱部の部長から預かった。今度市民劇場で開く発表会の譜面だとさ。時間があったら神住にも参加してほしいそうだ」

 最低限の用件だけを手短に伝えると、未愛はありがとうと呟いて優人が差し出したものを受け取った。だがその手には明らかに力がなかった。大丈夫と本人が自分で言うわりには覇気が感じられず、優人は思わず元気出せよと声をかけたくなったがかろうじてそれを堪えた。そんなことを口にしたら余計に未愛は落ち込んでしまうに違いない。彼女の性格なら、きっと優人にすら心の内を見せなくなってしまうだろう。それがどれほど危険な行為か、未だ心理学など学んだことのない優人にもなんとなく分かった。そんな安易な励ましなどすれば、未愛は自分の悲しみを誰にも伝えられず自分の身内にしまいこむしかなくなる。心の鬱屈が、余計に精神に悪影響を与えるだけだ。それならむしろ、今は話題にも上らせないほうがいいのかもしれないと優人には思える。どのみち、彼が何を言おうと未愛の心から友佐への哀惜の念が消えることはないだろう。幼稚園に入る前からの親友が、突然自分の目の前で死んだ衝撃は、未だ身内の死というものと無縁な優人にも、なんとなく想像はついた。

「・・なあ、神住。神住は今日は部活には参加するのか?」

 優人は問いかけた。優人自身はフェンシング部だが、未愛は文芸部のほか書道部と美術部、合唱部も掛け持ちしている。スケジュ―ルが全く異なるから優人には未愛の予定など分からない。それで訊いたのだが未愛は首を横に振ってきた。そうだろうなと優人は納得する。当たり前かもしれない。授業にも定例の委員会にも出席できなかったのに部活になど出られるわけないだろう。

 しかしこの反応は優人には予測できていたことだった。それなら、と優人は口を開く。

「今日、これから一緒に帰らねえ?」

 唐突な提案に未愛が優人を見上げてきた。言ってしまってから優人は赤面するような気恥ずかしさを感じたが、改めて頷いてみせる。

「・・いや、俺も今日はちょっと用があって部活休むからさ。よかったら途中まででも一緒にどうかなと思って。神住って、家、第二図書館の近くじゃねえの?前、あのへんを歩いてるの見かけたことあるけど」

 未愛は少し戸惑ったように頷いてきた。

「そう・・ですけど」

「ああ、やっぱり。俺んちも第二図書館の近くだからさ。俺もあそこはよく利用するんだよね。だからさ、よかったらたまには一緒に帰るのもいいかなと思って。もちろん嫌だったら別にいいんだけどさ」

「嫌では、ありませんけど・・」

 よかった、と優人は内心でガッツポ―ズを決めてから未愛に笑いかけた。

「じゃあ決まりだな。神住の荷物は、まだ教室?一緒に取りに行くか?」

 促したがこれには未愛は首を振った。そっと自分の足元を指し示してくる。そちらを見やると、通学鞄が床の上に置かれていた。

「今日は教室には入っていませんから。荷物なら、ここに。どうしても、入れなくて。保健室に登校したんです。全校集会には、ここから体育館に行って、その後は、ずっとここにいましたから」

 そして未愛は再び、何かを堪えるように俯いた。

「どうしても、今日、教室に入るのは無理だったんです。美優の机、私の席のすぐ前だから。あの席が空いてるの、どうしても今日は見れない。認めたくなかったんです。美優はもう、いないんだって」

 声が震えたように語尾が乱れた。優人はなんとなく哀れに感じて、しゃがみ込むと未愛の肩をそっと抱き寄せるようにした。すると未愛の頭が優人の肩の上に落ちかかるようになる。前髪が軽く優人の頬を掠めた。それに鼓動が高鳴るのを感じたものの、平静を装って未愛を慰メール。優人には美優の不幸より未愛の哀惜のほうがよっぽど心に沁みた。


 ―いちおう、これって初デ―トってやつに入るよな?

