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美優

「未愛―、こっちこっち!」

 辺りを見回していた未愛は、ふいに呼びかけられた声で友人の所在に気づいた。声の聞こえてきたほうへ向けて伸び上がり、行き交う大勢の人々の肩越し、頭越しにそちらを窺うと、停留所で未愛に向けて手を振っている少女の姿が見える。美優だ。

 未愛はそちらに向けて歩道を駆けていった。停留所は目と鼻の先の場所にあるが、間には車道が通っていて常にバスやタクシ―が入ってくる。横断歩道もないため、車道は危険すぎて横断できなかった。したがって、あの停留所から出るバスに乗るためには、歩道を歩いて少し先にある交差点の横断歩道を渡らなければならない。急いでいる時などはこの迂回が面倒で、それは他の多くの者たちも同じなのだろう。早朝や夕方など、込み合う時間帯は車道を突っ切る歩行者が多く、毎年のように人身事故の起きている場所だ。バスタ―ミナルを兼ねた駅前だから速度を落とす車が多く、死者や重傷者が出たことこそなかったが、それでもそういう先例を知っている以上は、この車道の横断は避けたほうがいい。

 それで未愛がきちんと横断歩道の手前で青信号になるのを待ってから、車道を渡って停留所に駆けつけると、美優は苦笑したような顔をしていた。

「未愛は、相変わらず律儀だねえ。今は車なんか通ってないんだから、そのまま道路渡っちゃえばいいのに」

 未愛は首を振った。

「危ないよ。車はいつ来るか分かんないんだから。ちゃんと信号のあるところを渡らないと」

「そういうのが律儀っていうんだけどね。今時、小学生だってそんな交通安全教室の先生みたいなことは言わないし」

「そうかな」

「そうだよ。―けどなんか、そのおかげで私、貴重なもん見ちゃった気がする。未愛も走ったりできるんだね」

 未愛はふいを突かれたような気になった。一瞬、言葉の意味が分からなかったが、すぐに美優が何が言いたいのか理解できると、微笑んでみせた。

「うん。今は大丈夫。走れるし、泳げるし、踊ったりもできる。やろうと思えば、フルマラソンだってできるかもしれないって、お医者さんは言ってた」

 美優は目を丸くした。

「未愛がフルマラソン?へえ、なんか信じられない気がする。最近の医療ってやっぱりすごいんだね」

 未愛も頷いた。未愛が心臓の手術を受けたのは十五の時だ。十五の時に半日以上もかかる大手術を受けて、今の健康な身体を手に入れた。それ以前の未愛には、走るなど考えられないことだった。スポ―ツなど論外で、生来弱い心臓に負担をかけかねない行為は並べて禁じられていた。高校に入るまで、体育の授業には見学でしか参加したことがないし、運動会も常に欠席していた。そんな未愛のことを幼稚園からよく知っている美優には、未愛が今のように気軽に走ったりしているのを見ると、今でも信じられない気持ちがするのかもしれない。

 ―フルマラソン、か。

 未愛は美優とバスを待つ間、他愛もない歓談を楽しみながら、ふいに先ほど自分が発したばかりの喩えを思い出した。十五歳までは、自分がフルマラソンのランナ―になるなど、タイムマシンで時間旅行をするぐらい現実から離れた夢想だった。しかし今は違う。走りたければ走ることができるのだ。ならば今度、実際にフルマラソンの大会にエントリ―してみようかと思う。そういえば、城聖市民マラソンの参加申込期限、たしか今月末だったはずだ。未愛は図書館の地域情報コ―ナ―に貼ってあったポスタ―の記載を思い出してみた。今から参加申込書を入手して、提出期限に間に合うだろうか。

「―あ、バス、来た」

 ふいに美優が歓談を打ち破って未愛の背後のほうに視線を向けた。未愛も思わず振り返る。視線の先、少し前に未愛が渡ってきたばかりの横断歩道の向こうに、城聖市営のバスが着ているのが見えた。フロントガラスの上の行き先表示板を見ると、自分たちの目的地の地名が表示されている。どうやら、ほとんど待たずにバスに乗れそうだった。

