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絵梨奈と聖歌の死

 ―生まれたんだ。

 受信したメールを開いては安堵の息を吐いた。

 駅のホームだった。電車はまだ到着していない。手持ち無沙汰にケータイをいじっていた時に着信があったのだ。メールの送信者は母だった。姉の子供が今日無事に生まれたこと、生まれたのは女の子であること、体重が三千グラムで母子ともに元気であることなどを伝えている。

 姉の陣痛は今朝早くに始まっていた。もう夕方になろうかという時刻だから、かなりの難産だったことになる。メールの着信時刻をあらためて眺メールと十六時三十六分とある。お姉ちゃん、頑張ったな、と絵理奈な一人で微笑んだ。

 母からのメールは絵文字と顔文字で溢れている。かえって文字が読みづらい。しかしそのことが、母の喜びの大きさを物語っているように感じられた。きっと今頃は、生まれた子供の名前を巡って両親と姉夫婦とで意見が交わされているのだろう。

 その様子を想像すれば微笑ましくて思わず笑みがこぼれた。ちょうどそのとき、甲高い警笛の音が鳴り響いて電車の到着が間近であることを報せるアナウンスが流れる。絵理奈は電車の来る方向を眺めながら乗り換えの駅がどこかを思案していた。今から行っても見舞客が入れる時間までには到着できないかなと思いながらも、やっぱり今日のうちに産院に行っておきたかった。絵理奈も早く姉の子供が見たい。

 電車の来るのを待ちながら絵理奈はケータイのボタンに指を這わせた。今から姉の産院に向かうことを母に知らせるためのメールを打つためだ。操作に慣れた絵理奈の指は、画面を見ずとも時折視線を下げるだけで目的の操作を行うことができる。〈ママへ もうすぐお姉ちゃんの産院へ行くからね。いま電車来たよ〉

 そこまで入力した時だった。ふいに絵理奈は背後に強い衝撃を感じた。送信ボタンを押したかどうか、自分でも分からない。身体が前のめりになり、立っていられなくなった。危うく転倒しそうになり、咄嗟にホームの点字ブロックの上で踏み止まろうとして、再び背後に強い衝撃を感じた。まるですぐ後ろで竜巻でも起きたかのような、強力な突風のように、絵理奈には思えた。

 絵理奈の両足が宙に浮いた。突風がふいに収まる。だがそのときには、絵理奈の足下にホームのコンクリ―トはなかった。

 落下の感覚、全身に走る激痛、自分の身体を照らし出すライト、けたたましいほどの電車の警笛、ホームで響く無数の人々の声、悲鳴。

 それらが絵理奈に感じられたこの世で最期のものとなった。


「向かいのホームで何かあったのか?」

「なんか、向こうがずいぶんと騒がしいぞ、どうした?」

 ホームで大勢の人々がざわめくのが耳に届いた。はぼんやりとしていた頭が急速に覚醒していくのを感じた。

 周囲を見渡す。自分の周囲が妙に騒がしかった。この駅はいつでも様々な喧騒に包まれているが、今日の喧騒はいつもと違う気がする。何かあったのだろうか。

「人身があったみたいよ。あっちのホームで誰かが線路に身投げしたみたい」

「ええ?またかよ。こっちの電車は動くのか?」

「こっちは路線が違うから、たぶん大丈夫じゃないかな?」

「だといいけどよ。ったく、迷惑なことだよ。死ぬなら他所で死ねよな。こっちはいい迷惑だ」

「しっ、声が大きいよ。不謹慎」

「誰が身を投げたんだ?」

「知らない。向こうのホームにいた友達によると、まだ若い女の人ですって」

「げ―、まだ生きてんのか?」

「分からない。すごい血が出てたからたぶん駄目じゃないかとか言ってた」

「げげっ、グロ」

 誰と誰が話しているのかも判然としない会話が、未愛の耳にも入ってくる。人身、という言葉が、未愛の耳を突いた。

 ―誰かが、向こうのホームで自ら線路に身を投げた。

 それは、未愛にとって想像もつかない心理だった。かつて何度も死にかかった経験を持つ未愛には、自ら死を選ぼうとする人の心情が、まだ巧く理解できない。いったいどんな心の動きが、人をそこまで追い詰めてしまうのだろう。

 未愛はしばし、向こう側のホームで自ら死を選んだ人のことについて思いを寄せていたが、ふと我に返って急いで改札のほうに駆けていった。自分が乗る予定の電車がきちんと時間通りに動くのかどうかを、確認しないといけない。未愛にはこれから向かわなければならない場所があるのだ。高校三年生にとっての重大イベント、就職のための説明会である。絶対に遅れるわけにはいかない。


 その日の夜、絵理奈の事故を報じる記事が、ひっそりと複数のネットメディアに掲載された。

 