 その事実に気づき、優人は改めて緊張を感じながら隣の座席に座る未愛の横顔を見た。混み合う車内で左右にまったく余裕を持たずに座席に座っていると、未愛の身体が自然に自分に密着してくる。彼女の太腿や腕や手が自分の身体に触れてくるたびに、未愛は済まなそうにしてきたが、優人は内心で快哉を叫んでいた。未愛とこれほど自然にくっついていられるのなら、満員電車も歓迎だった。願わくば、もっと混めとすら思ってしまう。身動きもままならないくらい乗り込んでこい。そうすれば、さりげなく未愛と抱き合うことも願望ではなくなるはず・・。

 だがそんな不埒な考えを実行に移せる時はこなかった。電車はニュ―タウンの最寄り駅でほとんどの乗客を降ろしてしまい、車内はその時からがらがらになってしまう。未愛は気を利かせてか少し優人から距離をとってしまったので、優人としては少々がっかりとしたものの、顔には出さず静かに過ごし、下車予定の駅で電車が減速すると未愛を促して席を立った。本当は優人は第二図書館の近くには住んでいないが、未愛と一緒にいられる時間を作れるのなら少しくらい長く歩いても苦ではなかった。どうせ自分がいつも使う駅はこの一つ先だ。歩いていってもさほどの距離はない。

 駅に到着してドアが開くと、優人は未愛とともにホームに降り立った。他愛ないやりとりを交わしながら歩を進めて、駅を抜け、未愛の家へ向けて帰路についていく。改札を通ると、少し暗くなってきたねと理由をつけて優人は未愛と手を繋いだ。未愛は拒みはしなかった。それだけでも優人は満足だった。女子は苦手だ、何か理由を作らないと、自分には未愛を手許に留めておくことができそうにない。

「―でさ、佐田のやつが無理難題いってくんだよ。今度の文化祭は生徒会全員で映画撮ろうとかさ。無茶いうなって感じだろ。あと二か月しかないってのにな。しかもそのうち一月は夏休みで、三年は補習だってあるのに。俺は定番のお化け屋敷とかにするべきだと言ったんだけどね。あれなら直前の数日ばかり頑張れば、なんとか形にはなるし。神住はどうしたい?」

 優人は歩きながらそういって未愛を見た。今日の会議で生徒会が話し合ったのはなんということはない、自分たちが文化祭で披露する出し物についてだったのだ。副会長のは一生の思い出にもなるような映画を撮ろうと提案をし、顧問の教師は受験勉強の負担にならないよう文集か画集のようなものにしてはと提案してきた。未愛の他にもう一人いる書記のはバンドを組みたいといい、それで優人が定番のお化け屋敷を提案したのだ。映画もバンドも事前の準備が大変すぎて受験勉強に支障がでかねないが、文集なら小学校でもやったと思えばやる気も起こらない。お化け屋敷なら作り上げた達成感もあるし、事前にテ―マと分担を決めておけば制作にそれほど時間はかからないだろう。

 だが未愛は心ここにあらずといった表情をしていた。優人が話しかけてもあまり乗ってこない。真野くんのでいいと思う、と明らかに興味のなさそうな声で答えてきた。

「お化け屋敷なんて、面白いと思うし。私は楽器できないから。映画なんて、どうやったらいいのかも分からない。それに、私は芝居、下手だから」

 そんなことねえだろ、優人は目を丸くして苦笑した。

「去年の文化祭、神住は演劇部の舞台に出てたじゃないか。なんという題だったっけ、あのファンタジ―みたいなやつ、職人の役が巧かったじゃないか。佐田もそれ覚えてたんだよ、神住なら主演を任せられるってな。だからそんなこと言ってきたんだ、あいつ。場面の限られた短編作品なら今からでもなんとかなるだろうって、映画にするなら文芸部の部長が脚本を書くそうだな。もうプロットもできあがってるとか言ってた。なんか、怪談みたいな話になるらしいけど」