「けっこう早く来たよね。よかった」

 信号が変わって停留所に走りこんできたバスのステップを上がりながら美優は笑んだ。未愛も笑って車内を見渡す。一人がけ用の座席はほぼ埋まっていたが、最後部の席は全て空いていた。未愛は通路を歩いてその席に美優と並んで座った。自分たちが席に着くと、それを待っていたかのようにバスが走り出す。馴染みの街が、車窓の外に流れていった。

「アクアハウス、やっぱり混んでるかなあ」

 バスが動き出すと、すぐに隣から美優の心配そうな声が聞こえてきた。どうだろう、と未愛は首を傾げる。

「がデ―トしたときにはそんなに混んでなかったって言ってたけど。あれは改装前のことだから、ひょっとしたら今はけっこう混んでるかもね。この暑さだし」

「え、理愛ちゃんもうデ―トとかしてんの?」

 美優が驚いたような声を上げた。そう、と未愛は苦笑する。

「去年にはもう彼氏とのファ―ストキスも済ませたんだってさ。それでお父さんとかけっこう気を揉んでる。このままいったら理愛は二十歳になる前に結婚しちゃうかもしれないって」

 そうだろうねえ、と美優は嘆息した。

「なんかすごい。うちのママが雑誌の特集読んで最近の子はませてるねえとか言ってたけど、ほんとにそうだわ。だって理愛ちゃんまだ四年生でしょ?」

 そうよ、と未愛は頷く。

「でも理愛はうちのクラスじゃ普通だとか言ってたわ。これでも自分は奥手なほうなんだって言ってたから、今時はもう一年生、ううん、幼稚園から恋だのなんだのって盛り上がってるのかもね」

 未愛は微笑んだ。理愛は未愛の妹だ。未愛とは本当に正反対の存在で、未愛が小さい頃から病弱で運動もできず、引き籠もりがちで家と病院を行き来するばかりの暮らしをしていたのとは対照的に、赤ん坊の頃から元気で健康そのもののような女の子だった。スポ―ツは大好きで、幼稚園の頃から習っている新体操はすでに県でもトップクラスの実力になっている。全国大会で優勝したこともあり、県の強化選手にも選ばれていた。このままいけばオリンピックの選手も夢ではないと言われている。交友関係は広くて、毎日のように違う友達が家に遊びに来たこともあった。未愛にはすでに妹の将来が予測できなかった。自分とはあまりにも違いすぎて、想像することすら巧くできない。

 ひゃあ、美優が悲鳴のような声を小さく上げた。

「幼稚園って。じゃあ高校生にもなって女二人で近所のプ―ル行こうとしてるあたしたちはいったい何なのかしら?」

 美優は自分で自分を嘆くような声を発した。ふふ、と未愛は笑う。

「日曜日を受験勉強以外のことに使おうとしている優雅な高校三年生でしょ?いいじゃない、美優は推薦決まりそうなんでしょ?大学に入ったらきっとすぐにかっこいい彼氏が見つかるよ」

 そうかなあ、と美優は途端に不安そうな顔になった。

「そうだといいけど。だって私、これまでの人生でぜんっぜん男運なかったんだもん」

 美優は大袈裟に溜息をついた。

 それにまた笑んで、未愛はもういちど車窓の外に目線を戻した。城聖市の外れにあるアクアハウスは、まだ姿を現さない。それを見て取って、再び美優に視線を戻す。

「男運ないなんて、そんなの美優の思い込みじゃないの?美優みたいな可愛い女の子、男の子ならみんなほっとかないよ。現に美優、他所のクラスの男の子からもいろいろ誘われたりとかしてるじゃん。そりゃあ、うちの学校には美優の好みの男の子はいないのかもしれないけど、大学入ったらもっといろんな地域の人とも出会えるから、そんなに心配することないと思うよ」