  三日午後八時ごろ、の城聖駅で、ホームから女性が線路に転落し、発行き普通電車に撥ねられた。女性は救助され、病院に運ばれたが死亡が確認された。女性は二十代から三十代くらいで、目撃証言などから警察では自殺とみて調べている。列車の乗員乗客に怪我はなかった。

 この事故で上下線合わせて三本が運休し、乗客合わせて千人に影響が出た。


 絵理奈の名前はどこにも記載されなかった。誰も絵理奈の死が自殺でないことになど疑いを持たなかった。

 それから、しばしの時が経ち―。


 大きな歓声が場内を揺るがした。

 はその歓声を全身に浴びながらステ―ジの上を走っていた。他のメンバ―たちも彼女に追随するように駆けてくる。ステ―ジ端に来ると、そこから身を乗り出すようにして歌声を放った。最前列のファンたちが興奮したような歓声や嬌声を上げ、こちらに手を伸ばしてくる。このステ―ジは客席との距離が近い。歌いながら聖歌は届く範囲で客の手を握り、歓声に応えながらその場で踊った。プログラム通りにステップを踏むと再びステ―ジの中央へ駆け戻る。一緒に走ってきた他のメンバ―と手を取り合い、仲良しを演出しながらの移動だ。

 ステ―ジ端へ向かったのはグル―プの中でも特に人気のある少女たちだ。人気のある者たちはステ―ジの端から端へと駆け廻り、少しでもファンの近いところで歌い踊る。最も人気のある聖歌には、ステ―ジのセンタ―でソロパ―トを歌う時間も設けられていた。ソロもステ―ジ移動も自分をアピ―ルする絶好の機会だ。聖歌はその思いを噛み締めながら頻繁に立ち位置の変わるプログラムを懸命にこなしていた。夢や愛や友情を歌いながらも、聖歌の心は激しく緊張する。聖歌の所属するドリ―ムガ―ルズはメンバ―が多い。一瞬でも気を抜けば、すぐにファンの興味は聖歌から他のメンバ―に移ってしまうだろう。

メロディ―の調子が変わった。客席の雰囲気も大きく変わったような気がする。ドリ―ムガ―ルズ最大のヒット曲の、その最もよく知られたサビのメロディ―だ。最近はコンビニなどでも頻繁に流れている。聖歌は踊りながらステ―ジに戻り、体勢を整えながらセンタ―へと進み出た。ここから聖歌のソロが始まる。他のメンバ―がサビを歌うのをバックにたった一人で踊るのだ。時間にして三十秒もないが、いちばん目立つところだけに爪先の動きにまで気を抜くことは許されない。

 アップテンポなサビのメロディ―とバックの歌声に合わせて聖歌は高く跳び上がり、着地と同時に手足を巧みに動かして複雑なステップを踏んだ。そのさなか、聖歌はふいに違和を感じた。なんだろう。何か、異質な気配を感じる。

 何に対してどう異質に感じるのかなど、聖歌には分からない。分からないからこそ振り返ったりステップに合わない動きをするなど許されるはずもなく、そのままステップを踏み続けたが、時間が経つごとにその違和感は大きくなっていった。いつものステ―ジとは違う。他のステ―ジにいた時は感じたことのない何かを、いま聖歌は全身に感じている。その何かは喜ばしいものではなかった。不安で不快な何かが、聖歌の周囲に蔓延している。それは急速に増大している。

 たまらない気分がした。聖歌は早くこのソロの時間が終わることを願いながら右足で踏み切って宙に跳び上がった。その時だった。

 右側から強力な突風が聖歌に吹きつけてきた。

 聖歌は巧く着地することもできず、そのまま横方向に倒れるように転倒した。左半身に痛みが走ったが、それ以上に右半身に耐え難いような激痛があった。聖歌は悲鳴を上げた。ステ―ジ上だとかソロパ―トだとか、もはやそんなことは聖歌の頭にはなかった。とにかくひたすら激痛から逃れるために、悲鳴を上げながら身悶え、ステ―ジ上を転げまわった。


 未愛は自分の周囲がさっきまでとは別種の喧騒に包まれていることを自覚した。

 周囲の他の観客たちが悲鳴のような声を発している。今までのような喧しいほどの歓声とは違う。何かに驚嘆したような、恐怖したような、そんな種類の悲鳴だった。何かあったのだろうか、と未愛は背伸びをして周囲を見渡す。その過程で自然にステ―ジにも視線が向いた。

 未愛のいる席はあまりいい席ではない。ここから見えるステ―ジは小さく、出演しているドリ―ムガ―ルズのメンバ―たちも皆、人形のようにしか見えなかった。しかしそれでも、ステ―ジ上で演目が止まっていることは理解できた。誰も歌っていないし踊っていない。音楽も鳴り止んでいる。メンバ―たちは遠巻きにステ―ジの一点を見つめ、スタッフらしい人々が大勢、ステ―ジ上に上がって慌ただしく動きまわっている。