 そういうと、未愛は驚いたような顔で優人を見てきた。鷹橋さんが?と訊き返してくる。

「文芸部の部長って、鷹橋さんが脚本を書いてくれるんですか?それなら私、やってみたいです、映画。鷹橋さんなら、絶対に面白い作品が書けるから」

 未愛の顔は急に輝きを増した。唐突な変化に優人のほうが驚いてしまった。

「そうなの?そんなに?」

「はい。鷹橋さんはとても才能があるんです。文芸部でも、鷹橋さんの作品は面白いって、部員はみんな読むのを楽しみにしてるんですよ。鷹橋さんは絶対にプロになれる人だと思います。もう、どこかの賞では最終選考まで残ったことあるって言ってました。鷹橋さんの作品なら、私みたいな素人が演じられるなんて、きっと、今しかないと思いますし」

 へえ、と優人は思わず未愛の話に聞き入っていた。

「それなら、映画も悪くないかもな。鷹橋ってのがプロ作家になるかもしれん人間なら、たしかに今じゃないと機会はないかもな。そんなに面白いのか?」

「はい。よかったら明日、作品集を持ってきます。文芸部は定期的に作品を持ち寄って、部員みんなで編集して作品集を作って自費出版してるんですけど、その本がうちにあるんです。学校の図書館にもありますけど、私が持ってくるほうが早いと思いますから。ぜひ読んでみてください。読んで後悔はしませんから」

 力強く言ってくる未愛に優人はなんとなく安堵した。思わず微笑むと、未愛は怪訝そうに首を傾げてくる。

「なにか、私、変なこと言いましたか?」

「いや。神住が急に元気になったから。鷹橋ってのはそんなにすごい作家なのかと思ってね」

 あ、と未愛は何かに思い当たったような顔をした。

「ごめんなさい。私、真野くんと一緒にいるのに、ずっと美優のことばかり考えてました。自分のことにしか考えが回らないなんて最低なことですよね。ごめんなさい、気を遣わせてしまって」

 もっと真野くんが楽しくなるようなこと話題にしないといけないのに、と未愛が続け、優人はそんなことはないよと手を強く握り返した。優人にとってはこうして未愛と手を繋いで話しながら、並んで歩けるだけで満足なのだ。これ以上のことは望んでいなかった。少なくとも未愛の配慮などは望んでいない。

「気にしなくていいよ。俺が神住といるのは俺が勝手に神住についてきたんだから。神住の気持ちは俺も想像がつくからね、なんとなくだけど。俺にも幼馴染みっているからさ。あいつらが急な事故で死んだらやっぱりショックだし。神住にもそういう幼馴染みがいたってことだろ?そういう友人に巡り会えたってのは幸運なことだよ。なかなかそこまでの親友ってできないから」

 だから神住が、今はまだ友佐のことしか考えられないというんなら、そうしていたほうがいいと思うんだよね。優人がそう口にすると、未愛は安堵したような表情でありがとうと返してきた。その様子に、ひょっとしたら何度も周りから元気だせという激励しか受けてこなかったのかもしれないと思った。もしかして、優人が初めて未愛の悲しみを悲しみとして受け止めてあげたのかもしれない。だからこれほどに安心した表情をみせたのではないだろうか。もしそうならそれはとても哀れなことのように思えた。無二の親友が死んですぐ、普通の日常に戻れるほど、人の心はできていない。できるようならそれはたいした友人ではなかったはずだ。

 優人はそう思うと、慰メールように未愛の手の甲を指先で軽く叩いて歩を進めた。しかしすぐにその足が引き止められ、自然と動きが止まってしまう。未愛が急に歩みを止めたのだと気づくと、優人は怪訝に思って彼女を振り返った。急にどうしたのだと思ったのだ。

「神住?どうした?」

 だが声をかけても神住から答えは返ってこなかった。神住はしばらく自分の身体を揺れ動かし、やがて揺れが収まるとぼんやりとした眼差しで佇んだまま、優人を見てもいない。どこか別の一点をじっと見つめていて、優人は思わずその視線を追ってそちらを見やった。いったい何が見えるのだろうと思ったのだ。