「男運ないってのは、そういう意味じゃないわよ」

 美優は苦笑を浮かべてきた。

「出会いがないって意味じゃないの。私だけじゃなくてみんなそういう意味で使うと思うけど、本当にいい男の人との巡り合わせがないっていう意味。だってみんな、恋愛も結婚も自分の人生変えるためにするんだからね。自分の立場を少しでもよくするためにいい人見つけて縁を結ぶんだから。うちのクラスでいえば、三室くんや静木くんみたいなぱっとしない感じの子は私なんかともよく付き合ってくれるけど、真野くんや中城くんみたいな優等生のイケメンくんたちは私には見向きもしてくれないって話」

「真野くん?真野くんってあの、うちのクラスの?生徒会長をしているあの真野くん?美優は彼みたいなのが好みだったの?」

 未愛は美優の口から出てきたその名前の持ち主を思い浮かべた。真野くんというのは、たぶん、生徒会長をしているくんのことだろう。未愛のクラスには他に真野という名字の男子生徒はいないから、彼で間違いないはずだ。未愛はあまり男の子と親しく付き合ったりはしないが、未愛は真野くんとは生徒会での活動が一緒だから男子生徒のなかでは比較的よく話しているほうだと思っている。真野くんはうちの学校でもトップクラスの成績をしている優等生だ。学業成績が非常に優秀で、数学オリンピックでメダルを取ったとか、所属しているフェンシング部では世界ジュニアにも出場したとか、いろいろと華々しい活躍の噂を聞いたこともある。なるほど、美優が憧れるのも道理だという気がした。同じように憧れている者はきっと美優以外にも大勢いることだろう。未愛も彼には好感を抱いていた。恋い慕うという意味での好意ではない。去年の文化祭で、未愛が所属している文芸部が同人誌をまとめた時、未愛の作品に非常に真摯な講評を寄せてくれたのが彼だったからだ。自分の作品に、あくまでも作品としての評価を出してくれたのは彼だけだった。他の生徒の感想はどれも、ひと目見ただけで付き合いに書いたことが分かるほど適当なものばかりだったし、なかにはとりあえず誉めておけばいいというような内容のないものや、非難することを美徳と捉えているような酷い言い回しのものもあった。彼だけが、未愛の作家活動を支えてくれるような真摯な書評をくれたのだ。彼のおかげで未愛は自分の作風に自信を持てたとも思っている。

 美優は未愛がそういうと、軽く肩を竦めた。

「そりゃあね。っていうか、彼を好みじゃない女の子なんて、うちの学校にはいないと思うけど。彼は私のことなんか眼中にないから。あれくらい分かりやすく視界に入ってないと諦めもつきやすいよ。真野くんはね、未愛のことが好きなんだから。知ってた?」

 未愛は首を傾げた。

「好きって?・・ああ、去年の同人誌のこと?うん。確かに真野くん私の作品気に入ってくれてたんだと思う。面白かった、って書いてくれたから」

 すると美優はなぜか睨むような目で未愛を見てきた。

「未愛、そんなこと言ったらうちの学校中の女子、敵に回すよ。そういう意味じゃないよ。真野くんはもっと純粋に、未愛自身のことが好きだってこと。たぶんうちのクラスの子たち、みんな知ってるよ。あんなに分かりやすい片思いないもん。未愛、授業中ず―っと真野くんから見られてるって、気づいてないの?一学期ずっと隣だったのに?」

「気づかなかった。そうなの?」

 未愛は頷き、さらに驚いて訊き返した。そんな視線には気づかなかった。しかし、と思う。授業中に黒板でなく自分の顔なんか見て何が面白いのだろうか。黒板を見なくても成績が落ちないなら、それはそれですごいと思うが。

「そうよ―。ああ、なんかこういう言葉聞くと真野くん可哀想になってきた」

 美優は嘆くような声を発した。

「真野くんず―っと未愛のことばっかり見てるよ。目を逸らすのは先生の注意が自分に向いた時ぐらいかな。生徒会の務めだって、未愛が立候補したから真野くん立候補して会長になったようなもんだよ。今年、未愛が生徒会の人たちにバレンタインのチョコ渡すんだって頑張って手作りして、渡してた時の真野くんの喜び様ったらもううちのクラスの伝説みたいになってんのに、知らないのは渡した本人だけなんてね。未愛、いい機会だから教えといてあげる。真野くん、あのチョコで絶対思い込んでるから。未愛が生徒会の人全員にあげたチョコね、顧問の先生にまであげてた義理チョコ、真野くん完全に誤解してるよ。確実にあれは本命チョコで自分は未愛と両想いだと思い込んでるはずだから。間違いなく卒業までには告白されると思うよ。今から答え、用意しといたほうがいいんじゃない?真野くん、卒業したらアメリカの大学に進んじゃうんだからね―っと」

