5:おなかいたい
風呂場も無駄に広く、そして清潔だった。
白いタイルを敷き詰めた浴室には染みもカビも生えておらず、実家の湿気た風呂場を思い出したマリカは、ずいぶんと遠くまでやって来たものだ、と改めて思い至る。
また蛇口から注がれる温水はちょうど良い温かさで、噴水の水によって冷えた身体をじんわりとほぐしてくれた。
ルアナが湯浴みを手伝う、と申し出て来たが、マリカは固辞した。
実家では、いつも自分でお湯を汲み上げ、一人で風呂に入っている。
誰かに体をこすられるなど、気恥ずかしくて仕方がない、しかも、相手は女性と言えども初対面の人間だ。
淡い香りのする、石鹸が溶け込んだ温水で体を洗っていると、ノックがした。
「ご入浴中に、失礼いたします」
「あ、はい」
声の主はルアナだった。
「僭越ながら扉越しに、今後のご予定を申し上げます」
「はい、お願いします」
何となく浴槽で居住まいを正し、マリカはうなずいた。
しかし聞かずとも、これからの流れなど分かっている。
いつものように、縁談はご破算だろう。
なにせ相手を突き飛ばし、怪我をさせたのだ。
そもそもこちらは、八歳も年上である。最初から、戯言のような縁談であったのだ。
そしてマリカは自動車あるいは馬車、酷い時には乗合馬車に乗って、自宅へと帰るのだ。
とはいえ、このような豪邸のお風呂を堪能できて、良い思い出が作れた、と前向きに考えていると。
「マリカ様には、七時より開かれる食事会へ、参加していただきます」
「ええっ?」
わんわんと、浴室にマリカの驚きが共鳴する。
それを勘違いしたらしく、ルアナの努めて淡白な声が応えた。
「ご安心ください。衣装はベアトリス様のものをお借りいたします。また化粧につきましても、私が腕を振るいますのでお任せ下さい」
「ちっ、違うんです……そうじゃなくてっ」
丁寧に磨かれたバスタブにかじりついて、マリカは拙く反論した。
「違うんです、まさか、お食事会に出ると思っていなくて!」
「これはおかしなことをおっしゃいますね。マリカ様は、縁談のためにご来訪されたのでしょう? お食事をウィルフレッド様と摂られても、何ら妙なことはございません」
「ウィルフレッド様……」
バスタブを掴む手が、震える。
あの凶相を思い出した。
しかし青ざめるマリカにもちろん気付けるわけもなく、ルアナは淡々と続けた。
「はい、当館の主であるウィルフレッド様もご同席なさいます」
「そんな、私、でも……」
言葉にならない言葉が、喉の奥から転げ出る。
扉越しに、マリカの迷いや混乱を読み取ったのだろう。
ルアナの口調が、やや厳しいものになった。
「どうしてウィルフレッド様をそうまで邪険になさるのか、不思議でならないのですが」
「いえ、邪険にだなんて……ただ、その……」
言って良いものか、とマリカは躊躇する。
しかし水面に浮かぶ泡をぼんやり眺め、やがて呟いた。
「ただ、怖いんです……」
「怖いとは、お顔のことですか?」
「……はい」
「魔女というものは、ずいぶんと表面的に物事を判断なさるのですね」
気のせいだろうか。ルアナの声に、攻撃性も混じる。
「私のような平民からいたしましたら、人智を超えた力を持つ魔女の方が、よほど恐ろしい存在ですが」
「ごめんなさい」
我知らず、マリカは謝った。
そして膝を抱え、お湯に突っ伏す。
ひたすらに、自己嫌悪した。自分を悪しざまに考えるのは、マリカの十八番でもあった。
主人への悪印象を伝えられ、気分を害さない使用人などいないだろう。
いや、世の中にはごまんといるかもしれないが、少なくともルアナは違った。
それにウィルフレッドの怪我も、マリカが原因だ。
また、彼を突き飛ばしてしまったきっかけだって、肩の埃を取ってくれようとした、それだけの行為でしかない。
きっと彼自身は、とても人好きのする性格をしているのだろう。
フローレンスやベアトリスの態度、更にルアナの口調からも、そのことは察することができた。
そんな人物を、容姿だけで拒んでしまう自分が、ひどくちっぽけで、最低な人間に思えた。
あまりにも情けなく、心なしか胃も痛む。
「うぅ……」
いや、気のせいではなかった。
「マリカ様?」
室内からのうめき声を察知し、ルアナも声を潜める。
「どうなさいました、マリカ様?」
マリカは体を丸め、絞るように声を出す。
その声はひどく頼りなく、弱々しかった。
「お腹……痛くなって……」
ルアナが一瞬、ためらったような気がした。
「失礼ながら、それは水様便の前触れの……」
「ううん。しくしく痛い方です……」
病は気からと言うが。
マリカは本当に、胃痛に襲われてしまった。