 しかし優人が視線を向けた先に特に珍しい何かはなかった。自分たちがいるのはどこにでもあるような住宅街の狭い生活道路にすぎない。未愛の横には無味乾燥なブロック塀が建ち、その反対側には現代風の瀟洒なタイル張りの三階建てアパ―トが建っている。道路は少し行ったところで丁字路になっていて、そこを右に曲がれば第二図書館の横に出るのだが、ここからでは全くその姿を窺うことはできなかった。この道路には自販機も設置されていない。特に見るべきものなど何もないが、いったい未愛は何を見ているのだろう。どれほど目を凝らしても未愛の視線の先には夕焼けに照らされた近所の家以外何も見えなかった。道路の先、丁字路に面して二階建ての真新しい住宅が建っているのだが、未愛はじっと、あの家ばかりを見ている。

「どうしたの?あの家に、なにか用事?」

 優人は気軽な感じで話しかけたが、未愛は言葉を返してこなかった。ただじっと、正面の家だけを見つめ続けている。陽が翳ってきたとはいえ、周囲はまだ明るさを残しているからさほどでもないものの、家の様子はここからでもよく見えていた。二階建ての家の、バルコニ―部分ではちょうど一人の女が洗濯物を取り込んでいる。この家の主婦だろう。距離が近いせいで女がまだ若いことも、この季節にふさわしい鮮やかな原色の花柄のエプロンを身につけていることもはっきりと見て取れた。

 と、その女に向かって、つい、と未愛が僅かに首を逸らせた。優人の目には、未愛がその女に焦点を合わせたように見えた。

 ―なんだ?

 優人は怪訝に思うと同時に後退りしそうになった。一瞬、ほんの一瞬ではあるが、未愛がその瞬間だけ薄気味の悪い笑みを浮かべたからだ。そしてその一瞬、ふわりと生暖かい風が未愛の周囲を包むように沸き起こり、その直後に甲高い悲鳴が聞こえて優人は我に返る。振り返ると優人の目に入ったのは、信じられない光景だった。

 ―なぜ、なんで、こんな急に・・。

 優人の目の前ではあの主婦のいた二階建ての家が炎に包まれていた。二階のバルコニ―部分には炎が渦巻き、そこから女性の甲高い悲鳴が聞こえてくる。火は瞬く間に辺りを蹂躙し、呆然と佇んでいる間にも家じゅうを呑みこんでいった。隣の家の窓が開いて悲鳴があがるのが聞こえてくる。隣家の人間は血相を変えたことだろう。この火勢では本気で延焼を心配せねばならないレベルだ。自分も急いで消防車を呼び、避難せねばと感じたが、ケータイを取り出そうとしたところで優人はふいに自分の身体にもたれかかってくる重みを感じた。

「神住?」

 重みを支えるようにして振り返ると、優人の肩に未愛が倒れ込んできたところだった。まるで貧血でも起こしたかのように蒼褪め、ぐったりとしている。その様子に優人は緊急通報を後回しにして未愛を抱き留め、軽く揺すりながら声をかけてみた。しかし返事はない。優人は狼狽えて未愛を抱えるようにすると近くの路地に入り込んだ。火の出た家の前にはすでに野次馬が集まり始めている。不必要な注目は浴びたくなかった。

 ―なにがあったんだ?

 優人は自分が怯えていることを自覚していた。目の前の火事は普通ではない。いったい何が起こったのだろう。未愛はどうして、その火事にタイミングを合わせるようにして様子を変えたのか。


 誰かが小声で話し合っている、未愛の耳はそれだけを認識していた。何を言っているのかまでは分からない。意識が半ば混濁していて、それ以上のことを感じ取るのは不可能だった。ひどく身体が重かった。瞼も重く、目を開けていられない。何をするのも億劫で、ものを考えることすら面倒だった。ずっとこのまま、この微睡みの闇のなかに身を任せていたいとさえ思える。それぐらい、未愛にとってはあらゆることが大儀だったのだ。

 だがそうしていられる時間はそう長くなかった。ふいに未愛は何か冷たいもので顔に触れられる感触を感じ、反射的に瞼が動くのを感じた。光が視界に飛び込んでくる。眩しさに再度目を閉じると、歓声にも似た高い声が聞こえてきた。その声に驚いてゆっくりと瞼を開けていくと、目が眩しさに慣れるよりも前に遠ざかっていく軽い足音を耳が捉える。足音は声と被さっていた。今度はなんと言っているかもしっかりと聞き取れた。