 言葉の途中で美優は慌てたように手を伸ばして未愛の背後に手を伸ばした。降車ボタンが押され、ブザ―が鳴り響く音がする。するとほどなくしてバスは停車した。美優は立ち上がって未愛を促してくる。

「危な―い。危うく乗り過ごすところだったわ。降りるよ、未愛。アクアハウス着いたよ」

 その言葉に慌てて未愛も立ち上がった。通路を歩きながら財布から小銭を出し、窓の外に視線を投げると、確かに外にはアクアハウスの特徴的なド―ム型の屋根が見えていた。


 アクアハウスは城聖市に唯一の水族館があるレジャ―施設だ。

 設立された当初は水族館のみしかなく、単に城聖市近郊の海の生物について学ぶ環境学習のための施設という意味合いしかなかったというが、来館者の増加に伴って施設の数は増えていき、今では複合レジャ―施設として城聖市民のいちばんの娯楽施設となっている。動物園や植物園、遊園地や観光牧場の他、温泉も併設され、夏にはウォ―タ―スライダ―のあるプ―ルもオ―プンした。プ―ルは冬場には屋内スケ―トリンクになり、一年を通してどの年代の人も楽しメールようになっている。未愛も、アクアハウスに来たのは今日が初めてではなかった。もっともこれまでは主に両親や妹と来ていたのだから、美優と二人だけで来たのは初めてのことになるのだが。

 何度も来たことがある施設だけに、到着しても迷うことはなかった。バスの窓からも見えた特徴的なド―ム型の建物が、設立当初からある水族館で、プ―ルはそこに隣接して建つ動物園を抜けた先にある遊園地のなかにある。動物園側から入って共通入場券を買えばプ―ル料金は不要な上、バス停からも近い。それで未愛は動物園側の入場ゲ―トから入って美優と飼育されている動物たちを眺めながら遊園地に入り、ジェットコ―スタ―などのアトラクションも楽しんでからプ―ルに入った。更衣室で持参してきた水着に着替えると、美優が未愛を笑ってきた。

「なんでスク―ル水着なんか持ってきたの―?授業じゃないのに、もっと可愛いの持ってくればいいのに」

「・・だって、水着って学校のしかないし」

 美優の指摘に未愛は当惑して自分の恰好を見下ろした。プ―ルに行くというから水着を持ってきたのに、そんなに変な恰好なのだろうか。

 そう言うと、美優はう―んと唸って苦笑してきた。

「変じゃないけど、ものすごく浮くかな。だってこういうプ―ルに来る人たちって、水泳の練習しに来てるわけじゃないからね。水で遊びに来てるわけだから。スク―ル水着に水泳キャップで来る人なんていないし。・・ああ、そっか、未愛はこういうプ―ルに来るのって初めてなんだよね」

 美優は何かを納得するような表情で頷いてきた。未愛も頷き返した。未愛はアクアハウスに遊びに来たことはこれまで幾度となくあったが、ここのプ―ルに入るのは今日が初めてだ。冬季のスケ―トリンクになら、一月に妹と滑りに来たがプ―ルとして営業しているシ―ズンに入ったことは一度もない。水泳自体がこれまでの未愛とは縁のないものだったからだ。体育の授業で学校のプ―ルに入ったのも高校が初めて。正直、ビ―ト板なしで泳げる自信はない。

「じゃ仕方ないか。次に来るときはもっと可愛くてお洒落な、流行の水着を持ってきたほうがいいよ。そのほうが絶対いいから。なんというかレジャ―に来た気分が盛り上がってね、何倍も楽しくなるから」

「流行の水着って、いま美優が着てるみたいなもの?」

 未愛は美優の全身を眺めた。美優が着てる水着は未愛の学校指定の水着とは違い、胸元と腰回りしか隠されていない。色も原色を多用した華やかなもので、未愛の紺色と比べると派手すぎるほどだった。