 ステ―ジ上で何かあったのだ、未愛にもそのことは認識できた。何が起きたのだと思った。未愛はその瞬間は見ていない。急速に感じた眩暈に、少し目を閉じていたあいだに周囲の状況は一変していたのだ。

「ねえ、何があったの?」

 未愛は隣にいる友人のに声をかけた。今日のライブには彼女と来ていたのだ。未愛はそうでもないのだが、美優がこのグル―プのファンだ。彼女に誘われる形でライブに足を運んだ。未愛は生の公演というものをこの時まで見たことがない。それで興味の向くままに会場を訪れていた。

 声をかけられて美優は振り向いた。彼女は意外なものを見る目をしていた。

「見てなかったの?あんなに大変なことが起きたのに」

「うん。ちょっとぼんやりしてて」

 未愛は正直に答えた。すると美優は今にも泣きそうな顔で未愛に訴えてきた。

「せ―かちゃんにステ―ジの火が移ったのよ。着ていたドレスに火がついて・・」

 未愛は驚いてステ―ジのほうを窺った。そういえばステ―ジの中央近くに倒れている人影がある。スタッフらしい人々はその人物の周囲にいちばん多く集まっていた。せ―かちゃんとは桜川聖歌の愛称だ。いま人気絶頂のガ―ルズアイドルグル―プで最大の人気を誇っているトップアイドルである。あそこで倒れている誰かはその彼女なのだろうか。ステ―ジの火が移ったとはどういうことだろう。確かにステ―ジ上では演出用の炎が燃えていた。それは未愛も覚えている。移ったのはその火だろうか。どうしてそんなことになったというのだろう。

 未愛に見える範囲では、まだ救急隊員は来ていないようだった。ここからでは彼女の様子までは見て取ることができないが、まだ無事でいるのだろうか。

「せ―かちゃん、死なないで・・」

 美優はいよいよ泣き出した。周囲にいた他の観客も、彼女に誘われたように泣き出したり、あるいは縁起でもねえ、と泣き出す客に怒りを露にしたりしている。

「大丈夫よ。きっと助かる。人間はね、そう簡単には死なないものだから」

 それは未愛の本心だった。人間は簡単には死なない、意外にしぶとい生き物なのだと思っている。なぜなら未愛は、生まれる前から無事に生まれないかもしれないと言われていたからだ。誕生してからも何度も死にそうになった。にもかかわらず、今こうして生きている。ならば、自分よりずっと健康であるはずの彼女が簡単に死ぬはずがない。それに、せ―かちゃんが死ねば間違いなく美優は心に大きなダメ―ジを負う。何しろ美優は身に着けているファッションも趣味も全て雑誌などから得た桜川聖歌の情報をもとに整えている筋金入りのファンなのだ。彼女のブログは数時間おきにチェックしているような有様で、彼女が紹介していた曲や本や店などは、どんなものであっても残らずチェックしていた。全身が桜川聖歌のコピ―のような存在なのだ。その彼女が生活の要である桜川聖歌を失ったらと思うと、未愛までもが不安になる。

 未愛は美優を慰メールように抱きしめた。そうしながらステ―ジ上の桜川聖歌に語りかけていた。

 ―桜川さん、お願いします。どうか、どうか無事でいてください。これほどにも貴女の無事を願っている人々が大勢、いるのですから。


 しかし未愛の願いは叶わなかった。

 事故から約七分後、ライブ会場となるコンサ―トホ―ルに救急車が駆けつけてきた時には、桜川聖歌にはすでに息がなかった。病院での懸命な治療も虚しく、事故から一時間後には彼女は公式に死亡が確認された。死因は右半身を中心に全身に及んだ火傷による外傷性ショックだった。

 まだ十七歳のトップアイドルがライブ中に焼死するというセンセ―ショナルな事故に、翌日のメディアはどの媒体もそれに関連する記事で一色に染め上げられた。

「ドリ―ムガ―ルズライブで惨事、桜川聖歌事故死」

「ファンの目の前で、桜川聖歌悲劇の最期」

「ステ―ジ上で何が?演出の火が出演アイドルに燃え移る」

 一般紙、スポ―ツ紙ともにその記事が載っていない新聞はなかった。テレビは早朝からトップニュ―スとして、かなりの時間を割いてキャスタ―が事故についての情報を伝え、ワイドショ―に至っては放映時間の半分以上がこの事故に関する報道だった。夕方には放送予定が変更されて特別追悼番組が組まれるに至り、インタ―ネットのコミュニティサイトではこの事故や桜川聖歌に関する発言が相次ぎ、一時接続の難しくなるサイトも現れ始めた。桜川聖歌の公式ブログに至ってはアクセスが集中しすぎてサ―バ―がダウンする事態にまで陥った。

 日本中の関心を一手に集めたトップアイドル、桜川聖歌のステ―ジ上の死、しかしその死が事故ではないことを疑う人間は存在しなかった。



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