「おか―さ―ん、未愛ちゃんいま起きたよ―」

 理愛の声だった。未愛は耳に届いてきた妹の声に、半ば呻きながらその場に身を起こした。もう少し寝ていたかったと思いながら、身体を動かした拍子に落ちたハンカチを拾い上げる。薄いピンク色のハンカチは理愛のものだ。最前まで水に濡らしていたように湿っている。また熱でも出していただろうかとふと怪訝に思った。理愛は小さい頃、自分が寝込むとよく看病と称してお医者さんごっこの道具を持ってきていたが、今もそうだったのだろうか。

「・・大丈夫か?もう起きられるのか?神住」

 だがそう思った時、ふいに聞こえてきた聞き覚えのある男の声に、未愛は瞬間的に直前の記憶を思い起こした。そうだ、自分は家で寝ていたのではない、その家に帰宅するために優人と歩いていたはずだった。その家に帰った記憶もないのにその家で寝ているのはおかしい、ということになる。

 しかもどうしてその家のなかで優人の声が聞こえるというのか。

 未愛は声の聞こえてきたほうに顔を向けた。視界に入ってきたのは目に馴染んだ自分と理愛の部屋。そのなかにあって居心地の悪そうな表情で理愛の本棚に背をもたせかけている優人の姿だった。床の絨毯の上に直接腰を下ろした彼は、気まずそうな感じでこちらに視線を向けてくる。

「ごめんね、勝手に部屋になんか入ってきて。神住を家まで連れてきたら、神住のご両親が招いてくれて、それでなんとなく入ってきてしまったんだけど。俺も神住が心配だったから、急に倒れて、どうしたのだろうと思ったし」

 優人は済まなそうに喋ってきた。ううん、と未愛は首を振って、今まで寝かされていたベッドから足を下ろす。立ち上がっても眩暈を感じたりはしなかったので、未愛は自分の机に近づいて椅子を引き出し、優人に示した。

「座って。―有り難う。ごめんね、心配してくれたのに、なんにもしてあげられなくて。昔からよくあることだから、気にしなくても大丈夫だよ。たぶん、いつもの立ち眩みとか、そんなだと思うから」

 立ち眩み、優人は呟くように口を動かしながらも椅子に腰を下ろしてきた。その様子を見ながら、意図せずとも未愛は緊張してくる。この部屋に男子を入れたのは今日が初めてだ。理愛と違って、家に遊びに来るほどの友人を美優以外に持たなかった未愛は、自分の椅子に自分以外の男の子が座っているというだけでどきどきするものがある。

「いつも、なの?いつも、ああいうことがあるの?」

 優人は首を傾げてきた。未愛は頷いてみせる。

「うん。毎日じゃないけど、そんなに珍しいことじゃない。私は小さい頃から身体が弱かったから。最近はそんなこともないんだけど」

 すると、ふうん、と呟いて優人はなぜかこちらをじっと見つめてきた。未愛を疑っているわけではなさそうだったが、何かを見定めようとするかのようなその表情に、未愛は怪訝に思った。どうしたのだろう。何か、不可解なことでも言っただろうか。

「どうしたの?」

「いや。なんでもないよ。―それより、神住は妹さんと仲いいんだね。同じ部屋で暮らしてるんだ」

 優人は話題を変えるようにして視線を未愛から部屋のほうに移してきた。未愛は急な会話の変化に戸惑ったが、頷いてみせた。

「うん、そう。理愛とは、ずっと同じ部屋。小学校に上がる時に、父さんが理愛と部屋を分けて理愛の自立を促そうって言ったんだけど、理愛が一人部屋を嫌がって、ずっと一緒の部屋。ベッドも同じだから、机の位置を離すことでかろうじてスペ―スを分けてる感じかな」