「そう。形はこういう形がいちおうトレンドかな。柄はちょっと古いけどね。あたしのは一昨年、せ―かちゃんのブログで出てたやつだから。最新の流行だったら、やっぱりシ―ズン初めの頃のファッション誌なんかでチェックするのがベストなんだけど」

 せ―かちゃんのブログ。美優の言葉のなかに何気なく出てきたその言葉に、未愛はいたたまれない思いを感じた。美優は未だに桜川聖歌の影響を引きずっているのかという気がしたからだ。それとも、芸能人のファンというのは誰しもそうなのだろうか。憧れの対象が死して以後も、その影響を引きずるのが普通なのか。だとしたらそれはずいぶん切ない話だと未愛は思った。どれほど憧れても、それを向けるべき人物はすでにこの世の者ではないからだ。それとも、こんなことを考えるのは未愛だけなのだろうか。

「じゃ、着替えたらさっさとプ―ルに出ようか。いつまでもこんなところで話してると時間がもったいないし。行こ」

 美優が未愛の手を引いてきた。未愛は慌てて足を踏み出しかけ、そしてその瞬間、ぐらり、と視界が歪むのを感じた。

 ―あ、まただ。

 覚えのある感覚に、未愛は必死で踏みとどまろうとした。しかし今日の眩暈は激烈だった。先月のドリ―ムガ―ルズのコンサ―トの時など、比較にならないくらい酷い気分がして、未愛は立っていられなくなった。

 ―だめ。いま倒れたりしたら、美優に心配をかけちゃう。

 そうは思ったが、未愛の意思は持続しそうになかった。視界がぐるぐる回るような感覚を感じた後、未愛の意識は急速に暗闇に落ちていった。


「―未愛、どうかしたの?」

 美優は自分が手を引こうとしても、それに合わせて歩いてこない未愛を訝しんだ。もしやどこか具合でも悪くなったのかと、いつもの習慣で少し屈みこみ、未愛の顔を下から覗き込む。未愛の双眸は少し生気を失っているように見えた。未愛、と声をかけるとその視線はこちらを向く。しかしあまりにも茫洋とした眼差しに、美優は心配になってそっと話しかけた。

「大丈夫?もしかしてまたどこか具合悪くなっちゃった?プ―ルはやめておく?無理はしたらだめだからね。あたしのことは気にしなくていいから」

 すると未愛は首を横に振ってきた。茫洋とした眼差しのまま、力なく笑ってくる。

「ううん。大丈夫。プ―ルに行こう」

 未愛は美優に摑まれていないほうの腕で前方を指差した。その仕草に僅かに違和感を覚えたものの、美優は頷いて未愛を促し更衣室を出る。未愛が自分から大丈夫というのなら大丈夫なのだろうが、それにしても。

 ―指差しするなんて。未愛はああいうの、子供っぽいって嫌ってるのに。

 どんな気紛れかしら?美優は内心怪訝に思いながらプ―ルサイドに足を踏み入れた。


 プ―ルはかなりの混雑だった。

 日曜日だから当然かもしれないと、美優は少し憂鬱になりながらも色とりどりのビ―チボ―ルや浮き輪や、鮮やかな水着を着た人々で埋め尽くされた流れるプ―ルを見渡した。これではまともに泳げるスペ―スを見つけられるかどうかも怪しいと思った。人気のウォ―タ―スライダ―には行列ができている。げんなりして、未愛を振り返った。

「どこも混んでるね。どうする?まずどこ行く?スライダ―に並ぶ?」

 だが振り返った時には、すでに未愛は美優の手をすり抜けてプ―ルサイドに座り込んでいた。もともとさして強く摑んでいたわけではないが、自分よりも先に、率先してプ―ルに足を入れ、水と戯れだした未愛に、美優は驚いた。

「美優はどうしたの?冷たくて気持ちいいよ」

 言うやいなやするりと水のなかに入っていってしまう。美優はもはや驚くというより呆気にとられてしまったが、未愛が水に慣れようとしているのであればいいことだろうと思い直した。美優の知っている未愛は、水泳に慣れていないせいで水を怖がる癖のある少女だったからだ。

