6:声を聞く
胃痛が治まらぬまま、食事会に出られるはずもなく。
マリカは客間と思われる一室に案内され、そこで休むこととなった。
若緑色の壁紙が使われている部屋には、蔦や花の意匠があちこちにあしらわれていた。
ベッドサイドのランプは、スズランの形をしている。
愛らしい部屋だ、とマリカは痛む腹をさすって室内を見渡す。
「素敵なお部屋ですね」
ルアナの手を借りながらベッドに潜りこみ、マリカは心の底からそう言った。
するとルアナが、かすかに微笑む。
「マリカ様のためにご用意いたしました。内装も、全てマリカ様仕様でございます」
ベッドの柔らかさを堪能していた手が、ぴくりと止まる。
「私の、ために? どうして……」
「前述いたしました通り、お食事会に出て頂く予定でございましたから。宿泊につきましても、想定内でございます」
よどみなく応えたルアナが、少し眉をしかめた。
「ただ、このような形でお世話をすることになるとは、想定外でございました」
「すみません、あまり体が強い方ではないので」
この時代において、儚げな女性は美徳とされている。
しかし、儚い女性がいつでも重宝されるかと言えば、話は別。
現に今は、やや持て余されているのを実感している。
「ベアトリス様もウィルフレッド様もご丈夫なので、少々困りましたね。か弱い方のお世話には、慣れておりませんので。困りました」
面と向かって、困ったとまで言われた。それも、二度も。
マリカもどうしたものか、と眉をひそめる。
このままルアナに居座られると、マリカも困ってしまう。落ち着けない。
治る胃痛も、治らない気がするのだ。
困惑するマリカに気付いていないのか、ルアナは首を傾げた。
「ご自身の魔法で、胃痛を治すことはできないのでしょうか?」
もっともな疑問だった。マリカは控えめに微笑み、首を振る。
「怪我は治せるのですが、病気には効かなくて……でも、寝ていれば治ると思います」
ふかふかとした枕に頭を預け、シーツ越しに腹部を撫でた。
ルアナは青い瞳をまたたき、両手を前で重ねたまま再度、首をひねった。
「左様でございますか? お薬などはご入り用では?」
「日にち薬が一番のお薬ですから、大丈夫です」
弱々しく微笑むマリカに、ルアナが声を潜めて食い下がる。
マリカの世話を命じられた身としては、きっと何かをしたいのだろう。
「ではせめて、温かいスープなどはいかがでしょうか? 身体も温まり、ぐっすり眠れるかと」
細い指をおとがいに当て、マリカも考える。
考えてみれば、朝から何も食べていない。空腹も、胃痛の遠因であるかもしれない。
それにスープであれば、消化も良いし、身体への負担も少ないだろう。
「そう、ですね……スープなら、飲めるかもしれません」
一瞬、ルアナの表情が生き生きとした。続いて力強くうなずく。
「かしこまりました。では、すぐにご用意いたします」
この会話を聞きつけたわけではないだろうが。
実にタイミング良く、花模様の扉が抑え目に叩かれた。
二度、間を置いて三度。
ルアナは姿勢を伸ばし、マリカを見つめる。
視線の意味に遅れて気付き、マリカはこくこくとうなずいた。
臨時の主から入室の許可を受け、ルアナが扉へと歩み寄る。
そして金メッキのドアノブを回した。
「どうなされましたか……あら、ウィルフレッド様」
彼女の背中越しに、マリカも見た。
銀製のお盆を携えた、ウィルフレッドがこちらをうかがっているのを。たちまち、マリカはベッドの中で身を固くこわばらせる。
どうして使用人ではなく、彼自身がここにいるのか!