「羨ましいな。俺は一人っ子だから、兄弟ってすごい憧れがあるんだけど」

 そう、と未愛は笑んでみせた。

「そんなにいいもんじゃないよ。理愛が私から離れたがらないのは、一緒だと遊んでくれるからだろうし。部屋に私がいればすぐ宿題とか手伝ってもらえるからね。私は父さんみたいに厳しくないから。本当は自力でやらせなきゃいけないんだけどね。算数のドリルくらい」

 すると優人も軽く笑ってきた。

「それはまあ、たしかにな。けどそれって、やっぱりそれだけ仲がいいことの証明だと思うよ。俺にはやっぱり、羨ましい」

 本心からの言葉に聞こえた。未愛は少しの間、優人と笑い合い、そうしてなんとなく訊ねてみることにした。そういえば、どうして優人が自分の家の場所など分かったのだろう。自分の家の住所など、教えた覚えもないのに。

「・・そういえば、真野くんよく私の家が分かったよね?どうやって私の家の場所を知ったの?」

 訊ねると、優人は肩を竦めてきた。

「俺も近所に住んでるって言ったろ。第二図書館にはよく行くんだ。だからこの辺の地理ならよく分かってる。神住ってそんなにありふれた名字じゃねえから、前にこの家の前を通った時に記憶に残ってて。もしかしてって思ってた。それで念のためと思ってインタ―ホンを押してみた。この家がそうだったら、預けていったほうが早いし、そうでなかったら救急車呼んでくれって訴えればいいだけだから」

 で、チャイム鳴らしたら正しく、だったわけだけど、と彼は言葉を継いできた。未愛はその言葉をそのまま受け入れ再度、有り難う、と返す。すると優人は微笑み返して腕時計に視線を落としてきた。

「ああ、もうこんな時間だ。もう帰るよ。あまり長居しても邪魔になるからね。神住は今日はちゃんと寝ろよ」

 ええ、と未愛も微笑んで立ち上がった。それからふと心配になって壁の時計を眺メール。すると、時刻は八時近くになっていた。

「なんか、すごく遅い時間になってる。大丈夫?真野くんのおうちに電話したほうがよかったりしない?」

 すると優人は本当に可笑しそうに、はは、と笑ってきた。

「大丈夫だよ。小学生じゃあるまいし、八時なんて遅いうちにも入らねえ。どうせ近所だし、歩いたってすぐに着くよ。大丈夫だから。中学ん時は塾でもっと遅い時間まで外にいたからね。うちの親はこれくらいじゃ心配もしねえから」

 言いながら優人は床から自分の通学鞄を取り上げて部屋を横切っていった。未愛を待たずに自分で部屋のドアを開け、そしてそこで蹈鞴を踏んだように立ち止まってしまう。

「あ、失礼しました。もう、帰りますので」

 慌てたようなその声音に未愛も優人の背後からドアのほうを覗き見た。すると開かれたドアから母と理愛の顔が覗いている。意味深な笑みを浮かべる妹の顔を見れば、二人がずっとドアの外で聞き耳を立てていたことは明らかだった。

「あら、もう帰られるの?せっかくだからもっとゆっくりしていらして。未愛にお友達が訪ねてくることなんて滅多にないのだもの。お夕飯、ビ―フシチュ―でよかったら部屋まで持って行ってあげるから、よかったら召し上がって。少し多めに作りすぎちゃったのよね」

 母はやたらと嬉しそうに優人に向かって笑んできた。しかし優人はクラスメイトの具合が悪いのに長居するわけにはいかないと、あくまでも固辞して母の脇を通り過ぎていく。未愛もその後を追って玄関まで下りると、優人にまた明日ね、と声をかけた。彼もああ、と笑んで外に出ていく。出る間際にも未愛の身を案じてくれ、未愛は嬉しくて堪らなくなった。彼の姿が見えなくなるまで庭先で見送り続け、玄関に戻ると階段に腰を下ろした理愛と視線が合う。理愛は今にも鼻歌を歌い出しそうなほど御機嫌な顔で未愛を見上げてきていた。

「お姉ちゃん、いつの間にあんなにかっこいいカレシ作ってたの?」


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