 ―なんなんだろ。今日の未愛、いつもの未愛じゃないみたい。

 しかし厭うようなものではなかったので美優はそこで考えるのをやめ、未愛を追ってプ―ルのなかに入った。未愛と水を掛け合いながらプ―ルの作り出す人工的な水の流れに乗って、ゆるやかに泳いでいく。どのくらい時間が経ったのかは分からなかった。プ―ルと同じく、流れる時間に身を任せるようにして遊んでいた美優はなんとなく飽きてきたタイミングで、未愛に声をかけ、スライダ―のほうを振り返る。列の長さはあまり変わったように見えなかったが、そろそろ別のことをして楽しみたいとそちらに向かうことにした。プ―ルサイドに上がろうと底を蹴って流れをまたぐように泳ごうとしたのだが、足が底を蹴った瞬間、強い水流に足が掬われて身体が水に呑まれるのを感じた。

 ―なに。

 立っていられなくなり、美優は水中に倒れ込んだ。両足が底から離れると身体のコントロ―ルが利かなくなった。美優は強力な水流によって身体が引かれるのを感じた。

 ―なんなの。

 美優は自分を押し流そうとする流れに水中で必死に抗った。手足を動かし、なんとか泳いで浮上しようと懸命になったが身体を巻き込む水流のほうが強くてうまくいかない。底に足をつけて立つことも、水面に顔を出すこともままならなかった。息が苦しくなり、焦れば焦るほど水に引き込まれていくような気がする。そしてどこかに激突したような衝撃があった。ようやく底に足がついたかと思ったが、その衝撃に肺のなかの空気を残らず吐き出してしまった。代わりに大量の水が口から入ってくるのを感じ、美優の理性はその瞬間に混乱して弾け飛んだ。もはや何も感じることはできなかった。


 未愛は耳が捉えた騒がしい声に意識が澄んでいくのを感じた。

 ―私、どうしたんだろう・・。

 自分に起こった変化が理解できず、まだぼんやりとした頭のまま呆然としていると、下半身に冷たい水の感触を感じて自分の居る場所を理解した。そうだ、自分は美優とプ―ルに来ているはずだ。そして更衣室で水着に着替えて、さあ泳ごうとプ―ルサイドに向かおうとしたときに激しい眩暈を感じたのだ。それから先は記憶がないのだが、覚えていないだけであのあと自分はきちんと自分の足で歩いてプ―ルに入っていたのだなと、自分のことながら未愛は驚嘆してしまった。たしかに意識を失ったと思ったのに。

 ―美優は。

 未愛は水に入ったまま辺りを見渡した。なぜか美優の姿が傍になかった。どこに行ったのだろうと怪訝に思い、プ―ルサイドに上がろうと水のなかを移動する。トイレだろうかと思ったのだ。他に行くようなところは思いつかないし、プ―ルに併設して設けられているカフェコ―ナ―や売店に向かったのなら、自分にも一言ぐらい声をかけてくれたような気がするからだ。あそこに行くには更衣室で着替えて外に出るしかないのだから。

 美優がトイレに行っているのなら、戻ってくるまでその近くのベンチに座って美優を待っていようと思った。そうすれば互いが分からなくなることがなくていいと。しかしそのためにプ―ルサイドによじ登った時、未愛はふと周囲に異変を感じた。なにか様子が変だ、と漠然と思った。

 ―なにかあったの?