同時に胃も、キュリキュリと悲鳴を上げた。
脂汗を流す彼女に気付かず、ルアナはどこか嬉しげにウィルフレッドへ話しかけた。
「まあ、スープをお持ち下さったのですか? マリカ様のために?」
大きく一つ、ウィルフレッドがうなずいた。
手を大きく叩き、ルアナはやや大仰に感激した。
「さすがウィルフレッド様ですわ。マリカ様のお体を気遣われるだなんて……紳士中の紳士です」
トカゲの薄い眉が寄せられる。困っている様子だ。
ルアナはそんなウィルフレッドをじっと見下ろし──踵の高いブーツを履いていたので、ずいぶんと彼より背が高かった──ややあってマリカを横目で見る。
視線を向けたのは一瞬だったが、込められた気合は幾万にも及んだ。
ウィルフレッド様を、これ以上拒んだりしないでしょうね?
そう、深い青の瞳が迫ってくる。
眼力に圧倒され、マリカは無意識の内に首肯してしまっていた。
気が付いた時には遅かった。
ルアナは扉を大きく開き、ウィルフレッドを招き入れる。
「マリカ様もきっと、ウィルフレッド様の優しさにお喜びになられます。どうぞ、お二人でごゆっくりなさって下さい」
ぎぇっ、と悲鳴を上げそうになった。
幸いにして胃痛によってそれは食い止められ、マリカは無言でウィルフレッドが入室するのを見守っていた。
脳内は、また真っ白になっていた。ぐるぐると、絶叫が頭を巡る。
ウィルフレッド様と二人きりだなんて! お願い、出て行かないでルアナ! お願いだから! 私を見捨てないで!
無意識に胸中でそう叫んでいたが、出来たことは半笑いで、退室するルアナを見送ることだけだった。
そして、扉が閉じられる。
可愛らしい室内に残されたのは、魔女とトカゲ。
ベッドに横たわったまま、マリカは固まる。
ウィルフレッドは二度、三度と視線を泳がせた末、ゆっくりと彼女の方へ歩み寄った。
そしてベッドの脇に置かれたテーブルに、お盆を載せた。物音を立てない、静かな動作だった。気を使ってくれているのかもしれない、とマリカはうっすら考える。
「食べられますか?」
低過ぎず高過ぎず、そして通りの良い声が、シーツに埋もれるマリカの耳をくすぐった。
もそもそとベッドから身を起こすと、ウィルフレッドの酷薄そうな顔がじっとこちらを見ていた。慌てて、マリカは自分の手元へ視線を落とす。
そういえば、声を聞いたのはこれが初めてかもしれない。声音は、心地の良い落ち着いたものだった。
重ねた手を見つめたまま、マリカは一つうなずいた。
ほっと、ウィルフレッドが安堵の息を漏らすのが聞こえた。上目遣いに伺えば、口元がかすかに緩んでいる。
また、お盆には湯気の上るスープの他、ハートの形をしたクッキーが二枚載せられていることにも気付く。
まだまだ拭えない恐怖心から震える手で、マリカはそのクッキーを指さした。
「あの、こちらは……?」
するとウィルフレッドは、自分を指さした。
それの意味するところを理解するのに、マリカは数十秒を要した。
降ろしたままの赤毛を指に絡め、彼女はたどたどしく重ねて尋ねる。
「ウィルフレッド様が、作られた、ということですか?」
こっくり、とうなずきが返ってくる。
思わずマリカは、ウィルフレッドの顔をまじまじと眺めてしまった。
すぐに怖くなって、再び下を向いたが。
それにしても、意外過ぎる特技である。
ジェントリという身分にいながら料理をする、ということも意外であるが。
なによりも、この愛らしさ満点のクッキーを、この強面が作ったことが驚きであった。
予想外だ、とそのまま伝えるのはさすがに気が引けたので。
マリカは出来るだけ目を合わせないようにしたまま、ぎこちなく微笑む。
「可愛くて、美味しそうなクッキーですね。ありがとうございます」
細い鼻筋をかき、ウィルフレッドもややうつむいた。
よくよく見れば、きめの細かい肌がうっすら赤らんでいる。照れている、のだろうか。
「冷めない内に」
照れ隠しか、先ほどよりも大きな声でウィルフレッドが言った。
少し慌ててはい、と答え、マリカはスプーンを握り締める。
スープはもちろんのこと、クッキーの味も満点であった。
ウィルフレッドに凝視される中、マリカはなんとか完食に成功した。