9:白い鳥
ウィルフレッドが別邸に駆け込んできたのは、ちょうどマリカの採寸が終わった頃だった。
早朝の約束通り、ベアトリスとマリカは午後のお茶を堪能していた。
半ば諦めの境地で採寸を受け、そしてお茶に臨んでいたマリカだったが、スコーンの美味しさに目を見開く。
「おいしいです」
素直にそう呟けば、ベアトリスは一層嬉しそうに笑んだ。
「これもメルヴィル菓子店で扱っているものなの。人気の商品なのよ。こちらのケーキも召し上がって」
「あ、はい、ありがとうございます」
ルアナにお茶のお代わりを入れてもらいながら、ベアトリスにケーキを勧められる。
またもやされるがままであったが、お茶もケーキも絶品であった。
そんな時だった。乱暴な足音が聞こえてきたのは。
随分と急いでいるらしい足音に眉をひそめていると、客間の扉が勢いよく開かれた。
従者も付けず、単独で乗り込んで来たウィルフレッドの姿に、マリカとルアナは目を見開き、ベアトリスは平然としていた。
あまつさえ、すまし顔で彼を叱る。
「何ですか、ウィル。淑女がお茶を楽しんでいるというのに、不作法な」
「電信が」
相変わらず言葉少なに彼は告げ、握りしめていた電信の用紙を広げる。
そこには「ハハキトク スグモドラレタシ」とあった。
よくよく見れば、ウィルフレッドは真っ赤な顔で、息も上がっている。
どうやら素直にだまされ、大急ぎで別邸までやって来たらしい。
マリカにも、それだけは分かった。
ルアナは、はぁ、と小さくため息をついている。どうやら、ウィルフレッドが一杯食わされる光景は日常的なものらしい。
その証拠とばかりに、ベアトリスはあっけらかんと微笑む。
「こうでもしないと、仕事人間のあなたは独り寂しい母を見舞ってはくれないでしょう?」
むっつり、ウィルフレッドが押し黙る。いや、元より黙っている時間の方が長いのだが。
彼の様子をこっそり伺っていたマリカだったが、少々視線が不躾であったらしい。
すぐに気付かれ、彼はぎろりとマリカを凝視する。
ウィルフレッドとしてはただ見つめただけかもしれないが、マリカにとってはゴーゴンに睨まれるも同然であった。サッとうつむく。
二人の様子に気づき、ベアトリスは手を一つ打ち鳴らした。
「そうそう。あなたを決して、暇つぶしで呼んだわけではないのよ、ウィル。ちょっと手伝って欲しいことがあったの。マリカさんのドレス選びよ」
そう言ってベアトリスが指さしたのは、部屋の片隅に積み上げられた見本布の山。
仕立て屋に頼み込み、一晩借りることにしたのだ。
男にとってはどれも同じに見えるであろう、繊維の塊に、ウィルフレッドは険しい顔立ちをますます険しくさせた。
「私は男です」
首を振って、端的に答える。つまりは男なので審美眼に自信がない、ということだろう。
「そんな逃げ道、許した覚えはなくってよ」
しかし母は強かった。優雅にティーカップを置くと、音もなく立ち上がる。
続いてウィルフレッドへ肉薄し、傍目には軽やかな仕草で息子の腕を取った。
そして、思いきり後方へ締め上げる。
ぐ、と小さなうめき声が漏れた。彼でなければ悲鳴を上げているところだろう。
事実ウィルフレッドの顔が、今まで見たどの表情よりも鬼気迫るものになった。相当痛いのだろうが、マリカにとっては顔が怖い、という印象しかない。
息子の腕を締め上げながら、ベアトリスはニコニコ笑顔を崩さない。
「あなたの婚約者のドレスを作るのよ。ウィルにも参加する権利はあるし、義務もあるはずよ。あなたのお父さんだって、『真っ赤なドレスが君に似合うだろう』や、『紫の細身のものも捨てがたい』だなんて、いつも一緒に考えてくれたものよ」
「惚気は結構」
締め上げられる腕をどうにか振りほどき、ウィルフレッドは低い声でうめいた。
その顔も怖かった。マリカは温かい紅茶を飲み、どうにか平静を保つ。
怯える彼女はさておき、ウィルフレッドも諦めたらしい。
首を数度振り、見本布の山を検分する。
見本布を何枚も手に取って確かめ、また違う布を手に取る姿は、真剣そのものであった。生真面目な性格であるらしい。
やがて彼は、一枚の布を母に差し出した。
ベアトリスは意外そうな、どこかつまらなそうな顔でそれを見下ろす。
「これが良いと思うの、ウィル?」
母の問いに、ウィルフレッドはこくり、とうなずいた。
一方のベアトリスは、少し肩を落としている。
「ずいぶんと……子供っぽ……いえ、可愛らしいものを選んだのね」
マリカも椅子から立ち上がり、彼女の背後から布を覗き込む。
それは青い生地に、白い鳥が描かれた布だった。
デフォルメ化された小鳥が、布のあちこちに、様々な仕草で鎮座している。
「まあ、可愛い」
頬に手を添え、マリカは思わず歓声を上げた。
その声に、ベアトリスが振り返る。
「マリカさんも、依存はないのね? こちらの、何だか子供服に使いそうな布で」
「はい、とても素敵だと思います」
力強くうなずいたが、ベアトリスは少し残念そうだった。
「そうなの……ま、沢山ドレスを作るんですもの。一枚ぐらい、変わり種があっても構わないわね」
半ば自分に言い聞かせるようにして、その布をテーブルへ載せる。
可愛いドレスではなく、もっと華やかなものを作りたかったのだろうか。
ベアトリスの横顔を伺い、マリカは思案する。
ならばこれからの布地選びには、もう少し華美なものを選ぶようにしよう。
そう決意しつつ、頬に何かが突き刺さるのを感じた。
それが視線だと気付いたのは、振り返ってからであった。
ばっちり、ウィルフレッドと向き合ってしまったのだ。
正面から見つめると、また怖い顔だった。
おまけに真っ赤になってブルブルと震えていたので、たまらずマリカはすくみ上がった。
のけぞった義理の娘(予定)に気付いたらしい。
ベアトリスは苦笑して、マリカの背を撫でる。
「マリカさんに布を褒めてもらって、喜んでいるのよ。笑い返してくれると嬉しいわ」
「は、はぁ……」
そう言われ、目に溜まった涙を飲み込み、マリカはぎこちなく口角を持ち上げた。
すると実に元気の良い、大きなうなずきが返って来た。