 未愛はプ―ルサイドに立つと、その異変の正体を探って注意を周りの人々にも向けてみた。付近はレジャ―施設らしく喧騒に包まれていたが、その喧騒の質が通常想像されるそれとは全く異なっているように感じられたのだ。少なくとも、前にスケ―トを楽しみに来た時に周囲に溢れていた、楽しげに笑い合ったり、はしゃいだりするような気配はまったく感じられない。周囲の人々の声は煩いほどだったけれど、それは賑やかというよりは騒然としたと表現したほうが似つかわしいように聞こえた。なかにはそれらの人々とは対照的に凍りついたように動かない者もいるが、楽しい雰囲気など欠片も見られないことは共通している。振り返ってみれば自分が出てきたばかりのプ―ルの水の流れも止まっていた。誰ももう泳いでいる者などなく、特に未だ水のなかにいる者は蒼白に近い表情で身を震わせている。水から未愛を追うようにしてプ―ルサイドに上がろうとしている者もおり、そしてそれらの全員の視線は、まるで吸い寄せられたように一点に集中していた。それに気づいて、未愛もそちらに視線を向ケータイったい何があって、これほど異様な雰囲気になっているのだろうと思ったのだ。

 ―誰か、溺れたの?

 視線を向けると同時に未愛はそう了解できた。未愛から少し離れた位置のプ―ルサイドに大勢の人々が集まって緊迫した雰囲気を作っている空間がある。ちょうど流れるプ―ルと幼児用の底の浅いプ―ルの間にある狭い通路のところに、大勢の人々が集まって屈み込んでいた。人々はほぼ全員が揃いの水色のジャケットを着ている。背中のロゴに見覚えがあるから、ほとんどがここの従業員に違いない。その人々の身体の間から床の上に誰かの身体が横たわっているのが見えた。従業員の身体に隠れて全身は見えないが、水に濡れた両脚が力なく床の上に投げ出されているのが見える。ラインから察するにまだ若い女性の脚だ。その脚はまったく動く気配がないのにその横たわった身体を隠すようにこちらに背を向けている従業員の身体は、規則的に上下に動いている。心臓マッサ―ジの動きだと、未愛にはすぐに理解できた。かつて入院していたこともある病院で、何度も見たことのある動きだったからだ。そしてプ―ルで心臓マッサ―ジを施すといえば、その理由は一つしか思い浮かばない。誰かがプ―ルで溺れたのだ。そしてそれに監視員が気づいた時にはすでにその誰かには呼吸も拍動もなかった。だからああして懸命に、救命処置の心得のある従業員が心臓マッサ―ジをしているのだろう。そしてそんな事故が起きたのなら、今のプ―ルのこの雰囲気も、ごく当然のものだ。人が一人、死ぬかもしれないという状況で、楽しく水遊びに興じる気分になれる者など、いるはずがない。

 未愛は再び呆然としてしまった。自分がほんの少し、ぼんやりとしていたあいだに自分のすぐ近くでは誰かが生きるか死ぬかの瀬戸際に置かれていたなど、思いも寄らなかった。いったい誰が溺れたのか、何か自分にできることはないのかと足を踏み出しかけ、更衣室のほうから聞こえてきた騒々しい物音に、驚いてそちらを振り返った。見ると、救急隊員たちがストレッチャ―を押しながら駆け込んでくるところだった。従業員たちが状況を口早に怒鳴りながら、それでも心臓マッサ―ジの手を緩メールことなく救急隊員たちに溺れた女性客を引き渡そうとしている。その瞬間にその女性客の顔が未愛の視界にも入ってきた。血の気のない蒼白な顔、水に濡れて乱れた長い髪、そしてやや派手な原色の水着の色・・。

「美優!」

 気がついたら未愛は叫び声をあげていた。その女性客が誰なのか、未愛にはあまりにも明らかだったからだ。周りから驚いたような視線が自分に突き刺さってくるのも感じるが、そんなことは気にならなかった。未愛は駆け出していた。そうせずにはいられなかった。

 床に倒れて、従業員に心臓マッサ―ジを受けていた女性客は間違いなく美優だった。確かにそうだと断言できた。一緒にここまで来た自分が、彼女を見間違えるはずなどない。その顔も、水着の色も、髪の長さも、何もかも美優そのものだった。未愛は恐慌して美優に駆け寄ろうとし、必死で名を呼び続けた。従業員に制止されても、救急隊員によってストレッチャ―に乗せられ、再び心臓マッサ―ジを施されながら運ばれていく美優に対して、声を限りに呼び続けた。しかし美優は目を開けなかった。ストレッチャ―がプ―ルの外に消えていくまで、とうとう一度も美優が動くことはなかった。


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